先日お知らせした通り、本ブログの筆者の著書である『鄭玄から五経正義へ:中国古典解釈学への誘い』(法藏館、2026)が刊行されました。ここ最近のこのブログでは、販促も兼ねて、この本に関することを色々書き記しています。本書を読む人だけではなく、博論を書いている人や、博論の書籍化を考えている人にも役に立つ内容にしていくつもりです。ぜひ、本書を手に取って、この記事と一緒に読んでもらえると嬉しいです。

さて、本書を読んでいただいた方が、本書を「読みやすい」と感じるのか、「読みにくい」と感じるのか、はたまた「簡単」と感じるのか、「難しい」と感じるのか、それは人それぞれだと思います。
読み手の方々にどう受け取っていただけるかは別として、自分としては、できるだけ、前提的な知識から丁寧に説明をするように試みたつもりではあります。言い換えれば、前提として必要とされる基礎知識が少なくて済む本になるように努力した、ということですね。
今回は、「丁寧に説明すること」について、自分なりに考えたことを書き記していきます。特に私の本と似た分野の、人文系の博論本をイメージして書いていますので、他の分野ならまた違うところもあるでしょうから、その点はご留意ください。
博論本はなぜ難しいか
一般論として、博論を書籍化する際に、多くの方に読みやすい内容にすることを目指す場合、一番の難点になるのは、博論本では「当該分野における最先端の研究内容」を説明するところまで行きつく必要がある、ということだと思います。
概説書・入門書なら、「ここまで説明できれば十分」というところで執筆をやめることが可能です。しかし、博論の場合、その専門領域における「新しい研究成果」の部分が内容の核になりますから、どうしてもそれを削るわけにはいきません。大抵の博論本は、出版助成金の審査に通って出版されるものですので、内容の本筋を変えることはできないという背景もあります。
すると博論本には、その分野における最先端の研究成果が反映されることになります。「その研究成果のなにが新しいか」ということを説明するためには、①まずその分野についての基礎知識が必要で、②次に過去の研究の流れを把握し、③ようやくその博論の新規性を理解することができる、という三段構えが必要になります。
当然、説明しなければいけないことが膨大になるので、博論本はなかなか理解しにくい本になってしまうわけです。
博論本は一から説明すべきなのか?
そもそも博論本は、当該分野の最先端の研究を扱うものだから、同じ専門分野の人にさえ伝わればよい、という考え方もあります。その場合、基礎的なところから一から説明した文章はかえって冗長であり、削るべき部分、ということになるでしょう。これはこれで、常識的な判断だと思います。
でもねえ、それってなんだかなあ……ともやもやするのが私個人の正直な気持ちです。そのもやもやをあえて過激な言い方で表現すると、自分の博論の「核」の部分の面白さやラディカルさを、より多くの人に届く形で世に問うつもりがないのなら、博論を書籍化したところで、「業績にカウントされる」以上の意味はないんじゃないの、と思うということです。
もちろん、こういうことを考えるにしても、結局は中身が重要なのであって、「分かりやすく書く」かどうかは絶対の基準ではありません。(たとえば『ジェンダー・トラブル』は難解な本ですが、あれだけの影響を与えたわけで…。)言うまでもなく、研究成果は「直接読んでもらう」以外にも色々な届き方があるわけで、こういう私の考えは、少々行き過ぎたところがあるでしょう。ですので私も、「どんな研究者も、どんな書籍でも、一から丁寧に書くべきだ」と考えているわけではありません。
ただ、現状の私が持っている選択肢から考えると、博論本を読む前に別の概説書で一通り勉強が必要になるような、そういう本を書くのは、自分の中であまり納得がいきませんでした。そこで、私が博論を書籍化する過程では、難しい博論の「核」の部分まで理解が追い付くために、どのように道筋を作れるか、ということを意識しました。
もちろん、結局のところ本書でこれがどこまで成功しているのかは、自分では判断が付きません。正直、自分で改めて読み直してみると、まだまだ説明できる箇所がたくさん目について仕方がないものです。経書についての説明すら十分ではないので、やっぱり全然足りなかったかな、とは思います。(特に第七章は、修論を元にしていることもあって、かなり読みにくいですね。)
説明を加えるときに難しいのは、「説明が多ければ多いほどいい」かというと、そうでもないということです。説明するべきことは膨大にあるなかで、本書の理解のために必要最低限な説明を要領よく切り詰めないと、本筋が逸れてかえって読みにくくなってしまいます。「読者のほとんどはこの単語の意味が分からないだろうが、本書の内容の理解には差し支えないのであえて説明しない」という箇所もあったりします。こういう作業を要領よく、寄り道なくやっていくのは、非常に難しいことです。
博論を書く段階から意識すべきこと
さて、もし本書を読んでいただいた上で、この記事を読んでいる方がいらっしゃるなら、「なるほど、だから序章で「経書とは何か」「鄭玄とは何か」といった基礎的な情報から説明しているのか」と思われたかもしれません。
確かに本書では、以上で書いたことを意識して、当該分野では基礎知識とされる事柄にもできるだけ説明を加えています。ちょっとした単語にも括弧で補いを入れて、すぐに意味が分かるように工夫しています。ふりがなも相当に増やし、できるだけ読みやすくなるように努めました。
ただ、私の場合、序章に書いている「経書とは何か」「鄭玄とは何か」といった本分野の前提となる説明は、書籍化する以前、つまり博士論文の段階で、すでに組み込んでいました。
一般的には、博論では基礎知識の説明は不要であり、最先端の研究成果を査読者に伝わるように書けばいい、とされているように思います。実際、指導教員にそう言われたころもありました。一方で、他の指導教員に、「書籍化するつもりで博論を書きなさい」と助言されることもありました。色々と迷っていたのですが、結局は序論でできるだけ一から説明するように心がけました。理由は以下の二点です。
書籍化できるか分からないから
当たり前ですが、博論を出す時、書籍化できるかなんてことは分からないです。出版できない場合、私としては、所属機関のレポジトリで全文公開してもらうつもりでした。公開される時に手を加えることはできないので、提出した博論がそのままの形で世に公開されるということになります。
こうして世に広く公開された時、より多くの方に読みやすい内容になっている方がいいな、と素朴に考えたのが一つ目の理由です。
一から説明する中に、その研究者の問題の捉え方がにじみ出るから
「基礎知識を説明するだけ」といっても、専門家がみな全く同じ説明をするとは言えません。その人が重視する事柄に沿って自然と取捨選択されるので、そこにはその人の立場が如実に出るものです。
私の場合で言えば、「経学とは何か」ということは、私の博論の査読者からすると当然明白なことです。しかし、「経学とは何か」を改めて私の言葉で説明することによって、「この博論の書き手は「経学」をどうとらえているのだろう?」ということが明確になり、書き手の問題意識をより正確に伝えることができるようになります。
これにはもう一点大きな効用があります。それは「経学とは何か」といった、基礎知識とされる言葉や概念を、自分の言葉で改めて説明し直すことで、自分自身の現状の問題認識を整理することができるということです。これはいつでも研究の第一歩と言えましょう。
頭の中で考えるのと、実際に文章に起こすのとは大違いです。一度、自分の研究を一から丁寧に説明してみることで、また違ったものが見えてくることがあります。こういう作業は、大学の講義をしたり、申請書を書いたりするときにも役立つものです。博論や自分の研究で悩んでいる人は、「自分の研究を(基礎用語の意味から)一つ一つ丁寧に言語化してみる」ことを試みてみるといいかもしれません。
まとめ
以上、博論の書籍化だけではなく、博論を書くとき、また研究営為全般において、「できるだけ一から丁寧に説明すること」の意義について書いてみました。これは日常生活を含めたあらゆる物事に通用するのではないか、と思います。
もっとも、これはあくまで、私としては、一から丁寧に説明した「つもり」である、というだけに過ぎません。果たして分かりやすく書けているのか、全然理解不能な本になっているのか、それは私には判定できませんが、とにかくそういう意図で書いてみたよ、という話でした。
(棋客)