達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

大学の講義をやってみて思うこと

 ここ数年、私は、博士課程を終えて、大学での非常勤講師や、カルチャースクール的な場所での講師として働いています。

 私の通っていた大学では、自分の専門分野の知識や研究法について研鑽を積むことが主で、講義や授業のやり方を教わることはありませんでした。(おそらく大半の大学がそうだと思います。)大学講師は、高校までの教師のように教職免許が必要なわけではありませんから、あるタイミングでいきなり「教える場」に放り込まれることになります。

 もちろん他の先生の授業はたくさん見てきたわけで、そこで得た自分の経験を活かしながら、自分なりに工夫しながら講義をやっていくことになります。しかし自己流には変わりがなく、「自分の授業を教育学の専門家が見るとどう思うのだろう」とか、そんなことを考えることもあります。

 今回は、自分が大学で講義をするときに考えていることについて、思考の過程を言葉にしておきます。

 


 

 先に一言でまとめておくと、私が大学で講義をするときの大きな考え方は、こんな感じになると思う。

  1. 講義のやり方について「これが絶対的に良い」という方法は無い、ということ。
  2. 「自分が学生にハラスメントをしないようにする」ことを何より気を付ける、ということ。 
  3. 「学生に教える」というより、「学生とともに学ぶ」姿勢を取る、ということ。
  4. 学生に新しい「気付き」の体験を与える、ということ。
  5. 以上のことを達成するために、講師にはある種のパフォーマンス・演技力が求められる、ということ。

 もちろん、最初からこういう方針が言語化できていたわけではなくて、やっていくうちに、こういう柱が見出されてきた、という感じである。今後アップデートされていくかもしれないが、ひとまず現時点の考えを記録しておきたい。以下、一つ一つ詳しく説明していく。

①講義の方法に絶対はない

 当然だが、「どういう講義のやり方がよいか」という問いに対する答えは、絶対的なものはない。講義のテーマや内容、受講者の人数、受講生の性格、障害を持つ受講生の有無やその種類、大学の雰囲気、教室の広さや設備……などなど、時と場合によって、良い授業のあり方は変わってくる。

 月並みだが、やはり受講生の人数と教室の広さにはかなり左右されるように思う。やっぱり人数が少ない方が教えやすいし、教室の雰囲気も作りやすい。たとえば、私が今やっている20人ぐらいの授業だと、離席自由・飲食自由にして、かなり好き勝手やってもらっているが、学生に個別で注意を与える必要はほとんどない。ただ、100人以上の授業となってくるとそうはいかないかもしれない(経験が無いので何とも言えないが)。

 また、大学のシステムや歴史も、授業の内容や雰囲気に確実に影響を与えている。たとえば、スマホの位置情報から出席情報を登録するような大学と、講師が手で出席を取る大学とでは、学生の意識にもちょっとした差がある気がする。(そして、これを逆手にとって、格好の教育の題材にすることもできる。こうしたシステムにさりげなく言及することで、「当たり前」とされる規範やシステムに問いを向ける意識を育むことができるからだ。)

 これらの要素は、どういう事前準備をするかという点とも関わってくる。パワーポイントを使うのか、黒板・ホワイトボードに書いていくのか、レジュメをどう作るか、などなど。自分がどれがやりやすいかということもあるし、聴覚障害のいる学生がいるかどうか、また準備時間(=労働時間)をどれぐらいかけられるか、といった点も関わってくる。

②自分が学生にハラスメントをしないよう意識する

 というわけで、理想的な授業のあり方なんてものは一つには定められないのだが、絶対の原則として、一つだけ言えることがある。それは、何より「教員自身が学生にハラスメントをしないようにする」ということだ。これは、「学生を守ろう」とか、「安全な教室にしよう」とかいうよりも、もっと優先して考えるべきことである。なぜなら、その教室の中で、権力勾配の最上位に立っているのは、結局のところ教員だからだ。

 もちろん、差別や権力には交差性というものがあり、教師が学生のハラスメントの被害者になるということもあり得る。たとえば、その教員がマイノリティ・被差別属性であったときに、学生からひどいリアクションペーパーを書かれる、という出来事はよくあることだ。そういう場合、大学側の支援が足りず、それに対応するコストもその当事者教員に集中し、より疲弊していく、という問題点がある。

 だから教員は被害者になり得ないとは言えないが、やはり大前提として、大学・教室という空間において、全員に向けて「講義」する立場として承認され、単位認定する権利を持ち、また社会的にも(一学生に比べれば)権威を持つ存在として、少なくとも教室内の一番の権力者は教員である。自然、教室でのハラスメントの発生を防ごうとすると、まず第一に自分の行動に気を付けなければならない、という原則が導かれる。

 では、どうすればハラスメントの発生を防げるかという話になる。「それを気にしすぎると学生に何も言えなくなるじゃないか」という人もいるかもしれないが、それはハラスメントの本質が分かっていない発言であると言わざるを得ない。

 ハラスメントは権力勾配があると起こる。ということは、教室における権力勾配を(擬似的に)解体する意志を示すことで、ハラスメントが起こる可能性は下がる。簡単に言えば、「とにかく教員に気軽に文句を言えるような空間を作る」ということだ。

 もちろん、本当の意味では、教員が教員である以上、権力勾配をなくすことはできない(し、「なくなった」と思った時こそハラスメントが起こるのである)。ただ、自分が権力者であることを自覚して、その権威の発揮を削ぐような振る舞いをすることはできる。たとえば、以下のような振る舞いを示しておくことが有効だと思う。

  • 教員も間違えることを示す。
  • 教員も、最初は何も知らず、悩んで調べながら授業の内容を作っていることを示す。
  • 異論や反論があることを当然という前提を示す。

 このように書いていくと簡単に見えるのだが、もちろんこれだけでは達成されないし、ちょっとした振る舞いの端々で意識すべきことはたくさんある。一応、「親しみやすく優しい雰囲気」を醸すというのもそれなりに大事だとは思う(ただ親しみやすく優しそうな人がハラスメントをしないわけではない)。また、前にも書いたけれど、できるだけ多様でカラフルな服装で行って、服装への規範意識を弱めようとしているのもこの一環である(ただカラフルな服装の人がハラスメントをしないわけではない)。

 もちろん、教員が内面で気を付けるだけではなくて、受講生に注意喚起しておくことも大切だと思う。参考までに、私が授業の初回で配布している注意事項(適宜改訂してますが今はこんな感じ)を下に貼り付けておく。

 


注意事項
  • 離席はある程度自由にやってください。
    • トイレ・体調不良・電話など、個々にさまざまな事情があるかと思います。
    • 離席の際、理由の申告は不要です。
    • 水分補給・栄養補給(おやつ)も自由です。
    • 講師も食べたり飲んだりすることがあります。
  • やむを得ない場合を除いて、他の受講生の迷惑になる行為は止めてください。
    • 友達とおしゃべりしたいときは、一旦講義室の外に出て、ゆっくりしゃべって、また戻ってきてくれればいいです。
    • とはいえ、何か身の危険を感じることがあったら、遠慮なく授業を止めてください。
  • 全員が安心して授業に参加できる環境になるよう、心がけましょう。
    • さまざまな属性や背景・意見を持つ人がいることを前提に、すべての人を尊重した発言や行動をお願いします。
    • 特に、人の見た目(服・声・名前・振る舞いなど)から、その人のこと(ジェンダー・国籍・アイデンティティなど)を決めつけないようにしましょう。
    • 本人が言っていないことを推測したり、当然の前提として扱わないようにしましょう。
    • 差別的・侮蔑的な発言があった場合、授業の妨害とみなして、平常点を減点することがあります。
    • ここで知った他人の個人情報やエピソードは、この場限りに留めて、SNSなどでの情報発信などはしないでください。(もちろん、授業内容についての発信は自由です。)
    • 私も、全員が安心して参加できる授業環境づくりに努めます。気になることがあれば、いつでも相談してください。
  • 質問はいつでも遠慮なくしてください。
    • 直接尋ねてもらってもいいですし、紙に書き込んでもらっても構いませんし、メールでも受け付けます。
    • 授業内容や私の発言について意見・疑問などあれば、できる限り誠実に答えますので、いつでも仰ってください。教員も間違えることがあります。
    • 私もすぐに質問に答えられるとは限りません。私も分からなかった場合、家で調べてから、次回の授業で答えます。

 

 ただ、「こういう注意をして、事前に呼び掛けていれば問題が解決する」というものではないし、なんなら、本質的な問題はここにはない。むしろこういう呼びかけが、「ほら、ハラスメントなんて無かったでしょ、だって事前に呼び掛けてたもんね」という方向で、教員による正当化の道具になってしまう危険性もある。結局、半期15回の講義・ゼミの中で、どのような空間を作るか、ということが問われなければならない。

 とは思いつつ、「普通」の漢文や中国文学の授業で以上のような注意書きがあるのは、社会的・政治的に見てかなり良いことだろうと考えているので、ひとまず以上の注意喚起は続けるつもりではある。

③④「学生とともに学ぶ」こと、学生に新しい「気付き」の体験を与えること

 いま述べたことともつながるが、学生と教員がともに学びつつ、ともに新しい「気付き」の体験を得られるような授業にしたいと私は考えている。ただ、ではどうすればこういう授業を設計できるのか、というのは難しい問題である。これも、いつどんな学生にも通用する、絶対の一つの正しいやり方があるわけではない。

 このことを考える上で言及しておきたいのは、大学の「偏差値」や学生の「レベル」をもとに、教えやすさに差があると述べる大学講師がいることである。私は、これは的を外した議論だと思う。自分の「専門分野」を教え込むことだけに注力するとそうなるのかもしれないが、そもそも私は、受講生がその分野の「専門知識」を身に着けられるかどうかは、大した問題ではない、と考えている。

 私が思うに、大学(大学に限らず他の教育機関でもそうだと思うが)では、学生がその後の人生において、自分や他者の生きづらさや不公正や不自由を解消するための道具として使える何か――たとえば、ものの考え方・調べ方・まとめ方・伝え方とかそういうもの――を見つけて、自分のものにしてもらうことが一番大切である。そして、それを実現するための手段として、私の「専門知識」を通して、学生と擬似的に対話する場が講義やゼミである、と考えている。

 この観点からすると、正直、偏差値の高低はあまり関係がない。というのも、高偏差値の大学に合格する学生の多くは、受験競争的な知識の身につけ方を可能にする社会環境(家庭や地域など)にたまたまいて、かつ、そうした知識の身につけ方にたまたま適合した(もしくは無理やり適合させられた)、というだけのことであって、それをどう活かすかという点においては、「偏差値」によって必ずしも差があるとは言えないからだ。

 そしてこのことを考えると、逆に、大学の偏差値を指標に雑な論陣を張る大学講師が多いことも納得がいく。つまり、大学講師の多数は、結局そういう競争に適合してきた人たちで、そういう「教え方」をごく自然なものとして内面化してしまっている、ということだ。

 もちろん、学生の持つ知識には差があるので、大学によって「どこから教え始めるか」が変わることはあり得る。ただ、これも私の感触では、あまり差を感じない。結局どんな学生が相手でも、「義務教育や受験勉強でやってるはずだから」というのはまったく当てにならない。それは、各受講生がそれまで学んできた環境は本当に人それぞれだし、留学生や聴講生もいるし、共通の知識などは期待せず、やはり「一から丁寧に」教えていくことが必要であることには、あまり変わりがないからだ。

 さて、ではこれを踏まえて、どうやって③④の方針に合うような授業を作るかという話題に進みたい。それが次である。

⑤講師にはある種のパフォーマンス・演技力が求められる

 ②~④で述べてきたような授業を作るためには、間違えたフリや、悩んでいるフリ、また正解を知っていても迂回する試み、一度みんなで騙されてみる体験をすることが必要だと、私は考えている。

 実体験として、こういうことがあった。

 私は中島敦の『山月記』を題材にする講義をやったことがあるのだが、その一環で、中島敦が『山月記』の元ネタにした中国古典の「人虎伝」と読み比べをする、という作業をやった。

 この作業自体は、比較を通して『山月記』の物語の構造を分析することにつながるし、「人虎伝」という中国古典そのものに触れることもできるので、それなりに意義のあるものだと思う。(これは高校の国語の教科書でも似たことをやっている。つまり私の発案ではなく、『山月記』をやるなら誰でも思いつく鉄板の方法である。)

 そして、学生みんなに両者の相違を指摘してもらい、それを私の方でまとめ直して、学生の感想に触れつつ、その違いや文学的効果などについて説明する、という流れである。「人虎伝」にもバージョンの違いがあったりするので、その辺も含めて2~3週かけて丁寧にやると、色々と面白い発見があるものだ。

 ところが、その授業を終えた後で私が読んだ論文に、この作業を中心に据える過去の学校教育の問題点に触れているものがあった。→片山ふゆき「「文学国語」の中の『山月記』 :教科書の傾向と「変身」というモチーフに注目した授業実践の可能性」

 この論文によれば、過去の高校の教科書においては、『山月記』と『人虎伝』の比較をさせる作業は、両者の違いとして「友人との切磋琢磨」の要素を引き出す傾向にあり、これが「友達と仲よくしよう、そうしないと虎になっちゃうよ」というきわめて道徳的・規範的な説教を導くことが期待されている。これでは、多様な解釈につながらず、文学批評の本来の可能性を閉じてしまう、と批判されている。

 これを読んで、「なるほどなあ」と思った私は、慌ててこの論文を一緒に読む授業の回を設けて、ついついそういう解釈に流れがちであった私たちの読みを批判的にとらえなおす、という試みを行った。

 これで無事授業は終わったのだが、では、もし私が次にまた同じ題材を取り上げるとしたら、私はどうするだろう?ということを考えてみる。

 こういう論文がある以上、「こういう読み方には、こうした問題点がありますね」と、私から事前に「正解」を提示することは簡単である。

 ただ、それよりも、あえて知らないフリをして、一緒に乗っかって作業をして、後から「こんな指摘がありました」と持ってきて、講師と学生がともに陥った罠(つまり社会規範の影響を受けた読解に絡めとられてしまうということ)に気が付く、という形にする方が、意義のある授業になることが多いように思う。

 これは厳密に言えばウソであり、いつもこういうようにするのが正しいと言いたいわけではない。ただ、本質的に言えば、講義というものが一種の「演技」「パフォーマンス」であるというのは確かなことで、『山月記』の授業はそれを意識させてくれる出来事だった。つまり、いつもロジカルに・正しく・一直線で積み上げる授業をする「演技」をするのではなく、非論理的に・間違って・迂回する授業をする「演技」も有効になる、ということである。*1

 

 ……さて、こうやってあれこれ考えて、一応の理想はあるわけだが、実際に教壇に立つと、次に喋ることで頭の中が精一杯で、正直、講義中に「演技」を十分に意識することはほとんどできない。それどころか、教室の全体が見えているわけでもなく、嫌な思いをしている学生がいないかというのは常に不安に感じるところだ。雑談もほとんどなく、割とキツキツで授業は進んでいる。毎週、授業資料の準備で手一杯という状況だから、材料が揃ってきたらもう少し余裕が出てくるのかもしれないが、実際上手く行っているのかはさっぱり分からない。

(棋客)

*1:と、タネ明かしをここまで書いてしまったら台無しかもしれないが、マジックショーのように、タネがあると分かっていても夢中になれるような演技をすればいいだけだ。