達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

文フリで買った本②―『砂時計』第五号

 前回、文フリで買った文芸同人 北十さんの『砂時計』第四号の感想を書きました。今回は第五号の感想です。

 まず取り上げたいのは、桐崎鶉さんの短歌集『感性の問題』です。桐崎さんの短歌には、自分も身につまされる作品がいくつもありました。千葉優作さんによる評も掲載されていて、一部これと重なってしまうところもあるのですが、私なりに感想を書いてみます。

これはもう感性、感性の問題となぐさめられる私のレジュメ(桐崎鶉)

 自分の発表のレジュメに何かマイナスのコメントがつき、その内容に今一つ納得できないでいると、「感性の問題だから」と言われた時の、何とも言えない微妙な感情。私は実際に「感性の問題だから」と言われたことはないですが、こう言われたと考えてみると、一応気を遣われているのは理解しながらも、それでは説明になっていないだろうと腹が立つような、そんな気持ちになると思います。

 一方で、私が他人の論文を読んだときに、「うーん、どこが嫌なのか言語化できないけど、なんとなくこれは嫌だなぁ、感性の問題かなぁ」なんて思ってしまうことがあるのも、確かだったりします(とはいえ、指導する時にはきちんと言語化して伝えてほしいものですが)。そんな悲喜こもごもを思い起こさせる歌でした。

シフト減・一家離散を啾啾と綴る奨学金申請書(桐崎鶉)

親がふたりいる前提の説明をじっくりしてくれる事務のひと(桐崎鶉)

 奨学金の申請にあたって家族構成や親の収入なんかを書かされるのはよくあることです。他にも、コロナの支援金を大学に申請する時にも、コロナ禍の影響でバイトが減って云々…みたいなことを書いた記憶があります。そしてそうした場面では、フォーマットが画一的で、ある一定の規範にはまった人生しか想定されていない、ということがよくあります*1。現代の縮小されゆく福利厚生の窓口と、学生の苦しい台所事情を描いた作品だなと思い、かなり共感するところがありました。

この世から不要認定されている学問ですこの学問が好きです(桐崎鶉)

 「不要」などと言われがちな中国古典の研究をしている身としては、「この学問が好きです」という力強い宣言に救われました。全体的に、不思議と共感できる短歌が多かったです。

 

 もう一つ、ご紹介したい記事は、本屋lighthouse・関口竜平さんの「反差別の実践における表象―皮肉を「読める」ことの特権性」です。この文章の主眼は、「反差別の実践に皮肉は不要、まずは実直に反差別を表明すべし」ということを伝えるに尽きます。

 具体的には、『中野正彦の昭和九十二年』という本を題材に、皮肉や嘲笑という方法が反差別の実践になることはない、ということを論じていきます。

 反差別の意識とそれ相応の知識があって皮肉が「読める」人であったり、自らは脅かされることなくそのフィクションを「読める」人であったり、とにかく内輪的なまなざしでしか物事を見ていないように思える。ゆえにこの記事の筆者は「私の知人の反差別運動に関わる人たちによんでもらって感想を聞く」ことだけでよしとしてしまう。

 この内輪的なまなざしは、ひとを反差別をまとった(だけの)嘲笑芸に走らせることにもつながってしまう。それがまさにこの作品であり、……ネトウヨを馬鹿にして面白がることは反差別の実践ではない。しかしそれが実践に思えてしまう。しかも差別被害者たちを置き去りにした状態であるにもかかわらず。

 皮肉や嘲笑はハイテクストなものなので、「もともと分かっている人」にしか届かず、いまある差別をなくしていく方向にはつながらない、つまり反差別の実践にはならない、という論旨です。それどころか、ホモソーシャルな内輪ネタのノリを強固にしてしまう面もあるかもしれません。

 ……「安全な立場で書ける者」が「安全な立場で読める者」に向けて披露する「嘲笑芸」になってしまう。知識を披露し、皮肉を連発する(作品を読む)ことで、「こんなハイコンテクストな作品を書ける/読める自分、すごいでしょ?」とアピールする。果たしてそれは「反差別の実践」なのか。

 そして、結局、反差別の実践にあたって必要なことは、実直に反差別を表明すること、そして「当事者の声を聴く」ことに尽きると言います。

 差別問題に関することに接するとき、私たちがなによりも意識すべきことは「当事者の声を聴く」ということである。この作品の場合、聴くべき声は差別を受けている人の声であり、反差別の実践をしているつもりになっている人の声ではない。

 本屋lighthouseのメルマガを購読しているのですが(「About - 本屋lighthouse’s Newsletter」から登録できます)、非常に勉強になる記事が多く、いつも熟読しています。みなさんにもおススメです。前回紹介した「映画『怪物』を巡って——「普遍的な物語」を欲するみんなたちへ/坪井里緒」もlighthouseから発信されたものです。

 

 以上、長くなったのでここまでにしておきますが、最後の特集「わたしと創作/創作とわたし」にも読み応えがあり、また共感を覚える文章がたくさん載っていました。特に故永しほるさんの「弱い火を絶やさないために」にはアウトライナーで整理しながら執筆をする方法が書かれていましたが、私も似た方法で文章を書いているので、色々と参考になるところがありました。

(棋客)

*1:たとえば、奨学金給付の選抜は、親の収入で一律に切られることが多いですが、親との関係性が悪い場合、必ずしも余裕があるとは限りません。画一的な基準で福利厚生の必要の有無を判断することは本来不可能なのです。そのあたりを丁寧に選考する事ができる場所としても、学生によって運営される自治寮の存在意義があったりするわけです。

文フリで買った本①―『砂時計』第四号

 文フリで買ってきた『砂時計』第四号を読んだので、感想を書いていきます。発行者は「北十 | 文芸同人 北十 | Hokkaido」さんです。

 冒頭にあるのが『片袖の魚』の監督の東海林毅さんと、「北十」の音無早矢さんの対談記事です。『片袖の魚』は、以前関西クィア映画祭で観たことがあります(関西クィア映画祭に行ってきました - 達而録)。この作品は、トランスジェンダー女性の日常を描いたもので、当事者による俳優オーディションを経て撮影されたものでもあります。

 この記事から、「ドラマティックに描かない」の章を少しご紹介します。以下、p.14-15の部分引用です。

(東海林毅さん)やはりマイノリティを映画の中で描こうとするとどうしても、「ドラマティックに描きたがる、ドラマ性を持たせたがる」というよくないところがあると思うんです。エンターテインメントとしては盛り上がると思うんですけど、当事者の表象を使って過剰にドラマ性を持たせるのは、当事者に失礼なことだと思います。そう感じるのは、僕がマイノリティ側の人間だからとうのもあるかもしれないですけど。悲劇的であったり、喜劇的であったり、そうそうそんな生活をしている人はいませんし、「我々は普通に生活しているだけなんだけどな」という思いが強かったです。だからこそ特にトランスジェンダーを劇中で扱うにあたって気をつけなければいけないし、普段の生活・日常を描かなければ意味がないなと思っていました。……

(音無早矢さん)……マイノリティの当事者を描く作品は、「マイノリティの中の勇者」が描かれるか、「かわいそうなマイノリティ」のような形で「感動ポルノ」的に描かれていると思うんです。

 以前の記事で、マイノリティが作品に登場する時、その作品を展開させるためのギミックとして使われてしまう、という話をしました(第16回関西クィア映画祭(3) - 達而録)。たとえば、異性愛者であれば「そのキャラクターが異性愛者である必然性」など求められないのに、同性愛者だと途端にそれが求められてしまうわけです。これはセクシュアリティに限らず、日本を舞台にした作品で外国人が登場する場合などを考えても同じ話です。

 こういう見方は映画に限らず、さまざまなところに顔を出します。たとえば、第67回江戸川乱歩賞受賞作の桃野雑派『老虎残夢』について、月村了衛は選評でこんなことを書いています。

主人公カップルが同性であることに必然性をまったく見出せませんでした。同性であることは問題ではありませんが、本格ミステリとして応募する以上は、全体を構成する要素の一つ一つにもっと慎重であるべきだと思います。(http://www.mystery.or.jp/prize/detail/20671

 こんな選評が幅を利かせてしまう中で、マイノリティを主人公にしながら、いかに当たり前に日常を送る姿を丁寧に描くか、という課題に向き合った作品が『片袖の魚』であったと言えるでしょう。対談記事でも触れられていますが、服を選ぶシーン、職場で働くシーンなど、トランスジェンダーが社会で日常を送る中で、遭遇するマイクロアグレッション、支えてくれる人の存在などを丁寧に描いた作品だと思います。

 近年の作品におけるクィアの描写のされ方については、この記事も参考にしてください。→映画『怪物』を巡って——「普遍的な物語」を欲するみんなたちへ/坪井里緒

 調べていると、こんな記事も見つけました。メモしておきます→物語に〈同性愛者〉が出てくる《必然性》なんか無くていい|コミック無職

 

 さて、そもそも『砂時計』第四号のテーマは、「姿を変える詩歌―メディアミックスの可能性」です。『片袖の魚』自体、文月悠光さんの詩「片袖の魚」が原案となって作られた作品であり、本誌はこのようにさまざまなメディアの枠を飛び越えて再解釈・再構築される営為に焦点が当てられています。

 たとえば「メディアミックスの試行」では、作家Aが作家Bの小説を詩に、作家Bが作家Aの詩を小説に、という試みがなされています。また評論「佐藤春夫メディアリテラシー」(かくた)では、与謝蕪村の 「春風馬堤曲」と、それを無声映画のシナリオとして翻案した佐藤春夫「春風馬堤図譜」が取り上げられています。与謝蕪村の 「春風馬堤曲」自体が、発句・漢詩・散文が複合したクロスメディアの作品であり、それぞれの特性がどう発揮されているかを考察する文章が面白かったです。

(棋客)

文学フリマ@東京に行ってきました

 文学フリマ@東京に行ってきました。

bunfree.net

 下が獲得したものです。

 本の感想は、またのちのち書いていこうと思います。

 来年にでも自分でも何かZINEでも書けたらいいなーと思いました。

 ちなみに、はてなブログのブースもありました。本ブログを無事に続けられているのも、はてなブログが何とか踏ん張り続けているからです。ありがとうございます。

 こんなシールをもらいました。どこに貼ろう…。

(棋客)

読書の秋に読んだ本

 秋と言いながら、急に暑くなる日があって困りますね。とはいえ大分涼しくなってきたので、たまに散歩に出かけて講演で本を読んだりしています。最近読んだ本の一部を簡単にご紹介。

(棋客)

「漫长的季节」(漫長的季節)に出てくる中国語

 最近、「漫长的季节」という中国ドラマを観ています。

www.youtube.com

 回想シーンと現在の時間軸を行き来しながら、サスペンスっぽい仕立ての群像劇という内容です。スリリングな展開と伏線の散りばめ方が面白く、いま5話あたりまで見ました。

 4~5話あたりに出てくる中国語をいくつかメモしながら見たので、少しピックアップして載せておきます。ネットでざっと検索して出てきたことを書いているので、間違いがあったら教えてください。

  • 别给自个脸上贴金了
    「脸上贴金」は自分を飾り立ててよく見せること。
  • 兴许它就能看明白了
    「兴许」は「也许」「或许」の意。北方でよく使うらしい。
  • 那我召之即来啊
    「召之即来」は呼べばすぐ来ること、つまり言いつけに唯々諾々と従うこと。「召之即来,挥之即去」とも。
  • 你这话是忽悠人
    「忽悠」でほらを吹く、人を騙す。これも北方の方言らしい。
  • 你也破不了案
    「破案」で事件を解決する。このドラマは色々と事件が起こすサスペンスものですので、何度も出てきます。
  • 多喝点儿提提神
    「提神」で眠気を覚ます、元気を出す。
  • 趁热吃
    熱いうちに食べよ。「趁○○」はよく出てきますね。
  • 没时没晌的
    決まった時間がない。北方の方言らしい。
  • 这大费周章
    手間がかかって困難であること。
  • 也干到了翘楚的地位
    「翘楚」で傑出した人の意味。
  • 舍我其谁的境界
    「舍我其谁」で我こそがふさわしいと思うこと。
  • 别自作聪明
    「自作聪明」で自分を賢いとひけらかすこと。
  • 别逞能
    「逞能」で自分の力を自慢すること。
  • 往事不堪回首
    「不堪回首」で過去のことをとても振り返る気にならないこと。
  • 咱哥几个再续前缘
    「再续前缘」で再び縁を結び直すこと。
  • 立竿见影
    すぐに効果が現れること。
  • 钓鱼执法呀
    おとり捜査のこと。
  • 该翻篇了
    「翻篇」は、ページをめくることから転じて、過去のことをなかったこととして水に流すこと。
  • 老说漏嘴
    「说漏嘴」でうっかり口が滑ること。
  • 此时无声胜有声
    無言がかえって人を感動させること。
  • 我是根红苗正
    文革期よく使われた言葉で、(貧農・工場労働者出身など)党員として由緒正しい家柄であることをいう。

 

 黒龍江省の「桦林」という街が舞台ですので、出てくる言葉を調べると东北话ということもよくあります。特に「整」があらゆる場面で使われていて面白いです。調べてみるとこんな記事がありました。

news.sina.com.cn

(棋客)