達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

楊維公『中国の戯曲と小説はどう読まれたか――近世・近代日本における読書の位相』

 先日、楊維公『中国の戯曲と小説はどう読まれたか 近世・近代日本における読書の位相』(京都大学学術出版会、プリミエ・コレクション、2026)を著者よりご恵贈いただきました。楊さんは、私が在学中から今に至るまで、多方面にわたってお世話になっている方です。

www.kyoto-up.or.jp

 日本における中国文学受容の新たな視点を切り拓く。「戯曲」と「小説」に焦点を当て、その中で重要な位置を占める「人情物」の魅力を解き明かし、これらの作品が日本でどのように受け入れられ、読まれてきたかを探る。中国文学の成立とその日本での受容の過程を、深い歴史的背景とともに考察して、両者の密接な関係を明らかする一冊。(https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814006342.html

 本書は、中国の戯曲と小説の、日本での「読まれ方」に着目した研究です。この研究題材は、色々な意味で境界的/周縁的な位置にあると言えるでしょう。以下、本書の序論の内容(p.3-19)を整理して、少し内容を紹介します。

 まず「中国文学」という枠組みから考えてみます。中国の伝統的な士大夫・知識人のなかで、正統とされてきた書物・文章作品は、文語体(古典語)で書かれたものに限られていました。こうした状況では、口語体で書かれた戯曲・小説は古典的な「学問」の対象にはならず、軽視されてきたと言えます。戯曲・小説が「中国文学」の枠組みで語られるようになるのは、近代的な「文学」の観念が成立してからのことです。この点で、中国の戯曲・小説は、伝統的な「中国文学」に対して周縁的な位置にあると言えます。

 次に、文学研究の方法から考えてみます。文学研究の主流となってきたのは、まず作品自体の分析や、そこから作者に関わる事柄を明らかにするような考察です。この枠組みでは、その作品について語った後世のテキストも、作品自体に還元される形で(つまり当該作品の字句を定める目的や、作品の「本来の意味」を考えるための材料という目的で)用いられることになります。また、作品の受容・影響に注目されることもありますが、その場合、「その作品を受けて、次にどのような作品が作られたか」という研究(=「再創作」に着目する研究)に進むことが主流です。文学史研究、また比較文学論といったジャンルがこれに当たります。

 しかし、本書では、作品自体の分析に進むのではなく、かといって再創作に着目するのでもなく、その手前にある「読み方」「読まれ方」そのものに迫っていこう、という方針を立てています。この点で、本書は文学研究のなかで境界的な位置にある、と言えます。

 「読まれ方」を研究するというのは、単純な切り口であるように見えて、実はかなり難易度の高い研究だと思います。まず、こうした研究を進めるためには、読み手が特定の文献に向かう時の考えや工夫を分析することが可能な文献資料が必要になりますし、その上で、その営為を読解し、わかりやすく示す必要があります。次に、多様な「読まれ方」を見出すためには、同質的な文化の中での「読まれ方」だけではなく、異文化間のものに着目することが有用でしょうが、そのためには、両文化のテキストの整理・読解能力が必要になります。つまり、適切な題材を探し出した上で、それを扱う研究者の能力が噛み合っていないと遂行が難しい研究である、ということです。

 また、私としては、「読まれ方」という平易な日本語に開いた表現が印象に残りました。私は、難しい言葉で語ること・難しい言葉に置き換えることが「研究」なのではなく、過去の人々の営為の多様な豊かさを、いかにかみ砕いて理解し、いかに平易に開いた形で人に届けるか、ということが(人文学)研究において大事なことだと考えています。「読まれ方」という開いた表現によって、かえって研究の可能性が幅広く見えてくるところが、すごくいいと思いました。

 

 さて、本書の具体的なテーマは、元~清期の中国で作られた戯曲・小説、このうち特に「人情物」と呼ばれる作品が、江戸時代の日本でどう読まれたか、ということを研究しています。ここで題材とされる作品は、『西廂記』『板橋雑記』『金瓶梅』など、いずれも恋愛・欲望など庶民の生活を描くもので、必ずしも道徳的に「正しい」とされる行いを説くものではありません。この題材設定も絶妙で、ここから語学学習、異文化の発見、文学的な享受、娯楽としての読書、など多様な「読まれ方」が示されています。そしてその媒体も多様で、原文の訓読・翻訳の場合もあれば、長編の物語が詩としてピックアップして読まれたり、娯楽的な場面だけが読まれたり、など豊富な創意工夫が見られるのが面白いところです。

 以上の枠組みのもと、第一章から具体的な研究に入っていきます。各章の細かな紹介は省略しますが、多様な「読まれ方」の研究が、緻密な文献整理・テキスト分析に立脚してなされていることがよく分かります。たとえば、第一章では、『西廂記』の二種の写本の比較を通して、両者の編纂意図の相違を明らかにし、その背後にある「読まれ方」の相違を考察しています。第二章~第三章では、和刻本の編纂の特徴や、原典との細かな相違から、江戸時代の日本ならではの「読まれ方」を明らかにしています。

 ちなみに、第一章に少し名前が出ている亀井昭陽は、以前にこのブログでお墓を紹介したことがあります(→地元の儒者を尋ねて―「亀井南冥」篇・上 - 達而録)。

 私が最近の興味から特に面白く読んだのは第七章です。『金瓶梅』の初期の翻訳である井上紅梅訳に着目し、その訳の特徴を整理しつつ、井上が『金瓶梅』を翻訳した意図が明らかにされています。井上は、いわゆるアカデミアで活動した人ではなく、ジャーナリストとして中国に滞在し、また中国人女性と同居した経験から、中国の大衆文化を日本に広く分かりやすく紹介することを試みた人でした。こうした井上の取り組みに相応しい題材として『金瓶梅』が見出されたというのが面白いところで、これは当時のアカデミアにはあまり無い発想だったのだと思います。

 また、先日参加したシンポジウム「二〇世紀東アジアにおける儒学の展開と「近代知」の形成」にて、建部良平さんが𠮷川幸次郎の翻訳論について発表されていましたが、当時の翻訳論の観点から見ても面白い研究ができそうです。

 

 本書を読んで、自分の専門分野でも「読まれ方」の研究をやってみたいと思いましたが、経学の分野だと相当難しいですよね。経書だと正統的な「読み方」ががっちり決まっていて、あまり多様に広がっていかないような感じがします。私の専門からは外れますが、「『世説新語』の江戸時代の読まれ方」といった方向性なら、本書の方法論を活かしていい研究ができるかもしれない、と思いました。

 また、私の博論本は、局所的に興味があるところだけを見て研究をした後で、それを後付けで無理矢理一つのストーリーに当てはめたようなところがあります。これに対して、楊さんの研究は、各章で一つ一つの写本・テキストの全体を粘り強く探究した上で、そこから結論が導かれ、その上でそれらが一つのテーマのもとで有機的に結合しているように感じました。この点でも勉強になるところが多く、博論提出を目指して研究されている方々の一つの模範になる研究書であると思いました。多くの方にぜひ手に取って読んでいただきたいと思います。

 

 なお、本書は京大学術出版会の「プリミエ・コレクション」シリーズから出版されています。このシリーズは、京大に博士論文を提出して博士号を取得した研究者が、その博論をもとに一般書に仕立てて書籍化したもので、良い本が多いように思います。本ブログでは、これまでに以下の記事で登場しています。

 ちなみに、一番の下の記事で、私が冒頭の湊総長の言葉を批判していますが、今年から内容が無難なものに変わったようです。(この記事が影響を与えたのかどうかは分かりませんが。)

(棋客)

「無」と「勿」のちがい――『論語集注』公冶長篇より

 「山の学校」での『論語集注』の講読クラスで読んだ、印象に残る部分をメモしておきます。『論語』公冶長の一節より。

子貢曰:「我不欲人之加諸我也,吾亦欲無加諸人。」子曰:「賜也,非爾所及也。」

子貢が言った。「私は、他人が私にしてほしくないことについて、私も他人にすることはありません。」孔子が答えた。「賜(子貢の呼び名)よ、それはお前のできることではない。」

 この一節についての朱子の解釈が以下です。最初に引かれる程子というのは北宋の学者で、朱子が師と仰ぐ人です。

程子曰:「我不欲人之加諸我,吾亦欲無加諸人,仁也;施諸己而不願,亦勿施於人,恕也。恕則子貢或能勉之,仁則非所及矣。」愚謂無者自然而然,勿者禁止之謂,此所以為仁恕之別。

程子は言った。「「私は、他人が私にしてほしくないことについて、私も他人にすることは無い」というのは、「仁」である。「私は、自分にされて嫌なことは、人にしないようにする」というのは、「恕」である。「恕」については子貢は努力しておこなうことができるかもしれないが、仁となると子貢ができることではない。」私(朱子)が思うに、「無」(無い)とは自然にそうなることで、「勿」(しないようにする)とは禁止する意味である。これによって「仁」「恕」の区別ができるのだ。

 急に「恕」の話が出てきていますが、その背景には『論語』衛靈公篇の以下の一節があります。

子貢問曰:「有一言而可以終身行之者乎?」子曰:「其恕乎!己所不欲,勿施於人。」

子貢が問うて「生涯実行すべきことを一言で表せますか?」と言った。孔子は答えた。「「恕」であろうか。自分が望まないことは、他人にしてはならないのだ。」

 「恕」というとこの『論語』の逸話がまず思い出されるところで、ようは「自分が望まないことは、他人にもしない」ということ。これは「恕」という漢字が「如心」(心の如し)と書くことから説明されることもあります。つまり「自分の心に照らして他者を理解する」といった意味合いです。(ただ、もとの漢字の成り立ちがこの説明でよいかは別問題ですが。)

 ですので「自分が望まないことは、他人にもしない」という行為は、普通は「恕」に結び付けられます。ところが、程子の説では「恕」の上位として「仁」が設けられていますね。

 何が違うのかというと、公冶長篇では「不欲人之加諸我也,吾亦欲加諸人」、衛靈公篇では「己所不欲,施於人」で、「無」と「勿」で字の相違があります(他はだいたい同じ意味です)。程子はここに着目したわけです。

 朱子もこれに賛同しています。目指すべき究極の状態である「仁」を備えた人は、こうした行動が自然に取れるので、そもそもそういう心が「無い」。一方、そこに及ばない人は、「勿れ」、つまり「しないようにする」のであって、意志をもって制御する必要があります。その点で一歩劣る、と考えるわけです。

 実際には、「無」と「勿」は似たような意味で使われることもあり、こうした『論語』解釈は「深読み」であるという評価が穏当でしょう。ただ、こうした当時の解釈者のこだわりには面白いところがあります。おそらく、上の公冶長篇の方で、(高名な弟子である)子貢ですらできないこととして描写されているので、これはよほど実行が難しいことを説いていないと整合性が取れない、という考えがあったのだと思います。

(棋客)

「宰予昼寝」章の胡寅の解釈

 「山の学校」での『論語集注』の講読クラスで読んだ、印象に残る部分を書いていきます。『論語』公冶長の一節より。

 宰予晝寢。子曰:「朽木不可雕也,糞土之牆不可杇也,於予與何誅。」子曰:「始吾於人也,聽其言而信其行;今吾於人也,聽其言而觀其行。於予與改是。」

 宰予が昼寝をしていた。孔子は言った。「朽ちた木に彫刻はできない。だめな土の垣根には上塗りすることができない。宰予に対しては叱責しようがない。」また孔子は言った。「前は私は人に対して、その言葉を聴いたらその行いを信用した。今は私は人に対して、その言葉を聴いたらその行いを観察する。宰予のことがあって改めたのだ。」

 昼寝をして怠けていた宰予に対して、孔子が呆れ果てて叱責をするシーンです。昼寝ぐらい自由にさせてあげれば……という気もしますが、とにかく孔子は腹を立てたわけです。

 以上が『論語』の原文で、これに対して南宋の朱子が注釈をつけた本が『論語集注』です。そこで朱子が引用している、南宋の胡寅という学者の説が以下です。

 胡氏曰:「宰予不能以志帥氣,居然而倦。是宴安之氣勝,儆戒之志惰也。古之聖賢未嘗不以懈惰荒寧為懼,勤勵不息自強,此孔子所以深責宰予也。聽言觀行,聖人不待是而後能,亦非緣此而盡疑學者。特因此立教,以警群弟子,使謹於言而敏於行耳。」

 胡寅は言った。「宰予は自分の意志によって気を統率することができず、平気でさぼっていた。これは安逸の気が勝って、慎み戒める意思が怠惰になってしまったのだ。古の聖者や賢人は、常に怠惰であることを恐れとし、努力を止めない。孔子が宰予を強く叱責した理由はここにある。★「言葉を聴いて行いを観察する」ということについては、聖人はこれがあって初めてできるわけではない(これがないとできないというわけではない)し、またこれによって学ぶ者を全員疑うというわけでもない。ただこの言葉によって教えを示し、弟子たちを警告し、言葉を謹んで行動を怠らないようにさせるものだ。」

 前半は意味が理解しやすいのですが、後半(★以下)が分かりにくいですね。

 後半は、『論語』原文での孔子の「その言葉を聴いてその行いを観察する」という言葉、つまり、弟子が何か言った時に、その言葉を本当に実行しているかどうか、その行動を観察して確かめる、という発言について解説しているところです。

 「これがないとできない」というのが分かりにくいですが、「言葉を聴いて行いを観察しないと、弟子のことを判断できない」という意味で取ればよいでしょう。まとめて意訳すると、「孔子は、必ずしも、言葉を聴いて行いを観察しないと弟子のことを判断できない、というわけではない」となります。

 『論語』の原文を読むと、孔子ははっきり「その言葉を聴いたらその行いを観察する」とあるわけですから、この胡寅の解釈は、なんだか変な留保をつけているように見えますね。

 おそらくこの背後には、「聖人である孔子が、必ず行動を見なければ弟子のことを見抜けないなんて、おかしいのではないか」という発想があるのでしょう。最後に「この言葉によって教えを示し、弟子たちを警告し……」とあることからも、ここは孔子が弟子の教化のために方便として言っているのであって、孔子が常にそうであるわけではない、という解釈を補強しているようです。

 私は、古典の注釈を読むとき、こういうちょっとした「深読み」を見つけるのが好きです。こうした「深読み」は、分かりやすく思想的な枠組みで説明できる場合には研究でよく取り上げられますが、そうでない場合は見過ごされがちです。しかし私は、むしろこういう微妙なこだわりが出ているところの方が気になってしまう性質です。なぜわざわざこんな説を唱えたのか、そして朱子がそれを採用したのか? 考えてみると面白そうです。

 ちなみに、『論語集注』より以前の注釈である、南朝梁で作られた『論語義疏』では、「宰予が昼寝をしたのは、孔子の教えを引き出すために敢えてやったことだった」というまた違う種類の深読みの解釈が載せられています。時代によって、さまざまな工夫を凝らして読まれてきたのが『論語』という古典なのです。

(棋客)

漫画喫茶(個人経営)に行ってきた話

 先日、三軒茶屋にある「まんがの図書館ガリレオ」というお店に行ってきました。個人経営で頑張っている漫画喫茶ということで、動画で知って行ってみたくなったのでした。

galileo-sancha.net

www.youtube.com

 

 初めて行ったのに、昔から通っていたかのように錯覚するような、素敵な店でした。老人から子供まで、みんなが一心不乱に漫画を読んでいる光景がとても素敵です。

 子供のころ、親が連れて行ってくれた公民館や公立図書館を思い出すような雰囲気です。いわゆる「レトロおしゃれ」ではなくて、毎日通えるような生活感と安心感があって、本当に地元で愛されているお店なんだな、と感じました。

 私は3時間ほど滞在して、同居人に勧められていた『合コンに行ったら女がいなかった話』を11巻まで読み終わりました。漫画に夢中になれる時間は最高ですね。

 中野在住の私は日常的には通うのは難しいですが、これからも気分転換にお伺いしたいと思います。みなさまもぜひ行ってみてくださいね。

 

 さて、この日は、夕方までゆっくり滞在した後、駒沢大学方面に歩いて、知人との飲み会に参加しました。そこも地元で生き残ってきた、定食屋兼居酒屋という感じの居心地の良いお店でした。

 資本主義の荒波で、個人経営のお店が潰れ、どこかで見たチェーン店ばかりに変わっていきます。どこもかしこも「同じ」になって、土地の文脈が失われて、根無し草になってしまうような、そんな未来が見えています。こういうお店を守るためにはどうしたらいいのか、そんなことを考えた一日でした。

(棋客)

日記(2026.8.2-2026.8.18)

2026.8.2

 久々に知人と再会……のはずが、流れてしまった。セッティングしていた料理(豚しゃぶ)を一人で食べた。一人鍋はぜいたくな気分になりますな。旨かったので良しとする。

 話が変わるが、くるりの「東京」に、「今年の夏は暑くなさそう 相変わらず季節に敏感にいたい」という歌詞がある。都会に出ても「季節への敏感さ」を失いたくない、という心情の表現が好きな歌なのだが、実際問題「今年の夏は暑くなさそう」って一度も感じたこと無いなあ、と思っていた。

 ……が、今年の夏は、本当に、あんまり暑くなさそう。そのおかげで体調が非常に良い。この歌詞に感情移入できる最後の夏なのかもしれない、と思うと切なくなる。

2026.8.6

 髪を切ってパーマをかけた! 人生初のパーマ。いつも何となく良さげにしてくれる美容師さんが見つかったので、思い切ってお願いしてみたのだった。

 うおー、生まれ変わった気分だ!

 そのままの新しい髪型で、知り合いの案内で清瀬に飲みに行く。やっぱり住んでる人が通ってるお店って素晴らしいなあと実感した。

2026.8.7

 芝麻醤を買って、手作り担々麺を作ってみた。かなり旨くできた。これはレギュラー入り確定。

 レシピはこちら→担々めん レシピ 五十嵐 美幸さん|みんなのきょうの料理

2026.8.8

 友達と久々の再会。二人でゆっくり話すのは意外にも初めての人。ゆっくり素敵な時間が流れていった。翌日もう一人の友達とも合流し、楽しく話ができた。

 東京は生活圏が分断されているので、意識して人と会う時間を作らないと、いつの間に一人の時間ばかりになってしまう。一人で平気なモードの時はそれで平気なのだが、最近は人と喋りたい欲が高まっていたところだったので、信頼できる人とこういう時間を過ごせるのはとてもありがたい。相手にとってもそういう時間になっていることを願う。

2026.8.10

 毎年ベランダでバジルを育てているのだが、今年かなり調子がいい。ある程度育ったら摘芯して、わき芽を伸ばすように心がけると、わっしゃわっしゃと生えてくる。採れたてのバジルは、味も香りも深くて、明らかに旨い。簡単に育てられるのでおすすめ。

2026.8.17

 いや~、日記って続かないね。もっと自分をさらけ出すようなものを書きたい(似たようなこと何回も言ってる)んだけど、うまく書けない。このブログは直接の知り合いもたくさん読んでいるから、普通に恥ずかしいというのが一番の理由かも。

 かといって、新規のアカウントを作って匿名性の高い場所で書きたいかというと、それはモチベがない。あくまで書きたいのは、「この人が、こんなことまで書くのか!」ってなるようなものなんですよね。

 自分で言うのもなんだけど、私はずっとそういうことをしてきたつもりだし、今後もこれをどんどん突き詰めていきたい。つまり、中国古典とやらの研究をして、博論を本にしているような人(そしてそれをネタにずっとブログを書いてきた人)が、好きな歌漫画の話とか、お笑いの話とかをして、さらに、自分のセクシュアリティの話とか、フェミニズムクィアの話とか、かなり左派色の強い政治的発言とかも積極的にしてる、というこの状態は、適当ではなくて、かなり意図的にやっている。(「意図的に適当であろうとしてる」とも言える。)

 去年から突然日記を書き始めたのも、その辺を突き詰めるために新しいことをしようと考えたから。分かりやすく自分をさらけ出せそうな形としてやってみたんだけど、案外難しい。

 やっぱりトピックごとに考えて書いていく方が性に合っているんだけど、一つのまとまった記事にするまでの過程で疲れて、結局さらけ出す前に脳内で立ち消えてしまっている感じがする。

2026.8.18

 友達が家に来て、プラ版の作り方を教わった。めちゃ楽しかった! 人と一緒にクラフト作業をするの、めっちゃいいなーと思った。

 下は自作のプラ板。焼くとぎゅっと縮んで可愛くなる。左から順に、九尾狐(このブログのアイコン)、『論語』の一節、そして憲法九条ユニホーム(なんだそれは)。

 

(棋客)