ここ数年、私が力を入れて調べてきたことに、クィア・マルクス主義、ならびに台湾のフェミニズムの歴史があります。
- Petrus Liu “Queer Marxism in Two Chinas”~クィア理論・中国・マルクス主義の絡み合い - 達而録
- Petrus Liu “Queer Marxism in Two Chinas”~第一章の文献案内 - 達而録
- 福永玄弥『性/生をめぐる闘争』とPetrus Liu “Queer Marxism in Two Chinas” - 達而録
- Holly Lewis "The Politics of Everybody: Feminism, Queer Theory, and Marxism at the Intersection" ~クィア・マルクス主義への招待 - 達而録
また、「台湾のフェミニズム」のウィキペディア記事も書いたことがあります。
今回は、上のブログ記事で紹介したペトラス・リュー『二つの中国におけるクィア・マルクス主義』の第二章「中国のクィア理論」の第四節「クィア・マイノリティ言説と含蓄の詩学」を読んでみます*1。なぜここを取り上げるのかというと、私の専門である中国古典との接点が見えるところだからです。
本節、台湾のクィア・マルクス主義の論者である丁乃非の理論を説明するところです。ひとまず日本語に訳して、抜粋したものを掲げていきます。
G/SRATの理論家である丁乃非の著作において、クィアネスとは、労働の社会的ヒエラルキーから汚名(スティグマ)を着せられたことで、言語化されず、認識もされない、広範な「棄却された存在」(abject beings*2)を指す。丁の研究は、労働と性的な汚名の間の連続性を作り出した歴史的要因に注目することによって、ホモセクシュアルを自己肯定的な主体として特徴化する実体的人格(substantive personhood)としてのリベラルな哲学からの、大きな逸脱を生み出している。丁は、性と階級の問題を二重に強調するという点で、台湾の批評言説空間で最も独創的な思想家の一人となっている。彼女の研究は、歴史的研究と批判的分析の両方を通して、性の汚名と労働の汚名が、相互に埋め込まれていることを明らかにした。この相互の共犯関係が、クィア的主体が立ち現れる条件である。……クィアというものが、はっきりと分かる性の特性ではなく、はっきりとは分からないが根強く続く歴史的制度の堆積した「効果」であるからこそ、丁の分析は、社会的排除の本質についての理解をラディカルに変革する。
以上の丁の理論は、むろん、台湾の実際のクィア・フェミニズム運動の歴史に即しています。台湾では、1990年代後半、公娼廃止問題に端を発し、セックスワークへの態度をめぐって主流派フェミニズムと性解放派フェミニズムに分裂しました(詳しくは上のウィキペディア記事を読んでください)。その後、(元)公娼の当事者たちはしぶとい社会運動を続けました。(セックスワークについても、本ブログで記事にしたことがあります→浅川雅己「マルクスにおけるジェンダーと家族―後年の共同体研究がもつ可能性の一つとして」 - 達而録)
なお、G/SRATとは、台湾性別人権協会(Gender/Sexuality Rights Association, Taiwan)のことで、1990年代後半からジェンダー平等や性的少数者の権利擁護活動を行ってきたNPO団体です。
……丁の研究におけるクィアは、国家によって事前に定義されたグループ(女性やホモセクシュアル)として構築されるものではない。汚名の主体は、むしろ、否定性と欠如そのものであり、実体的な内容を持たない歴史的排除のプロセスなのである。丁の初期の論文「娼妓、寄生蟲、與国家女性之"家"」(娼婦、寄生虫、そして国家女性の「家」」において、丁はクィアを、フェミニズムの教室に現れる不要なネズミやハエと特徴づける。こうした存在は、フェミニストを苛立たせながらも、しつこく戻ってくるのである。丁の理論において、権力の眼前に何度も戻ってくるネズミやハエは、ただの知的抽象物ではなく、実際の台湾の運動戦略を指している。たとえば、フェミニズムが駆除に失敗したG/SRAT(=G/S rats)*3、またハエに学んだゲリラ戦術(蒼蠅隨行・娼影隨行)を用いて市長を悩ませ続けた元公娼たちがその例である。
つまり、何か特定の属性によって「クィア」を定義することはできず、国家・社会による排除のプロセスがクィアの本質である、とまとめられるでしょうか。そしてこの排除のプロセスが、「性的なスティグマ」と「労働のヒエラルキー」の共犯関係によって構成される、と分析する点が丁乃非の理論の特徴です。
ざっくり言うと、リューの本全体の主旨は、こうした台湾のクィア・マルクス主義の理論・運動の蓄積が、いわゆる「包摂的」な、欧米のリベラル・プルーラリズム(多元主義)に対するカウンターになる、という点にあります。そしてそうした中国・台湾の運動・理論が、必ずしも欧米のクィア理論の影響を受けたものとして解釈することはできず(こういう解釈は欧米中心主義的であるとして批判されます)、中国におけるマルクス主義の伝統、性の抑圧、そして冷戦体制といった歴史的背景が生み出したものである、ということを分析しています。
さて、本節のリューの行論は、劉人鵬・丁乃非の「含蓄の詩学」という枠組みの説明に移っていきます。
劉人鵬・丁乃非は、複数の著作で「含蓄の詩学」という大きな影響を与える理論を展開した。劉と丁は、「含蓄の詩学」を使って、一見すると寛容でクィアフレンドリーであり、フェミニズム的でさえある政治的・文化的枠組みの中で、クィアがいかに不可視化されるのかを説明する。
「含蓄の詩学」は、リューの本では「Reticent Poetics」と表現されていて、これを直訳すると「沈黙の詩学」ぐらいが良さそうです。ただ、丁の本を見たところ「含蓄」と表現されているところに当たるようなので、いったん漢字をそのまま置き換えて「含蓄の詩学」と訳しておきます。
劉と丁の「含蓄の詩学」の概念の知的源泉は、西洋のクィア理論ではなく、中国哲学、特に『荘子』の「罔兩」の概念である(「罔兩」は影の影、すなわちペナンブラと訳されることが多い)。『荘子』の寓話の中で、ペナンブラたちは影が太陽とともに動くことに興味を持つが、影自身は自らの存在や物質への依存を説明することを拒む。この拒絶のパフォーマンスは、問いの出発点となる物質そのものが、ペナンブラの問いには含まれていないことを明らかにする。
ここで『荘子』の「罔兩問景」の話が引用されています。英語の「ペナンブラ」は日食の本影・半影という意味で使われることが多いようですが、『荘子』の文脈では、日食に限らず、影の縁にできる薄影を広く指しています。
ここから、「中国社会が伝統的に同性愛に寛容であった」という周華山の主張に対する批判へと進んでいきます。
社会学者の周華山は、中国社会が伝統的にホモセクシュアリティに寛容であったと論じているが、これに対して、劉と丁は、『荘子』の寓話における不合理な推論(non-sequitur)を明るみに出し、「含蓄」や「寛容」こそが、クィアの不可解性を生み出すという説得力のある反論をする。「影」が形に焦点を当てることは、ヒエラルキー化のプロセス、すなわち物質・影・ペナンブラがそもそもどのように分割不可能なヒエラルキーにおける異なる位置性として確立されるのか、を分析することを実質的に不可能にさせる修辞的な転位である。ペナンブラは、カム・アウト(現れること)は求めておらず、表象され寛容されることを求めてもない。しかし「影」は、その問いをあくまで誤解し続ける。この「罔兩」と「含蓄」の理論は、女性の抑圧の理論とは異なる。女性抑圧の理論は、多くの場合、女性を「被害者」として提示することによってのみ政治的権利を主張できるとする。そうすると、女性の解放が、女性のエージェンシー(行為主体性)を否定するという問題を含んだものになる。この見方に対して、劉と丁は、周華山が言う「文化的寛容」は、解放ではなくむしろ抑圧の一形態であると主張する。なぜなら、それはホモセクシュアルの主体の苦しみをメロドラマ的に描くことに依存するからである。
まず物質があり、そこに影ができ、ペナンブラはその更に外側で周縁とされるものに当たります。これらは分割不可能なヒエラルキーを構成しています。このヒエラルキーが歴史的にどのように作り出されたのかを分析するためには、形に依存する(=特定の属性にもとづく)説明の仕方を拒否する必要がある、ということでしょうか。
ただ、上の引用だけでは『荘子』の逸話との関係が少々分かりにくいので、劉人鵬・丁乃非の「罔兩問景」の方法論を、元の本に遡ってもう少し詳しく見てみることにしましょう。
上でリューが引用しているのは、丁乃非・白瑞梅・劉人鵬編著『罔兩問景:酷兒閱讀攻略』(罔両問景:クィア・リーディングのタクティクス)の序文です*4。この本は、1990年代後半~2000年代にかけての、台湾の「性/別」運動・理論に関する論文を、特に「含蓄美學」(含蓄の美学)、「酷兒政略」(クィア・ポリティクス)を主軸にまとめたものです。
以下、『罔兩問景:酷兒閱讀攻略』の「序」を抜粋しながら日本語訳していきます。(p.iii~vii)
我們認為,含蓄的規訓力道,或許可以用《莊子》寓言「罔兩問景」中「罔兩」提問的模式,當作一種方法,不斷進行詰問。
私たちはこう考える。「含蓄」がもつ規律化の効果は、『荘子』の寓話「罔両問影」において「罔両」が問いを提起するモデルを一つの方法として、不断に問い詰めていくことができる、と。
「規訓」という中国語は見慣れないですが、フーコーの『監獄の誕生:監視と処罰』を中国語で「監獄的誕生:規訓與懲罰」と訳すようで、フーコー的な規律・規範の内面化を指しているものと思います(この序文でもフーコーが出てきます)。つまり、言葉・制度で明確には表現されない「含蓄」(沈黙)の中に、規律・規範を定めていく効果(=特定の人々を排除する効果)がある、という話で理解すればよさそうです。
次に、『荘子』に見える「罔兩問景」の逸話が二つ引用されています。
罔兩問景曰:「曩子行,今子止;曩子坐,今子起。何其無特操與?」景曰:「吾有待而然者邪?吾所待又有待而然者邪?吾待蛇蚹蜩翼邪?惡識所以然!惡識所以不然!」(《莊子‧齊物論》)
罔兩(影のまわりのぼんやりした影=ペナンブラ)が影に尋ねた。「君はさっき歩いていたのに今は止まり、さっき座っていたのに今は立っている。特操(主体性・自律性)がないね。」と。影は答えた。「私は、何か依り所があってこうなっているのかな。いや、私が依っている何かも、また別の何かに依ってこうなっているのかな。私はヘビの外皮やセミの抜け殻に拠っているのかな。どうしてそうなるのかも、どうしてそうならないのか、分からないな。」(『荘子』斉物論)
衆罔兩問於影曰:「若向也俯而今也仰,向也括撮而今也被髪,向也坐而今也起,向也行而今也止,何也?」影曰:「搜搜也,奚稍問也!予有而不知其所以。予蜩甲也,蛇蛻也,似之而非也。火與日,吾屯也;陰與夜,吾代也。彼吾所以有待邪?而況乎以有待者乎!彼來則我與之來,彼往則我與之往,彼強陽則我與之強陽。強陽者,又何以有問乎!」(《莊子・寓言》)
罔兩たちが影に尋ねた。「お前はさっきうつむいていたのに今は見上げている。さっき髪を束ねていたのに今はほどいている。さっきは座っていたのに今は立っている。さっき歩いていたのに今は止まっている。なぜなんだ。」と。影は言った。「ちょろちょろと、どうして何度も聞くのか。私はこうしているが、なぜこうなるのかは知らない。私は蝉の抜け殻、蛇の外皮のように、似て非なるものだ。火と太陽があれば、私は集まってくる。陰と夜になれば、私は入れ替わる。あれが、私が依っているものなのか。まして、その体が依っているものとなれば、なおさら分からない。あれが来れば私も来て、あれが去れば私も去る。あれが激しく動けば、私も激しく動く。激しく動く者に、何を尋ねることがあろうか。」と。(『荘子』寓言)
「影には「待つ」ものがある」というときの「待」の訳がなかなか難しいところです。「頼り先」「必要とするもの」「それがあって初めて成立するもの」といったニュアンスですが、ここでは「依り所」と訳しておきました。
行論に戻ります。
在這個寓言裏,影子的影子罔兩(影外微陰)向影子提問,問怹為什麼沒有獨立的操守。影子的回答質疑了習以為常的形影關係假設(影依待形),但我們卻在《莊子》文意脈絡之外發現了問題:提問的是罔兩,但影子的思考卻是針對其與「所待」的「形」之間的關係。故事終止於影的回答,然而這個回答是否滿足罔兩的問題,不得而知。
この寓話のなかで、影の影である「罔両」(影をふちどるかすかな影)は、「影」に対して、「なぜお前は、独立した自律性を持たないのか」と問いかける。「影」の回答は、当然とされている「形」と「影」の関係についての仮説(影は形に依存するという考え方)に対して、疑義を呈している。ただ私たちは、『荘子』の文意の文脈の外側に、ある問題を発見する。すなわち、問いを発しているのは「罔両」だが、「影」の思考は、かえって、それと依り所の「形」との間の関係に向けられている、ということだ。物語は「影」の回答で終わるが、この答えが罔両の問いを満足させたかどうかは、知ることができない。
ここから、「罔兩」の問いが持つ二つの意義が指摘されます。
罔兩的提問有兩個意義:其一,在一個公私領域都忽略的、人們幾乎看不見(平常誰會注意影子外面猶有微陰,影子還有影子呢?)的位置上,向著常識世界理所當然的主從階序關係提出疑問,並且是對著比較有可能反省這個關係的、被視為從屬性的主體發問;其二,透過一個位於二元性主從階序關係邊緣、難以辨識的位置詰問,文本出現了二元關係之外的聲音,這個聲音之被辨識,也許不在故事本身,而在於一種貼近發問者的閱讀。有趣的是,〈寓言〉篇稱發問者為「衆罔兩」,提醒了我們:平常能被視為「個體」的,並不是所有的主體,在公私領域難以再現的邊緣位置發聲,通常會被視為「群」或「衆」中的一員。而罔兩被閱讀的可能,也許就在於「衆」,不是由於人多構成群眾,而是由於怹面目模糊卻堅持提問。透過罔兩的提問,主流結構關係要一再被檢視,而閱讀衆罔兩,也使得新的位置以及游移含蓄的策略層出不窮。
罔両の問いには、二つの意義がある。第一の意義は、公私の領域で見落とされていて、人々がほとんど見ることのできない(普段、影の外側にさらにかすかな影があり、影にもまた影があることに誰が気が付くだろうか)ような場所で、常識的な世界で当然とされている主従の階層関係に疑問を呈することである。しかも、その関係を深刻にとらえる可能性が比較的高い、従属的な主体とみなされる者に向かって問いを発することである。第二に、二元的な主従の階層関係の周縁にある、識別しがたい位置から問いを提起することを通して、テキストに二元関係の外側の声が現れる。この声が識別されることは、物語そのものの中にはないかもしれないが、問いを発する者に寄り添うような読みの中にある。興味深いことに、『荘子』寓言篇は、問いを発する者を「衆罔両」と称しており、私たちにこう想起させる。普段「個体」とみなされうるのは、決してすべての主体ではない。公私の領域において再現することが難しい周縁から声を発する者は、通常「群」また「衆」の中の一員とみなされるのである。「罔両」が読まれる可能性も、まさに「衆」にあるのかもしれない。それは、人が多いことによって群衆を構成するからではなく、彼らが姿もぼやけながらも問いを発することに固執するからである。「罔両」の問いを通して、主流の構造関係は何度も検証されなければならず、そして「衆罔両」を読むことで、新たな位置と、含蓄を遊移させる戦略が次々と生じるのだ。
第一に、「罔両」を、公私の場から排除された周縁的な存在として解釈することで、「罔両」と影の問答を、周縁的な存在の問いによって、マジョリティ社会で当然視されている主従関係・階層の存在を浮き上がらせるもの、として読んでいます。そしてその問いかけが従属的な側(影)に向けられていることによって、主従関係の「從」の側の抵抗の連帯の可能性を見出しています。
第二に、「罔両」の問いかけを、主・従の階層からさらに周縁化された、ぼやけた位置にいる者からの問いとして解釈することで、テキストから主従の二元的関係の外側の存在に寄り添う読みを引き出す可能性を見出しています。特に、『荘子』の本文において、問いかけの主体に「衆」の字が冠せられることから(「衆罔両」)、個体として認識されない存在群が、ぼやけながらも「問いかけ」に固執する過程を読み取っています。*5
このように、『罔兩問景』では、『荘子』の逸話からクィアな解釈の方法論を見出しています。次回、本書の「序」の続きを見ていきます。
(棋客)
*1:Petrus Liu, (2015) “Queer Marxism in Two Chinas”, Durham, North Carolina: Duke University Press, Queer Marxism in Two Chinas。私はKindle版を見ています。今回の記事で引用する範囲は、No.1582-1626に当たります。
*2:「abject」(棄却)はクリステヴァの用語を意識しているでしょう。「おぞましきもの」と和訳されることもあります。参照→ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(3) - 達而録
*3:ratはネズミ。だじゃれ。
*4:中央大學性/別研究室、2007
*5:過去の『荘子』研究においては、「衆」字を衍字とする説もあるようですが、ここではむしろ「衆」の字がある意味を積極的に読み取っているのが面白いところです。