達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

「曲礼」について(上)―『礼記目録後案』より

 礼記経書の一つですが、成立過程が複雑であり、全体で体系だった書になっているというわけではありません。『礼記』を構成する四十九篇のなかには、祭祀に関する「祭法」「祭義」、喪服に関する「喪服小記」「服問」、子思学派の著作とされる「中庸」「緇衣」、『呂氏春秋』との関係が指摘される「月令」…などなど、様々なジャンルの篇が混在していて、内容を整理するだけでも大変というものです。現行の『礼記』は前漢の戴聖『小戴礼記』の系統を引くものとされていますが、その『小戴礼記』が、どのような基準で各篇を集め整理したのか、よく分からないのです。

 さて、礼学の大成者である後漢の鄭玄は、三礼目録』という書を作りました。この書自体は現在は失われた本ですが、『経典釈文』『礼記正義』『周礼疏』『儀礼疏』といった書に引用される形で残存しており、その内容を一部確認することができます。

 そしてこの『三礼目録』の『礼記』部分は、『礼記』の各篇に対して、鄭玄による概説が示されるとともに、劉向の『別録』をもとにした分類が書かれています。つまり、ここを読めば、鄭玄による各篇の内容説明と、劉向によるジャンル分けの両方を確かめることができるわけです。

 まず、『禮記』の最初の篇である、「曲禮上」についての鄭玄の目録を掲げておきます。

『三禮目録』禮記・曲禮上(『經典釋文』所引)

 名曰「曲禮」者、以其篇記五禮之事。祭祀之説、吉禮也。喪荒去國之説、凶禮也。致貢朝會之説、賓禮也。兵車族鴻之説、軍禮也。事長敬老執贊納女之説、嘉禮也。此于《別録》屬制度。

 この『三礼目録』の記述を読み解きながら、その篇の内容について独自の整理を施したのが任銘善『礼記目録後案』です。任銘善(1913‐1967)氏は、語言学、訓詁学の分野に通じ、『辞海』の作成にも携わった学者です。

 上の引用文はあくまで「目録」ですから、現代語に翻訳するだけならそれほど大変ではありませんが、任氏の導きを借りてその先の探求を進めることによって、礼学全体への認識を深めることができるのです。

 以下、『礼記目録後案』の内容を見ていきましょう。便宜上、節に区切って示していますが、原書にこのような区分はありません。

任銘善『禮記目録後案』(齊魯書社、1982、p.3-6)

【第一節】
 ①陸德明曰「《曲禮》是《儀禮》之舊名、委曲説禮之事。」孔頴達曰「此篇既含五禮、故其篇名為《曲禮》。曲禮之與《儀禮》、其事是一。以屈曲行事則曰《曲禮》、見于威儀則《儀禮》。」今案、陸孔二家本鄭君為説。鄭君《禮器》注曰「曲猶事也、曲禮謂今禮也。」又《奔喪》、《投壺》目録皆云「逸《曲禮》之正篇。」故二家以曲禮為儀禮。

 ②「五禮」之名見《周官・大宗伯》文。《司徒・保氏》「乃教以六藝、一曰五禮。」鄭注「五禮、吉、凶、賓、軍、嘉也。」

 ③「于《別録》屬制度」者、《別録》劉向所作、其書于《禮記》四十九篇、分屬制度、通論、喪服、世子、祭祀、子法、吉事、明堂陰陽、樂記。惟《投壺》云「吉禮」、禮乃事字之誤、説見下。據此知《別録》于《禮》目本皆有説、鄭君作目録者、本劉氏《別録》也。

 ①まず、この篇の題名「曲礼」の名前について。陸德明『経典釈文』、孔頴達『礼記正義』は、こまごました礼の規則を述べることから「曲礼」と名付けられたとし、これを「儀礼」と同一視して説明しています。この説は、鄭玄説に由来するものとされています。

 ②次に、鄭玄のいう「五礼」の典拠を述べます。『周禮』司徒・保氏に六藝の一つを「五礼」とする記述があり、その鄭注に五礼とは「吉、凶、賓、軍、嘉」であると説明されています。

 ③最後に、劉向『別録』における分類について説明します。劉向の『礼記』の分類は、制度・通論・喪服・世子・祭祀・子法・吉事・明堂陰陽・樂記の9つで、曲礼は「制度」に属しています。

【第二節】
 孫希旦《集解》曰「《曲禮》者、古禮篇之名。《禮記》多以簡端之語名篇、此篇名《曲禮》者、以篇首引之也。鄭氏謂篇中記五禮之事、故名曲禮、非是。」又曰「此篇所引之《曲禮》、則別為古禮篇之名、非《禮器》所言之曲禮。蓋「曲禮三千」即《儀禮》中之曲折、而此所引「母不敬」以下、其文與《儀禮》不類也。而此篇之為《曲禮》、則特以篇首引《曲禮》而名之、不可謂此篇皆《曲禮》之言。」

 今案、孫氏駁鄭君之義是也、而以「曲禮三千」為《儀禮》、則仍徇鄭注之非。此篇雜取諸書、如「若夫坐如尸、立如齊」二句取之《曾子》、而失删若夫二字、其迹最顕。蓋出之西漢儒者之摭拾、且雜出漢人之制、首引《曲禮》之文、故取以為一篇之名耳。

 ここからしばらく、【第一節】①の「曲礼」の名前の由来についてという点と、これが他文献に引かれる「曲礼」の語とどのような関係があるのかという点について、考察が進められます。まず、清朝考証学の成果の一つである孫希旦『禮記集解』の説を引用していますが、孫説の要点は以下の二点です。

 1.「曲礼」というのは、古礼の篇名である。『礼記』においては多く最初の語によって篇名を付けていて、この「曲礼」というのも、篇首の言葉を引用しただけである(曲禮篇の最初は「曲禮曰、毋不敬、儼若思、安定辭、安民哉。」という言葉から始まっています。)。鄭玄が五礼から曲礼と名付けられたと説明するのは、誤りである。

 2.この篇で引用される「曲礼」というのは、古礼の篇名であって、『礼記』礼器篇に云われる「曲礼」とは異なる。『礼記』礼器に云う「曲禮三千」とは、『儀礼』の細々した礼をいうのである。この篇の引用する「母不敬」以下の語は、その文章が『礼禮』とは似ていない。また、この篇が「曲礼」というのは、篇の最初の語から名付けられただけで、この篇の全てが「曲礼」の言葉というわけではない。

 そして、原文の「今案」以下が、任氏の意見です。任氏は孫説に概ね賛成しています。ただ、礼器篇のいう「曲禮三千」を『儀礼』とすることにだけは異論があるようで、これは後に詳しく説明しています。

 また、任氏は孫説を継承し、この篇が「曲礼」なる書(篇)のそのものではなく、様々な書からかき集められたものであるということについて、この篇の中に『大戴禮記』曾子事父母篇の「若夫坐如尸、立如齊」の語が見えていることを挙げます。

 

 

 「曲礼」の名が、ただ篇の頭の言葉を使っただけで深意は無い、という説はなかなか面白いですね。今はどういう考え方が一般的なのでしょうか。

 以下、次回に続きます。

溝口雄三『方法としての中国』の読書案内(2)

 今日も、溝口雄三『方法としての中国』東京大学出版会、1989)の内容を紹介します。今回は第十章「ある反「洋務」―劉錫鴻の場合」を取り上げます。

 劉錫鴻とは、字雲生、広東省の番偶県の人。清代の光緒の初め、初代駐英国大使の郭高森ともに、駐英副大使としてロンドンに着任した人物です。彼は、駐英時期に『英軺日記』と『英軺私記』という滞在日記を記しています。これは、当時の中国人が西洋社会をどのように見ていたのか、西洋社会のファーストインパクトはどのようなものであったのか、ということが如実に分かる資料で、非常に興味深い内容となっています。

 溝口先生が彼の滞在中のエピソードを紹介しているところがあるので、その部分を掲げておきます。

 まず、公園を見た感想。

 例えばハイドパークでベンチに憩う市民を見ると、それは人々がビルのなかに居住していて「呼吸が天と通う処が無く」気鬱から病気になるのを慮(おそ)れて、「国主」が特にこの公園を開き「民人に間暇に散歩舒懐させ其の気を暢ばさせよう」との「育民」重視の政策によるものだ、と見る。

 次に、道路工事の人を見た感想。

 道路工事人を見れば、「失業した貧民に街を乞食させず、養済院を設けてこれに居らせ、日々食事を給し、道路橋梁の工事作業に就労させる。故に人は、労をいとい安逸につけば自ら貧賤に困苦すると知り、奮発して工商を事としないものはない」とその背後に福祉・勤労政策ありと見、なおここでは特に「国が富を致すことも亦た此れに由る」と評記している。

 次に、技術の奨励政策について。

 「英人製造の巧」にはその背後にパテント認可など、官の処理よろしきによって「人人に利を帰せしめるため、みなが考案を楽(ねが)う」といった奨励政策があるとし、ある人士があみだした砲術上の新法を官が盗用していたそれを告訴した結果、国王が賠償を命ぜられた実例をあげ、「人に、一芸の技さえあれば、たとい朝廷の尊権を以てしてもそれを抑圧することはできない。だから人はどうして勉励しないでいられよう」とその施策の公平さを特記する。

 次に、林則徐の像を発見した感想。

 蝋人形館に行って、そこに林則徐の像を見れば、英人を「窘(くる)しめ」たにもかかわらぬこうした重んじられぶりは、その「忠正勇毅」が尊敬されるからだと考え、ギロチン人形を見れば英国の刑律に思いをはしらせ、謀殺者・反逆者が死刑になる以外は「鞭撻の刑はただ兇悪者のみに施され」、他は「民命を重いものとみなして懲誡は寛容を旨とする」と、刑政の厳正さと寛大さをたたえる。

 最後に、新聞社の印刷機を見た感想。

 ロンドンタイムス社を訪ねて、日に二八万部が印刷機によって一〇人たらずで刷り上げられ、一日の売上高も洋銀四千三百余元にのぼると知ると、なぜ人力で一日一人一〇〇部ずつとして、二八〇〇人の印刷工を就労させ、彼らに均しく一元半余の日給にありつく機会を分かち与え、その扶養家族を平均八人として計二万二千余人の生活をここに託させてやらないのか、なぜわざわざ機器を用いてこの万余の口食を奪うのか、とおよそ経営者の考えも及ばぬ質問をする。そして結局、問題は英国の産業の活力と民富の豊かさにあると知ると、「一事の利によって数万人を養育する」のはかえって彼らを「粗賤の仕事に安住させ……有用の心力を荒廃させ生命力の根源を閉塞させる」ことになる、その点、英人は立業に積極的で研究心も旺盛で皆が技芸を競いあう、それというのも男女とも幼時に入学して読書・天文・輿図・算法などを講じ、「皆能く智力を輝弱して一芸に就く」ように躾けられているからだと、その基礎教育の充実に思いを致す。(p.278-280)

 以上のエピソードから、現代の我々から見ると彼が非常に独特な視点から西洋社会を見ていることに気が付くのではないでしょうか。当時の東洋人が、西洋の先進的な機械文明や科学技術に驚くところは容易に想像がつくのですが、西洋の社会構造や労働環境をどう捉えていたのか、というのは具体例を見ないと分からないところです。

 例えば、最後のエピソードの背後に、広く大衆に仕事を与えなければ治安が悪化する、という彼自身の政治経験があることにすぐに気が付きます。つまり、仕事を効率よく少人数で終わらせることは、仕事に従事できない失業者が増えてしまうため、最初は良い手段とは思えなかった、ということです。

 溝口氏は以下のように総括しています。

 一事が万事、といって過言ではないほど、彼は見るもののすべてにそれがそうであるゆえん、すなわち西洋文明興隆の「根艇」としての政教と民生、西洋の「道」の実態を追究せずにはいられない。

 こうして見てくると、これまであげてきた彼の見えかた、見かたのなかにわれわれが暗に感じてきた英国への讃美にも似た―ハイドパークや道路工事人の例など思いすごしといってよいほどの善意の解釈―あるいは西洋かぶれの病症にも似た記述ぶりは、じつはお上りさんの安直な讃辞などではなく、そのすぐ裏側に、彼にとってはおそらく心の痛みなしにはいられない中国の実状が見え隠れしていたであろうことに思い至る。つまり、彼におけるユニバーサリズムというのは、単に東西文明を一つの普遍の地平から見るとか、政教・民生を第一義とするところに天下的普遍を見るとかいったキレイ事ではさらさらなく、まさにそのユニバーサルな普遍において、英国の優と中国の劣とを思い知らされずにはいられない苦渋の業だったはずなのである。(p.280)

 以上の部分は本章のメインパートではなく、ここから劉錫鴻にとっての「洋務」がいかなるものであったのか、彼の具体的な提案に対する考察を通して解明するというのが本題です。

 溝口氏は、本書を通して、「洋務―変法―革命」という単純な段階論の枠組みで中国の近代化を語ることに対して批判を浴びせています。ここで取り上げられる劉錫鴻も、過去イメージされてきたステレオタイプな「洋務派」の枠にははまらない人物の一例となっているわけです。

 興味を持たれた方は、是非読んでみてください。

溝口雄三『方法としての中国』の読書案内

 溝口雄三『方法としての中国』(東京大学出版会、1989)を読みました。非常に興味深い内容で、一般の方にも分かりやすく読めるものですので、少し紹介します。ちなみに、溝口氏の『中国の公と私』については、以前記事を書いたことがありますので、合わせてご覧ください。

 今回は、本の題名になっている第五章「方法としての中国」の内容を見てみます。本章は、以下の文から始まっています。(傍線は筆者が附す)

 われわれ日本人が、ヨーロッパの中世や古代に関心をもつ場合、その関心の底部には、意識するとしないとにかかわらず、多かれ少なかれその人なりのヨーロッパ近現代像といったものが横たわっている。(略)たとえばプラトンやダンテを読む人がヨーロッパ近代への知識や関心を全く欠落させている、ということは非常に考えにくいことである。むしろ彼らはそれぞれの近現代像をもとに、それとのつながりにおいて、あるいはルネサンスの来源や淵源という位置づけを無意識裡に施すなどして読んでいるのであろう。

 これに対して中国の古典の場合、『史記』にせよ『唐詩』『碧巌録』にせよ、それらへの関心は中国の近現代への知識や関心とはむしろ無関係に存在していることの方が多い。

 この相違は、ヨーロッパの近現代像が、明治以来、他の世界に時には優越的とさえされたある文明価値をもつと認められてきたのに対し、中国の近現代が一般に文明価値どころか歴史価値そのものにおいて、ヨーロッパはもとより日本にすら劣っていると通念されてきたことと無縁ではない。(p.131-132)

 溝口氏は、上のような通念に抵抗する試みとして、ヘーゲル的またはマルクス的なヨーロッパ生まれの進化史観に依拠し、中国的進化を世界史的普遍に当てはめる形で研究が進められてきたとします。

 しかし、これも結局、それらと関係をとり結びえなかった古代や中世の中国学は、近現代中国とは無縁のまま、近現代中国への関心を欠いたまま、「日本内で即自的に消化されるもの」でありつづけたわけです。溝口氏が本章で問題にしているのは、まさにこの点にあるのです。

 「日本内で即自的に消化される」研究とは、近現代中国への関心を持たないままに進められる、「中国抜きの中国読み」または「中国なき中国学」のことを指しています。

 結論を先にすれば、わたくしはそのような中国なき中国学(すなわち日本漢学)の有害無益の増殖を認めることはできないし、むしろ批判を強めていくべきだと考えるのだが、それはいうまでもなくこれからの自由な中国学の自由度に制限を加えることによってではなく、かえって自由度を高めることによって果たされることである。というのは、ここの自由の意味が、もちろん「進化」離れを含めての方法論上の自由の拡幅を指すと同時に、中国にとっての彼ら自身の復権をめざした彼らの目的をみずからの学の目的意識とするような中国密着的な「目的」からの自由をも指し、こういった自由こそ、これまで以上に中国を客観的に対象化する保証となり、この客観対象化の徹底こそが中国なき中国学にとっての十二分の批判たりうる、と思われるからである。(p.135-136)

  学問をする上で、目的意識に引っ張られてしまうと、結論を恣意的に導いてしまう可能性が高まる、というのはよく分かる話です。

 溝口氏はここから更に、これは「中国学自体の目的までをも放棄すること」を意味しないと述べ、以下のように説明しています。

 学問は理念的にいかなる目的意識からも自由であるべきだとする考え方もあろうが、少なくともわたくしは、それがただ知るだけの中国学に堕するとすれば、それに満足することはもちろんできない。わたくしに言わせれば、ただ知るだけということは、結果的に、中国のあれこれを知ることだけを目的とした、あるいは中国への没入が自己目的化した、そのかぎりでもう一つの中国密着の中国学であるか、さもなければ自己の個人的目的の消費に終始するというかぎりで、もう一つの中国なき中国学であり、真に自由な中国学とは言いがたい。

 真に自由な中国学は、いかなる様態であれ、目的を中国や自己の内に置かない、つまり目的が中国や自己の内に解消されない、逆に目的が中国を超えた中国学であるべきであろう。それは言いかえれば、中国を方法とする中国学である。言わずもがなのことかもしれぬが、方法のための方法――これまでの「目的」的な方法に反対するあまり目的設定自体を否定し、何を何のために知るかよりはどう知るかが優先し、たとえばあれこれの方法論がどうあれこれか、またそれをどう適用させるかに目を奪われ、結果的に対象としての中国が捨象されるといった傾向――に道を拓こうというのではない。(p.136-137)

  結局、上のような志向から生み出される研究を、「中国を方法とする」研究と称するわけですが、溝口氏はこういった方向性の研究の先に、何を見ているのでしょうか。

 今ではわたくしたちは、そうしようと思えば、この中国というよくも悪くも独自な世界を通して、いわば中国レンズでヨーロッパを見ることが可能になり、それにより従来の「世界」に対する批判もできるようになった。たとえば、「自由」とは何なのか、「国家」とは何なのか、「法」「契約」とは何なのかなど、これまで普遍の原理とされてきたものを、いったんは個別化し相対化できるようになった。重要なことだが、それはあくまで相対化であって、いわゆる日本主義的な、日本再発見、東洋再発見ではない。相対化は世界の相対化であるため、当然、自己の世界に及ぶものだからだ。

 われわれの中国学が中国を方法とするというのは、このように日本をも相対化する眼によって中国を相対化し、その中国によって他の世界への多元的認識を充実させるということである。また世界を目的とするというのは、相対化された多元的な原理の上にもう一層、高次の世界像といったものを創出しようということである。(p.138-139)

 では結局、溝口氏のいう方法で研究を進めるとどうなるのか、という実際の記述が『方法としての中国』の他の部分や、『中国の公と私』であるわけです。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

 個人的には、上の文章を読んで、納得できるところとそうでないところと、色々考えることがありました。これを見た上で、氏の専門書である『中国前近代思想の屈折と展開』を読んでみると、また違った角度から見えてくるものがあるかもしれません。

(棋客)

「余計な校勘」の一例

 標点本というのは大変便利なものですが、句点が間違っていたり、字形を誤っていたり、脱字があったりするので注意が必要、というのは耳にたこができるぐらい言われているでしょうか。以前、字形と句点の誤りの具体例を示したことがあります。

 今回は、「標点本の編集者が、余計な校勘を加えている例」を紹介しようと思います。句点や字の誤りはその箇所を正せば済む話ですが、必要のない校勘を加えるというのは背後に「校勘方針の誤り」が潜んでいる場合が多いので、その本全体にわたっての欠点となってしまう可能性があります。

 そして、これは我々自身が普段文字起こしをする際にも気を付けるべきこと、ということになりますね。参考になる内容かと思いますので、取り上げておきます。

 『新編汪中集』(国家清史編纂委員会・文献叢刊、廣陵書社、2005)の「明堂通釋」を題材に、校勘が加わっている五箇所を下に示しています。

・故大戴記明堂篇「或以爲明堂者、文王廟也。」(p.362)

・明堂篇説「明堂、此天子之路寢也、不齊不居其室。」(p.363)

・明堂篇「明堂、其外水環之曰辟雝。」(p.364)

・明堂篇采集禮説、具有瑕瑜不掩之忠。(p.365)

・故明堂篇之「二九四七五三六一八」、即其制作之義。(p.366)

  この五箇所それぞれに、以下のような脚注がついています。

『明堂篇』、原作『盛德篇』、據大戴禮記校改。

 ここに指摘されているとおり、汪中『述学』の四部叢刊本などを見ますと、もともとはどれも「明堂篇」ではなく「盛德篇」に作ってあります。しかし、現行本の『大戴禮記』を見ると、確かに、以下の引用文は全て「明堂篇」に見える文章です。そこで、編集者は、原文に「盛德篇」とあるのは「明堂篇」の誤りであると考えて、修正を施したのでしょう。

 しかし、これは変えなくて良いところまで変えてしまう「余計な校勘」と謂うべきもので、汪中の意図を曲げてしまっています。

 というのも、『大戴禮記』の「明堂篇」は、もともと「盛德篇」と一まとめになっていたのではないか、という説があるのです。これは、『五経異議』や蔡邕「明堂月令論」に、この篇の文章がしばしば「盛德篇」として引用されていることに由来しています。(この説が正しいのかというのはまた別問題ですが。)

 よって、清朝人がこれを「盛德篇」と引くのは、別に普通のことであって間違いではないのです。というより、汪中は意図的に「盛德篇」に変えて引用しているわけで、その意図を読み取ってやらねばなりません。分かりやすく言えば、現行本で『尚書』の「舜典」に入っている文章を、敢えて「堯典」として引くのと同じような意味合いです。

 少し調べただけでも、惠棟、阮元、陳奐、黄以周、孫詒讓、皮錫瑞らは、上の文章を「盛德篇」として引用しています。もちろん、逆に「明堂篇」として引用する人もいます。

 

 上の場合なら、「現行本では「明堂篇」にある」ぐらいの注記は加えても良いと思うのですが、原文を改めてしまうのは、汪中の意図を損ねているのでやり過ぎということになるでしょう。

 以上、非常に細かな一例に見えるかもしれませんが、これはなかなか根深い問題だと感じております。というのも、最近出版された標点本には、この手の修正が入っていることが非常に多いのです。今日挙げた例のように、きちんと注記して改めているのであればまだ良いのですが、書かれていないこともままあります。

 そもそも、ある本が何か他の書を引用する時に、その「引用箇所」を、「その引用源の現行本の字句」によって改めることは、相当危険であると考えるべきです。(もちろん、我々が読書する際に、内容確認のために原書に当たるのは、当然必要な行為ですよ。)

 というのも、「引用者の見た本の字句が異なっていた可能性」「引用者が自分の判断で改めた可能性」「引用者が故意に省いた可能性」といったところに対する考察の余地を、残しておいてやるべきであるからです。他にも、「引用者は誤って引用してしまっているのだが、その誤りのもとにその後の引用者の説明が進んでおり、修正すると意味が通じなくなる」といったことも有り得ますね。

 もちろん、木版印刷上の単なる誤字であれば直すべきですが、こういった修正はよほど慎重にやらねばならないことは確かでしょう。

(棋客)

顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁、そして王念孫(5)

 前回の続きです。

 ここまで書いて少し先行研究を調べてみたところ、武秀成「段玉裁“二名不徧讳说辨正」(『文献』2014年02期)に、他説も加えた上でかなり詳しく整理されていることに気が付きました。ぜひ、こちらもご参照ください。

 段玉裁“二名不徧讳说”辨正--《文献》2014年02期

 

 王念孫(1744-1832)の説は、『讀書雜志』墨子に載っています。王念孫は段氏より後、顧氏より前の人ですが、これはいつ書かれたものなのでしょうか。両氏の議論を踏まえて執筆されたものだったのかどうかが気になります。

王念孫『讀書雜志』墨子第二・偏

 偏具此物而致從事焉。畢云、偏當爲徧。念孫案、古多以偏爲徧、不煩改字。

 (原注)非儒篇「遠施周偏。」公孟篇「今子偏從人而説之。」皆是徧之借字、而畢皆徑改爲徧、則未達假借之旨也。益象傳「莫益之徧辭也。」孟喜曰「徧、周帀也、本或作偏」者、借字耳。而王弻遂讀爲偏頗之偏。惠氏定宇已辯之。檀弓「二名不偏諱、夫子之母名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。」偏亦徧之借字、故曲禮注云「謂二名不一一諱也」而『釋文』偏字無音、則亦誤讀爲偏頗字矣。毛居正『六經正誤』已辯之。又『大戴記』勸學篇「偏與之而無私」、魏策「偏事三晉之吏」、『漢書』禮樂志「海内偏知上德」、皆以偏爲徧。又『漢書』郊祀志「其遊以方徧諸矦」、張良傳「天下不足以徧封」、張湯傳「徧見貴人」、『史記』竝作偏。若諸子書中以偏爲徧者、則不可枚舉。漢三公山碑「興雲膚寸、偏雨四海」亦以偏爲徧。然則徧之爲偏、非傳寫之譌也。

 一言で言ってしまえば、「偏を徧として用いる例は良くあるのだから、いちいち改めなくてよい」といったところ。

 ここで、曲禮「二名不偏諱」が、“もともと「偏」字であるが「徧」字の意味で読むべき例”として挙げられています。テキストとしては顧説と同じく「偏」を採用しつつ、義としては段説のごとく「徧」で読むべきとするわけです。妥当かはともかく、両者をうまく調停する説のようにも見えますし、「まあまあ、結局同じじゃないの」と高みの見物をしているようにも見えてきます。

 喧々諤々の段玉裁と顧千里の議論を、ある意味で「破壊」してしまう王念孫説。王氏父子の学説は時に「脱経学的」とも称されますが、その一端を見たような気がして、ここで紹介しておこうと思った次第です。

 

 結論としては、やはり『禮記』のテキストとしては「偏」が良いのでしょう。意味としてどちらを取るべきなのかという点については、結局似た現象を指しているわけで、盧・顧説にも一理あるし、毛・段説にも一理あるように思います。ここは更に検討が必要かと思いますが、先に紹介した武秀成「段玉裁“二名不徧讳说”辨正」に詳しい解説がありますので、そちらに譲ります。