達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『説文解字』公開画像データ一覧

 以前、『説文解字』に関して、このような記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp 

 この記事でも少し触れましたが、『説文解字』の版本の変遷というものはとにかくややこしいものです。自分で調べていてかなり混乱してきたので、特にオンライン公開されているものを中心に、現在調べたところを整理しておこうと思います。抜けや誤りがありましたら、是非ともコメントください。(主に、科研:『説文繋傳』『篆韻譜』諸版対照データベースと大徐以前の小篆字形の成果によって整理しています。*1

 大きく分けて、『説文』には二系統の版本が存在します。ともに南唐から北宋にかかる頃に作られたもので、一つ目は徐鉉の作った大徐本、二つ目は徐鍇の作った小徐本です。二人は兄弟であり、徐鉉が兄で徐鍇が弟ですが、作られたのは小徐本が先。小徐本は『説文』原文に校定と注を附したもので、説文解字繋伝』とも呼ばれます。このとき、徐鍇は各字を韻の順番に並べ替えた『説文解字篆韻譜』を合わせて作っています。その後、兄の方が『繋伝』に更に校定を加え、大徐本が成立しました。
 その後、宋から明の頃は、『説文』を使いやすいように韻の順番で整理した李燾『説文解字五音韻譜』が通行し、原書に近い大徐本・小徐本は顧みられなかったようです。あの顧炎武が、大徐本・小徐本とこの『韻譜』とを勘違いしていたという話も残っています。

 明末の頃、毛晋という蔵書家が、汲古閣にて多くの書籍を刊刻しました。宋版の大徐本を入手した毛晋と息子の毛扆は、これを数回に亘って出版します。この際、宋本をそのまま覆刻した訳ではなく、校定を加えていたことが分かっています(というより、覆刻の際には遍く校定が加えられるものです)。特に1653年の「第五次修改本」出版の際に大きく手が加えられたようで、「第四次」以前の方が原書に近いとされています。この辺りの事情は、段玉裁『汲古閣説文訂』序*2に詳しく整理されているところです。なお、一般に「汲古閣本」と呼ばれる本は、第五次修改本を指していて、これが乾隆の頃まで最もよく使われていた本です。
 更に、同じく大徐本系統の宋版をもとに刊刻したものに、額勒布の藤花榭本、孫星衍の平津館本、丁艮善の日照丁氏本が知られています。それぞれもとの宋本が異なっていたり、微妙に校定が加えられていたり、その校定に用いた本がまた異なっていたりと、それぞれややこしい事情があり、未解明の所も多いようです。ともあれ、このような形で大徐本が世に出回ることになりました。

 大徐本でさえ明末にようやく注目されるようになったわけで、小徐本は更に埋没している状況でした。しかし宋本自体は伝わっていて、上の汲古閣校定の際にも実は用いられていたと段氏は言っています。小徐本の翻刻が行われたのは乾隆年間に入ってからのことです。汪啓淑本祁寯藻本などがありますが、小徐本の方はもともと出回っている宋本の数が少なかったため、版本間の異同は大徐本ほど大きくはないようです。(そうはいっても問題は多いようですが。また、小徐本はもとから巻二十五が欠けており、普通は大徐本によって補ってあります。)

  さて、ここまでで述べたものは、いずれも明末から清の頃に宋本をもとにして翻刻されたもので、原書にどれほど忠実なのか、よく分からないところがあります。しかし、民国期に入ると、影印技術が発達したことで、宋本そのものの影印本が出版されることとなりました。代表的なものが「四部叢刊」で、大徐本・小徐本ともに善本が選ばれて影印されています。ただ、「影印」といっても微修正を加える場合があり、完全なコピーと言えるものではなく、字句の異同が存在する場合もあります。

 さて、以下整理に入ります。各本の中に貼ってあるリンクに飛べば、その本の画像公開ページに飛べます。(中國哲學書電子化計劃維基文庫Internet Archiveで見られる版本画像は基本的に共通しており、ここでは電子化計劃のものを挙げています。場合によっては、画像ページの「詳細説明」の「原書來源」に、もと画像データを公開した大学図書館などのページにリンクが貼ってあります。)

 

☆大徐本系統

・汲古閣本(第五次修改本)現在見られるものは、1773年に朱筠が汲古閣本を『説文真本』と銘打って翻刻したもの。写真:東方學デジタル圖書館、早稲田大学の古典籍総合データベースにて公開。【10/13訂正】汲古閣本そのものは、早稲田大学の古典籍総合データベースで公開されています。その後、1773年に朱筠が汲古閣本を『説文真本』と銘打って翻刻した本もあり、こちらは東方學デジタル圖書館にて公開されています。

・汲古閣四次様本→現在見られるものは、1881年に淮南書局が翻刻したもの。写真:東方學デジタル圖書館にて公開。

・藤花榭本→1807年、額勒布が鮑漱芳所藏の宋刊本を翻刻したもの。写真:早稲田大学の古典籍総合データベースにて公開。

・平津館本→1809年、 孫星衍が宋刊本を翻刻したもの。写真:鈴木俊哉「国立公文書館所蔵『説文解字』平津館本解題」にて公開。解題つき。また、平津館本をもとにして、見やすいように一字ごとに改行を加えて組み替えた本が、陳昌治本です(1873年)。「一篆一行本」とも呼ばれます。この二種の版本は、嘉慶以降に最もよく利用されたものです。

・日照丁氏本1881年、丁艮善が海源閣所藏の宋刊本を翻刻したもの。写真:東方學デジタル圖書館

岩崎本の影印本→「宋本小字本」と呼ばれるものの一つ。もとは王昶、陸心源の旧蔵本でしたが、静嘉堂に入りました。これは段玉裁も校正に利用した本です。影印本には二種類あって、「續古逸叢書」に入っているものと、「四部叢刊」に入っているものがあります。写真:四部叢刊本(中國哲學書電子化計劃)續古逸叢書本(中國哲學書電子化計劃)にて公開。先に述べたように、同じ本の影印でも微妙に修正が加えられていることがあります。参照:鈴木俊哉「續古逸叢書・四部叢刊における岩崎本説文解字影印の画像比較」
 なお、大徐本で宋本そのものが残っているものには、もう一つ「海源閣本」があります。影印本は出ていますが、画像公開はないようです。

 

☆小徐本系統

・汪啓淑本→1782年、汪啓淑によって景宋写本に基づき出版されたもの。のちに馬俊良『龍威秘書』に入っています。写真:鈴木俊哉「国立公文書館所蔵『説文解字繋傳』汪啓淑本解題」にて公開、解題つき。

・祁寯藻本→1849年、祁寯藻が善本を集めて校定を加えて出版した本。これが代表的な刊本とされる場合が多いようです。のち、『古經解彙函』に入っています。写真:広島大学所蔵『説文解字繋傳』古經解彙函本(中國哲學書電子化計劃)にて公開。

・四部叢刊本→影印本ですが、二種の本を組み合わせて作られています(卷一~二十九:述古堂景宋鈔本、卷三十~四十:鐵琴銅劍樓藏宋刊本)。写真:中國哲學書電子化計劃にて公開。同じ四部叢刊本でも、初印本と重印本で異なる部分があるそうですが、この辺りはまだ整理できていません。

 

その他の関連書籍

・『説文解字篆韻譜』→五巻本と十巻本の二種があります。元版が残っているようですが、公開はないようです。写真:国立公文書館蔵『説文解字篆韻譜』(五巻本、『函海』所収本)にて公開。

・『古今韻会挙要』南宋の黄公紹の編纂した『古今韻会』を元の熊忠が再編集したもの。段玉裁により、古い形の小徐本の引用が残されているとされて重視された。写真:京都大学貴重資料デジタルアーカイブにて公開。嘉靖版。

・『説文解字五音韻譜』→十二巻本。写真:東方學デジタル圖書館(萬暦版)東方學デジタル圖書館(天啓版)にて公開。

 

国学大師

 「国学大師」で漢字一字の検索をかけると下部に出てくる表に、様々な版本の『説文解字』とその関連書籍が出てきます。一字ごとの説解を見たい場合は、ピンポイントでその部分を表示してくれるので非常に便利ですが、どれがどの本なのか分かりにくいので、整理しておきます。

・『说文解字注』:段玉裁『説文解字注』(經韵樓本)
・「陈刻本」:陳昌治本(一篆一行本)
・「孙刻本」:平津館本
・「日藏本」:汲古閣本?【10/13訂正】汲古閣本の翻刻
・「汲古阁本」:汲古閣本(上で引いた早稲田大学の古典籍総合データベースと同一本)
・『说文系传』:『説文解字繋伝』、四部叢刊本?

 国学大師では、他に関連著作の『説文解字句読』『説文解字義証』『説文解字今釈』『説文解字詁林』を見ることができます。特に『詁林』は、まず簡単に字句の異同を確認しようとする際には非常に便利な本です。

(棋客)

*1:論文としては、大徐本については鈴木俊哉「清刊大徐本説文解字の版本評価の再検討に向けて」、小徐本については鈴木俊哉「四庫全書本『説文解字繫傳』に見える小篆異体字 」などの整理を参考にした。書籍としては、『増訂四庫簡明目録標注のほか、頼惟勤『説文入門』(大修館書店、1983年)阿辻哲治『漢字学 説文解字の世界』東海大学出版会、1985(新版は2013)を参考にした。ただ、現在でも評価の定まっていないところは多く、上の参考資料の間でも意見の食い違いがある場合がある。

*2:『汲古閣説文訂』の画像データも、東京大学東洋文化研究所所蔵貴重漢籍善本全文画像データベースにて公開されています(同治十一年の重刊本)。

仁義とは結局なんだったのか?という初歩的すぎる問題-『孟子』を読む-(1)

 「仁義」という言葉は、誰でも聞いたことがあると思います。では、「仁義」という言葉の出典は、どこでしょうか。

 答えは、『孟子』です。『孟子』の冒頭にある、梁国の恵王と孟子の対話に「仁義」という言葉が出てきます。今は分かりませんが、少なくとも私が高校生の頃は、高校の漢文の教科書にも出てきた話です。漢文に馴染みのない方も、どこかで聞いたことがある話なのではないでしょうか。引用して、簡単に翻訳してみましょう。

〔原文〕
 孟子見梁惠王。
 王曰「叟不遠千里而來、亦將有以吾國乎。」
 孟子對曰「王何必曰、亦有仁義而已矣。

〔翻訳〕
 孟子は梁の恵王に謁見した。
 恵王は言った「先生は千里も遠くからいらっしゃいました、私の国にどんな利益を与えてくれるのでしょうか。」
 孟子は答えて言った「恵王様、どうして利益のことを口にするのですか、仁義だけが重要な問題なのです。

 時は戦国時代。各地の諸侯が領土拡張を謀って対立し、互いに謀略を掛け合い、戦争が続いた血生臭い時代です。そんな時代に活躍したのが、遊説家です。遊説家は、各地を回って、自身の思想や政策を諸侯に説きました。

 孟子もそんな遊説家の一人でした。恵王が開口一番に、我が国にどんな利益を、と言うのも当然です。ところが、孟子は、利ではなく仁義が重要なのだと説きます。では、仁義とは一体なんなのでしょうか。孟子の言葉は続きます。

〔原文〕
 王曰『何以利吾國』大夫曰『何以利吾家』士庶人曰『何以利吾身』上下交征利、而國危矣。
 萬乘之國、弑其君者、必千乘之家。千乘之國、弒其君者、必百乘之家。

〔翻訳〕
 王が『どうやって我が国に利益をもたらそうか』と言い、大夫が『どうやって吾が一族に利益をもたらそうか』と言い、士が「どうやって我が身に利益をもたらそうか」と言えば、身分が高い者と低い者が互いに利益を取りあい、国は危機に直面します。
 万の戦車を持つ国で、その国の君主を殺すのは、必ず千の戦車を持つ一族です。千の戦車を持つ国で、その国の君主を殺すのは必ず百の戦車を持つ一族です。

 君主が利益を追求すると、その影響が国全体に及んで、最終的には君主が下克上に遭うということでしょうか。孟子は、話を続けます。

〔原文〕
 萬取千焉、千取百焉、不為不多矣。苟為後義而先利、不奪不饜。未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也。王亦曰『仁義而已矣』。何必曰利。」

〔翻訳〕
 万が千を取り、千が百を取ることは、少ないとはいえません。しかし、義を後にして利益を優先すれば、奪わなければ満足できなくなります。仁であって親を棄てる者はいません、義であって君主を蔑ろにするものはいません。ですから、王は『仁義だけが問題だ』と言えば良いのです。どうして利益のことを口にする必要がありましょうか。」

 これで孟子の演説は終わりです。さて、ここまで読んで、「仁義」が何か、はっきり分かりましたか? 私にはさっぱり分かりませんでした。ここで説かれているのは、「利」を追求した政治を行った時の弊害です。つまり、「仁義は利ではない」という否定形で説明がなされています。じゃあ、具体的に仁義とは、どういう考えで何をすることなのかについては、説明がありません。この一節だけ読むと、なんとなく、利益の追求は良くないよ、というありがちな面倒くさいお説教かな、といった印象しか残りません。

 高校の授業でこの一節を読んで以来、ずっと引っかかっていました。仁義って結局なんなの?
 というのも、(中国学を専攻してるにも関わらず、恥ずかしながら)私は真面目に『孟子』を読んだことがなかったんです。『論語』とか『老子』とか『荘子』はそれなりに頑張って読んだんですけどね・・・
 実は、最近なんとなく『孟子注疏』を冒頭から読み始めて気づいたのですが、『孟子』がいう「仁義」は、これに続く話を少し読めば、すぐに分かります。どうして今まで、読んでいなかったのか、と恥ずかしい限りです。

 ところで、少なくとも私が高校生の頃は、高校の漢文の教科書には、先程翻訳した一節だけが載っていて、続く節は載っていませんでした。つまり、文章の冒頭部分だけを切り取って載せている状態です。この一節だけを読んでも、「仁義」とは何か、全く分からないどころか謎が深まってしまうのではないでしょうか。

 まずい、このままでは高校生の漢文嫌いが加速してしまう・・・そこで、教科書を補うべく、続く節を紹介していきます。高校生の方も、昔高校生だった方も、読んでいただけると嬉しいです。

 直後の文章は以下です。梁の恵王は、孟子を御苑に連れて行きます。

〔原文〕
 孟子見梁惠王。王立於沼上、顧鴻雁麋鹿。曰「賢者亦樂此乎」
 孟子對曰「賢者而後樂此。不賢者、雖有此不樂也。

 〔翻訳〕
 孟子は梁の恵王に謁見した。王は御苑の池の辺に立って、放し飼いにされている大雁や雁、大鹿、子鹿を見ながら言った「賢者もこういうものを楽しむのでしょうかね。」
 孟子は答えて言った「賢者であって始めて楽しむことができます。賢者でなければ、こうした御苑を持っていても楽しめません。」

 梁の恵王の言う賢者とは、暗に孟子を指しています。利よりも仁義だと謎の説教を食らって苛ついていたのでしょうか、或いは単なる自慢でしょうか、仁だの義だの言う賢者は、こういう壮大な御苑を楽しめるのでしょうかねえ、と恵王は言います。

 ところが、恵王の反撃に対して孟子は堂々と答えます。賢者こそ楽しめるのだと。孟子は続けます。

〔原文〕
 詩云『經始靈臺、經之營之、庶民攻之、不日成之、經始勿亟、庶民子來。王在靈囿、麀鹿攸伏、麀鹿濯濯、白鳥鶴鶴、王在靈沼、於牣魚躍。』
 文王以民力為臺為沼、而民歡樂之、謂其臺曰靈臺、謂其沼曰靈沼、樂其有麋鹿魚鼈。古之人與民偕樂、故能樂也。

 〔翻訳〕
 古の詩にこうあります『霊台を計り作る、計り作る、民衆がこれに携わり、程なくして完成した、計り作るのに急かしはしなかったが、民衆は子供のようにやってきてた。王が霊囿にいると、牝鹿は安心して子供を産む、牝鹿はつやつやと毛を耀かせ、白鳥は白く美しい、王が霊沼にいると、魚は踊り跳ねて喜ぶ。』
 文王は民衆の力によって物見台や池を作りましたが、民衆は喜んで、その物見台を素晴らしい台(霊台)と呼び、その池を素晴らしい池(霊沼)と呼び、大鹿や子鹿、魚や亀がいることを楽しみました。古の人は民衆とともに楽しみました、だからこそ楽しむことができたのです。

  孟子が引用した詩では、古の聖王である文王が、民衆の支持を得て御苑を作った様子が描写されています。文王が御苑を作ろうとすると、自然と大勢の民衆が集まってきて、すぐに完成させてしまいます、そして、御苑は美しい動物で溢れた、というのです。
 孟子が強調したいのは、民衆とともに、ということでしょう。民衆の支持があり、民衆が喜んでいたからこそ、文王は美しい御苑を手に入れたのだ、と孟子は言いたいのです。

 続けて孟子は、古の書物の一文を引用します。

〔原文〕
 湯誓曰『時日害喪、予及女皆亡』
 民欲與之皆亡、雖有臺池鳥獸、豈能獨樂哉。」

〔翻訳〕
 古の書の一篇である湯誓にこうあります『この太陽(暴君であった桀)はいつ亡ぶのだろうか、もし亡ぼせるなら我が身が亡んでもかまわない』
 民衆は桀とともに亡ぶことを望みました、御苑に物見台や池、鳥獣がいても、どうして独りで楽しむことができるでしょうか。」

 湯誓は、『尚書』(『書経』ともいう)の一篇です。これは、殷王朝の創始者である湯王が、夏王朝最後の王となる桀を伐つ前にした演説の中の言葉です。この言葉は民衆の発言の引用です。
 孟子は、桀の例を持ち出しました。文王が成功例だとすると、桀は失敗例です。そして、ここでも、民衆の支持が重要な問題になっています。民衆は桀が亡ぶなら自分が亡んでもかまわないと思う程に、桀を憎んでいました。
 ここではっきりと、自分の御苑を自慢した恵王に対する批判しています。王よ、目の前のこの立派な御苑は、民衆の支持があって作られているのですか?文王のことを考えてみて下さい、桀のことを考えてみて下さいと。

 ここまで読むとなんとなく、「仁義」の輪郭のようなものが見えてきたのではないでしょうか。孟子と恵王の対話はまだ続きます。

 孟子の翻訳書については、こちらの記事を御覧下さい。

chutetsu.hateblo.jp

「中国基本古籍庫」という漢籍データベースに関する基本情報

 皆さんは、「中国基本古籍庫」、通称「古籍庫」という漢籍データベースをご存じでしょうか。古籍庫は、中国で開発された有料の漢籍データベースです。やや誤字が多いのですが、割とマニアックな文献まで電子化しており、検索してテキスト化された原文をコピペすることができるので、出典や用例探しには非常に便利な道具です。

 ふと、在野で漢文出る人(非常勤講師の掛け持ちをしている人も含む)が、古籍庫使えるような仕組みを作ったら、便利なんじゃないかと思い、アンケートを採ってみました。

 

提供している組織:北京爱如生数字化技术研究中心

 中国基本古籍庫は、北京にある愛如生という研究機関が開発、提供しているデータベースです。日本では、東方書店が代理店となっています。以下の情報は、全て公式サイトに載っているものの引用です。

使用料金

 中国基本古籍庫には、中国国内版と海外版の2種類が有り、海外版は米ドルで、使用料を支払います。東方書店経由で、購入する事もできますが、直接買った場合は、以下の金額になります。(金額はUSD)

 「 /user」という表現がありますが、これは恐らく同時接続可能な人数と考えられます。(アカウントの数と言い換えても良いかも知れません。)

 

Remote Service Edition   20,000 + 20,000 /user(メンテナンス費用:320/year)

Annual Service Edition    20,000 / year /5 users

Install Service Edition   154,000 + 4,620/user

 

 1ドル=110円と仮定して、試算してみます。

 Remote Service Editionの場合は、基本料金が220万円。これに加えて使用人数が一人につき220万ですね。恐らく、一度買えば、永久に使い放題だと思われます。

 Annual Service Editionの場合は、年間に220万円で、5人まで使用可能です。一人につき45万円になりますね。

 Install Service Editionの場合は、基本料金が1694万円。これに加えて、使用人数が一人につき50万8200円です。こちらも、一度買えば、永久に使い放題だと思われます。

 使用年数を1年と固定し、同時使用人数を変数とした場合のグラフを作ってみました。

f:id:chutetsu:20191007184142p:plain

 Annual Service Editionが断然安いですね。9人以下ならRemote Service Editionがお得、10人以上はInstall Service Editionがお得です。

 次に使用人数を1人に固定して、使用年数を変数とし、累積使用料金を試算してみました。

f:id:chutetsu:20191007185432p:plain

 3年以上使用するなら、Remote Service Editionがお得。2年以下なら、Annual Service Editionお得です。

 続いて使用人数を5人と固定した場合の試算。

f:id:chutetsu:20191007185029p:plain

 5年までなら、Annual Service Editionがお得。6年以上使用するなら、Remote Service Editionがお得になりますね。

日本で導入している研究機関

 公式サイトによれば、導入しているのは以下の大学です。

 京都大学関西大学龍谷大学明治大学早稲田大学東京大学明星大学、法政大学、同志社大学立命館大学新潟大学大阪大谷大学

 あれーーー案外少ない。しかも、国立大は、東大と京大、そして新潟大だけ。まあ、高いですからね・・・どうやら、研究機関に所属していても、古籍庫が使えない環境にいる人も沢山いるようです。在野の前に、使える研究機関を増やす方が優先順位は高いでしょう。

 実施したアンケートでは、一人一万円などと適当な数字を出してしまいましたが、 Annual Service Editionだと、1年間で45万もかかる訳で、なかなか厳しいですね。使用できる日を偶数・奇数で分けて、使用人数を2倍にすれば、使用料金も二分の一にできますが、、、

 ちなみに、数年前に開発された「中華経典古籍庫」は、「中国基本古籍庫」とは、全く関係の無い別の有料漢籍データベースです。いずれ、「中華経典古籍庫」についても、簡単な紹介記事を書く予定です。

頼惟勤『説文入門』を読む(二)

 前回の続きです。

説文解字注』一篇上
 一、惟初大極、道立於一、造分天地、化成萬物。

 前回書いたように、『説文入門』での結論は「唐石經・岳本・釋文所據など、『易』として古い系統のものは「太」でなく「大」であるから、段氏は「大」の字を用いたのだろう」とするものです。むろん、段氏は経書本来の字句、つまり出来る限り「古い形」に戻そうとしているわけですから、まず部分的にはこの説明で良いのだと思います。

 ただ、個人的な感覚では、もう一押し、根拠が欲しいように思います。あくまで私の印象ですが、段玉裁という学者は、今回の例のような“「唐石經、岳本、釋文所據本、八行本經字」が「大」、「八行本疏引、通行本」が「太」なので、校勘学的に比較すれば「大」と判断される”とかいう場合でも、何か彼の信じる他の根拠があれば、容易に逆の「太」の方を採るようなタイプの学者です。上記の史料の中では「唐石經」が最も古いですが、例えば「これは唐人によって改竄されたのであって、本来は***であった」という説明も、段氏の十八番といってもいいほどよく見受けられる議論のパターンです。
 これは本段で、『説文』ではあらゆる版本が「太」であるのに、独断で「大」に直してしまう辺りからも、よく分かるのではないでしょうか。

 というわけで、ようやく本題です。前々回の記事でも話題にした『古文尚書撰異』をパラパラと眺めていると、こんな例に出くわしました。

『古文尚書撰異』禹貢
 「冀州、既載壼口、治梁及岐、既修大原。」
 大唐石經已下作「太」、非古本也。漢人書碑、廟號如「太宗」、官名如「太尉」「太常」「太中」、地名如「太原」「太陽」之類、皆作「大」。「泰山」亦作「大」。經典凡「太子」「太學」、皆作「大」。此經如「大原」「大行」「大華」「大甲」「大戊」等、衛包皆依俗讀改為「太」。而開寶中、又刪『釋文』「大音泰」之云矣。惟僞武成「大王」、僞畢命「大師」、未改。

 これは『尚書』禹貢篇の「大原」(現行本は「太原」)についての一段。他、調べてみると以下の例もあります。こちらは咸有一德篇の書序の「大戊」について。

『古文尚書撰異』書序
 「伊陟相大戊、亳有祥桑穀共生于朝、伊陟贊于巫咸、作咸乂四篇。」
 玉裁按、經無「太」字、皆本作「大」、而音「太」。衛包乃改為「太」字。開寶中、又盡刪『釋文』之「大音太」、以泯其與衛包鉏鋙之迹、然書序「大甲」皆作「太甲」。而「伊陟相大戊」釋文曰「大音太」、獨幸而未刪。禹貢「大原」「大行」「大華」皆作「太」、而楊州「大湖音太湖」、獨幸而未刪。以其未刪者僅存、則可藉以證全經之字也。

 一つ目の例では少しはっきりしないところもありますが、二つ目の例でははっきり「經無太字、皆本作大、而音太」と言っています。つまり、段氏はそもそも、「現行の経書にある「太」の字は、もとは全て「大」だった」という考えのようです。(加えて、「泰」の方に通じる例もあると考えているかとは思いますが。)

 もっとも、これはあくまで『古文尚書撰異』執筆時の学説であって、『説文解字注』でも完全に継承しているのかはまた考えねばならないところ。加えて、これは『尚書』に限った話で、『易』には通用しないのではないか、という反対意見もありましょう。ただ、そうはいっても、『易』に関する段氏の専著は残っていませんから、このように周辺材料から補強を試みるという方法を取らざるを得ない、という裏事情はあります。

 では、『説文解字注』の方ではどうような説明になっているのか。「一」字のところには段氏の説明は何もないので、「太」字の欄を見てみましょう。『説文』の「泰」字に「夳、古文泰如此。」と出ていますが、以下はそこの段注。

説文解字注』十一篇上「夳、古文泰如此。」
 段注:按、當作夳、取滑之意也。从大聲。轉寫恐失其真矣。後世凡言「大」而以爲形容未盡、則作「太」。如「大宰」俗作「太宰」、「大子」俗作「太子」、「周大王」俗作「太王」、是也。謂「太」即『説文』「夳」字。「夳」即「泰」、則又用「泰」爲「太」。展轉貤繆、莫能諟正。

 あらゆる「太」に通用する議論なのかは分かりませんが、後世に「大」では「形容未盡」と考えた人によって「太」字が作られたのだ、という説が見えます。先に見た『古文尚書撰異』の例ほど強く断言はしていないかもしれませんが、一応同様の主旨とは言えそうです。
 ただ実際のところ、『説文解字注』一書の中では、例えば「大廟」「大子」「大原」といった語を「太」の方で表記している例も散見されます。(但し、この種の不一致は、これだけの大著であれば仕方ないものではないか、と『説文入門』では別の例について述べられています(p.173)。無論、誤刻の可能性もあります。また、「大原」の例では、『説文』の本文や経書関係の場合は「大」、現在の地名としては「太」が用いられているように思われるところもあります。十一篇上一「汾」の項を参照。この辺りはなにぶん膨大で調べ切れていないというのが正直なところです。)

 結局のところ、完全な結論を出す材料はまだ整っていないのですが、少なくとも「大と太とは字体の違いに過ぎないが、『易』の各版本から判断し単に古い方を採った」という『説文入門』の説明では、やや不足ではないか、言い換えれば、段氏の学問の特異な点を説明しきれていないのではないか、と思います。

 さて、合わせて少々補足を。『説文解字注』の前身に『説文解字讀』という著作があったことはよく知られています。阿辻哲治『漢字学 説文解字の世界』東海大学出版会、1985、新版2013)を参照。
 この『説文解字讀』と同時期に執筆されたのが、『古文尚書撰異』です。もともと『説文解字注』は段氏の学問の集大成ですから、これを読むに当たっては、『六書音均表』『詩経小学』『毛詩故訓伝定本小箋』『周礼漢読考』、そして『古文尚書撰異』といった段氏の著作を参照すべきことは周知の事柄で、これはもちろん『説文入門』でも注意されています。
 しかし、その中でも『説文解字讀』と同時期の執筆である『古文尚書撰異』は、とりわけ関係が深いのではないか。最近読んだ陳鴻森氏の論文「段玉裁《説文注》成書的另一側面 段氏學術的光與影」(中国藝術研究院『中国文化』二〇一五年第一期)に、『古文尚書撰異』と『説文解字讀』に共通する条が挙げられています。

 というわけで、背景事情、実際に共通する学説、そして本記事で取り上げたような見えにくい例、といった点から見てみると、『説文解字讀』を基礎として作られた『説文解字注』を読むに当たっては、『古文尚書撰異』は特に意識するべき著作ではないか…とかそんなことを考えたのでした。

(棋客)

頼惟勤『説文入門』を読む(一)

 『説文解字』並びに段玉裁『説文解字注』に関する、“高度に学術的な入門書”(語義矛盾にあらず)といえば、頼惟勤先生の監修にかかる『説文入門』(大修館書店、1983年)が有名です。参照→『説文入門』 | 学退筆談 

 本書の第三章「段注の実際」の第三節は「段注の会読(「一」)」と題され、頼先生を中心とする段注の読書会を擬似的に再現した様子が描かれています。ここで例に挙げられているのは、『説文』の冒頭、「一」の字を読み進めるところで、その高度な内容には圧倒されるものがあります。

 さて、最近、段玉裁『古文尚書撰異』をパラパラと眺めていたところ、『説文入門』との関わりでちょっと問題にしたい例が見つかったので、ちょっと皆様のご意見をお伺いしたいと思います。まず今回は『説文入門』の文章を読み進め、次回、問題提起を行うこととします。

 『説文解字注』の冒頭の原文を掲げておきます。

段玉裁『説文解字注』一篇上
 「一、惟初大極、道立於一、造分天地、化成萬物。」
 段注:漢書曰、元元本本、數始於一。

 このうち「大極」の部分について、『説文入門』で再現される読書会の様子を、ちょっと覗いてみましょう。なかなか面白い本だということが、分かって頂けるかと思います(p.171-172より、一部省略を交えて引用。下線、強調は引用者による。)

司会:まず以上について、説文のテキストによる文字の異同があれば指摘してください。
副講:説解の「大極」について、大徐本と小徐本とに相違があります。すなわち大徐本は「太始」で、小徐本は「太極」です。従って段氏は小徐に拠ったわけです。なお、「一」の説文は、この点のみ異同があり、あとはありません。
発難:ここはどうして「太始」では駄目で「太極」でなければならないのでしょうか。理由を挙げてください。
主講:理由と言われても困ります。もともと「太始」も「太極」も『周易』繫辭傳(上)の語です。すなわち「乾知大始」「易有大極」というように出て来ます。どちらが、より由緒ある語とも言えません。本当はどちらでもよいのではないでしょうか。
発問:この件は「始」と「極」との他に「大」と「太」との違いもからんでいるようですが……
主講:「大」と「太」とは字体の違いに過ぎません。いわゆる「大音泰」の場合で、どの道「タイ」(tai)です。「大小」の「大」(da) ではありません。
発問:『周易』の諸本では「大」「太」はどうなっていますか。
副講:一覧表を作りましたから次に掲げます。
主講:易についての異同の大略は阮元の『校勘記』でわかりますし、殊に足利本の場合は山井崑崙の『七經孟子考文』でさらによくわかるわけです。ただ、足利学校の「越刊八行本」については、影印本でつらつら見ましたところ、疏の基くテキストは「太始」「太極」とあって「太」ですが、それに附けられている経文は「大始」「大極」とあって「大」です。『考文』もそういうところまでは書いていないようです。
発問:そうするとここの易の宇体としては「太」と「大」とどちらが古いのでしょう。
主講唐石經・岳本・釋文所據など、易としては古い系統のものは「太」でなく「大」です。そうすると「大」がより古い形だと思います。段氏が「大」とするのもそういうことによるのでしょう。〔「大」「太」終り〕

 なお、途中に出てくる「一覧表」を見ると、以下のことが分かります。
 唐石經、岳本、釋文所據本、八行本經字は「大始・大極」に作り、八行本疏引は「太始・太極」に作り、通行本は「大始・太極」に作る。

 さて、まず前提知識ですが、『説文』という書物はその伝来に問題が多く、版本によって字句の異同が多い書物です(『説文入門』第一章を参照)。段玉裁は、その校訂作業と注釈作成の両方を行っているので、注釈を附すところだけでなく、『説文』の本文を定めるという作業においても、段氏の主張がにじみ出てきているものです。そしてしばしば、その過程は段注において言及されません。

 上のやり取りは、『説文』の代表的な版本では「太始」「太極」となっているところについて、段氏がなぜ「大極」の字句を選択したのか、何とか解き明かそうと試みているところです。
 なお、ここは「大」と「太」の相異と、「始」と「極」の相異の二種が交じっていてややこしいところですが、この記事で問題にしたいのは「大」と「太」の部分ですので、上ではその結論が述べられるところのみを引用しています。

 読書会の結論は、『周易』の各版本を調査したところ、古いものはいずれも「大」に作ることから、段氏は「大」を用いたのだろう、とするものです。ここで一応断っておくべきことは、『説文』の代表的な版本だけを調べるといずれも「太」となっているわけで、純粋に『説文』の校勘から考えれば、まずは「太」としておくのが普通、と考えられることです(「極」の方は実際の小徐本の字句に従っているわけで、また意味が異なります)。
 ただ、段玉裁という人は、何といえばよいのか分かりませんが、「そういうタイプ」の学者ではありません。自分の中で、理想的な形・正しい経文というものがはっきり固まっている場合であれば、多少武断に見えるところでも、どんどん字句を改めるタイプです。

 さて、今後の議題は、“「太」を「大」に改めた段氏の意図は、以上の説明でよいのか”という点にあります。次回ここを問題にして、少し議論してみます。
 細かな一例ではありますが、何と言っても大著『説文解字注』の冒頭であり、段氏が特に考えを練ったところであったはずです。『説文入門』でもこう述べられています。

 段氏のころの学問の水準では、説文の開巻第一の説解が「太始」である位のことは常識であったと思われます。それを破って「大極」としたところに、この大著の始めを飾る著者の意気込みを見るべきです。(p.173-174)

 少しでも「意気込み」を見るべく、頑張っていきましょう。次回に続きます。

(棋客)