「山の学校」での『論語集注』の講読クラスで読んだ、印象に残る部分を書いていきます。『論語』公冶長の一節より。
宰予晝寢。子曰:「朽木不可雕也,糞土之牆不可杇也,於予與何誅。」子曰:「始吾於人也,聽其言而信其行;今吾於人也,聽其言而觀其行。於予與改是。」
宰予が昼寝をしていた。孔子は言った。「朽ちた木に彫刻はできない。だめな土の垣根には上塗りすることができない。宰予に対しては叱責しようがない。」また孔子は言った。「前は私は人に対して、その言葉を聴いたらその行いを信用した。今は私は人に対して、その言葉を聴いたらその行いを観察する。宰予のことがあって改めたのだ。」
昼寝をして怠けていた宰予に対して、孔子が呆れ果てて叱責をするシーンです。昼寝ぐらい自由にさせてあげれば……という気もしますが、とにかく孔子は腹を立てたわけです。
以上が『論語』の原文で、これに対して南宋の朱子が注釈をつけた本が『論語集注』です。そこで朱子が引用している、南宋の胡寅という学者の説が以下です。
胡氏曰:「宰予不能以志帥氣,居然而倦。是宴安之氣勝,儆戒之志惰也。古之聖賢未嘗不以懈惰荒寧為懼,勤勵不息自強,此孔子所以深責宰予也。聽言觀行,聖人不待是而後能,亦非緣此而盡疑學者。特因此立教,以警群弟子,使謹於言而敏於行耳。」
胡寅は言った。「宰予は自分の意志によって気を統率することができず、平気でさぼっていた。これは安逸の気が勝って、慎み戒める意思が怠惰になってしまったのだ。古の聖者や賢人は、常に怠惰であることを恐れとし、努力を止めない。孔子が宰予を強く叱責した理由はここにある。★「言葉を聴いて行いを観察する」ということについては、聖人はこれがあって初めてできるわけではない(これがないとできないというわけではない)し、またこれによって学ぶ者を全員疑うというわけでもない。ただこの言葉によって教えを示し、弟子たちを警告し、言葉を謹んで行動を怠らないようにさせるものだ。」
前半は意味が理解しやすいのですが、後半(★以下)が分かりにくいですね。
後半は、『論語』原文での孔子の「その言葉を聴いてその行いを観察する」という言葉、つまり、弟子が何か言った時に、その言葉を本当に実行しているかどうか、その行動を観察して確かめる、という発言について解説しているところです。
「これがないとできない」というのが分かりにくいですが、「言葉を聴いて行いを観察しないと、弟子のことを判断できない」という意味で取ればよいでしょう。まとめて意訳すると、「孔子は、必ずしも、言葉を聴いて行いを観察しないと弟子のことを判断できない、というわけではない」となります。
『論語』の原文を読むと、孔子ははっきり「その言葉を聴いたらその行いを観察する」とあるわけですから、この胡寅の解釈は、なんだか変な留保をつけているように見えますね。
おそらくこの背後には、「聖人である孔子が、必ず行動を見なければ弟子のことを見抜けないなんて、おかしいのではないか」という発想があるのでしょう。最後に「この言葉によって教えを示し、弟子たちを警告し……」とあることからも、ここは孔子が弟子の教化のために方便として言っているのであって、孔子が常にそうであるわけではない、という解釈を補強しているようです。
私は、古典の注釈を読むとき、こういうちょっとした「深読み」を見つけるのが好きです。こうした「深読み」は、分かりやすく思想的な枠組みで説明できる場合には研究でよく取り上げられますが、そうでない場合は見過ごされがちです。しかし私は、むしろこういう微妙なこだわりが出ているところの方が気になってしまう性質です。なぜわざわざこんな説を唱えたのか、そして朱子がそれを採用したのか? 考えてみると面白そうです。
ちなみに、『論語集注』より以前の注釈である、南朝梁で作られた『論語義疏』では、「宰予が昼寝をしたのは、孔子の教えを引き出すために敢えてやったことだった」というまた違う種類の深読みの解釈が載せられています。時代によって、さまざまな工夫を凝らして読まれてきたのが『論語』という古典なのです。
(棋客)









