達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

「禜祭」について(1)

 以前棚上げにしておいた、「禜祭」について整理してみました。こういうことを調べる時にはどのようにするのか、参考までにご覧ください(あくまで現時点での私の方法ですが)。全四回の記事で、『説文解字注』『周禮正義』『求古録禮説』などを扱いました。

 まず、『説文解字』の段玉裁注で、字義の確認をしておきましょう。(「経学」の調べごとでは、まず段注を手掛かりにするのはなかなか有効です。)

説文解字』一篇 示部・禜

 禜、設緜蕝爲營、以禳風雨、雪霜、水旱、癘疫於日月星辰山川也。从示。从營省聲。一曰禜、衞使災不生。

〔段注〕『史記』『漢書』叔孫通傳皆云「爲緜蕞野外習之。」韋昭云「引繩爲緜、立表爲蕞、蕞卽蕝也。」詳艸部。凡環帀爲營。禜營曡韵。『左氏傳』「子産曰、山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。」許與鄭司農『周禮』注引皆先日月星辰。與今本不同也。

 よく分からなくても、一つ一つ典拠に当たることが大切です。段注に従って、『史記』『漢書』の叔孫通傳を見ておきます。(『左傳』の例は前の記事で取り上げたところですね。)

史記』叔孫通傳

 遂與所徵三十人西、及上左右為學者與其弟子百餘人為緜蕞野外。

〔集解〕徐廣曰「表位標準。音子外反。」駰案、如淳曰「置設緜索、為習肄處。蕞謂以茅翦樹地為纂位。春秋傳曰『置茅蕝』也」。

〔索隱〕徐音子外反。如淳云「翦茅樹地、為纂位尊卑之次」。蘇林音纂。韋昭云「引繩為緜、立表為蕞。音茲會反」。按、賈逵云「束茅以表位為蕝」。又『纂文』云「蕝、今之『纂』字。包愷音即悅反。又音纂」。

  次に、漢書

漢書』叔孫通傳

 遂與所徵三十人西、及上左右為學者與其弟子百餘人為緜蕞野外。

〔師古注〕應劭曰「立竹及茅索營之、習禮儀其中也。」如淳曰「謂以茅翦樹地為纂位尊卑之次也。春秋傳曰『置茅蕝』。」師古曰「蕞與蕝同、並音子悅反。如説是。」

 歴代の注釈家たちが色々と注を付けているということは、それなりに難読の箇所なのでしょうね。現代人が分からないのも当たり前です。

 賈逵、韋昭、徐廣、顔師古の解釈は恐らく共通していて、「叔孫通は、朝廷の儀式を制定した際、野外に縄を引いたり茅の束で表を立てたりして、各人の尊卑の位に従って位置を示した」ということか。應劭説は「竹や茅で取り囲んで、その中で弟子に礼儀を習わせた」ということ。如淳説は文献によって内容が微妙に違っているのでややこしいですね。下に示しておきました。

〔集解引〕置設緜索、為習肄處。蕞謂以茅翦樹地為纂位。春秋傳曰「置茅蕝」也。

〔師古注引〕謂以茅翦樹地為纂位尊卑之次也。春秋傳曰「置茅蕝」。

〔索隱引〕翦茅樹地、為纂位尊卑之次。

 『集解』が一番古く、如淳説の内容も充実していますが、「為纂位尊卑之次」の部分が異なっています。仮に合わせて読めば、「縄を設置して儀礼を習う場所を作り、茅束を地面に立てて尊卑の順次を示す」といった具合になり、先の二つの解釈を合わせたような感じになります。「纂位」は「位を継ぐ」の意と辞書にはありますが、ここではどういう意味なのでしょう。

 尚、辞書を調べてみると、「緜蕝」「緜蕞」「綿蕝」という熟語はここから派生し「儀式の典章を作る」「礼制を整備する」といった意味で後世使われるようです。

 

 一応、如淳注に出てきている「置茅蕝」の例も掲げておきます。

『國語』晉語八

 昔成王盟諸侯于岐陽、楚為荊蠻、置茅蕝、設望表、與鮮卑守燎、故不與盟。

〔韋昭注〕置、立也。蕝、謂束茅而立之、所以縮酒。望表、謂望祭山川、立木以為表、表其位也。鮮卑、東夷國。燎、庭燎也。

 また韋昭注が出てきてややこしいですが、一旦この辺りで切り上げておきます。

 

 『説文』の場合はあくまで「禜」という祭祀の説明です。ここで挙げられている叔孫通傳や『國語』は、儀礼整備や外交儀式の話なので文脈は異なっています。ただ、「設緜蕝爲營」の解釈は共通している、というのが段注の意図でしょう。

 段注によった『説文』の原文の試訳を掲げておきます。

 禜、設緜蕝爲營、以禳風雨、雪霜、水旱、癘疫於日月星辰山川也。

 「禜」とは、縄を引き茅束を立てて囲いを作り、風雨、雪霜、水害・旱害、疫病から免れるよう、日月、星辰、山川に祈祷することである。

 「縄を引き茅束を立てて囲いを作る」とは結局、祭祀の場所を作り、位の順次を示す印を立てる、ということになります。

 さて、ここから「禜」という祭祀の具体的な方法、意義、種類、時期、『春秋』に該当記事はあるか……といったことを細々と考え出すのが「経学」というものです。ここでは一旦「本当にそのような祭祀が存在したのかどうか」という歴史的事実の探求は棚に上げておいて、経学者たちの間で観念的にはどう理解されてきたのか(とはいえ、彼らにとってはそれが現実そのものであったのだと思いますが)、という方向から考えていきましょう。

 次回に続きます。

溝口雄三『中国の公と私』

 溝口雄三『中国の公と私』(研文出版、1995)を読みました。折角ですので、冒頭部分だけ紹介しておきます。

 この本は、中国(特に宋代以降)における「公」と「私」の概念について、その源流から近代に至る展開を描いたものです。特に、日本における「おおやけ」と「わたくし」の概念との対比を意識しながら書かれており、少し時代を感じるところはありますが、どなたでも興味深く読むことができるのではないでしょうか。

 まず中国の公私の原義だか、詳しくは次節で再述するとして、ここではとりあえず戦国末から後漢にかけての資料の範囲でみてみると、ム(=私)について『韓非子』は自環すなわち自ら囲むの意、『説文解字』では姦邪の意としている。これに対する公は、(一)群として『韓非子』のいわゆる「ムに背く」すなわち囲いこみを開くの意であって、ここから衆人と共同するの共、衆人ともに通ずるの通、さらに私=自環の反義として説文解字では「公は平分なり」としている。一方、(二)群として、これは 『詩経』の用例からの類推だが、共から衆人の共同作業場・祭事場などを示す公宮・公堂、およびそれを支配する族長を公と称し、さらに統一国家成立後は君主や官府など支配機構にまつわる概念になった。(p.3-4)

 氏は、まず中国における「私」「公」の原義について、このように整理しています。

・「私」:「自ら囲む」の意、「姦邪」の意
・「公」:(一)「囲いこみを開く」の意、(二)公宮・公堂、のちに君主や官府など支配機構にまつわる概念

 では、日本の「公」概念は?というのが次の話題です。

 一方、日本の公すなわちおおやけは大家・大宅で標記されるように大きい建物およびその所在地で、 オホヤケの枕詞が物多(ものさは)にとあることから古代的共同体における収穫物や貢納物の格納場所、さらにそれを支配する族長の祭・政上の支配機能をさす語であったと考えられる。律令国家の成立期に公という漢字が、天皇制支配機構に直接的にかかわるミヤケよりは、なお当時すでに古語化しつつあったオホヤケ概念と結びつけられたのは、オホヤケにまつわる古代共同体的な共のイメージが公の字の訓としてよりふさわしいと思われたからであろう。衆人とかかわる世間・表むきのことから、官・朝廷の諸事物に公の字があてられたのは、このおおやけの原義に由来するのであろうが、ただしここで注意されねばならないのは、オホヤケとして受容された公は、前述の(二)群の方にかたよっていて、(一)群の方はほとんど捨象されていたということである。つまり、おおやけの原義にはもともと(一)群の概念とくに通とか平分の部分は含まれていなかった。もともとおおやけは一応は共(軍事・祭事・農事などの共同性)を含みつつもなおその共を包摂する支配機能の方に概念の比重がかかっており、大和朝廷の政治イデオロギー上の要請からもその傾向はむしろ増幅された(平安期には公(おおやけ)は天皇個人を指す語にすらなった)。かつ当時かれらが導入した漢唐の文献は、先秦のそれに比べて、公については(二)群の方が優位であった、などの事情がそこには介在した。

 一見小さな差異だが、中国では(一)群の方は漢唐の間にも生きつづけ、さらに宋代に入ると天理・人欲概念と結びついてより深化し、特に近代に至ると、孫文の公理思想に展開するなど、ほとんど(一)群のみの、すなわち国家や政府を公とする日本の公とはまるで違う言葉のように差異が決定的となる。 ところがその差異が意外と明確にされないままきているので、明清以降の中国の公概念の展開をみるにあたって、そのことをあらかじめ念頭におく必要がある。(p. 4-5)

 ここで、先に挙げた二つの「公」概念のうち、中国では(一)が、日本では(二)が優位であったことが示されています。なお、本書の主眼はあくまで宋代以降の中国ですが、田原嗣郎氏の「日本の公・私」が合わせて収められており、日本における公・私の専論も読むことができます。

 中国における(一)の「公」の具体例を見ておきましょう。

 例えば秦の呂不韋が、「昔、先聖王が天下を治めるには、必ず公を先にした。公ならば天下は平らかであり、平は公より得られる。…天下を得る者は…公であることにより、天下を失するのは必ず偏であることによる。…天下は一人の天下ではなく、天下の天下である。…甘露時雨は一物に私(かたよ)らず、万民の主は一人に阿(かたよ)らない」(『呂氏春秋』貴公*1)と述べるときの公は偏私に対する公平であり、私の自環・姦邪に対する公の通・平分の義がここに生きているのがみられる。また漢代に編纂された『礼記』礼運篇の「大道が行われているとき、天下は公である(天下為公)」云々の有名な「大同」の個所は、 人々が自分の親族だけを大事にするのではなく、よるべなき老人・孤児や廢疾者を相互扶助し、あるいは余った財物や労働力を出し惜しみせず、要するに人々が「必ずしも己れのみに蔵(とりこ)まず」「必ずしも己れのみの為めにしない」、そういう共同互恵の社会を天下公の大同世界としてえがきだしているかにみえ*2、そのかぎりでこの公は平分の義を強くうちだしたものであるといえる。(p.5)

  そして氏は、両者の相違として「倫理性の有無」を取り上げます。

 しかし、にもかかわらず皇帝が支配者たりうるのは、タテマエであれ、共なり公平が期待されているからであり、それがなければ皇帝は単に天下をひとりじめする「独夫」「民賊」でしかないという 易姓革命の思想も背景にちゃんと流れているのであり、そのかぎりにおいては皇帝は一群がもつ公の倫理性から自由でありえない。これは日本の天皇が無条件かつ無媒介におおやけそのものであるのとは、やはり非常に違う。

 この倫理性の有無というのが、両者の差異をきわだたせる特徴の一つで、中国の公私が、特に(一)群については、公正に対する偏邪という正・不正の倫理性をもつのに対し、おおやけ対わたくしの方は それ自体としては、あらわに対するしのび、おもてむきに対するうちむき、官事・官人に対する私事・私人、あるいは近代に入って国家・社会・全体に対する個人・個というように、何ら倫理性をもっていない。公私のからみや対立はあっても、往々それは義理人情に擬せられうるもので、決して善・悪や正・不正レベルの対立ではない。強いて倫理性があるとすれば、おおやけのためにすることが支配の側からあるいは全体の意思として規範づけられる場合においてであり、その場合その支配者なり全体の意志の善・悪、止・不正は全く問題にならない。したがってかりにそれを倫理とよぶとしてもそれは所属する集団内部を紐帯するだけの閉鎖的なもので、むしろ対外的には当該集団の 私に従属することさえあり、公平なら公平の原理がもつ内外貫通の均一性・普遍性はみあたらない。

 当否はともかく、論理が明晰でとても読みやすい本でした。

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 ちなみに、以前「論文読書会」で溝口氏の論文を題材に取ったことがあります。合わせてご参照ください。

 

chutetsu.hateblo.jp

chutetsu.hateblo.jp 

(棋客)

 

*1:筆者注:原文は以下。「昔先聖王之治天下也、必先公、公則天下平矣。平得於公。嘗試觀於上志、有得天下者眾矣、其得之以公、其失之必以偏。凡主之立也、生於公。故鴻範曰「無偏無黨、王道蕩蕩;無偏無頗、遵王之義。無或作好、遵王之道。無或作惡、遵王之路」。天下非一人之天下也、天下之天下也。陰陽之和、不長一類。甘露時雨、不私一物。萬民之主、不阿一人。」

*2:筆者注:原文は以下。「大道之行也、天下為公。選賢與能、講信修睦、故人不獨親其親、不獨子其子、使老有所終、壯有所用、幼有所長、矜寡孤獨廢疾者、皆有所養。男有分、女有歸。貨惡其棄於地也、不必藏於己。力惡其不出於身也、不必為己。是故謀閉而不興、盜竊亂賊而不作、故外戸而不閉、是謂大同。」

とある最近の本について

 最近発売された山口謠司『唐代通行『尚書』の研究』が大学の図書館に入っていました。

 個人的に興味のあった、第二章・第五節の「『群書治要』所引『尚書』攷」のうち、舜典について調査した部分から、「p.122、p.123」の六つの条だけを見てみました。ここは資料集になっている部分で(というより本書のほとんどが資料集なのですが)、『群書治要』所引の『尚書』と、現行本『尚書』の字句の異同がある箇所を比較して並べている部分です。

 念のため言っておきますが、自分の興味からこの部分を最初に読んだので細かくチェックしたというだけで、特にミスが多いところを取り立てて選んだわけではありません。

 ここは、見出し字が「」の中に二つ並べられ、場合によっては山口氏がコメントを附す、という形式になっています。最初の見出し字は「汲古書院影印の金沢文庫旧蔵鎌倉写本」の『群書治要』に引かれる『尚書』かと思われます(底本が何なのかはっきり書かれていないのですが)。次に書かれているのが「北京大学本」(十三経注疏整理本)です。

 なお、写本の書体は入力できない字(■で代用)が多くブログに載せにくいので、ここでは触れないことにしました。よって字句に関してコメントしているところは、全て「北京大学本」の条に関するものであることをご承知おきください。


 まず、最初の条。

 「■舜■■堯聞之聡明(側側陋微微賎)將使嗣位歴試諸難(歴試之以難事)」
 「虞舜側微(爲庶人故微賎)堯聞之聡明(側側陋微微賎)將使嗣位歴試諸難(嗣継繼也試以治民之難事)」(北京大学本、五九頁)

 舜典のこの部分は、偽孔伝である。今文『尚書』にはこの文章はなく堯典からすぐに「慎徽五典五典克從」に続く。はたして、今、「側側陋微微賎」は孔伝には見当たらない。『經典釋文』(敦煌本「舜典」)は「王氏注」として、この本文の「之(■)」「使(■)」「嗣(■)」「諸(■)」「作舜典」と挙ぐ。あるいは、『群書治要』所引の「舜典」は、『經典釋文』と同じ王肅注本を使っていたものかと思われる。『一切經音義』に「王注微賎也」とあり。

  北京大学本の条、「嗣継繼也」→「嗣繼也」、「賎」→「賤」、「堯聞之聡明(側側陋微微賎)」→「堯聞之聦明」(伝は削除すべき)、「歴」→「歷」。

 ただの異体字タイプミスですが、本書は各本における『尚書』の字句の揺れを考察するものであり、普通は異体字として処置し気に留めない異同でも、非常に細かく掲出してあります。であれば、この辺りにも特に気を遣うべきでしょう。*1

 次に、山口氏の解説部分。

 ①「舜典のこの部分は、偽孔伝である。」という表現そのものに違和感があります。

 ②今文『尚書』にはない「舜典」の冒頭部分は、上の条の直後の「曰若稽古帝舜、曰重華協于帝、濬哲文明溫恭允塞、玄德升聞乃命以位。」の二十八字のこと。ここで挙げられる「虞舜側微、堯聞之聡明、將使嗣位歴試諸難、作舜典。」は、当然ですが、「書序」の文章です。
 また、この二十八字部分は、齊の姚方興本によるものですから、「今文『尚書』にはこの文章はなく」という表現にも若干の違和感を覚えます。

 ③「「側側陋微微賎」は孔伝には見当たらない。」は事実としては正しいのですが、上の整理ではあることになってしまっています。

 補足:冒頭二十八字は齊の姚方興によっており王粛より後代のものですから、仮に上に述べた問題点を取っ払って読んだとしても、議論になりません。ただ、上の部分は正しくは「書序」ですから、ここに王粛注が附される可能性自体は有るでしょう。

 さて、「『群書治要』所引の「舜典」は、『經典釋文』と同じ王肅注本を使っていたのかもしれない」という指摘は興味深いところです(実際、『群書治要』は姚本の二十八字を引いていません)。最近、個人的に姚方興本受容の状況を少し調べているのですが、『群書治要』の例も調べてみようか、と思いました。


 その一つ次の条。

 「慎徽五典五典克從(五典五常之教也謂父義母慈兄■弟恭子孝舜舉八元使布五教于四方五教能從无違命也)」
 「慎徽五典五典克從(徽美也五典五常之教也謂父義母慈兄友弟恭子孝舜慎美篤行斯道舉八元使布之於四方五教能從無違命)」(北京大学本、六一頁)

 北京大学本、「五典五常之教也謂父義母慈・・・」→「五典五常之教父義母慈・・・」


 その一つ次の条。

 「納于百揆百揆時敘(揆度舜舉八凱以度百事百事時敘也)」
 「注揆度也度百事揔百官納舜於此官舜舉八凱使揆度百事百事時敘無廢事業」(北京大学本、六一頁)

 急に「注揆度也・・・」と出てきて、北京大学本の項目の立て方がおかしくなっています。前後の体例に合わせるなら、「納于百揆百揆時敘(揆度也度百事揔百官納舜於此官舜舉八凱使揆度百事百事時敘無廢事業)」とするべきでしょうか。


 その一つ次の条。

 「賔于四門四門穆穆(賓迎也四門宮四門也舜流四凶族。諸侯群臣來朝者舜賓迎之皆有美徳无凶人也)」
 「賔于四門四門穆穆(舜流四凶族四方諸侯來朝者舜賓迎之皆有美徳无凶人)」(北京大学本、六一頁)

 北京大学本、「賔」→「賓」、「徳」→「德」、「无」→「無」

 ここの偽孔傳、北京大学本は「穆穆美也四門四方之門舜流四凶族四方諸侯來朝者舜賓迎之皆有美德無凶人」で、前半が抜けています。

 ここだけ「。」があるのも、体例に合っていません。


その一つ次の条。

 「納于納于大■烈風雷雨弗迷(納舜於尊顕之官使大錄万機之政於是陰陽清和烈風雷雨各以期應不有迷錯■伏明舜之行合於天心也)」(欄下に「■」を「籀文愆字」と)
 「納于納于大麓烈風雷雨弗迷(麓錄也納舜使大錄萬機之政陰陽和風雨時各以其節不有迷錯愆伏明舜之𤤯合於天)」(北京大学本、六一頁)

 『北堂書鈔』(巻五十九)に王肅注として、「堯納舜於尊顕之官使天下大錄万機之政」とあり。

 北京大学本「納于納于大麓」→「納于大麓」、「𤤯」→「德」

 王粛注の佚文を『北堂書鈔』からのみ挙げていますが、他、『釋文』に「麓、錄也。」、『尚書正義』に「堯得舜任之事無不統、自慎徽五典以下是也。」があります。(この佚文は『藝文類聚』『太平御覽』にも見えます。)


 その一つ次の条。

 「正月上日受終于文祖(略)」
 「正月上日受終于文祖(上日朔日也終謂堯終帝位之事文祖者堯文𤤯之祖廟)」(北京大学本、六四頁)

 同じく、「𤤯」→「德」。

 なお、『釋文』に「王云、文祖、廟名。」とあります。また、『尚書正義』に「先儒王肅等以為惟殷周改正、易民視聽、自夏已上、皆以建寅為正、此篇二文不同、史異辭耳。」とあるのも参考までに載せておいても良いかもしれません。

 

 その一つ次の条。

 「五載一巡守羣后四朝■奏以言明試以功車服以庸(略)」
 「五載一巡守羣后四朝(略)敷奏以言明試以功車服以庸(敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言)」(北京大学本、七二頁)

 北京大学本「敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言」→「敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言明試其言以要其功功成則賜車服以表顯其能用」

 なお、「治禮之言」を、北京大学本は阮元校勘記に従って「治理之言」に改めています。

 また、コメントに「『經典釋文』(北京大学本)は、「四朝、馬、王、皆云・・・」」とありますが、北京大学本の『經典釋文』とは、上までで使ってきた北京大学本の附釋音のことでしょうかね。

 

 他にも書きたいことは色々ある(資料集の他の部分、序論、はじめに、おわりに、などなど…)のですが、ここまでにしておきます。この本は大学の図書館に相当入っているようですので(現時点で22館)、注意喚起のために記事にしておきました。

*1:なぜ「北京大学本」と比べるのか、というのはよく分かりませんが、本書全体を通してそうなっています。他の部分では、「こうした部分を参照しても、越刊八行本は北京大学本とほぼ一致し、従って経注疏合刻の祖である越刊八行本は、比較的本文に誤刻の少ない本であったということが出来るであろう。」(p.80)といった表現もあるほどです。ただ、本書を読んでいると、もはやこの点に突っ込みを入れる気さえ失せ、それならそれでせめて正確にやってくれ、という気持ちになってきます。

齋木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』について(2)

 前回紹介した鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』は現存しない佚書であり、様々な輯佚書が作られています。

 仮に『増訂四庫簡明目録標注』によって挙げておくと、漢魏叢書本、藝海珠塵本、問經堂叢書本、范述祖本、孔廣森『通德遺書所見録』本、袁鈞『鄭氏佚書』本といったものがあるようです。

 前回紹介した、斎木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』(汲古書院、2018)では、鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』について、

 叢書集成初編所収の問經堂叢書本、王復輯『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』を底本として使用する。ただし、この本には誤字が比較的多く、漢魏遺書鈔本の『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廢疾』によって字を改めた所がある。(p.238)

 と書かれています。

 

 ただ、古典研究において、原典を引用する際、その情報源にきちんと当たるのはまず基本と言うべき態度でしょう。今回の場合であれば、輯佚書が集めてきた材料の拠り所を調べる必要があるわけです。「輯佚書を底本にして元の資料と校勘」ならまだしも、輯佚書と輯佚書を校勘するというのは、不思議です。(実際、字の異同は色々と見つかりました。*1

 輯佚書には、その輯佚者による編集が加わっているのが常です。例えば、ある一つの佚文に対して数ヶ所の引用例が残っている場合、その両者を繋ぎ合わせて一つの文章に整理してしまうケースは、その代表的なものでしょうか。

 もちろん、その情報源を見ることが叶わない場合もあり、それなら仕方がないのですが、鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の輯佚元は大体が普通の注疏です。

 

 さて、そうはいっても、まずざっと全体を確認する場合や、その佚書の内容を一通り調べたい場合には、当然ながら輯佚書は非常に大きな武器になります。というわけで、たくさんの種類の輯佚書がある場合に、そのうちのどれが優れているかを確認しておくのも、必要な手続きということになります。

 そして調べてみると、ただの輯佚書ではなく、清人によって議論が加えられより便利になった本が見つかることもよくあります。今回の場合、皮錫瑞『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』がそれに当たります。(もちろん場合に拠りますが、単純に新しい輯佚本ほど整理が行き届いている、とも言えます。)

 

 ちなみに、自序にはこんなことが書いてありました。

 『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』自序

 三書既佚、輯本以袁鈞《鄭氏佚書》為詳。惟袁亦有疏失、以孔疏為鄭義、且以孔引蘇寬說為鄭君自引、尤謬誤之顯然者。

 皮錫瑞に拠れば、皮氏以前なら袁鈞『鄭氏佚書』が最も良いようです。現在なら、やはり皮錫瑞本が最も詳細かと思います。

 皮錫瑞はここで、袁鈞本の輯佚のおかしな部分も指摘しています。また今度確認しておきたいと思います。

 

 今回のところはとりあえず、前回紹介した『左傳』昭公七年の条について、『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』を見ておきましょう。

『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』箴膏肓疏證

 七年傳、子產曰「鬼有所歸、乃不為厲。吾為之歸也。」

 《膏育》孔子不語「怪力亂神」。以鬼神為政、必惑衆、故不言也。今《左氏》以此令後世信其然、廢仁義而祈福於鬼神、此大亂之道也。子產雖立良止以託繼絶、此以鬼賞罰、要不免於惑衆、豈當述之以示季末。

 箴。伯有、惡人也、其死為厲鬼。厲者、陰陽之氣相乘不和之名、《尚書五行傳》「六厲」是也。人死、體魄則降、魂氣在上、有尚德者、附和氣而興利。孟夏之月「令雩祀百辟卿士有益於民者」、由此也。為厲者、因害氣而施災、 故謂之厲鬼。《月令》「民多厲疾」、《五行傳》有「禦六厲」之禮。《禮》「天子立七祀、有大厲。諸侯立五祀、有國厲。」欲以安鬼神、弭其害也。子產立良止、使祀伯有以弭害、乃《禮》與《洪範》之事也。「子所不語、怪力亂神」、謂虛陳靈象、於今無驗也。伯有為厲鬼、著明若此、而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故並立公孫泄、云「從政有所反之、以取媚也。」孔子曰「民可使由之、不可使知之。」子產達於此也。

 疏證曰劉逢禄評曰「如良霄宜繼、子產宜早立良止而黜駟帶、公孫段、以弭厲於未然。如良霄宜誅、則奠其游魂、《禮》固有族厲之事矣。左氏好言怪力亂神之事、非聖人之徒也。」錫瑞案《左傳集解》曰「民不可使知之、故治政或當反道、以求媚於民。」正義曰「反之、謂反正道也。媚、愛也。從其政事治國家者、有所反於正道、以取民愛也。反正道者、子孔誅絶、於道理不合立公孫泄、今既立良止、恐民以鬼神為惑、故反違正道、兼立公孫泄、以取媚於民、令民不惑也。段與帶之卒、自當命盡而終耳、未必良霄所能殺也。但良霄為厲、因此恐民、民心不安、義須止遏、故立祀止厲、所以安下民也。」引何休《膏肓》云云。據杜孔申《左》、與鄭《箴》意合、蓋即本於鄭《箴》。《左傳》曰「鄭人立子良、子良辭、乃立襄公。襄公將去穆氏、而舍子良。子良不可、乃舍之、皆為大夫。」傳又曰「子良、鄭之良也。」案、子良有讓國之美、七穆並列卿位、皆由子良。伯有、子良之孫、雖有酒失、亦無大罪。子晳以私怨、專伐伯有。諸大夫皆祖子晳、不念子良之功、而使其後先亡。此極不平之事。惟子產能持公義、哭歛伯有、乃不明分功罪、為之立後、必使伯有為厲而後立之、固無辭於「以鬼賞罰」之譏矣。《五行傳》作「六沴」、鄭《箴》引云「六厲」、則 「厲」「沴」古通用、鄭君所見《五行傳》當有作「六厲」者。

 ちなみに「謂虛陳靈象、於今無驗也。」の句点は、十三経注疏整理本の句点も、皮錫瑞全集の句点も同じくこのように作っています。やはりこれが正しいと思います。

 鄭玄説を理解する上では、太字にした『正義』の解説が最も分かりやすいでしょうか。結論としては、「固無辭於「以鬼賞罰」之譏矣。」ということで、何休の批判を退けています。

 

 さて、少し調べてみたところ、関連する論文や書評がありましたので紹介しておきます。一応、どちらも目を通してみました。

田中麻紗巳「鄭玄「發墨守」等三篇の特色」(『日本中国学会報』第三十集、1978)

・井ノ口哲也(書評)齋木哲郎著『後漢儒学と『春秋』』(『日本秦漢史研究』第19号、2018)

 

(棋客)

*1:①p.229、僖公三十年の条、「經近立言」→「經近上言」
②p.239、注11、多くの輯佚書では儀礼疏に見える同条の佚文を大幅に付け足している。

齋木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』について(1)

 最近、斎木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』(汲古書院、2018)の第六章「鄭玄と何休の『春秋』論争」を読んでいたところ、色々と気になる記述にぶつかりました。そのうちの一部をご紹介します。鄭玄の文を読むのは非常に難しく、あまり自信はないのですが…。

 

 後漢の頃、『公羊傳』に注釈を附した何休は、『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廢疾』の三書を著し、『春秋』三傳のうち『公羊傳』の優れている点、他の二伝の批判すべき点を指摘しました。

 これに対して反論したのが鄭玄の『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』です。鄭玄は『春秋』の注釈を残さなかったとされており、この三書は彼の春秋学を知る上で非常に重要な書ということになります。

 

 今日取り上げるのは、『鍼膏肓』の昭公七年傳の条です。まずは、『左傳』本文を見ておきましょう。

『左傳』昭公七年

〔傳〕鄭人相驚以伯有、曰「伯有至矣。」則皆走、不知所往。

〔杜注〕襄三十年、鄭人殺伯有。言其鬼至。

 

〔傳〕子產立公孫洩及良止以撫之、乃止。子大叔問其故。子產曰「鬼有所歸、乃不為厲、吾為之歸也。」大叔曰「公孫洩何為。」子產曰「説也、為身無義而圖説。從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」

〔杜注〕伯有無義、以妖鬼故立之。恐惑民、并立洩、使若自以大義存誅絕之後者、以解説民心。

 鄭人がかつて殺害した伯有の鬼(幽霊)を恐れていた時に、子産が公孫洩と良止の宗廟を立てたところ、霊の祟りが止んだという話。これに対し、何休は以下のように論難しています。

 何休『膏肓』難此言「孔子不語怪力亂神、以鬼神為政必惑眾故不言也。今左氏以此令後世信其然、廢仁義而祈福於鬼神、此大亂之道也。子產雖立良止以託繼絕、此以鬼賞罰、要不免於惑眾、豈當述之以示季末。」

 「子不語怪力亂神」とは、『論語』述而篇の有名な言葉。孔子は「怪力亂神」を語らないと宣言しているにもかかわらず、ここで子産が鬼神の存在を持ち出して政治を行っているのは、民を惑わせるものではないのか、というのが何休の指摘です。

 

 これに対する鄭玄の反論はどういうものなのか?というのが今日のテーマです。まず、齋木氏の読みを見ておきましょう。

(鄭玄『鍼膏肓』の齋木氏の句読:番号は筆者が附す)

……子產立良止使祀伯有以弭害。……①子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象。于今無騐也。伯有為厲鬼、著明若此。而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故并立公孫洩云、從政有所反之以取媚也。孔子曰、民可使由之、不可使知之。②子產達於此也。(p.234)

 

(齋木氏の訓読:番号は筆者が附す)

……子產良止を立てて伯有を祀り以て害を弭めしむ。……①子の語らざる所の怪・力・亂・神は、靈象を虛陳するを謂ふ。今に于いて騐無し。伯有厲鬼と為り、著明此くの若し。而して何ぞ語らざらんや。子產固より衆愚將に惑はされんとするが為の故に、并せて公孫洩を立てて云ふ、政に從ふには之に反はんして以て媚を取る所有るなり。孔子曰はく、民は之に由らしむ可し、之を知らしむ可からずと。②子產此に達するなり。(p.234)

 そして齋木氏は、以下のように解説しています。(番号は筆者が附す)

 のごとく、『左氏』 説を辨護する。孔子が怪力亂神を語らなかったというのは、全く語らなかったということではなく、「靈象を虚陳した」のであるといい、孔子も本來は鬼神に對する關心を持ったことを想定する。その上で伯有の靈に苦しめられる民衆を救うために、子產は伯有の子孫良止を後嗣に立てて伯有の靈を祀らせ、併せて公孫洩も子孔の後嗣に立てて子孔の霊を祀らせる措置をとった。その際、子產が「政治に従事すれば、道に反して民に媚びをとることも免れ得ない」と語っているのは、『論語』泰伯篇に「子曰はく、民は之を由らしむ可し、之を知らしむ可からず」と見えている孔子を地でいくもので、②子の鬼神崇拝は「靈象を虛陳し」て牧民の意欲を滾らせた孔子の聖域に近づいたものだ、というのである。③怪力亂神を語らなかった孔子は、鄭玄によって、鬼神にも造詣を有した聖人に改造された譯である。(p.234)

 「不語怪力亂神」といえば、儒家の現実主義を体現する言葉で、思想史の文脈で非常によく用いられます。こういった思想史的発想が先に頭にあると、「“不語怪力亂神”の擁護者=何休」vs「それに反対し怪力亂神を認める鄭玄」という構図で読もうとするのかもしれません。

 

 本当にそう読めるのかどうか、原文を丁寧に見ていきましょう。

 ①の部分。上の引用の冒頭、「子所不語怪力亂神謂虛陳靈象于今無騐也」は、「A、謂B也。」(Aとは、Bということである)という基本の説明文の形で見るのが自然でしょう。つまり、「子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象、于今無騐也。」で一文です。

 ということは、「孔子が語らない“怪力亂神”」とは、「無意味に霊の現象を述べて(虛陳靈象)、現実に何の効果もない(于今無騐)こと」について言っている、という意味合いになります。(もしくは、「無意味に霊の現象を述べるのは、現実には効果がないということ」と主・客で訳した方が良いかもしれません。)

 つまり、鄭玄に拠れば、「怪力亂神を語らない」というのは、「いたずらに鬼神や霊について語らない」ということを指しているわけです。(逆に言えば、現実社会に効果のある場合に、意図するところがあって「怪力亂神」を持ち出すのであれば構わない、ということになります。)

 というより、もともとここの子産の言葉である「説也、為身無義而圖説。從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」に、そういったニュアンスが含まれているのかもしれません。この鬼神の話は、あくまで「説」であり「媚」である、と言っている訳ですから。

 

 よって、斎木氏の、①「孔子が怪力亂神を語らなかったというのは、全く語らなかったということではなく、「靈象を虚陳した」のであるといい」という説明では、鄭玄は孔子が「靈象を虚陳した」と考えたということになり、全く逆の意味になっています。
 斎木氏は「全く語らなかったということではなく」という原文にはない言葉を補い、更に後ろの「于今無騐」を無視することで意味の通る説明を作り上げていますが、原文に忠実な理解ではないように思われます。

 

 ②の部分。「子產の鬼神崇拝は「靈象を虛陳し」て牧民の意欲を滾らせた孔子の聖域に近づいたものだ」というところですが、原文に「孔子曰“民可使由之、不可使知之”。子產達於此也。」と続いているのを素直に読むべきでしょう。つまり、論語』の「民可使由之、不可使知之」の境地に、子産が達している、ということです。

 『論語』泰伯篇「民可使由之、不可使知之」とは、これまた議論の的になっているところで、解釈も色々とあります。この文脈で持ち出したということは、「民は、(政治に)従わせることはできるが、(その本当のところを)知らせることはできない」といった解釈を取っているのだと思います。

 つまり、鄭玄にとって、子産は「鬼神の話を使って民を導き従わせることはできるが、その本心・意図を知らせることはできない」ということをよく分かっている、と評価しているわけです。

 

 と言いつつ筆者もあまり自信は無いのですが、批判だけでは終われないので、一応句読と試訳を示しておきます。

 子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象、于今無騐也。伯有為厲鬼、著明若此、而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故并立公孫洩、云「從政有所反之以取媚也。」孔子曰「民可使由之、不可使知之」、子產達於此也。

 孔子が語らない「怪力亂神」とは、無意味に霊の現象を述べ、現実に何の効果もないものを言っているのだ。伯有が怨霊となったのはこのように明らかであるのに、語らないということがあるだろうか。子産は、もともと愚民が惑いそうになっていたので、合わせて公孫洩を宗廟に立て、「政治を行う際には道義に反して媚びを採らねばならないことがある」と言ったのだ。孔子は「民に対しては、(政治に)従わせることはできるが、(その本当のところを)知らせることはできない」と述べるが、子産はこの境地に達している。

 結局、鄭玄は「不言怪力亂神」の適用範囲を限定し、場合に拠っては「可」とした、ということにはなると思います。その点では、結局斎木氏の結論に近づくところはあります。

 ただ、ここは③「怪力亂神を語らなかった孔子は、鄭玄によって、鬼神にも造詣を有した聖人に改造された」というところは問題のテーマではなく、子産の言は『論語』「民可使由之、不可使知之」に合っているもので正当性がある、というところに鄭玄説の力点があるわけで、ちょっと引っ張り込みすぎという感じがしますが、如何でしょうか。

 

 内容面に関する疑問は取りあえずここまでにしておきます。

 ただ実は、斎木氏の引く『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の底本に関して、もう一つ疑問が残っています。これに関連して、『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の輯本にはどのようなものがあるのかというのを少し調べてみました。

 また次回、皮錫瑞の議論と合わせてご紹介します。