達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

《我在未来等你》に登場する懐メロ

 最近、中国語の勉強を兼ねて《我在未来等你》というドラマを観ていました。

我在未来等你(2019年薛凌执导的电视剧)_百度百科

 

 あらすじは、自分の人生に後悔を抱えた37歳の大学教員(刘大志)が、20年前の世界にタイムスリップし、自分の未来をより良いものに変えるために奮闘する、という話。こう書くとよくあるタイムスリップものですが、20年前の世界に戻った刘大志(37歳、郝回归)が、刘大志(17歳)の高校のクラスの担任になって、17歳の自分を成長させようともがく(そして同時に自分が成長してゆく)、という展開がよくできていて、とても面白かったです。

 また、タイムスリップものといえば、いわゆる「パラドックス」などお約束の展開が色々とありますが、本作はそうした要素を極力排除して、分かりやすいエンタメ作品に仕立てられているのも興味深い点です。

 

 さて、本作は2019年の作品ですが、舞台は1998年の中国であり、当時の流行の「懐メロ」がたくさん出てきます。日本で育った私にとっては、初めて聞く歌ばかりで懐かしくもなんともないはずなのですが、不思議とレトロなメロディーに懐かしさを感じるものです。

 というわけで今回は、《我在未来等你》に使われている印象的な懐メロをいくつか紹介します。私がメモを取り始めたのがドラマの後半を過ぎてからなので、紹介している音楽も、ドラマの後半で出てくるものばかりです。

①呂方《朋友別哭》

 1995年発売。ドラマ内では、刘大志が親友の退学に際して号泣しながら歌うシーンや、王微笑のお父さんが窮地を救われるシーンで使われています。どちらもとても印象的な場面です。

 泣ける曲ですね。

②徐怀钰《我是女生》

 1998年3月発売。陈小武がラジオで当選してチケットを手に入れ、また別で王微笑もチケットを手に入れ、友達みんなで徐怀钰のライブを見に行くシーンで、この歌を歌っています。「懐かしのアイドル」という登場の仕方で、郝回归も当時を懐かしがりながらライブを観に行っています。

③小虎队《爱》

 1991年発売。刘大志たちがダンスを踊るシーンで使われている音楽。その後もこの曲は何回も流れていますね。

④张信哲《爱如潮水》

 1993年発売。王微笑が刘大志に誕生日プレゼントにラジオをあげたときに、ラジオの電源をつけるといきなりこの曲が流れて、気まずい空気になるシーン。微妙な関係である刘大志の両親もこの曲を聴いて思うところがあったようです。

 このシーンでは、他にも色々な歌が流れていますね。↓

⑤吴佩慈《闪著泪光的决定》

 岡本真夜「Tomorrow」のカバー曲。1998年12月発売で、作中ではクリスマス明けの頃に流れてくるので、まさにぴったりです。刘大志がクラスで作文を読んで、すっきりした気分でクラスから出ていくときに流れている曲です。

 

 観たという方、ぜひコメントください!

最近読んだ本の紹介

小浜正子、下倉渉、佐々木愛など『中国ジェンダー史研究入門』京都大学学術出版会、2018

 中国の長い歴史とともに変化したジェンダー秩序の変遷過程をダイナミックに描く。社会の父系化、ジェンダー規範の強化、そして社会主義をへて改革開放の大変動まで。家族、労働、ナショナリズム、身体、LGBTなど今日的な研究視点を網羅し、中国ジェンダー史研究の全体像を初めて伝える。初学者から隣接分野まで必携の研究入門。(https://amzn.to/2Y1vj59

 「研究入門」とある通り、『アジア歴史研究入門』のように重要な研究成果を紹介する形式を取っていますが、そのままの読み物としても非常に読みやすく、ジェンダー史研究の過去の成果と現在の課題が分かりやすく書かれています。

 中国全体の歴史を一冊にまとめているので、時代やテーマによってやや濃淡はありますが、素晴らしい入門書と言えるでしょう。おすすめです。

ジョン・ダービーシャー著、松浦俊輔訳『素数に憑かれた人たち リーマン予想への挑戦』

 フェルマー予想が解決された現在、整数論での次の標的であるリーマン予想に対して取り組んできた数学者の紹介を中心に、素数を知る魅力、取り組みの変遷などを、多くのエピソードを織り込みながら、非数学的な観点をベースに著述した数学ドラマ。奇数章で数学の直感的な説明、偶数章でその歴史的及び人間的なバックグラウンドを解説しています。(https://amzn.to/3Dwq2D4

 突然数学の本を紹介してかっこつけようとしているわけではありません………とは言い切れません。ただ、高校数学を忘れかけているぐらいの人でもすらすら読むことができる本ですので、数学が苦手な方にも薦められる本です。

 奇数の章では数学の説明をし、偶数章ではその学説を唱えた数学者の一生や、その社会背景を説明するという構成を取っています。

 ちなみに、同じ著者の本に『代数に惹かれた数学者たち』があるのですが、こちらは専門知識がない身としてはかなり読みにくいので注意。

加藤文元『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』 

 望月新一教授による「宇宙際タイヒミュラー(IUT)理論」。未来から来た論文とも称された内容は世界中に驚きをもたらした。望月氏と、議論と親交を重ねてきた数学者が、その独創性と斬新さをやさしく紹介する。(https://amzn.to/2V0DqOi

 先日話題になった望月氏の新理論を、とにかく噛み砕きに噛み砕いて、素人でもぼんやり雲を掴めたような掴めないような、なんとかそのレベルまで解説しようと試みた本です。少なくとも、素人が読める本になっていることは確かで、最後まですんなり読み通すことができました。

 最近のニュースを見ていると、望月氏の新理論はいまだに受け入れられない状況が続いているようですね。今後どうなっていくのでしょうか。

アンジェラ・サイニー著、東郷えりか訳『科学の女性差別とたたかう: 脳科学から人類の進化史まで』

 「“女脳”は論理的ではなく感情的」「子育ては母親の仕事」「人類の繁栄は男のおかげ」……。科学の世界においても、女性に対する偏見は歴史的に根強く存在してきた。こうした既成概念に、気鋭の科学ジャーナリストが真っ向から挑む。神経科学、心理学、医学、人類学、進化生物学などのさまざまな分野を駆け巡り、19世紀から現代までの科学史や最新の研究成果を徹底検証し、まったく新しい女性像を明らかにする。自由で平等な社会を目指すための、新時代の科学ルポルタージュ。(https://amzn.to/3yqIlG5

 先入観によっていかに研究が歪められてきたか、ということがよく学べる本です。データの取り方、データの解析法、さらにはそうして導かれた結論の利用方法など、バイアスがかかるポイントはかくも多いのかということがよく分かります。結局のところ、学問においては、性別・人種・文化、出身地など、あらゆる意味での多様性を確保することこそが、発展の近道なのでしょう。

 なんとなく、科学の知見に支えられて男女同権への道が開けてきたようなイメージがを持っていましたが、本書を読むと、むしろ男女同権への道が開けたことで科学の偏見が正された面もあることを知りました。ある意味、人文知が科学の発展に寄与した例と言えるかもしれませんね(それならば現代の人文系の研究が誇れる状況なのかというと、全くそうではありませんが…)。

マーベルシリーズ「シャン・チー」に出てくる神獣まとめ

 先日、マーベルシリーズ最新作の「シャン・チー」を観てきました。

marvel.disney.co.jp

 シャンチー象棋、中国の将棋)を嗜む私は、最初にタイトルを見たとき「完全なるチェックメイト」や「聖の青春」のようなボードゲームを題材にした映画かと勘違いしてしまいました。当然、マーベルシリーズにそんな地味な(失礼)作品があるわけもなく、本作は激しいアクションを詰め込んだスーパーヒーローものです。

 本作はアジア、特に中国を舞台にしているのが特徴で、カンフーアクションや太極拳マカオの街並み、鮮やかな神仙世界、柔らかな「気」の表現など、そこかしこに東洋を連想させる要素が込められています。また、全編の3割ぐらいは中国語で会話されています*1

 特に印象的なのが、最後の戦いの舞台となる仙界(といっていいのか分かりませんが、とにかく異世界的な場所)のシーンです。主人公たちは、普段は閉ざされているものの清明節にだけ入り口が開く母の故郷の村(仙界)を訪れます。「清明節」は、先祖のお墓参りをする大切な祭日ですから、特別に村への通り道を開けるということなのでしょう。そしてこの異世界には、独特な姿をした神々しい動物たちが生息しています。

 この映画を観た方が、中国の神話に少しでも興味を持っていただければ嬉しいと思いまして、この仙界に登場する異形の動物たちを少し紹介してみることにしました。

①帝江

 劇の中盤、牢屋に閉じ込められた主人公たちが出会った役者のトレヴァーと戯れている謎の動物は「帝江」です。日本人には「渾沌」と言った方が通じるかもしれません。「顔はどこ?」と訊かれて恥ずかしがる描写があるのは、帝江のアイデンティティである「顔が無い」ことをよく表していますね。

 およそ二千年前、漢代ごろに作られたとされる『山海経』という中国古代の地理書には、神仙や妖怪の類が色々と記録されています。ここに「帝江」の話も出てきます。

山海経』西山経

 又西三百五十里,曰天山,多金玉,有青雄黃。英水出焉,而西南流注于湯谷。有神焉,其狀如黃囊,赤如丹火,六足四翼,渾敦無面目,是識歌舞,實惟帝江也。

 西方三百五十里には、「天山」という山があり、金と玉が多く、鶏冠石がある。英水がここから出て、西南に流れて湯谷に注ぐ。ここには神がいて、その形は黄色の袋のようで、煉丹の炎のように赤く、六本の足と四つの翼がある。渾沌としていて顔や目が存在せず、歌舞に詳しい。まことにこれこそが帝江である。

 役者であるトレヴァーと仲良しなのが、歌舞に秀でたとされる帝江というのは、なかなか凝った設定ですね(偶然の一致かもしれませんが)。

 なお、『山海経』は慣用で「せんがいきょう」と読みます。各地の風土を記しながら、様々な不思議な逸話を伝える、なかなか扱いの難しい厄介な書です。それだけに後世の人々の想像力を掻き立てたところも大きく、『山海経』の記述からイメージの膨らみを持った妖怪はたくさんいます。

 ただ、日本人により馴染みがあるのは、以下の『荘子』のエピソードでしょう(高校の教科書に取り上げられていたはずです)。

荘子』内篇・応帝王 

 南海之帝為儵,北海之帝為忽,中央之帝為渾沌。儵與忽時相與遇於渾沌之地,渾沌待之甚善。儵與忽謀報渾沌之德,曰:「人皆有七竅,以視聽食息,此獨無有,嘗試鑿之。」日鑿一竅,七日而渾沌死。

 南海の帝を「儵」といい、北海の帝を「忽」といい、中央の帝を「渾沌」という。儵と忽とは、時おり渾沌の地で会い、渾沌はたいそう厚く彼らをもてなした。儵と忽とは、その渾沌の徳にお返しをしようと計画し、「人はみな七つの穴(目・鼻・口・耳)があり、それにより見て、聞いて、食べて、呼吸しているが、渾沌だけはこれがない。彼に穴をあけてみようではないか」と言った。そこで一日に一つずつ穴をあけると、七日目に渾沌は死んだ。

 早稲田大学の古典籍総合データベースに『山海経』の絵入りの本が入っていましたので(山海経. 第1-18 / 郭璞 伝 ; 蒋応鎬 絵図)、画像を掲げておきます(ただ、この絵はあくまで後世に想像して書かれたものであることにはご注意ください)。この画像を見ると、映画に出てきていた「モーリス」にそっくりであることが分かりますね。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru05/ru05_03472/ru05_03472_0002/ru05_03472_0002_p0025.jpg

 ちなみに、立命館大学中国文学専攻ホームページのイメージキャラクターも帝江だそうです(→てこちゃんの部屋。てこちゃんのぬいぐるみや壁紙の紹介もあってなかなか可愛いです)。

 余談ですが、仙界を覆い隠している竹林に入る直前に、役者のトレヴァーが「私はただの器だ」と言って、自分は帝江の言葉を伝えるだけの存在だということを言っていましたね。この「器」という言葉は、中国古典でよく言うところのあの「器」のイメージを重ねているのかもしれません*2。ま、元の英語を忘れたので、深堀りするのは止めておきましょう。

②九尾狐

 九尾狐は、異世界の村に入った時に最初に出迎えてくれる動物です。その名の通り、九つの尾がある狐のこと。同じく、『山海経』に登場しています。

山海経』南山経

 又東三百里,曰青丘之山,其陽多玉,其陰多青䨼。有獸焉,其狀如狐而九尾,其音如嬰兒,能食人,食者不蠱。有鳥焉,其狀如鳩,其音若呵,名曰灌灌,佩之不惑。英水出焉,南流注于即翼之澤。其中多赤鱬,其狀如魚而人面,其音如鴛鴦,食之不疥。

 また東方三百里には、「青丘」の山があり、その南側には玉が多く、その北側には青䨼(青色の宝石)が多い。獸がいて、その形は狐のようで九つの尾があり、その鳴き声は幼子のようで、人を食べることができ、食べたものは毒に当たらない。

 ここには「人を食う」などと書かれてマイナスのイメージを持つかもしれませんが、伝統的には瑞祥をもたらす獣とされており、例えば『白虎通』(後漢時代に作られた、政府による経書の統一理解を示す書)にはこうあります。

『白虎通』封禪

 天下太平符瑞所以來至者,以為王者承統理,調和陰陽,陰陽和,萬物序,休氣充塞,故符瑞並臻,皆應德而至。(中略)德至鳥獸則鳳皇翔,鸞鳥舞,麒麟臻,白虎到,狐九尾,白雉降,白鹿見,白鳥下。

 天下が太平となるときに瑞祥が来る理由は、王者が統治を受け継ぎ、陰陽を調和させると、陰陽が和し、万物が秩序立ち、瑞祥の気が充満するから、瑞祥が来るのであって、いずれも(王者の)徳に応じてやってくるのだ。(中略)徳が至ると、鳥獣では鳳皇が飛来し、鸞鳥が舞い、麒麟が来て、白虎が来る。狐が九尾を持ち、白い雉が降りてきて、白い鹿が現れ、白鳥が下りてくる。

 そして、なぜ九尾狐が瑞祥になるのかということを問答形式で説明したのが以下の部分です。

 狐九尾何?狐死首丘,不忘本也,明安不忘危也。必九尾者也?九妃得其所,子孫繁息也。於尾者何?明後當盛也。

 「狐九尾とは何か?」「狐は故郷の丘の方に頭を向けて死に、自分の本源を忘れないので、安泰な中でも危険を忘れないことを明らかにするのだ。」「九尾でなければならないのか?」「九人の妃が自分の居場所を得て、子孫が増えることを表している。」「尾が九つなのはなぜか?」「後世に盛んになっていくことを明示しているのだ。」

 本作は母の故郷を訪ね、自分のルーツに向き合うという話ですから、中国で「狐死首丘,不忘本也(狐は故郷の丘の方に頭を向けて死に、自分の本源を忘れない)」とされる狐にピッタリであると言えますね。

↓同じく、古典籍総合データベースより。右側の左上あたりにいます。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru05/ru05_03472/ru05_03472_0001/ru05_03472_0001_p0019.jpg

 有名どころでは、ポケモンの「キュウコン」やNARUTOの「九喇嘛」のモデルも九尾狐ですね。

zukan.pokemon.co.jp

 最近では、中国の妖怪を擬人化したアニメ「非人哉」の主人公の「九月」が記憶に新しいでしょうか。九月の尻尾が満員電車につかえて降りられない、という話が第一話でしたね。下の画像の左下のキャラクターです。

麒麟

 麒麟も、同じく主人公たちが仙界に訪れた際に、最初に出会う動物の一つ。キリンビール大河ドラマの「麒麟がくる」など、日本人にも馴染みがある神獣ですね。

 麒麟たちは主人公を見ても逃げることなく、意味深に目を向けます。麒麟は太平の世の訪れを示す神獣の代表格ですから(さきほどの『白虎通』にも麒麟が出てきています)、これはシャン・チー一行が太平をもたらす存在として是認されていることを象徴していますね。そののち、悪役である主人公の父が来た際には、麒麟は一目散に逃げだしています。ここは分かりやすい対比になっているわけです。

↓イメージ画像

commons.wikimedia.org

 古来、麒麟の来訪は瑞祥であり、太平の世がまもなくやってくることを示すものとされてきました。「麒麟がくる」というタイトルも、明智光秀の死ののち、秀吉を経て徳川による太平の世が始まることを暗示しているわけです。

 さて、麒麟が瑞祥として特に有名な理由は、これが『春秋』の末尾で描かれているからです。伝統的に孔子が編纂したとされて重視されてきた歴史書である『春秋』は、魯の哀公十四年(紀元前481年)の「獲麟」、つまり「麒麟を捕らえた話」で終わっているのです。

『春秋』哀公十四年

 十有四年春,西狩獲麟。(十四年の春、西で狩りをして麒麟を捕らえた。)

 この話については色々な解釈があるのですが、いまは漢代までには成立していたとされる『公羊伝』の解説を見ておきましょう。(『公羊伝』は問答形式で『春秋』を解説する書であることにご注意ください。)

『公羊伝』哀公十四年

 何以書?記異也。何異爾?非中國之獸也。然則孰狩之?薪采者也。薪采者則微者也,曷為以狩言之?大之也。曷為大之?為獲麟大之也。曷為獲麟大之?麟者仁獸也。有王者則至,無王者則不至。有以告者曰:「有麇而角者。」孔子曰:「孰為來哉!孰為來哉!」反袂拭面,涕沾袍。顏淵死,子曰:「噫!天喪予。」子路死,子曰:「噫!天祝予。」西狩獲麟,孔子曰:「吾道窮矣!」

 「どうして(獲麟のことを)記録したのか?」「異常なことを記録するためだ。」「どうして異常と言えるのか?」「中国(中原地域)の獣ではないからだ。」「それなら誰がこれを狩ったのか?」「木こりだ。」「木こりは身分の低いものなのに、どうして(本来は天子に対して用いる)「狩」という語で言うのか?」「これを重要なものとするためだ。」「なぜ重要なものとするのか?」「獲麟が重要なことだからだ。」「なぜ獲麟は重要なのか?」「麒麟とは、仁獣である。王者がいればやって来て、王者がいなければやって来ない。孔子に報告に来た者が「麇(鹿の一種)に似て、角の生えた動物でした」と言った。孔子は「なぜ来たんだ!なぜ来たんだ!」と言い、袖で涙を拭い、涙が服を濡らした。顏淵が死ぬと、孔子は「ああ、天が私を滅ぼした」と言った。子路が死ぬと、孔子は「ああ、天は私を断じた」と言った。西狩獲麟のときには、孔子は「私の道は窮まった」と言った。」

 この話は、『春秋』の解釈に関する学問である「春秋学」の根本的な問題の一つであり、長年経学者たちが議論してきた問題でもあります。孔子がこれだけこだわった獣であるがゆえ、中国の神獣として代表的な地位にいるわけです。

 さて、これについてはまた整理することにして、神獣の紹介に戻りましょう。

④獅子

 仙界の集落の両サイドで家を守っている動物です。これは説明不要でしょう。中国では、ライオンを象った石像(石獅子)を家の守護に置く風習があり、これが伝わって日本の狛犬、沖縄のシーサーなどが生まれたとも言われます。日本では「唐獅子」などとも呼ばれますね。

 最近、道教関係の研究を読んでいて石獅子に関する記述が出てきたと思うのですが、すっかり忘れてしまったので、また思い出した折に書いておきます。

⑤龍

 仙界の守護神として立ち現れるのが「龍」です。これも説明不要でしょう。本作では龍が水底から現れてきますが、「龍」と「水」にイメージの重なりを見るのも中国古来の観念です。

 龍については文献がありすぎて何を紹介すればいいのか難しいですが、試しに後漢の王充の『論衡』龍虚篇を見てみましょう。この篇は、龍に関する当時の言説を王充が批判するところです。

『論衡』龍虚

 盛夏之時,雷電擊折破樹木,發壞室屋,俗謂天取龍。謂龍藏於樹木之中,匿於屋室之間也,雷電擊折樹木,發壞屋室,則龍見於外,龍見,雷取以升天。世無愚智賢不肖,皆謂之然。如考實之,虛妄言也。

 盛夏の時、雷電が落ちて樹木を破壊し、家屋を破壊することを、俗に「天が龍を取る」という。これは龍が樹木の中に隠れていたり、家屋の間に隠れていたりして、雷電が樹木に落ちたり、家屋を破壊したりするのは、つまり龍が外に出現することであるから、龍が現れ、雷がそれを取って天に昇らせるのだ。世の中の愚昧な人々は、みなこの説が正しいと言う。しかし、よく考えてみると、これは虚妄の言である。

(中略)實者,雷龍同類,感氣相致,故《易》曰:「雲從龍,風從虎。」又言:「虎嘯谷風至,龍興景雲起。」龍與雲相招,虎與風相致,故董仲舒雩祭之法,設土龍以為感也。

 本当のところは、雷と龍が同類であり、両者が両者の気を感応させるものであり、だから『易』に「雲は龍に従い、風は虎に従う」というのだ。また、「虎が嘯く*3と谷に風が届き、龍が興ると空に雲が起こる」という。龍と雲とが呼び寄せ合い、虎と風とも呼び寄せ合うから、董仲舒が雨乞いの祭りの方法を定めた際には、土龍を作って感応を起こそうとした。

 雨乞いの祭りの際に、龍を呼び寄せる儀式が行われていたという話です。これは龍と水が「同類」と考えられていたからこそ出てくる考え方ですね(同類相感などと呼ばれます*4)。王充の『論衡』は当時の迷信を批判することの多い書ですが、その王充でさえ龍を用いた雨乞いの祭りは妥当なものとしているわけで、これが当時いかに妥当なものであると考えられていたかがよく分かります。

 ほか、同じく『論衡』奇怪篇から、龍の逸話を引いておきましょう。

 或曰:「夏之衰,二龍鬭於庭,吐漦於地。龍亡漦在,櫝而藏之。至周幽王發出龍漦,化為玄黿,入于後宮,與處女交,遂生褒姒。」

 あるものが言う。「夏(王朝の一つ)が衰えたとき、二匹の龍が庭で戦い、水を地面に吐いた。龍は消えたが水は残り、木箱の中に保存した。周の幽王のときになって龍の水があふれてきて、変化してトカゲ(龍の象徴)となり、後宮に入り、処女と交わり、そのまま褒姒が生まれた。」

 龍については、他にもたくさんの伝説が伝えられています。林巳奈夫の『龍の話―図像から解く謎』中公新書、1993)に詳しく整理されていますので、おススメです。

 私はまだ一度しか見ておらず、記憶の限りを辿って書いただけですので、色々とピント外れのことを書いているかもしれません。機会があれば、ぜひ専門家を携えて観に行きたいところです。

(棋客)

*1:ただ、日本語の字幕は中国語から直接翻訳されているのではなく、その英語字幕の再翻訳で作られているようで、たまに違和感のある箇所があります。https://twitter.com/gynaecocracy/status/1434833837368897539

*2:易経』繋辞上「形而上者謂之道、形而下者謂之器」など。

*3:「嘯」については、過去記事を書きました→「嘯」について―齋藤希史『漢文スタイル』より - 達而録

*4:武田時昌『術数学の思考―交差する科学と占術』臨川書店、2018)に詳しいです。とても読みやすい本です。

王国維「釈理」を読む(3)

 前回に引き続き、喬志航「王国維と「哲学」」(『中国哲学研究』20、2004)に導かれながら、王国維「釈理」を読み進めていきます。

 ここは、ショーペンハウアーの説に則って、カントの言う「理性」を批判しながら、「理」の狭義の概念を整理していくところです。

 (三)理之狹義的解釋 理之廣義的解釋外,又有狹義的解釋,即所謂理性是也。夫吾人之知識分為二種,一直觀的知識,一概念的知識也。直觀的知識,自吾人之感性及悟性得之,而概念之知識,則理性之作用也。直觀的知識,人與動物共之。概念之知識,則惟人類所獨有,古人所以稱人類為理性的動物或合理的動物者,為此故也。人之所以異於動物,而其勢力與憂患且百倍之者,全由於此。動物生活於現在,人則亦生活於過去及未來。動物但求償其一時之欲,人則為十年百年之計。動物之動作,由一時之感覺決定之,人之動作,則決之於抽象的概念。(略)故感與覺,人與物之所同,思與知,則人之所獨也。動物以振動表其感情及性質,人則以言語傳其思想,或以言語揜蓋之。故言語者,乃理性第一之產物,亦其必要之器官也。此希臘及意大利語中所以以一語表理性及言語者也。此人類特別之知力,通古今東西,皆謂之曰「理性」即指吾人自直觀之觀念中造抽象之概念,及分合概念之作用。

 (三)理の狹義の解釈について 理の広義の解釈の他に、狹義の解釈もあり、これがいわゆる「理性」である。そもそも我々の知識は二種に分けられ、一つは直観的な知識、もう一つは概念な知識である。直観な知識とは、我々の感性と悟性から得られるもので、概念の知識とは、理性の作用である。直観の知識は、人と動物が共有する。概念の知識は、ただ人類だけが持ち、古人が人類を称して「理性的動物」また「合理的動物」とするのはこのゆえである。人が動物と異なる点や、その勢力と憂患に百倍の違いがあるのは、全てこれに由来する。動物は現在に生きるが、人はまた過去と未來においても生きている。動物はただ一時の欲望を埋めることを求めるが、人は十年百年の計画を立てられる。動物の動作は一時の感覚によって決められるが、人の動作は抽象的な概念において決められる。(略)よって「感」と「覚」とは、人と物が同じく持ち、「思」と「知」とは、人だけが持つものである。動物は振動によってその感情と性質を表し、人は言語によってその思想を伝え、または言語によってそれを覆い隠す。よって言語とは、理性の第一の産物で、また必要な器官でもある。これが、ギリシャ語・イタリア語において一語によって「理性」と「言語」が表される理由である。これは人類に特別な知力で、古今東西を通して、みなこれを「理性」といい、これは我々が直観の観念から抽象概念を作り出すことと、概念を分合する作用のことを指す。

 最後の太字の部分のように、理性を概念形成の能力に限定する考え方は、やはりショーペンハウアーを受け継いだものです(喬氏論文p.85)。ショーペンハウアーは、カントが理性を特別視し、信託のごとき能力であるとする見方を否定し、理性が創造的なものとしては見ていません。

 人と動物の相違(または共通点)については、中国古典でもしばしば触れられている問題ですが、王国維の上の説明では、そうした文脈には言及しません。興味深いところです。

 自希臘之柏拉圖、雅里大德勒至近世之洛克、拉衣白尼誌,皆同此意。其始混用之者,則汗德也。汗德以理性之批評為其哲學上之最大事業,而其對理性之概念,則有甚曖昧者。彼首分理性為純粹及實踐二種純粹理性指知力之全體,殆與知性之意義無異。彼於《純粹理性批評》之《緒論》中曰:「理性者,吾人知先天的原理的能力是也。」實踐理性則謂合理的意志之自律。自是「理性」二字始有特別之意義。而其所謂純粹理性中,又有狹義之理性。其下狹義理性之定義也,亦互相矛盾。彼於理性與悟性之別實不能深知,故於《先天辨證論》中曰:「理性者,吾人推理之能力《純理批評》第五版三百八十六頁。」又曰:「單純判斷,則悟性之所為也同九十四頁。」叔本華於《汗德哲學之批評》中曰「由汗德之意,謂若有一判斷而有經驗的、先天的,或超名學的根據,則其判斷乃悟性之所為。如其根據而為名學的,如名學上之推理式等,則理性之所為也」。此外尚有種種之定義,其義各不同。其對悟性也亦然。

 要之,汗德以通常所謂理性者謂之悟性,而與理性以特別之意義,謂吾人於空間及時間中結合感覺以成直觀者,感性之事;而結合直觀而為自然界之經驗者,悟性之事;至結合經驗之判斷以為形而上學之知識者,理性之事也。

 ギリシャプラトンアリストテレス、近世のロック、ライプニッツに至るまで、みなこの意味と同じである。初めて混用したのはカントである。カントは「理性」の批判を哲学上の最大の事業としたが、その理性に対する概念は、甚だ曖昧である。彼はまず「理性」を純粋と実践の二種に分け、純粋理性は知力の全体を指す。これは知性の意義とほとんど異なるところがない。彼は『純粋理性批判』の「緒論」において「理性とは、我々は先天の原理の能力であると知っている」という。「実践理性」は合理的な意志の自律をいう。これ以後、「理性」の二字に初めて特別な意義が与えられた。しかしそのいわゆる「純粋理性」の中には、狹義の理性も含まれている。その狹義の理性の定義を下すと、矛盾が生じる。彼は「理性」と「悟性」の区別についてまことに深く理解しておらず、よって『先天弁証論』の中では「理性とは、我々の推理の能力だ(『純粋理性批判』第五版三百八十六頁)」といい、また「単純な判断は、悟性がなすものだ(同九十四頁)」という。ショーペンハウアーは『カント哲学批判』の中で「カントの意によると、もし一つの判断があり、そして経験的・先天的・または超論理学的な根拠があれば、その判断は悟性がなすものだ。その根拠が論理学のためのもので、論理学上の数式といったものは、理性がなすものだ」という。この他にも様々な定義があり、その意味はそれぞれ異なる。悟性についても同じである。

 要するに、カントは一般にいう「理性」を「悟性」と呼び、理性に特別な意義を与え、我々が空間と時間の中で感覚を結合して直観を形成するものを「感性」のこととし、そして直観を結合して自然界の経験を作るものを「悟性」のこととし、経験の判断を結合し形而上学の知識を形作るものを「理性」のことと述べる。

 このあたりは、王国維を読むより、直接カントとショーペンハウアーの本を読んだ方がいい気もします。

 自此特別之解釋,而汗德以後之哲學家遂以理性為吾人超感覺之能力,而能直知本體之世界及其關係者也。特如希哀林、海額爾之徒,乘雲馭風而組織理性之系統。然於吾人之知力中果有此能力否?本體之世界果能由此能力知之否?均非所問也。

 至叔本華出,始嚴立悟性與理性之區別。彼於充足理由之論文中證明直觀中已有悟性之作用存。吾人有悟性之作用,斯有直觀之世界。有理性之作用,而始有概念之世界。故所謂理性者,不過製造概念及分合之之作用而已。由此作用,吾人之事業已足以遠勝於動物。至超感覺之能力,則吾人所未嘗經驗也。彼於其《意志及觀念之世界》及充足理由之論文中辨之累千萬言,然後「理性之概念」燦然復明於世。

 この特別な解釈ののち、カント以後の哲学者はそのまま「理性」を我々の超感覚的な能力であるとし、本体(物自体)の世界とその関係を直接に知ることができるものだとした。シェリングヘーゲルのような輩は、雲や風に乗って理性の系統を組織した。しかし、我々の知力の中に果たしてこの能力があるのだろうか?物自体の世界は果たしてこの能力によってこれを知ることができるのだろうか?(こうした疑問は、)どちらも問われたことはなかった。

 ショーペンハウアーが出て、初めて「悟性」と「理性」の区別が厳格に立てられた。彼は充足理由律の論文の中で、直観の中にすでに「悟性」の作用がすることを証明した。我々に「悟性」の作用があることで、直観の世界がある。「理性」の作用があることで、初めて概念の世界がある。よっていわゆる「理性」とは、ただ概念を製造し、概念を分合する作用にすぎない。この作用から、我々の事業は動物に遠くまさることとなる。超感覚の能力については、我々はこれまで経験したことがない。ショーペンハウアーは、『意志と観念の世界』と「充足理由の論文」の中で数千万言を費やし、「理性の概念」は再びはっきりと世に明らかになった。

 最後に、中国における「理」の概念と、ここで論じられた狭義の「理」がどう重なるのか、王国維は議論しています。

 孟子曰:「心之所同然者,何也?謂理也,義也。」程子曰:「性即理也。」其對理之概念,雖於名學的價值外,更賦以倫理學的價值,然就其視理為心之作用時觀之,固指理性而言者也。

 孟子は「心が同じくそうであるとするものは何か。理であり、義である」という。程子は「性とは、理である」という。理の概念に対し、名学(論理学)的な価値のほかに、さらに倫理学的な価値を与えはしたのだが、理を心の作用とみなすことにおいて考えれば、(ここでいう「理」は)本来「理性」を指して言うのである。

 これまで王国維が整理してきた、ショーペンハウアーの分析した狭義の意味での「理」(理性)と、ここで挙げられる孟子や程子の「理」を重ねて理解するのは、率直に言って難しいです。喬氏論文でも、この王国維の議論は強引であるとされています(p.86-87)。

 

 本文はまだまだ続くのですが、今回で一旦一区切りとしたいと思います。本当はもっと自分の言葉で噛み砕いて説明するつもりでしたが、まだまだ自分にはその能力がないことを自覚しました。

(棋客)

王国維「釈理」を読む(2)

 前回に引き続き、喬志航「王国維と「哲学」」(『中国哲学研究』20、2004)に導かれながら、王国維「釈理」を読み進めていきましょう。

 其在西洋各國語中,則英語之Reason,與我國今日「理」字之義大略相同、而與法國語之Raison,其語源同出於拉丁語之Ratio。此語又自動詞Retus(思索之意)而變為名詞者也。英語又謂推理之能力曰Discourse,同時又用為言語之義。此又與意大利語之Discorso同出於拉丁語之Discursus,與希臘語之Logos,皆有言語及理性之兩義者也。其在德意志語,則其表理性也曰Vernunft,此由Vernehmen之語出。此語非但聽字之抽象名詞,而實謂知言語所傳之思想者也。

 西洋の各言語においては、英語の「Reason」と我が国の今日でいう「理」の字の意義が概ね同じで、フランス語の「Raison」と同じく、その語源はラテン語の「Ratio」に由来する。この語は、動詞の「Retus」(「思索」の意味)が名詞化したものである。英語では、推理の能力のことを「Discourse」といい、これは同時に「言語」の意味で用いられる。これは、またイタリア語の「Discorso」と同じく、ラテン語の「Discursus」に由来し、ギリシャ語の「Logos」と同じく、いずれも「言語」と「理性」の二つの意義がある。ドイツ語においては,「理性」を表現して「Vernunft」といい、これは「Vernehmen」という語に由来する。この語は「聽く」の抽象名詞というだけではなく、「言語が伝える思想を理解する」ことを指す。

 中国における「理」の概念が、西洋における「Reason」と概ね重なることを指摘した王国維は、それらがどういった面で重なっているというのか、分析して示そうとします。

 喬氏論文によれば、「理」と「Reason」とを同一視する考え方は、元良勇次郎の『倫理学』という本の影響を受けているようです。元良は、Reasonを「理由・理性・道理」の意義があると述べていますが、王国維は「道理」を省いて残りの二つについて議論しました。これについて喬氏は、王国維は「理」の議論をする上で、道理・天理・真理といった倫理的価値の面は否定したという要因を挙げています(p.80)。

 由此觀之,古代二大國語及近世三大國語,皆以思索(分合概念之力)之能力及言語之能力,即他動物之所無,而為人類之獨有者,謂之曰理性 、Logos(希)、Ratio(拉)、Vernunft(德)、Raison(法)、Reason(英)。而從吾人理性之思索之徑路,則下一判斷,必不可無其理由。於是拉丁語之Ratio、法語之Raison、英語之Reason等,於理性外又有理由之意義。至德語之Vernunft,則但指理性,而理由則別以Grunde之語表之。吾國之理字,其義則與前者為近,兼有理性與理由之二義。於是理之解釋,不得不分為廣義的及狹義的二種。

 ここから見ると、古代の二大言語および近世の三大言語では、いずれも思索(概念を分けたり組み合わせたりする力)の能力と言語の能力こそが、とりもなおさず他の動物は持たず人類だけが持っているものであり、これを「理性」、「Logos」(希)、「Ratio」(拉)、「Vernunft」(德)、「Raison」(法)、「Reason」(英)という。我々は理性の思索の筋道に沿って、一つの判斷を下す際、その理由がないわけにはいなかい。よって、ラテン語の「Ratio」、フランス語の「Raison」、英語の「Reason」などには、「理性」のほかに「理由」という意味もある。ドイツ語の「Vernunft」は、ただ「理性」だけを指し、「理由」は別の「Grunde」という語で表現する。我が国の「理」の字は、その字義は前者に近く、「理性」と「理由」の二つの意味を兼ねている。そこで、「理」の解釈は、広義と狭義の二種に分けなければならない。

 王国維は、「理」の広義の意味として「理由」、狭義の意味として「理性」を挙げて、それぞれの説明に進んでいきます。

 (二)理之廣義的解釋 理之廣義的解釋,即所謂理由是也。天下之物,絕無無理由而存在者。其存在也,必有所以存在之故。此即物之充足理由也。在知識界,則既有所與之前提,必有所與之結論隨之。在自然界,則既有所與之原因,必有所與之結果隨之。然吾人若就外界之認識而皆以判斷表之,則一切自然界中之原因即知識上之前提,一切結果即其結論也。若視知識為自然之一部,則前提與結論之關係,亦得視為因果律之一種。

 (二)「理」の広義の解釈について 「理」の広義の解釈は、いわゆる「理由」がこれである。天下の物は、理由がなく存在するものはない。その存在には、必ずそれによって存在する理由があるのだ。これはつまり物の「充足理由」である。知識界においては、与えられた前提があれば、必ず与えられた結論がこれに沿ってある。自然界においても、与えられた原因があれば、必ず与えられた結論がこれに沿ってある。しかし我々は、外界の認識に基づいて判断しこれを表すから、全ての自然界の中の「原因」とは、知識界の上での「前提」であり、全ての「結果」とは、その「結論」である。知識を自然の一部として見れば、「前提」と「結論」の関係も、また因果律の一種として見ることができる。

 「知識界」と「自然界」は、元良の本では「論理学」と「物理学」になっています(喬氏論文p.81)。日本人には、こちらの方が分かりやすいでしょうか。

 物事には全て、その存在の根拠がある―「充足理由律(充足根拠律)」と呼ばれる考え方ですが、以下、王国維はこの考え方が欧州でどのように発展してきたのか、整理しています。

 故歐洲上古及中世之哲學,皆不區別此二者,而視為一物。至近世之拉衣白尼誌始分晰之,而總名之曰「充足理由之原則」。於具《單子論》之小詩中括之為公式曰:「由此原則,則苟無必然或不得不然之充足理由,則一切事實不能存在,而一切判斷不能成立。」汗德亦從其説,而立形式的原則與物質的原則之區別。前者之公式曰「一切命題必有其論據」,後者之公式曰「一切事物必有其原因」。其學派中之克珊范台爾更明言之曰:「知識上之理由(論據),必不可與事實上之理由(原因)相混。前者屬名學,後者屬形而上學。前者思想之根本原則,後者經驗之根本原則也。原因對實物而言,論據則專就吾人之表象言之。」

 さて、欧州の上古・中世の哲学においては、いずれもこの二者を区別せず、一つのものとみなしていた。近世のライプニッツに至って初めて分析され、まとめて「充足理由の原則」と名付けられた。ライプニッツの『単子論(モナドジー)』という小篇では、概括して公式を述べ、「この原則によると、仮に必然ないしはそうならざるを得ない充足理由がなければ、あらゆる事実は存在することができず、あらゆる判斷も成立しない」とした。カントもまたその説に従い、「形式的原則」と「物質的原則」の区別を立てた。前者の公式は「あらゆる命題には必ずその論拠がある」で、後者の公式は「あらゆる事物には必ずその原因がある」である。その学派のキーゼヴェッターは更に明確に「知識の理由(論拠)は、絶対に事実上の理由(原因)と混同してはならない。前者は名学(論理学)に属し、後者は形而上学に属す。前者は思想の根本原則であり、後者は経験の根本原則である。原因は実際の事物に対して言うもので、論拠はもっぱら我々の表象について言うものだ」と述べた。

 まずライプニッツによって「充足理由律」の考え方が立てられ、その根拠の種類が徐々に細分化されてゆくわけです。箇条書きで整理しておきましょう。このあたりの王国維の整理は、ほとんどショーペンハウアーの整理に則っているようです(喬氏論文p.82)。

①カント

  • 形式的原則(論理的原理):あらゆる命題には必ずその論拠がある
  • 物質的原則(質料的原理):あらゆる事物には必ずその原因がある

②キーゼヴェッター

  • 知識の理由(論拠):論理学、思想の根本原則。我々の表象についてのもの。
  • 事実上の理由(原因):形而上学、経験の根本原則。実際の事物についてのもの。

 そして、ショーペンハウアーに至って四種類に整理されます。

 至叔本華而復就充足理由之原則為深邃之研究曰「此原則就客觀上言之,為世界普遍之法則。就主觀上言之,乃吾人之知力普遍之形式也。世界各事物無不入此形式者,而此形式可分為四種:一,名學上之形式。即從知識之根據之原則者曰,既有前提,必有結論。二,物理學上之形式。即從變化之根據之原則者曰,既有原因,必有結果。三,數學上之形式。此從實在之根據之原則者曰,一切關係由幾何學上之定理定之者,其計算之成績不能有誤。四,實踐上之形式。曰動機既現,則人類及動物不能不應其固有之氣質,而為惟一之動作。此四者,總名之曰充足理由之原則」。

 ショーペンハウアーに至って、充足理由律について深い研究がなされ、以下のように述べた。「この原則は客観の面から言えば、世界の普遍の法則である。主観の面から言えば、我々の知力の普遍の形式である。世界のあらゆる事物にはこの形式から入らないものはなく、この形式は四種に分けることができる。一つは、名学(論理学)の形式である。つまり、知識の根拠の原則に従って、「前提があれば、必ず結論がある」というものである。二つは、物理学の形式である。つまり、変化の根拠の原則に従って、「原因があれば、必ず結果がある」というものである。三つは、数学の形式である。つまり、実在の根拠の原則に従って、全ての関係が幾何学上の定理から定められるもので、その計算の結果に誤りが生じえないものである。四つは、実践上の形式である。動機が現れたなら、人類や動物はその固有の気質に反応し、唯一の動作をせざるを得なくなる。この四者は、まとめて「充足理由の原則」と名付けられる。」

 ショーペンハウアーのいう充足理由律の四つの形式を、王国維は以下のように整理します。【】は、日本語で説明される場合の用語を入れておきました。

  • 名学(論理学)の形式【認識】:知識の根拠の原則。前提―結論
  • 物理学の形式【生成】:変化の根拠の原則。原因―結果
  • 数学の形式【存在】:実在の根拠の原則。幾何学上の定理―計算結果
  • 実践上の形式【行為】:動機―動作

 「固有の気質に反応し・・・」というところは、一見「気」という中国的な概念が現れていますので、ショーペンハウアーの言説に対応する言葉があるのかどうか気になる所ですね。

 此四分法中,第四種得列諸第二種之形式之下,但前者就內界之經驗言之,後者就外界之經驗言之,此其所以異也。要知第一種之充足理由之原則乃吾人理性之形式,第二種悟性之形式,第三種感性之形式也。此三種之公共之性質,在就一切事物而證明其所以然及其不得不然。即吾人就所與之結局觀之,必有其所以然之理由,就所與之理由觀之,必有不得不然之結局。此世界中最普遍之法則也。而此原則所以為世界最普遍之法則者,則以其為吾人之知力之最普遍之形式。

 この四分法のうち、第四種は第二種の形式の下に列することができる。ただ、前者(第四種)は内界の経験から言い、後者(第二種)は外界の経験からこれを言うのが異なる点なのだ。要するに、第一種の充足理由の原則こそが我々の「理性」の形式で、第二種は「悟性」の形式で、第三種は「感性」の形式であることが分かる。この三種の共通の性質は、あらゆる事物についてその「そうなる所以」と「そうならないことはない所以」を証明することにある。つまり、我々が与えられた結末から見れば、必ずそのそうなる理由があり、与えられた理由から見れば、必ずそうならないことはない結末がある。これは世界で最も普遍の法則であり、またこの原則がそれによって世界の最も普遍の法則となり、よって我々の知力の最も普遍の形式にもなる。

 整理すると、以下のようになります。

  • 第一種:認識の充足理由の原則:「理性」
  • 第二種:生成の充足理由の原則:「悟性」
  • 第三種:存在の充足理由の原則:「感性」

 そして王国維は、これを中国の伝統的な「理」概念と比較します。

 故陳北溪(淳)曰「理有確然不易的意」,臨川吳氏(澄)曰「凡物必有所以然之故,亦必有所當然之則。所以然者,理也。所當然者,義也」。徴之吾人日日之用語,所謂「萬萬無此理」,「理不應爾」者,皆指理由而言也。

 さて、陳淳は「「理」には確定して変化しないという意味がある」といい、臨川の呉澄は「すべて物には必ずそうなる所以があり、また必ずそうなるべき法則がある。そうなる所以とは、理である。そうあるべきこととは、義である」という。我々の日常の言葉から証拠を出すと、いわゆる「まったくこの理はない」とか「理としてそうあるべきではない」といった言葉は、いずれも「理由」を指して言っている。

 さて、喬氏論文では、王国維のこの二例は、二人の本意を掴んでいないと批判されています(p.83-84)。「所以然之故」といった字面は先ほどの「理」の分析に出ていた言葉と近いのですが、この二人のいう「理」は朱子学的な意味の「理」、つまり宇宙の本源・本体として措定された「理」であり、また同時に万事万象の生成運動の法則としての「理」のようです。よって、確かに、彼らが言う「理」と、王国維がここまで分析してきた「理」とは分けて考えなければならないものです。

 ただ、これは私の意見ですが、王国維としてもこれが朱子学の「理」であることは百も承知でしょう。その上で、中国において「理」と呼称され得るさまざまな概念の中に、(たとえ字面だけであったとしても、部分的に)欧州と重なる事例があることを示した、といったところではないでしょうか。もちろん、仮にそうだとしても、例としては適切ではないと言われてしまえばそれまでですが。

 

 さて、ここから話は「狭義」の意味の「理」の分析に移ります。

(棋客)