達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

トマトパスタのすすめ

 恥ずかしくも有難いことに、高校まで食事の料理は親に任せっきりで済ませていたが、一人暮らしを始めてからはほとんど自分で料理を作るようになった。その中で明確になった自分の料理の傾向は、「とりあえず色々買って、ありものを炒めたり煮込んだりして何か作る」というものだ。凝ったものをレシピ通りに作るのは稀で、だいたいその場のノリで味付けをする。だから、毎回確実に同じ味になる「得意料理」みたいなのはあまり存在しない。

 ただ、このやり方だと、「どの要素が異なるとどう味が変わるのか」ということがいつまで経っても分からない。たとえば、「前回とカレーの味が何か違う」として、味を変化させるパラメーラーにはこういう要素が想定される。

  1. 野菜・肉の種類。
  2. 野菜・肉の価格帯。
  3. 野菜・肉が新鮮かどうか。
  4. どういう順序でどれぐらい炒めたか。
  5. ルー/スパイスに何を使ったか。
  6. 水・バター・塩コショウなどの分量。
  7. 煮込み時間。

 しかし、レシピ通りに作るということをしないので、「何か味が違う」時に、それが上のどのパラメーターによるものなのか分からない。その場で調味料を足して(自分にとって)おいしく感じられるものにする調整力はあるので、何となく「そこそこ旨い」ものは完成する。こんな具合なので、私は料理をし始めてから数年経っても、鶏のもも肉と胸肉の違いを理解していなかった(今思うと信じられないが)。つまり、肉の味が違ったとして、それが肉のせいなのか、煮込み時間のせいなのか、炒め方の違いなのか……といった要素を掴んでいないので、肉の種類の問題かどうかが結び付かなかったのだ。

 こういう料理の仕方だと、「何となく自分の好みのものを作る」技術や、「家を空ける前に冷蔵庫の生物を消費する」テクニックなどは身につく。しかし、ここから一歩進んで料理に向き合えるようになったのは、「パラメーターを固定して味の変化を楽しむ」ことができるようになってからだ。

 で、自分にとってそのきっかけになったのは、「出汁を取る」ことと「トマトパスタを作る」ことだった。今回は、このうちトマトパスタについて書いてみる。

 ちなみに、以下のレシピは同居人に教わったものだ。基本の作り方が固定されている中で、味が変化するポイントが少しずつあるので、私のような傾向がある人にとって学びの多い料理である。

用意するもの

  • トマト(トマト缶半分 or 大トマト1個)
  • にんにく
  • 鷹の爪(なくてもいい)
  • オリーブオイル
  • 白ワイン(なくてもいい)
  • パスタ(おすすめは7分でアルデンテになるやつ)
  • バジル(乾燥or生、なくてもいい)
  • 粉チーズ(なくてもいい)

作り方

  1. にんにくをつぶし、オリーブ油を多めに入れて、フライパンでごく弱火で炒め始める。鷹の爪も一緒に入れる。このとき、にんにくを焦がさないように気を付ける。
  2. お湯を加熱し始める。塩を一つまみ入れる。
  3. 数分後、トマトを切ってフライパンに入れて炒める。塩一つまみ、白ワイン少量を入れる。
  4. どろどろになるまでしっかり煮詰める。
  5. 同時進行でパスタをゆで始める。
  6. ゆで汁を少しフライパンに入れる。
  7. 茹で上がったパスタをフライパンに入れる。
  8. 水分が飛んだら、火を止める。
  9. バジルを入れて、味を見ながら塩胡椒を振って、混ぜる。
  10. 皿に盛り付ける。粉チーズをかける。完成。

味を変えるパラメーター

 このように素材と作り方はとてもシンプルなのだが、味を変えるいくつかのパラメーターがある。そのパラメーターが多すぎないので、料理のどのフェーズでどういう風に味が変化するか、ということを体感できるのが面白いというわけだ。

 私の感覚では、このトマトパスタには以下のようなパラメーターがあると思う。

  • トマトの違い
    • 生トマト→さっぱりした酸味が出て、軽くぺろっと食べれる感じのパスタに仕上がる。
    • トマト缶→もったりした感じで、煮込んだソースっぽい感じになる。
    • 個人的には生トマトが好みだけど、値段が高い時が多いので悩みどころ。
  • 白ワインの量の違い
    • 一度多めに入れてみると、果汁っぽい旨味や甘みが足されていると分かる。
    • 個人的にはちょっと多めが好き。
    • でも家にワインが無いことが多いので、結局入れないことが多い。それでも十分に美味しい。
  • 鷹の爪の量
    • 当然ながら多いとかなり辛くなる。
    • このレシピで「食えないもの」ができる可能性があるとしたら、鷹の爪を入れすぎた時だと思う。
    • 個人的には、辛みをギリ感じないぐらい(一欠片ぐらい?)入れた時に、絶妙に旨味だけ感じるポイントがある気がして、これを目指している。
    • ただ鷹の爪によって辛みに結構差があるのでコントロールするのは難しいイメージ。別に入れなくても美味しい。
  • 炒める時間・煮込む時間
    • にんにくを丁寧に弱火で長めに炒めると、ソース全体にコクが出ると思う。ただ、にんにくを焦がすと苦みが出る。焦がしにんにく自体は好きだが、トマトソースの場合は不要だと思う。
    • トマトをしっかり煮込んで水分を飛ばしていると、トマトの甘みが引き立つ。
    • 個人的には、にんにく・トマトともに時間を取ってじっくり火を通した方が美味しいと思う(「時間を取る」とはいえ30分もあれば完成する。)
  • ゆで汁の量、パスタを移すタイミング
    • ゆで汁を加えるのは、ソースのトマトと油を絡ませるため。ゆで汁を少しだけ入れて、ソースを完成させ、これと茹で上がったパスタを絡めるのが一つの方法。
      • この方法だと、パスタ単体の味とソースの味が個々にしっかりと感じられる。パスタを先に皿に上げて後から上からソースをかけてもよい。
    • ただ、ゆで汁を多めに入れておき、パスタをあえて固めで上げて、フライパンでパスタをソース+ゆで汁で煮込みつつ水分を飛ばす、という方法もある。
      • この方法だとパスタにも味が染み込むが、パスタの固さと水分量の調節に若干気を遣う。
  • バジル
    • 乾燥バジル→味にさわやかさが出るが、ややもったり感はある。保存できて便利。
    • 生バジル→味も香りもいい。熱に弱いので、加熱しないように注意。
    • とはいえ、なくても十分美味しい。

まとめ

 色々書いたが、ひとまずトマト缶・にんにく・パスタ・塩コショウがあれば作れる。どれも保存がきくものなので、手軽に買えるのがいいところだ。とりあえずトマト缶二個・パスタ一袋・にんにく一個買えば、トマトパスタを4回は作ることができる。その中で、ちょっとした組み合わせや料理時間の変化で味が変わる。するとどのパラメーターで味が変化したか分かる。

 もちろん、ツナ缶・玉ねぎなどの具材を追加してもまた味が変わる。ただ、毎回あれこれ足していると、先述した私の状態になってパラメーターの変化を掴むのが難しくなってしまうので注意が必要だ。また、トマト・ワイン・にんにく・オリーブ油などの品種によっても当然味は変わるのだろうが、私の場合はまだそこまで掴めていない。

 こうして書き出してみると、単純な料理でも、案外たくさんのパラメーターがあると気が付く。今年の私の目標は「何かのスキルをちゃんと上げること」としているのだが、料理においては、こういうパラメーターの変化を掴める幅を増やすこと、を目標にしたい。

スキルと楽しさ

 いま、自分のスキル向上のために、料理におけるパラメーターの変化を掴めるようになりたいと書いたけれど、その根源的な動機は、結局は「私がそういうことに楽しさを覚えるから」というところにある。

 料理におけるパラメーターの変化は、自分の感じる嗅覚や味覚と結び付いている。より自分にとって喜ばしく、幸福感を覚えるような味を作り出すパロメーターを理解するという行為は、つまるところ、自分のことをより深く理解するための試みの一つである。大仰に言えば、「自分の喜びを生み出すものを作る過程に向き合うこと」は、そういう過程を見えなくして完成品を金銭と引き換えに消費するシステム(=消費主義)に対する私なりの抵抗と言えるのではないか、と思っている。

 

 ちなみに今回の記事は、以下のブログの記事を読んだことがきっかけになって、自分の場合に置き換えて書いてみた。今年は、コーヒーを淹れる時のパラメーターの変化でも遊んでみたいと思う。

 coffee tips - ガソリン・スタンド

(棋客)

中村一義は「理想」を手放さない

※ホームページで書き下ろした記事の転載です。

 中村一義に出会ったのは中学生の頃だ。2010年前後、Twitterで知り合った名古屋在住の自称「おばちゃん」が、オススメのCDを段ボールに詰めて送ってくれた。fishmansサニーデイ・サービスくるりスーパーカー……「あの頃」を彩ったバンドともに、中村一義のアルバムがたくさん入っていた。内容は忘れたけど、丁寧な手紙も同封されていた。私はすぐそれらのCDに没頭し、その中でも中村一義は忘れられないアーティストになった。

 私は1995年生まれ。世代的には、90年代のオルタナティブ・ロックの流行にリアルタイムで乗っていたわけではない。だから私は、上記のアーティストが盛り上がっていた当時の「熱」をきちんと共有しているわけではないことは、最初に断っておく。

 そんな私が以上のバンドに抱くイメージを一言にするとこんな感じだ。ダウナーで、たぶん大麻的な(やったことないけど)「浸り」をライブで生み出すfishmans。周りに「地に足をつけている」ように見られたい、臆病な文学青年の独白を想起させるサニーデイ・サービス。シンプルであることの良さをバンドサウンドにもエレクトロニカルにも引き出したスーパーカー。次々新ジャンルに挑みながら、「完成品」としてのアルバムを出すことにこだわってきたくるり

 それぞれ個性があって、唯一無二の光を放っていると思うけれど、やっぱり政治的には「物足りない」と言わざるを得ない。特にくるりに顕著だと思うのだが、人々が都市生活で感じている生きづらさや、寂しさ、悲しさを絶妙な歌詞とメロディーで表現できるのに、それをその人の中で仄かに爽やかに、「一瞬の煌めき」で昇華させてしまう。社会に何か問いかけているように見えて、そこに表現されているのは「前向きな諦念」だ。確かに、生きていく上でそういう気持ちが必要になることもあるし、私もくるりの歌にたくさん救われてきた。でも、「これだけでは物足りない」と思ってしまうのも事実だ。(くるりの詞に思うことはまた今度言葉にしたいと思う。)

 サブカル論を何一つ読んだことがない私が、ものすごく適当なことを言うが、こういうがまさに「サブカル」的なんだろうなと思ったりする。

中村一義というアーティスト

 前置きはこのぐらいにして、中村一義の話に移る。中村一義の歌は、こうしたサブカルの政治的な物足りなさに対して、上記のアーティストとは一線を画す、独特のアプローチを取るものとして解釈することができると思う。

 とはいえ、たとえば同世代の七尾旅人ほどには、中村一義からはっきり政治的立場を感じ取れるわけではないし、中村のインタビュー記事を読んでもそれは見えない。中村はブルーハーツのファンであることを公言しており、歌詞や歌の中にその影響が見えることもあるが、ブルーハーツほどにストレートに主張を明かすことはしていない。だから「抵抗の歌」を探す感覚で中村一義の曲を聴いても、ピンと来ない人が多いと思う。

 それでも私は、中村一義の歌から、中村自身が人と社会に誠実に向き合ってきた軌跡を感じ取ってきたし、その解釈はそんなに間違っていないと思う。私が中村の曲から受け取ったことは、自分なりの理想を語ること、そして理想を掲げることに、何も怯える必要はないということである。

 今回は、中村一義ソロ・プロジェクトである最初の三作「金字塔」「太陽」「ERA」を中心に歌詞を拾いながら、思ったことを書いていく。孤独と闘ってきた中村が仲間と出会った喜びを感じさせる「100s」や「OZ」といった中期以降の作品も好きだが、まずは中村の原点に迫ることから始めたい。

確かに生きている「僕」

 中村一義の歌に登場するモチーフとしては、孤独ながらに確かに存在する「僕」、次に「僕」の呼びかけの対象であり「僕」の存在を感知している「君」(=聞き手)、そしてそれを取り巻く「社会」と、そこにある「理想」が挙げられると思う。

 まず「僕」の実存を確かめる歌として象徴的なのが、デビュー作『金字塔』の「ここにいる」だ。

小さな灯り消して、真っ暗にしてみる、
すると、解るよ。「僕は、今、ここにいる」。
小さな灯り消すと、みんな、何見える?
遠い先の自分が、ほら、今日に手を振る。振る?

―「ここにいる」(金字塔)

 部屋の電気を消して、周りの刺激から自分の身を離してみると、今を生きる自分の実存が確かにここにあると分かる。その実存を確かめていると、遠い未来で生きている自分が今の自分に手を振っていることに気が付く。……いや、本当に振っているのか? この一段の最後の疑問符には、「未来でも自分は生きているのか?」という問いが隠されている。

 この疑問符は聴くだけでは分からず、歌詞カードを見ないと気が付かないのだが、「僕」の状態を考える上で決定的な意味を持つと思う。それは、「僕」が死を意識しているということだ。未来、僕が存在するのかは分からない。死を意識しながらも、確かに「僕」の実存がここにある。そんな「僕」は日々「宝」を探している。

ただの平々凡々な日々に埋まる、
宝を探す僕が、今、ここにいる。
どうだっていいや。カッコとか、そんなのは。
僕は、ただ、変わるここで暮らすんだ。

―「ここにいる」(金字塔)

 「僕」は変わっていく世界で暮らしながら、周りからどう見えるかは顧みずに、トンネルを抜けた際の「解放記念日」を目指して、「敵を越え行き」進んでいく。次作『太陽』の「日の出の日」にもこんな一節がある。

眠れないなぁ。じっとしていたって、消えるようで…ドアの向こう側へ
瞳からどっと溢れ出た、あめ玉を置いていっても、気持ちは残りそうで…
暗いせいか、睡魔が呼ぶせいか、ボヤけたって、「たったひとつ」は、今、ここにある。

―「日の出の日」(太陽)

 眠れない孤独な夜、消えてしまいそうな自分に涙を流す「僕」が浮かんでくるような歌詞だ。でも、「たったひとつ」はここにある、と中村は断言してくれる。同じく『太陽』収録の「歌」にもこんな力強い一節がある。

ちょい偽善者のような、僕なんかが言うのもなんだが
最後に見出だすものは、本当のことだぜい!

―「歌」(太陽)

 孤独な「僕」と、その「僕」が決して手放さない「宝」「たったひとつ」「本当のこと」があること。まず、中村一義の歌の原点はここにあると思う。

競争社会との決別

 では、そんな「僕」を取り巻く社会を、中村はどうとらえているのか。

全てに溢れ、何かが無くて…
廻る輪の上を急ぐ点の中で、
廻る輪の上の点に乗って…
考える
理想も現実色に染まる。
で、そんなふうになっていく、時の中で、そう、金字塔の夢を見る。

―「始まりとは」(金字塔)

 全てがあふれ、何かが無くて、ぐるぐる廻る輪の上で急がされる社会。これは、いつも何かに急かされ、成果や生産性を競わされる、大量消費・大量生産の現代社会の比喩として受け取れるだろう。競いたくもないのに競わされる社会の中で、われわれは自分が何者なのか分からなくなってしまう。

頂上の方へ、なんで僕等、そんなに突き進むんだ、違うよなぁ~。
僕ぁ、もういったい何者なんだぁ?

―「謎」(金字塔)

 こうした社会の中で生きていると、確かな「僕」が掲げたはずの理想も、いつのまにか現実色に染まってしまう。理想が理想として掲げられなくなる時、そこには必ず切り捨てられる弱者がいることを忘れてはいけない。

「排他的で軽くなる」って、だって、もう、重くなっちゃうのにね
もう、犠牲でさ、取り引きしたって、だって、
別れよりは出会いがいいなぁ

―「あえてこそ」(太陽)

 排他的になって「軽く」して、犠牲を作って「取引」する。マイノリティの権利運動の過程を思い起こさせる一節だ。こうして権利を与える人と与えない人を線引きし、「犠牲」と「取引」の繰り返しでできあがったのが、まさに今の社会ではないか。

 この曲「あえてこそ」は、「何度現実(いま)とやりあってたからって、一緒にいたい」という詞から始まる。現実とやり合う中で、切り捨てられるものを諦めずに、共存したいという意思がそこにある。

 三作目の『ERA』にはこうした社会への不信を歌う詞が目立つ。

上には今も変わらずにある、排気の層が、
視界、ずっと、ずっと、ずっと、ボヤかしてさ
ここは今も変わらない口論が、
視界、ずっと、ずっと、ずっと、狭くしてさ。

―「1, 2, 3」(ERA)

新世紀だろうがさ、根本は何も変わりゃしない。
見てみなよ、独裁者が叫ぶ革命はエゴさ。

―「ゲルニカ」(ERA)

へいき?ハメられてんだ、見えない罠に。

―「虹の戦士」(ERA)

 また、『金字塔』の「永遠なるもの」では、社会のシステムに「飼われていた」自分を発見する。

急にね、あなたが言う…。「なんかに飼われてたみたい…。もう冗談じゃないし、泣けるし、笑える…。なんだかなぁ…」って。

―「永遠なるもの」(金字塔)

 理想が現実色に染まり、排他的に犠牲を作って、人を飼い慣らし、競争に駆り立てる社会。デビュー曲の「犬と猫」は、「僕」がこうした社会に背を向ける決別宣言として、またそうした社会の「ボス」を打倒する宣言として聴くことができる。

街を背に僕は行く
今じゃワイワイできないんだ
奴落とす、もう。さぁ行こう!
探そぜ、奴等、ねぇ…
もうだって狭いもんなぁ。

―「犬と猫」(金字塔)

 この曲の冒頭の「どう?」という呼びかけは、「奴等」を探し、「落とす」ための仲間を探しているようにも響く。ここで表現されている「僕」の決意は、「僕として僕はゆく」ことに他ならない。

のんびりと僕は行く。痛みの雨ん中で。
皆、嫌う、荒野を行く。ブルースに殺されちゃうんだ。
流行りもねぇ、もう…。伝統、ノー!
んで、行こう!ほら、ボス落とせ!

―「犬と猫」(金字塔)

 流行りにも伝統にも背を向け、「痛み」を感じながら、のんびりと、確かに歩みを進めていく。孤独な「僕」が、自分の中に確かにある理想を抱えながら、生き続けていることが歌われている。

呼びかけられる「君」

 「僕」の「どう?」と呼びかけは、中村の曲の中でさまざまな形をとって響き、「君」に届けられる。つまり、中村の歌でいう「君」とは、聴き手である私たちのことだ。

「変わりたい」「何も変わんない」
そんな論争に熱上げたぐらい、
君は自分自身の魔法を信じ続けるかい?

―「魔法を信じ続けるかい」(金字塔)

 「魔法を信じ続けるかい」は、「失敗や後悔の存在も許せる」「無力だった日は充電していただけ」と聴き手を勇気づけながら、われわれの中に「魔法」が息づくことを教えてくれる歌だ。魔法の発動条件は、「単純なことを想う」こと。原則はいつもシンプルで、単純さの中に自分を支える魔法がある。

 『ERA』の「ジュビリー」では、このことが「魔法」ではなく「溢れ出す世界」の中の「決して消えない場所」という言葉で表現されている。

そう、君ん中に、溢れ出す世界に、決して消えない場所が。
それを綺麗事って済ますなら、去って。君を祝いたいから。

―「ジュビリー」(ERA)

 私の中に広がっている無限の世界が、めまぐるしく移り変わっていく中でも、絶対に消えない場所がある。それこそ、自分が信じ続けるものであり、最後まで手放さないもの、つまり「理想」である。

そう、君ん中に、溢れ出す世界に、必死で灯るサインが。
それをみんなが持って、出会えたらなぁって、
単純に想いたいから。
僕は、手かかげて、想い達するまで。

―「ジュビリー」(ERA)

 死を意識した僕/君が、まさに「必死」に灯すサイン。そこには他者とのつながりを希求する切実さがある。

 ここで使われている「出会い」という言葉も、中村一義の歌では繰り返し用いられる。たとえば「みんなが待つ誰かや、みんなを待つ誰かも、出会えるといいな」(「生きている」)、「いろんなねぇ、色、音で、出会う僕も僕と分かる」(「謎」)、「そんなねぇ、こん先で、出会う感動も、またあるとして」(「1, 2, 3」)など、中村はさまざまな言葉で「出会い」の喜びを歌っている。

 出会いは、常に自分とは「異なる物」との間に起こるものだ。必死のサインによって生まれた、自分と差異のあるものとの邂逅という奇跡を中村は歌っているのだと思う。ここで言われる「出会い」の感触を述べていたものとして、「永遠なるもの」の冒頭の歌詞は解釈することができる。

ああ部屋のドアに続く、長く果てない道
平行線の二本だが、手を振るぐらいは…

―「永遠なるもの」(金字塔)

 「出会い」という言葉からは、人生が交差していくという印象も受けるが、実際のところ、「君」と「僕」の人生は結局は「平行線の二本」であり、そこには永遠に埋まることのない空隙がある。でも、互いに手を振って、存在を確かめ合うぐらいは、あってもいいじゃないか。孤独に理想を掲げ、街に背を向け、僕として歩んでいる「僕」が、「サイン」を灯して、感知してくれた他者に手を振った瞬間の可能性を追求し続けたいと私は考えている。

「永遠なるもの」に見る中村一義の理想

 さて、中村一義が直接的に自分の「理想」を歌った歌として最初に挙げるべきは、やはり「永遠なるもの」になるだろう。

 この歌では、「愛がすべての人に分けられてますように」「感情が全ての人たちに降り注ぎますように」「すべてが人並みに上手く行きますように」と、分かりやすくストレートな言葉で中村の願いが歌われている。最後に歌われるのは「全ての人たちに足りないのは、ほんの少しの博愛なる気持ちなんじゃないかなぁ」「この幼稚な気持ちが永遠でありますように」という切実な言葉である。そして「僕の人生はバラ色に変わった!」という叫び声とともにアルバムは幕を閉じる。

 これらの言葉には、中村が理想とする世界がそのまま描かれていると思う。ひとまず「永遠なるもの」に表現される中村の理想は、博愛にあふれた世界、みなが「人並みに」うまくいく社会、といったところになるだろう。

 ただ、こうして「愛」や「感情」を解放の鍵としてとらえる見方には、危ういところがあるし、私としては批判したいと思う。理想とするべきは、愛や感情があろうがなかろうが、誰もが解放されて共に生きて行ける社会である、と私は思う。この社会の現状を「人々が愛や感情に欠けているせい」としてしまうのは、「感情の感知能力がない人が悪さをするのだ」という能力主義・健常者中心主義的な帰結になりかねない。また、排外主義だって当人にとっては「愛」のためだったりするわけで、その意味でも「愛」を掲げる理想には限界があると思う。

 加えて、「人並みに上手く行きますように」という言葉も、少し引っ掛かるところはある。それはこの言葉に、規範的な、幸せとされる「人」の生き方が想定されているような感触がするからだろう。もしくは、かわいそうな他者を「救済」するような方向性にも読めるという面もあると思う。(ただ、この歌詞は「みんなそこそこ上手く行ったらいいのに」という素朴で幼稚な願いを、絶妙に表現したものとして受け取ることも可能だとは思う。)

 「永遠なるもの」に描かれる理想に、こうした限界を感じることは否定できない。ただ、中村が「愛」を歌う時には、私がある種の安心感を受け取っていることも確かだ。その安心感は、中村が恋愛・家族愛的な「愛」、また規範的なものとされる「愛」の形からは明確に距離を取っているアーティストであることから来ていると思う(*1)。私は勝手に、中村のいう「愛」や「感情」を、共存・共生することへの志向として読み替えて受け止めている。アーレントが言うように、われわれは「地上で誰と共生するか」を根本的な意味では選ぶことができない(これを「選べる」とする考えの行きつく先がジェノサイドだ)。中村にとっての理想とは、平行線を辿る他者たちとの邂逅に、徹底して「喜び」を見い出せるような自分でいること、にあるのかもしれない。

最後に

 以上、私の勝手な歌詞の解釈を書いてきた。中村は、多くのミュージシャンとは異なり、デビューまでライブを一切行ったことがなく、たった一人で自宅での録音でデビュー作の『金字塔』を作り上げた。その自宅の録音ブースは「状況が裂いた部屋」(「犬と猫」)と名付けられている。中村の歌はポップな調子でありながら強烈な「ねじれ」を感じるものであるが、それはまさに「状況が裂いた」中村自身を映し出しているように思う。

 一言でまとめると、理想を掲げる人に祝福の言葉を届けるために、中村一義の歌はある、と私は思う。最後にそういう歌詞を掲げて、この文章を終わりにしたい。

僕等は、願いを持った戦士なんだ。
もし、君の声が枯れ果てたら、
オレが歌で叫んでやる。

―「虹の戦士」(ERA)

僕やあなたも自分の声で
やがて祝える日があるとして

―「JUBILEE」(ERA)

ただ僕等は絶望の「望」を信じる。
なんか、わかんないかなぁ…って。

―「魂の本」(太陽)
(注釈)
  1. 私の記憶の限りでは、中村一義の歌詞にはジェンダー中立的な言葉しか出てこない。直接的に恋愛を描く歌もない。この傾向はデビュー以来一貫している。ただ性規範への問いかけの歌詞があるわけでもなく、どちらかというと「無性」にして「博愛」という言葉がしっくりくる曲を作り続けてきた人だと思う。そもそも中村一義のパフォーマンス自体、極端な裏声を多用し、いわゆる「男性的」な声では歌わない。服装や髪型なども中性的なもの、またはっきり女性的とされるものを好む印象がある。特に近年は、長髪でワンピース風のゆったりした服を多用している。こうしたところからは、いわゆる規範的な男性性から距離を取ったパフォーマンスをする意志をはっきり感じる。

(棋客)

ホームページ作りました

 ホームページ「閑閑空間」を公開しました!

 https://kankan-kukan.net/

 作り始めてみると、内容よりもデザインやウェブ構築に凝ってしまいました。ダークモード対応、スマホ対応、RSSの取り込みなど。まだ作成中ですが一応機能しているはずです。

 つぶやきスペースと掲示板は配布されているプログラムをお借りしていますが、他はだいたい自力で作っています。昔htmlを書いていた頃より、色々と便利になっていて驚きました。

 まだコンテンツは少ないです。このブログでは、勢いで書いた文章やただのメモが多いですが、もう少し整理した文章をホームページに載せていきたいと考えています。文章だけではなく、せっかくサーバーを借りたのでいろいろやってみたいですね。

(棋客)

近況報告

 博論提出間際ということで、今週・来週は更新をお休みします。いま、珍しく記事のストックが全くない状態なので、再来週の更新も難しいかもしれません。今年一年間の記事更新数はすでに例年より多くなっているので、このまま年内の更新をお休みしてもいいかなと思っていますが、まだ決めてないです。

 何も文章を書いていないというわけではなくて、最近は自分のホームページの作成に勤しんでいます。このブログの中で、ある程度言いたいことは書けていて、パーツは揃いつつあるのですが、どうしてもブログだと系統的に整理できないので、そのための場所を作っているイメージです。

 パーツがあるとはいえ、ブログでは書き殴りになっているので、まとめるに当たってかなり手直しをしたり、追加する必要のある文章があったりして、かなり時間がかかっています。完成がいつになるかは分かりませんが、年明けぐらいにリリース出来たらなと思っています。

(棋客)

「タイマン森本」が好きすぎるという話

 今日は、私が好きなお笑いコンテンツの「タイマン森本」の好きな回について語ってみたい。

 「タイマン森本」とは、「トンツカタン」というお笑いトリオグループの森本さんが、他のお笑い芸人を一人ゲストに呼んで、その人に百回ツッコミを入れたら終わり、というシンプルな企画だ。ゲスト側がしっかりネタを作ってくる場合もあれば、普通のトークで勝負する場合もあるなど、ゲストによって雰囲気は全く異なる。

 テレビでお笑いを受容して育った私としては、芸人に素直に笑って嫌なことを忘れることができた楽しい経験がたくさんありながらも、同時に、冷笑・嘲笑的な手法、知らない人を置いてきぼりにしたままフォローのない内輪ネタ、また女性蔑視・同性愛蔑視を使ったホモソーシャルな手法のお笑いに居心地の悪くなる経験もしてきた。同級生たちとお笑いの話で盛り上がることもあれば、そのトキシックな手法を真似する同級生たちの言動に嫌な思いをすることもあった。好きなネタもたくさんあるが、無警戒でだらっと観れるわけでもない。お笑いに対しては、好きとも嫌いとも言い切れない複雑な感情を持っている。

 ただ、タイマン森本はそういう要素が比較的少なくて、またゲストも森本さんも「無理をしている」感じがなくて(その「無理してなさ」を醸すのがプロの技だけど)、しんどい時でもぼーっと観れるコンテンツとしてほどよい。元気な時でも疲れている時でも、脳のリソースを食わずに楽しめるコンテンツは本当に貴重だと思う。レヴァンの九条ジョーの回のアフタートークで、一話完結のアニメのように楽しめるという話があったけど、まさにそんな感じだと思う。

 以下、「タイマン森本」の中から、何度も繰り返し視聴しているお気に入り回を厳選して、紹介したい。

 この回は、森本さんが、きょんちぃさんが普通にメイク動画を撮るのを受け入れて、時折メイク自体への質問を挟みつつ、普通に話を引き出していくのがめっちゃいい(編集でメイク用品の字幕が入れてあるのもいい)。ここで「なんでメイクすんねん」「はよ終わらせろ」みたいな、相手のやりたいことを全否定するツッコミを入れないのが森本さんの好きなところだ。

 あと、きょんちぃ「鼻高いね、整形?」→森本「そんなわけあるか!」の後に、「この顔でいの一番鼻いかないよ」と被せて入れたツッコミも好き。これが「そんなわけあるか!」で終わると、整形自体を否定しているかのようなツッコミになるわけだけど、その後に「この顔で最初に鼻いかないよ」とフォローすることで、自分の場合はまず鼻を整形しないよ、という文脈に回収することができる。

 森本さんがすごいのは、こういうフォローの言葉自体が、また一つの笑いになっているところ。ここを「いや、別に整形してもいいんだけどね」とそのままフォローしても別に良いのだけど、ツッコミのフレーズとしてフォローすることでリズムが崩れないし、「あ、いまフォローしたな」というノイズになることもない。

 この回では、愛さんが真っ白くて喋らない謎のキャラクターとして役に入って登場する。これに対して、「なんか喋れよ」とか「真っ白すぎるだろ」みたいな、キャラクターの設定自体を尊重しないツッコミを、森本さんはすぐには言わない。まずこれが好きなところで、そのキャラとしての愛らしさをうまく表現しながらツッコミを入れていくのがとても良い(「Fall Guys出てました?」とか)。

 でも完全にスルーするわけでもなくて、たとえば「壁と同化しちゃう」という別の要素が出てきたところで全身真っ白なことをツッコミに使う。また、別のキャラクターに変わった愛さんが普通に喋った時にツッコミを入れる。キャラ自体を否定しかねないツッコミはすぐに消費せず、いいタイミングまで取っておく感じが好きだ(しかもそれを自分で粒立てずさらっとやっているのがいい)。

 中野さんが、森本さんに「今日、キスまで行けたらなと思って」と言い、森本さんが「場合によっちゃあね」と受け止めて始まる。その後もときおりキスと関連するボケが入るのだが、キスに向かう二人という設定は崩さないままツッコミを入れていくのがいい。「男同士で?」みたいなホモフォビックなツッコミがないのも観ていて安心できる。ラストもよくできてて、即興とは思えない仕上がり。

 全体的に、むしろ中野さんの3歳児的な「かわいさ」が際立つ回になっているのも好きなところ。森本さんが「きゃわいい」「ぎゃんかわ」だけの合いの手で成立させる時間もいい。

 「本気で好き」というボケ(本気?)の一本で最後まで走り切ってしまう爽快感がいい。あんりさんが、森本さんの良いところを細かに挙げて褒めまくるだけで、笑いになっていくのが新鮮な感覚。あれ、これで笑えるんだって不思議に思う。フローリングの地べたですき屋を食う二人の恋愛リアリティショーって、需要あるんだなと思った。

 この回は、「営業室の控え室」というコントの設定が秀逸で、ここから自然な流れでゴージャスさんが自分のネタをいくつか見せていく。最後までその設定を守り切って終わるのが綺麗な回。もちろん森本さんは、その設定自体を否定するツッコミはせず、その状況になりきった相手に合わせたツッコミを入れていく。森本さんが、ピン芸人の既存のネタに合わせて、リズムを壊さないようにしながらツッコミを添えていくのも好きなところだ。

 また、くじ引きでネタをやっていっているのに、結果的に一番いい流れで終わっていて、最後まで盛り下がることなく進むのがすごい。

 永野さんの訴えをひたすら森本さんが聴く回。森本さんを「多様性代表みたいな顔」と言ったり、タイマン森本のスタッフを「革命起こそうとしている」と言ったり、何となく本質を衝いていると思わせる言葉が出てくるのが楽しいし、この二人ならではの場所になっていると思う。

 森本さんが「あんた寂しいんだろ」と言ったところは、永野さんのスタンスに対する正解の言葉だと勝手に思っている。

 きょんちいさん・信子さんの回もそうだが、相手のキャラや人としてのあり方を否定しないという森本さんのスタイルが、ギャルのマインドととても相性がいいと感じる。他の番組だと、「ギャル」というキャラだけで似た芸人として出ていることが多いと感じるけど、タイマン森本だとそれぞれのキャラの違いが如実に分かるのがいい。それは森本さんが相手を尊重したツッコミをしているからだと思う。

 「能書きブス」という発言についてアフタートークで深堀りされたところもなかなか面白くて、多様性と「人を傷つけるかもしれないこと」についての話があったのも嬉しかった。

 タイマン森本というコンテンツに対して「供給が多すぎて森本さんを追っていたら人生が終わっている」「面白いけど見終わったあと何も残らない」など、(森本さん好きには)刺さる言葉が多い回。森本さんの過去のツッコミを見返して疑問を呈するところがめっちゃ面白かった。冷静に考えたらおかしなツッコミが山ほどあると思うので、これもまたやってほしい。

 

 以下、力尽きて詳しく感想を書けなかったけど、好きな回を置いておく。 

 全体として、明るい回もあれば、毒の多い回もある。別にキラキラしてて前向きだからいいとか、そういうわけでもなくて、とにかくストレスなく観れるのがいい。普通のトークベースの回でも、伏線を展開して(というか伏線だったということにして)文脈を作り上げていくのがプロの技だと思う。

 「ポリコレでお笑いはつまらなくなる」みたいな風潮があるが、タイマン森本を観てると、それは嘘だと思わせてくれる。これからも頑張ってください。

 ↓最近こういう連載を書かれているそうです。

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(棋客)