達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『エトセトラ』vol.10 男性学特集号の感想(1)

 遅れ馳せながら、フェミマガジン『エトセトラ』「特集:男性学」号(vol.10)を読んだ。同誌はこれまでに「特集:くぐりぬけて見つけた場所」(vol.7)を読んだことがあって、とても面白かったのを覚えている。

『エトセトラ』vol.10の書影

 今号も、掲載されている論考はどれもとても面白いのだが、雑誌としての全体の構成がやや読みにくいように感じた。よって、本来の順序とは関係なく、自分にとって説明しやすい順番で感想を書いていく。

 まず、そもそもこの特集号はどういう意図で編纂されたのか。背表紙には以下のように書かれている。

 性差別がはびこるこの社会では、実は「男」のことすら誰も考えていない。語られてこなかった男性の多様さはどこにある? 特権・加害性・生きづらさで終わらない、その一歩先にある「男性性」を見つける特集号。

 ちなみに、ある国立大学の生協の書店に行った時、『エトセトラ』の本号は平積みで置いてあった。おそらく、フェミニズムの文脈を知らない人も多く手に取ったと思う*1。まずこの編集意図と、読み手にはそういう人も含むものとして考えて、感想を書いていく。

 さて、この課題と読み手にもっともよく応えていて、かつ本号全体のガイドとするに相応しいのは、五月さんの文章だと思う。

  • 五月あかり「誰も好きになってはならない」

 この文章は、ホモソーシャルな場で交わされる「男子ノリ」の本質を、こうした概念に初めて触れる人にも分かりやすいように丁寧に説明していく。導き出される結論は、ホモソーシャルな場で交わされるやり取りは、その場の参加者が、女性も、男性も、そして自分をも大切にしないことに繋がっていくというものだ。

 この文章に誘われて、じゃあそもそも「男性性」って何だろう、そしてそれが誰もを大切にすることに繋がらないのだとしたら、なぜそんなノリが幅を利かせているのだろう、という問いかけが浮かんでくる。大きくその問いかけに応答する論考のうち、まず外側から分析するタイプの記事として、以下の論考がある。

  • 澁谷知美「男にとって「恥」とは何か―仮性包茎の現代史から」

 男性向けの仮性包茎ビジネスを題材に、男が男を貶める文化が、手を変え品を変え、資本主義のビジネスの道具として幅をきかせてきたことが述べられる。そしてそうした文化を終わらせるための手立てを伝える。整理が行き届いていている上に主旨が明快で、痛快な文章だと感じた。

  • 福永玄弥「男たちの帝国と東アジア」

 「わたしたちの取るに足りない習慣こそが家父長制と軍事主義を支えている」という言葉に集約されるように、軍事主義と男らしさの関係を東アジアの事例に照らして述べる文章。ただ、私は福永さんの他の文章を読んだことがあるから内容を理解できたものの、この文章自体はポイントとなる事実が列挙されている感じがして、初めて読む人にはやや読みづらいかもしれない。*2

 以上の二つは、ざっくり言えば、資本主義・軍事主義という大きな社会のシステムを支えるために、「男らしさ」が作られてきた・利用されていたことを暴く論考だと言える。そしてもう一つ、また別の角度から男性ジェンダーの存在を分析する記事が以下である。

  • 水上文「そして誰が排除されるのか―百合ジャンルにおけるミサンドリーの問題」

 私はこの論考を、百合を題材としながら、「女性限定空間」みたいな場の設定のあり方について問題提起するものとして読んだ。

 その意味で、この記事は「そもそもフェミニズム誌で男性を論じるってどうなの」という疑問に応える役割もあると思う(この疑問は「はじめに」でも提示されている)。もちろん、広い意味で言えば、全ての論考がこの問いに答えているとも言えるのだが、直接的に答えになる論考は、この文章だと思う。とすると、もともとの本誌の読者を考えても、この論考はとても大切な役割を背負っていると言える。

 なお、二次元のキャラクターの話をそのまま現実世界に適用することについて、何か注釈があってもいいかもしれないと少し思った。

 

 ここまでは、ざっくり外側から「男らしさ」や男性存在を分析する論考である。でも、こうした大きな流れでは語りきれない、セクシュアル・マイノリティを含めた、個人の格闘の歴史が存在する。そうした個人の語りも、本誌には多数収録されている。

 そのうち、まず「男らしさ」を問うことの前提から問い直しながら、一種の自分史を語るのが以下である。

  • 仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」とY・N「傷と言葉―仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」のための補足」

 この文章の冒頭の言葉は、そもそも「「男らしさ」について考える」という枠組みの設定自体に潜む罠を説明していて、男らしさの議論を進めるための前提を提示してくれている。その意義を考えると、本号の中で最初に読むべき文章はこれかもしれない。(この冒頭の言葉は、とても大切なことを言っていると思うので、また明日詳しく紹介したいと思う。)

 その上で、根源的な(性的)欲求を赤裸々に語り、自分の感覚の中での女らしさ/男らしさの探求の歴史を語っていく。前提を踏まえて丁寧に書きながら、他の人に押し付けないとしての自分の欲求が細かく分析されて語られていて、この特集号の中で最も記憶に残る論考だった。そしてY・Nさんの補足によって、自ら「消化しやすい言葉」に自分の体験を当てはめることは、自分自身を傷つけるものであり、仲芦さんの文章がその上に書かれたものであることが明かされる。

  • 瀬戸マサキ「「俺」を取り戻す旅」

 この文章は、外側から「男らしさ」が何か分析しながら、自分がその「男らしさ」を身に着けようとした経験が書かれている。最後のまとめがさわやかでいい。

  • 読者アンケート「男として生きること、男扱いされることの喜びを考えてみる」

 さまざまな人の率直な心情が集まっていて、とりあえずこれを読むだけでも、日常の中で色々なことを考えるきっかけになると思う。当たり前すぎるけれど、トランス男性やノンバイナリーもかなり多く含めてアンケートをとっているのも素晴らしい。

  • 勝又栄政「父と娘/息子」(小説)

 この小説に描かれている「男らしさ」の発揮のされ方が、自分も経験した出来事と重なる面があった。いつも疑問に思うのだけど、こういう雑誌に載っている絶妙にテーマに沿った小説って、どうやって発注しているのだろう。すごいと思う。

 不良・ヤンキー文化を男らしさととらえ、自分がそこに惹かれるという話。これは個人の格闘というより、惹かれる側の葛藤という方向性で読むことができる。

  • 中村一般「山田さんの生活」(漫画)

 大切に日々を送っている山田さんがとても素敵な漫画だった。

  • 森山至貴「異物のように、宝物のように」

 これはどういう意味づけの話として読んだらよいのだろう?声と結びつけられるジェンダー規範の問題はとても大事だと思うので、もっと掘り下げた論考を読んでみたい。

 

 さて、以上の論考では、より個人的な体験から、自分の趣味嗜好と男らしさの絡まり合いが語られる。「男らしさ」への問いかけから始まって、現実に生きる個人としての「男らしさ」の多様性という方向に話が進んできたわけだ。

 すると、では過去の「男性」たちが、自分自身にどう向き合ってきたのか(また向き合えなかったのか)、という運動の中での実践と、その背後にある社会変動を知りたくなる。

  • 周司あきら作成「男性史・女性史」

 とても簡潔にまとまっていて便利。これからアンチョコ代わりにたまに見ると思う。

  • 麦倉哲「「男らしさの崩壊」の先にみる絶望とかすかな希望」

 この論考は、正直ピンと来ないところがあった。過去の時代の流れの整理は分かりやすかったけれど、最後のまとめにある「男らしさは崩壊している。かすかな救いは、俺達はもともと「類的存在」なんだと意識できる人たちが、再びなんらかのかたちで連帯するしか、行き先は残されていないのではないか」という言葉は、正直よく分からないというか、本当にそうなの?という気持ちになる。

 でも、これは単に世代の違いかもしれないとも思う。たとえば、これまで何十年もバリバリ働いてきて、まさにいま定年前後という人が読むと、結構刺さる文章なのかもしれない。

  • 水野阿修羅×小埜功貴×周司あきら「男である自分を好きになる―90年代日本のメンズリブ運動」と小埜功貴「自分を終わらせて、自分へと生まれ変わろう」

 座談会と感想記事がセットであるのが良かった。この特集が面白くなった理由は、小埜さんの存在にあると思う。「男らしさ」に問題意識を持って長年メンズリブを実践していた水野さんを呼んだ上で、その人をきちんと追いかけてきて、リスペクトしながらも批判的視点を持ち合わせている小埜さんを引き合わせたことで、深みのある内容になっていると思う(小埜さんの他の文章は読んだこと無いので、間違った感想ならごめんなさい)。

 何十年も前にこうした試みが草の根からあったことは色々な意味で感慨深い。なぜこの方向性の運動が発展しなかったのか、ということはきちんと考えないといけないと思う。もう一つ考えたのは、仮にいま同じ年代の人々が同じノリでミーティングを作ったらどうなるかってこと。外国人排除の自警団まがいのものが出来上がるんじゃないか、とか思ったりする。(それかそもそも草の根で集まる余裕なんてみんなないかもしれない。)

 あと、さっき麦倉さんの論考を「ピンとこない」と書いたけれど、この特集を踏まえると、言いたいことが少し分かるようになる、かもしれない。

  • 遠山日出也「男性が特権/差別を克服するために―被抑圧者の解放と自らの解放との結びつきを考える」

 この文章は、個人の過去を吐露するものでもあるが、むしろメンズリブの流れとかなり近しいものがあると思う。つまり、フェミニズム思想が、男性自身をどう解放するのかということを等身大で素朴に考えた記事として受け取った。

 何となく物足りなさも覚えるのだけど(きちんと言語化できないが)、誠実な文章で、どんな年齢の人が読んでも分かりやすいと思う。五月さんの文章の次にこれを読んでもいいかもしれない。

 

 以上、好き勝手な順番で紹介してしまった。ただ、雑誌である以上は、編集者による構成にも何らかの意図が働いていると思うので、もとの順番の意図も考えておきたい。*3

 まず、本号の最初に「男性史・女性史」のまとめがあるのはいいとして、次にマルリナさん・麦倉さんの文章が並ぶのは、意図を掴みにくくて、かなり戸惑った。

 深読みするなら、不良・ヤンキー文化(マルリナさん)と、家庭を支える男性像(麦倉さん)という真逆の方向性をいきなり示すことで、「男らしさ」という言葉の捉えにくさや虚構性を示したということなのかもしれない。もしくは、ラップを扱う個人の体験談と、堅めの社会史分析を冒頭に見せておくことで、幅広い読者に興味を持ってもらおうという意図もあるのかもしれない。次に五月さんの文書が来ることを考えると、最初の二つは助走のような意味合いなのかも。でもやっぱり分かりにくい。

 五月さんの文章の次に、「メンズリブ運動特集」→「俺を取り戻す旅」が来る。メンズリブ運動から「俺を取り戻す旅」という流れは、タイトルを見ると非常に上手くつながっている。ただ内容からすると、実際に続けて読むと結構戸惑う気もする。(上で書いたように、メンズリブの発想と近いのは遠山さんの記事だと思う。)

 そして、小説と、仲芦達矢さん、Y・Nさんの文章をはさんで、澁谷・森山・水上・福永・遠山の論考が並ぶという形になっている。このうち澁谷・水上・福永・遠山の四つの論考は、いわゆる「アカデミック」な体裁で書かれた論考を一セットにしたということで、まとめられるのは理解できる。ただ、ここに森山さんの原稿が挟まってるのはよく分からなかった。

 

 やや批判めいたことを書いたけれど、全体として、バランスの良い執筆陣を揃えていて、よくできた企画だと思う。次回、仲芦達矢さん、Y・Nさんの文章について、より詳しく感想を書いています→『エトセトラ』vol.10 男性学特集号の感想(2) - 達而録

(棋客)

*1:余談だけど、私は『エトセトラ』の表紙のデザインがとても好きだ。内容だけではなく、そのデザインから、思わず手に取る人は多いんじゃないかなと思う。

*2:むしろ福永さんの論文をそのまま読む方が分かりやすいかもしれない。たとえば、福永 玄弥 (Fukunaga Genya) - 同性愛の包摂と排除をめぐるポリティクス:台湾の徴兵制を事例に - 論文 - researchmapなど。

*3:もしかすると、「分かりやすく編成する」すること自体に権威性が伴うので、そういうのを捨象するために、わざとランダム性を持たせているという意図があるのかもしれなくて、その場合は以下の指摘は全くの的外れということになる。また、意図した原稿と違うものが届いたとか、何かしらの浮世の義理とか、編集者の意図以外のさまざまな事情もあるだろうから、ここに私が書くのはかなり勝手なことである、というのは前提にしてほしい。