達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『エトセトラ』vol.10 男性学特集号の感想(2)~仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」

 前回の続き。フェミマガジン『エトセトラ』「特集:男性学」号(vol.10)を読んでの感想を記す。今回は、特に仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」を取り上げる。

『エトセトラ』vol.10の書影

 前回、『エトセトラ』の「特集:男性学」号の全体について説明した。前回示した通り、全体を合わせて読めば、「こういうのが読みたいなあ」というのが網羅されていて、とてもよいバランスの執筆者が揃えられたよい企画であったと思う。

 そのうち、「男性性とか何か」「男らしさとは何か」というような問いを立てること自体への問題意識から、丁寧に掘り起こして書かれているのが、仲芦達矢さんの論考だ。その意味では、前回書いたように、この特集号の中で最初に読むべき文章はこれかもしれない。よって、今回別枠で紹介することにした。

 この論考の冒頭は、以下の一文から始まる。

「男性性」という概念は、本質主義を孕む。この概念は、あらゆる男性たちに通底し、本来備わっているべき何らかの性質、つまり本質(エッセンス)が「ある」、という考え方を前提とする。

 「男性性とは何か」という問いを立てることの背後には、本質的に「男性的」なるものがあるという前提が自明のものとする発想がある。この「男性性なるものがある」=「男性性の本質がある」という発想は、どういうことを意味するのだろうか。

それは言い換えれば、個々の男性、あるいはその振る舞いや特徴を、「男性性+ノイズ」としてモデル化することを意味している。男性でないものが男性性を持つこともあるが、男性性は一義的には男性と切り離すことができない―そうでなければ「男性」性という言葉を用いるのはナンセンスなはずだ。男性でないものにとって、男性性は本質と関係ない「ノイズ」として、あるいは「本来は」男性よりも少ないことが期待される性質として、モデル化されることになる。

 ある男性に男性性の本質があると仮定するとは、ある男性個人が、この部分は「男性性」、この部分は「ノイズ」であるというように分けられる、ということを意味する。ここでいう「男性性」は、直接的な意味合いとしては、「男性」と切り離すことはできない。(切り離すことができるのならそもそも「男性性」という言葉を使わずに表現するのがよいだろう。)ということは、「非男性」とみなされる場合は逆に、男性性の部分が「ノイズ」になる。

 つまり、男性は「男性性+ノイズ」、非男性は「非男性性+ノイズ(男性性)」の形にモデル化することが可能であるとする見立てを承認することが、「男性性の本質がある」と考えることの意味である。

 でも、「男性」の本質なんて、果たしてあるのだろうか?

しかし、男性の多様性の中で、何が本質的(エッセンシャル)な男性性に含まれ何がノイズに含まれるのかは自明ではなく、社会一般の共通了解を作り出すプロセスには、必ず政治的な意思決定が介在している。誰がその意思決定に参加できるのか? 多くの場合、多数派や、より強い影響力を持つ者たちだ。自分のあり方が「ノイズ」と見なされた側にとっては、たまったものではない。一人のクィアアナキストとして、私はそのように「普遍的な本質」を個々の者たちに押し付けるあらゆる枠組みを拒絶する。

 現実に生きる「男性」は、多様性に満ちた存在である。事実としては、誰もに共通する男性性の本質なんてものは、まったく存在しないか、存在したとしてもそんな自明なものにはならない。

 であるにもかかわらず、仮に「男性といえばこれ」というような人々に共有される認識があるのだとしたら、その背後には、その認識を作り出す社会のはたらきがあるはずだ。そしてそこには、必ず政治的な意図が入り込んでいる。つまり、そういう認識を作り出す過程には、政治や社会のシステムを維持したり、特定の集団に有利に動かそうという意図が介在している。

 となると、そうした意図(「男性といえばこれ」というような共通認識を作り出す意図)とその中身を決定するのは、マジョリティか、より権力のある者である、ということが分かる。

 すると、社会の中で、その共通認識にそぐわないと判定される者、つまり「ノイズ」とされる部分を抱える者は、多大な抑圧や差別を受けることになる。つまり、「男性性の本質」とされるものを持たない「男性」や、「男性性の本質」とされるものを持つ「非男性」などがこれに該当する。

 そうした状況には抗わなければならないし、そうした押しつけに加担したくない、というのが「クィアアナキスト」としてのこの文章の筆者の意志である。

 ここまでが、まず「男性性とは」というような問いを立てることについて、踏まえておくべき前提ということになるだろう。たとえば『エトセトラ』の「男性学特集」という見出しを立てるに当たって、このことは踏まえておかなければならないと思う。

 

 では、そもそも「男性性」について考えること自体が不可能なのかというと、筆者はそうは考えていない。

もっと主観的で局所的な男性性を考えることはできる。社会一般の通念はともかくとして、私には私にとっての男性性がある。恐らく、このような個のレベルでの本質主義から完全に逃れることはできない。少なくとも私は自分が何かを「男性的だ」と感じてしまうことを、やめることができなかった。

 筆者は、あくまで「男性的だ」と感じることをやめられなかった個人として、その「男性性」を考えるということならできる、と述べる。これまでの内容を踏まえれば、ある個人が自分の男性性を語る時、当然、以下のことに留意が必要なことが分かるだろう。

しかしそれはあくまで私だけの感覚だ。断片的に他者と共有できる感覚もあるが、他者に押し付けてはならない。

 さて、この論考は、以上のことを断った上で、筆者自身の根源的な(性的)欲求の赤裸々な語りから、自分の感覚の中での女らしさ/男らしさの探求の歴史と実践を語っていく。

 その具体的な内容は、ぜひ本誌を買って読んでいただきたい。

 末尾には以下のように書かれている。

 「あなたは男(女)みたいだけど、結局女(男)なんでしょう?」

 そう勝手に決めつけて私たちに割り当ての性別を「理解(わか)らせ」たがる社会に背を向け、私と妻は互いの性別を肯定し合う。その過程で、私たちのようなクィアな存在を消そうとするポルノグラフィをなぞってしまうのは、長らくそのゆな作品にしかアクセスできなかった私たちが、それらが描く二元論的で異性愛的な男性像や女性像を内面化した結果かもしれない。性別肯定感とは、しばしば、ままならないものだ。しかし同時に私たちは、私たちの言葉で私たちの身体の部位や行為を名付け直し、規範的なセックスを換骨奪胎してもいる。

 まず、自分のままならない欲求や性別肯定感を受け入れられるかどうか、肯定できるかどうか。そしてその上で、それを社会規範に抗う実践につなげられるかどうか。これは、特に過去のフェミニズムの運動の中で、さまざまな葛藤を生み出してきた問いでもある。

 性別肯定感が「ままならないもの」であることを認めて、その上で、社会の性規範に抗い、それを解体するような、クィアな実践をどう試みていくことができるか。というより、ままならない性別肯定感を認めた先に、クィアな実践があるのではないか。この文章自体が、その試みになっていると思う。

 

 もちろん、直後に掲載されているY・N「傷と言葉―仲芦達矢「ノイジー・マスキュリティ」のための補足」も必ず合わせて読んでほしい。

(棋客)