達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

栗林輝夫『荊冠の神学―被差別部落解放とキリスト教』(2)

 前回の記事で栗林輝夫『荊冠の神学―被差別部落解放とキリスト教』(新教出版社、1991)を紹介しました。ここまで、どのような神学を志すのか、そしてそのための方法は何か、ということを取り上げてきました。今回は、では実際に「荊冠の神学」ではイエス・キリストをどのような存在として見るのか、ということを見ていきましょう。

 本書の第四章「「荊冠者」イエス・キリスト(p.297-323)において、荊冠の神学では、被差別民に示しうる最も相応しいイエス・キリストの称号として、「荊冠者」という言葉を提示することを述べています。荊冠とは、水平社の人々がイエスを「共に苦しみ負う者」として読み取るときに用いたモチーフです。

 第四章は、以下の構成を取り、「荊冠者」のイエス・キリストとはどのような存在なのか、ということを描いています。章題をみるだけでも、おおよそのところが分かりますね。

 第一節「共苦者として」
 第二節「「同伴者」イエスを超えて」
 第三節「解放者として」
 第四節「差別社会の浄化」
 結語

 第一節「共苦者として」では、被抑圧者とともに苦しむイエスとはどのような存在か、小説や記録の文章を具体例として示し、それを聖書の記述と対応させながら描きます。ここでは、イエスの最大の関心は、もっとも弱き者、哀しみにある者にあるということが強調されます。典型例として引き合いに出されるのは、遠藤周作『沈黙』のイエス像です。

 そして、こうしたイエスの姿が、ヨーロッパの主流伝統の中で描かれてきた、苦しむことのないイエス、不受苦のキリスト、栄光と権力に輝いた王としてのキリスト、といった像を破るものであることを指摘します。こうしたキリスト像は、宗教権威の絶対化に貢献し、民衆を慰撫し、教会権力に従順にさせるときに利用されました。

 その意味で、ともに苦しむ者としてイエスの在り方は、荊冠者イエスの第一の姿です。ただ、それだけではないということが、第二節で語られます。

 

 第二節「「同伴者」イエスを超えて」では、第一節で描いたような「ただともに苦しみを負う、弱く無力で沈黙するだけ」のイエスには、大きな欠陥があることを指摘します。こうしたイエスの捉え方では、イエスは近代的人間の内面の次元に関わるだけで、社会やコミュニティには沈黙し、個人の実存にだけ佇みます。遠藤周作の作品に典型的ですが、こうしたイエスは競争社会に取り残された個人の傷を慰めることはできても、それを変えていこうと呼びかけることはできません。

 また、もともと、差別は競争社会の産物でもあります。競争に負けまいとする人々は、しばしばそこで受けた傷を、いっそう社会的に弱いものに転嫁してゆく、という構造があります。苦しみに立ち続けるだけのイエスでは、こうした社会そのものを転倒していくことはできません。栗林氏は、遠藤の描くイエス像を、イエスの被抑圧世界の歴史的な救済の意義を、個人の非歴史的な実存の課題にすり替え、なんら社会的現実の苦しみを分析しないもの、として厳しく批判します。

 では、荊冠者イエスはどのような存在なのか。前々回の記事でも書いたように、イエスの福音は、私的な領域(個人の実存)だけではなく、歴史的、共同体的な自由であると考えるのが、荊冠の神学です。被差別民の苦しみは、内面的でもあり、社会的・政治的でもあります。荊冠は、受難の象徴であると同時に、解放の象徴でもあり、そのことが第三節で詳しく説明されます。

 

 第三節「解放者として」では、苦しみから解放する力を与えるイエスが、どのような存在なのか描かれます。まず、これまで解放者としてのイエス自体はラテンアメリカ神学などで重要な視点として注目されてきたものの、これらは逆に受苦のイエスに対する検討が足りず、イエスが新しい律法授与者となっているのではないか、という批判があることを紹介します。

 そして、被差別者の苦難を共に負いながら、かつ差別からの解放を目指すイエスの在り方を示したものとして、金芝河の戯曲『張日譚』を引き合いに出します。『張日譚』は、朝鮮の被差別部落である白丁の解放運動を題材とし、白丁の出身者をイエスになぞらえながら描きだした作品です。ここで描かれるイエス像は、被差別者を社会的抑圧から救い出そうとする一方、差別者に対してはその差別意識を変革し自由にするという解放を提示します。そして、この解放をもたらすものが、「周縁」とされてきた社会から生まれてくること、

 『張日譚』で語られる「解放」は、ここで簡単に整理できる話ではなく、やはり実際に読んでみなければならないと思いました。

 

 最後に、第四節「差別社会の浄化」で、差別社会からの解放がどのようにもたらされるか、が述べられています。『張日譚』では、被差別民の白丁の子として生まれ育ち、「不浄」とされた賤民こそが、社会を浄めるエージェントとして立ち現れてきます。ただこの際、抑圧者を新たなスケープゴートとし、差別に差別で答えるのではなく、抑圧者もまた変革され、救済される存在として描かれています。これは、イエスが満ち足りたものを悔い改めさせ、自由にしたことと重なり合います。

 差別者が被差別者を向上させて「解放してあげる」のではなく、解放されるのはむしろ差別者自身が、被差別者の犠牲によって達成されるのである。ホフリの民、被差別民こそ、和解のために供せられた現代のイエス・キリストである。(p.316)

 そして、『張日譚』や水平社の活動などを引き合いに出し、その具体像を明らかにしています。

 

 以上、今回は第四章の内容を紹介しました。まだまだ本は続くのですが、紹介はここで一区切りといたしましょう。それほど高額でなく買える本ですので、みなさまぜひお読みください。

(棋客)