達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

パンセクシュアルを名乗ること:未来

  1. パンセクシュアルを名乗ること:前提
  2. パンセクシュアルを名乗ること:過去
  3. パンセクシュアルを名乗ること:未来(今回)
  4. パンセクシュアルを名乗ること:文献・リンク集

 昨日の続き。自分がパンセクシュアルと名乗ることについて、もう一つ書ききれていない意図があるので、言葉にしてみる。

 結論から言うと、いつかの未来の自分が、どのように自分のことを考えるか、また誰に惹かれるか、それとも誰にも惹かれなくなるかというのは、私自身にも全く分からない。パンセクシュアルという名乗りは、いま自分が言葉で規定することによって、いつか変わるかもしれない自分の未来の感覚に対して、何らかの抑圧を掛けたくない、という意味合いがある。(過去の経験があるのは前提として、だけど。)

 もちろん、そもそも自分の名乗りというのは、いつでも自分で勝手に決めていいものだ。昨日まで異性愛者だった人が、今日からは同性愛者ということがある。アイデンティティが何度も変わろうが、その人の自由でしかない。あくまで実際の自分の感情や実存が先にあって、名乗りは後からついてくるものでしかないからだ。だから、今の自分の名乗りが未来の自分を抑圧するというのはおかしな話で、今日書いていることは、考えなくてもいいこと、またわざわざ人に言わなくてもいいことなのかもしれない。

 だから、ここで書くことは、あくまで私の感覚をより正確に言語化しようという試みに過ぎなくて、他人に押し付けたいわけではない、ということは強調しておく。

 

 自分の感覚がどういうものか。たとえば、「現時点で、ある特定の身体の形をした人にしか好意が向かない」と言う人がいたとして、私はそういう人ではないのだけれど、まあそういう人もいるんだろうな、と理解できる。ただ、「その感覚が将来ずっと永続すると確信する」という状態が、私には分からない。今のところ、私はそうなりそうにない。

 自分がマイノリティを名乗ることを躊躇ってきた一因には、「将来どんな人を好きになるかなんて分からないじゃん。そもそも誰のことも好きにならないかもしれないし」という自分の感覚は、つまるところ、「未来は誰にも分からない」というアタリマエのことを表明しているに過ぎないので、これでマイノリティと言っていいのか?と考えていたこともある。

 でも、これまでの人生で居心地の悪さを感じてきた瞬間もたびたびあって、この私の感覚はどうもそんなに当たり前の感覚ではないらしい、と分かってきた。また、最初の記事で書いたように、旗を掲げて、こういう自分の感覚を伝えることは、自分にとって必要なことだし、またこの世界には、多分それを必要とする誰かがいる。

 そこでこの自分の感覚を言葉しようと考えたのだが、その過程で、一つ気をつけなければならないことがあると分かった。

 確かに、先ほどの説明は自分にとってはかなりしっくりくるものだ。ただ、使い方を間違えると、大いに危険な面もある。というのも、同性愛者に対する典型的なマイクロアグレッションとして、「それは一時の気の迷いだよ」とか「そのうち経験を積めば気が変わるよ」とかいう言葉を投げかける行為がある。また、アセクシュアルの人に対して、「きっといつかいい出会いがあって、あなたも恋に落ちるよ」とか「よくある勘違いじゃない」などと言うのも同様だ。どちらもその人のセクシュアリティを尊重しない振る舞いで、非難されるべき言葉である。

 だから、「将来どんな人を好きになるかなんてわからない/誰も好きにならないかもしれない*1」という私の感覚は、あくまで私が私を説明する時にしっくりくる言葉であるというだけで、人に押し付けられるものではない、と自分に言い聞かせる必要がある。別に、自分の未来の感情に確信を持っている人もいるし、自分のことは自分にしか分からないのだから、他人はそれを尊重する以外にやることはないのだ。

 そう考えると、先の自分の感覚を「アタリマエのことを表明しているに過ぎない」と考えていた自分は、人に自分の当たり前を押し付ける振る舞いをしてしまっていた、ということになる。逆に言えば、自分の感情を、自分だけのものとして尊重し、向き合うことの意義は、こういうところに気が付くことにあるのかもしれない。

 こういう注意点はある一方で、自分の説明の仕方は、性的少数者のことを考えたことのない人に向けて自分のことを伝える時には、正直便利で伝わりやすいとも感じている。武器の一つとしては使いながらも、使い方には気を付けなければならない、というのが今考えていることだ。

 以上、現時点で書きたいことは書けたので、ここまでで一区切りとしておく。あくまで現時点で考えていることなので、また変わるかもしれないけど。

 

 最後に。中国・台湾といった地域では、性的少数者のことを「同志」と訳す。最初は同性愛者だけを指す言葉だったのだけど、いまは広くLGBTQ+を指す言葉として定着したらしい。私はこの「同志」という言葉がかなり好きだ。「同志」という言葉は、もともとは孫文の遺書から広まって、その後は特に共産党用語として使われてきた歴史がある。

 現在、革命尚ほ未だ成功するに至らず。凡そ我同志は須く余の著す所の建国方略、建国大綱、三民主義及第一次全国代表大会の宣言に依り継続努力し、以て之が貫徹を期すべし。(孫文「遺書」)

 性的少数者を指して「同志」と呼ぶことにどういう意味があるのか。これは私が勝手に願望を重ねて理解しているだけなのだけど、その後の中国の文脈ではすっかり政府御用達の用語となってしまっていた「同志」の語を、性的少数者たちが社会変革を求める運動のための言葉として奪還した、という構図でとらえられると思う。そしてその意味では、「同志」の語が、性的少数者に限らず抑圧される人々の言葉になっていくのが理想かもしれない(というかそれが本来のニュアンスなのだろう)。

 こういう絶妙な「名乗り」の感覚は、アルファベットをそのまま使うのでは表せないところがあると思う。だから「同志」という言葉が好きだし、そういう歴史を踏まえて「同志」と名乗れるのっていいな、と思ったりする(もちろん日本語での「同志」はまた歴史が違うので、そのまま私が「同志」の語を使えば同じニュアンスをまとうというわけではない)。もっとも、この見方も色々と理想化しすぎているだろうから、注意が必要だけれども。

 

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(棋客)

*1:明日の記事で書くけど、今後はこれに「人じゃないものを好きになるかもしれない」という言葉を付け加えたいと思う。とすると、「パンセクシュアル」という言葉は自分にとっては自分の未来を否定しない言葉として働いたけれど、対人性愛に限ったニュアンスの言葉であることも確かで、だからやっぱり誰しもに適用できる魔法の言葉ではない。これは注意しないといけないと思う。つまりフィクトセクシュアル差別としてはたらく言葉になってしまうということ。