達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

パンセクシュアルを名乗ること:前提

  1. (今回)パンセクシュアルを名乗ること:前提
  2. パンセクシュアルを名乗ること:過去
  3. パンセクシュアルを名乗ること:未来
  4. パンセクシュアルを名乗ること:文献・リンク集

 今回からしばらくの間、自分のアイデンティティについて言語化するための記事を書いていく。

 結論を先取りしておけば、自分はパンセクシュアルであり、そしてパンセクシュアルを名乗る理由は、第一には「経験的にそうだから」としか言えないのだけれども、同時に、未来の自分の可能性を否定しないための名乗りでもあるのではないか、ということを言いたいと考えている。

 

 で、まず今回は、本題に入る前に、なぜ私に(そして私たちに)名乗りが必要なのか、ということを考えてみる。なお、私は以下に出てくる専門用語についてはっきりした知見を持っているわけではなく、ざっくりした自分の理解で書いているので、色々と誤りがあるかもしれない。気になる点があればコメントください。

 前提として、いま我々が生きている社会(特に現代日本社会を想定)は、

  1. 人間は、女/男の二種類で、それは戸籍に割り振られた性と一致する。
  2. 女は男に、男は女に性的・恋愛的に魅かれる。
  3. 女と男は、生涯にわたって一対一の関係を築き、子供を産み育てる*1

 というシステム(戸籍・結婚など)によって運営されており、その中で権力を持っているのが、(特にシス・ヘテロの)男性である。であるから、まず女性、また周囲に女性とみなされる人は、たとえこのシステムに順応できる人であっても、日々抑圧を受けている。それは男女の賃金差や政治・企業の要職のジェンダーバランスのデータを見れば一目瞭然である。むろん教育現場での男女の扱われ方の差もいまだ改善されていない。

 次に、そもそもこのシステムから何らかの形で逸脱している人も、多大な抑圧を受けることになる。特に、このシステムでは端から想定されていない、LGBTQIA+といった性的少数者は、制度上の明らかな差別のみならず、日常生活の中で受ける無自覚な差別行為(マイクロアグレッション)にも苦しむことになる。

 たとえば、自分の性と、証明書に記載された性や周りから扱われる性のあり方が異なる場合、日常生活を送る中で多大な障害にぶつかる。学校・会社・公共施設・医療など、性別で二つに分けられた空間がいかに多いか、また人々が外見から性別を判断され、そしてその判断された性別から内面までもを判断されることがいかに多いかを考えると、トランスジェンダーやノンバイナリーが持たされる負担の大きさが分かると思う。

 また、特定のパートナーができて結婚制度を使いたくても、使えない人がいる。保険や家の賃貸借などでも差別に遭う。そして、異性愛ではなくとも、「人と恋愛すること」を当然視する向きが強すぎて、性愛・恋愛感情を持たない人や、人以外に性愛的に魅かれる人は、社会で置き去りにされる。残酷なことに、性的少数者にとっては、現実世界のみならず、ドラマや小説・ゲームといったフィクションの世界でさえ、必ずしも安心できる逃げ場にはならない。大抵の場合、そこも現実とは大して変わらない差別と偏見に満ちた場所だからだ。

 加えて言うと、必ずしも自分を性的少数者であると考えている人ではなくても、学校や会社などの場で「女/男らしさ」を求められたり、家族に結婚を求められたり、離婚や浮気をするとやたら否定的に見られたり、日常のさまざまな場面で、このシステムに生きづらさを感じる人は多いだろう。また、このシステムがセックスワーク差別をはじめとする職業差別に繋がることもある。

 なお、念のために書いておくと、私は「①~③がシステムとして機能し人々を抑圧すること」を批判しているのであって、「①~③のような生き方を選ぶ個人」を否定しているわけではない。他人に押し付けないのなら、好き勝手に生きればよいのであって、①~③の生き方が自分にとって自然というのであれば、その人生は尊重されるべきである。(ただ、そのことがたまたま「自然」であったためにシステムから優遇される自身の特権性は理解しておかなければならない。)

 そしてもう一つ重要なのは、セクシュアリティ以外の面で抑圧を受ける属性の人々が、このシステムと交差し、より多大な抑圧を受けるということである。特に、戸籍と分かちがたく結びついた、天皇制・国民国家としての日本というシステムの中で、外国人や、外見から外国人と判断される人は、就労などさまざまな面で差別に遭う。ここ一年の例でも、入管法改悪・永住権取り消し法案の起草といった制度面の差別や、在日朝鮮人差別(朝鮮学校が無償化の範囲外にされる等)・アイヌ差別(ウポポイへのヘイトスピーチ等)・沖縄人差別(基地の押し付け等)・クルド人へのヘイトスピーチなど、レイシズムは加速している。

 また、「健常者」中心の社会設計の中で、社会によって障害を負わされた人びとは、さまざまなサービスへのアクセスが遮断され、生活に大きな制約を受ける。最近は車いすユーザーが映画館で断られたという話に対して、心無い言葉が浴びせられていたが、車いすに乗っていると映画一本すら満足に見られない社会を何とかしなければならないのである。

 こうした差別とセクシュアリティの差別は同じ構造を持っていて、マジョリティによって設計された(特にネオリベラリズム的な)システムによってマイノリティが排除される、ということが起こっている。そして、これらの差別に交差する属性を持つ人が、より多大な差別を受けることになる。

 

 さて、こうした社会の規範や設計に、個人一人で対抗するのはとても難しいが、同じ経験のある人や、その状況に心を痛めている人とつながって、社会に変化を働きかけることは、幾分かハードルが下がる(とはいえ難しいことには変わりがなく、そのために特権を持つ人々が一緒に闘わないといけないのだが)。また、同じ経験がある人とつながることで、自分の苦しみがケアされるという面もある。

 そうした時に、一つの「名乗り」によって旗を掲げて、存在を示すことは、人々の連帯を可能にするという点で大きな意味を持っている。つまり、「名乗り」は闘うための武器の一つであるということである。

 アイデンティティがどういう闘いの意味を持つのか、ものすごく単純化して乱暴にまとめると、

 ①「人間は女/男の二種類で、戸籍に割り振られた性と一致する」という想定に対しては、女/男のどちらにも当てはまらないノンバイナリーの闘いや、戸籍や外見の判断と性が一致しないトランスジェンダーやノンバイナリーによる闘いがある。

 ②「女は男に、男は女に性的に魅かれる」という想定に対しては、まずこの異性愛中心主義に対する、同性愛者やバイセクシュアル・パンセクシュアルなどによる闘いがある。そして、その前提にある「(人は誰しも他の人に)性的・恋愛的に魅かれる」という想定(対人性愛主義)に対する、アセクシュアルやアロマンティック、またフィクトセクシュアルなどによる闘いがある。

 ③「女/男が生涯にわたって一対一の関係を築く」という想定に対しては、同性婚を求める闘いや、複数人とパートナー関係を築くポリアモリーの闘い、また同じくアセクシュアル等の闘いなどがある。

 これは雑にまとめすぎているし、挙げられていない他の名乗りもたくさんあることは断っておく。また、これらの枠組みが交差することもあり、たとえばトランスジェンダーレズビアンという人、ノンバイナリーでバイセクシャルという人、アセクシュアルでポリアモリーを実践する人など、その人それぞれの闘いと生活がある。そして、ここに先述した他の属性が交差することもある。

 究極的には、こういう名乗りの言葉が無くても、誰もが同じ扱いをされる社会が到来してほしい。そもそも、わざわざ言葉にして、仲間を集めて、闘わないといけない不平等な社会に欠陥があるとしか言いようがない。また「名乗り」にも危険性があり、名乗りが特定のイメージと結びついた場合に、それが必ずしも自分の実感とは一致しないのに、名乗りが自分を縛ってしまう面もある。そういう意味でも、理念的には、わざわざ名乗らなくてよい社会の到来が望まれている、と言える。

 しかし、あらゆる差異が権力構造に変換されてしまうのは社会の常でもあって、名乗りの言葉が不要になる社会(=排除される人・差別される人がいなくなる社会)は永遠に来ない、のもしれない。実際のところ、ほとんどの場合、「この社会では誰も差別されていない」などと平気で言ってしまえる人は、差別されている人々のことが意識に上がっていない(または意図的に無視している)だけでしかないだろう。

 ただ、こういう前提はありながらも、誰もが「差別に反対する」と当たり前に言える社会、差別される人がいないか常にすべての人が自省できる社会、また、せめて差別的な制度のない社会(これは最低限だ)は、実現可能だと信じているし、そういう社会をみんなで作っていかなければならないと思う。

 だから、今の世の中において、私が名乗ることには大きな意味がある。何を言われるか分からない中で、わざわざ全世界に向けてパンセクシュアルであると私が表明する意味は、まさにここにある。このブログの読者の方々は、「中国古典の研究者」、また「Wikipediaの編集者」(ウィキペディアン)、あるいは「読書家」(?)、「変わり者」(?)、「マメな人」(?)などとして筆者のことを見ていると思うのだけれど、そこに、パンセクシュアルとしての筆者という一面を加えてもらえるとありがたい。

 

 以上で、名乗る上での前提(「なんでわざわざ名乗るの?」という疑問)を説明することはできた(答え:「こんな社会だから」)として、私がパンセクシュアルであるということについて、明日の記事で具体的に書いていく。

★次の記事→パンセクシュアルを名乗ること:過去 - 達而録

(棋客)

*1:今の日本社会では、子供を産み育てるハードルが高すぎて、現実的な意味ではこの規範は成立しにくくなっているかもしれないが、人々を縛る観念的なルールとしては、いまなお幅を利かせているだろう。