今回は、藤高和輝「パスの現象学―トランスジェンダーと「眼差し」の問題」(『フェミニスト現象学』ナカニシヤ出版、2023)を取り上げます。「現象学」が冠される本を読むのは初めてでしたが、専門知識が無くても読めるように工夫されていて、私にも分かりやすく読むことができました。この本はさまざまな著者による論文集ですが、今回は藤高さんの論文を読みます。
この論文は、トランスジェンダーの「パス」に焦点を当てて、他人にジェンダーを判断されるという営為について考察するものです。
「パス」とは、出生時に割り当てられた性別が、他者に読み解かれないようにする実践を指します。たとえば、トランス女性が周りから女性として認識されていれば、それは「パス」したということになります。
以下、論文の内容メモです。
p.100-101
私たちは、ジェンダー化した身体に向けられる眼差しに日々さらされているし、また他者のジェンダーを見た目から推し量る行為を日常的に行っている。たとえば、道ですれ違う人の性別をほとんど無意識に判別する。その時には、髪型や服装、仕草から瞬時に判断するのであって、その人にアイデンティティを問い質したり、性器を確認したりするわけではない。
鶴田幸恵*1は、こうした「他者の性別を見る」実践を、「外見以上のものを見る」実践と呼ぶ。私たちが、他者を女/男と見る時、単に外見を見ているのではなく、その人がヴァギナ/ペニスを持ち、女/男としてこれまで生きてきた歴史がある、と想定する。つまり、外見から、外見以上の情報を引き出している。
※この議論は、性別は身体の形で決定されるという考え方に対する批判としてもはたらく。実生活においていちいちそれを見て判断していないでしょ、ということ。
p.103-104
よって、性別とは、眼差しによって遡及的に「一つの推理」によって構成されるものである。
この社会を生きる大多数の人は、性別を自然的所与のものとしている。しかし、セックスの本質として参照される性器さえ、厳密に生物学的には二分できないという事実からも明白な通り、セックスとは理念的な抽象物でしかない。
バトラーの『ジェンダー・トラブル』によれば、ジェンダー規範とは、セックス・ジェンダー・セクシュアリティの間に「一貫性」を付与する「理解可能性の規範」である。たとえば、オスに生まれれば(=セックス)、社会的な男らしさを身につけ(=ジェンダー)、性愛の対象として女性を選択する(セクシュアリティ)という基本的な一貫性を付与される。そして、これから逸脱する場合、奇妙な代物・おぞましいものとして排除される。
このような営為が一般化されている現代社会の中では、「パス」していないトランスジェンダーは、他者の視線が「地獄」として突き刺さり、おぞましいものとして排除される。これはバトラーのいう「理解可能性の規範」に乗っていないと、外見から判断されるため。その結果、トランスジェンダーが必要以上に「パス」を追求することもある。本論文では、そのことがトランスの実体験とともに紹介されている。
※『ジェンダー・トラブル』については、このブログで読書ノートを書いたことがある。以下参照。
- ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(1) - 達而録
- ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(2) - 達而録
- ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(3) - 達而録
p.107-108
結局、私たちは誰も、他者のまなざしをコントロールすることができない。トランスジェンダーは、自らの身体を他者が勝手に読み解く行為に絶えずさらされることによって、自分の身体に「困らされる」ことになる。しかし、他者の眼差しが常に「地獄」ではない、ということが本論文の最後で述べられる。
他者の眼差しと自分の関係は、圧倒的な偶然性と受動性にさらされるものではあるが、「私」がそれによって切り刻まれ、閉じ込められ、圧倒されるだけの負の経験ではない。
このことを論じているのが古怒田聖人/いりや*2である。いりやは、自己のジェンダー表現と、それに対する他者の眼差しが出会う契機を、「セッション」という言葉で捉えようとする。
「セッション」という言葉は、①他者の眼差しは私にはコントロールできず、一方的に切り取られるものであることを示す。②それと同時に、自身の身体の感覚に親和的な眼差しとの「セッション」の可能性を開いている。
いりやは、自身のモデルとしての経験から語っている。モデルは、カメラによって取られるという意味で、他者によって一方的に自分を切り取られる行為ではあるが、しかし、そのために自分の身体と丁寧に交渉してくれる時間や、カメラマンの細かな指示やメイク直しのプロセスがあり、その過程を経て自分という作品を生み出す「セッション」でもある。藤高は、この例としてトランスにとっての美容室という空間を挙げている。
※以前このブログで取り上げた映画『ノー・オーディナリー・マン』では、主人公のビリー・ティプトンの生き様を、ジャズの即興演奏に喩えるコメントが出てくる。これはいりやのいう「セッション」と重なるように思う。また、本映画では、「パス」とは何かと問われたトランスジェンダーが、「パス度ってなんですか?普通度?そんなのごめんですね」という痛快な言葉を残している。以下、記事を共有。
- 映画「ノー・オーディナリー・マン」(No Ordinary Man)の感想(1) - 達而録
- 映画「ノー・オーディナリー・マン」(No Ordinary Man)の感想(2) - 達而録
- 映画「ノー・オーディナリー・マン」(No Ordinary Man)の感想(3) - 達而録
(棋客)