達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

平岡武夫『経書の成立』

はじめに

 本日は平岡武夫『経書の成立』(創文社、1983)の「初版刊行の記」を読んでみます。

時代背景

出土以前の経書研究として手堅い名著と言えましょうが、戦火で原稿が文字通り焼失し、何度も出版が潰えながらも上梓された書籍でもあります。

 大阪が空襲に遭い、印刷所も罹災してしまいます。その時に平岡氏が印刷所を訪ねる一段。これまでは主に戦時下における研究者個人の苦労の語られる文章を取り上げてきましたが、この文章からは当然ながら出版社、印刷会社も多大な被害を受けていたことが分かります。(以下上述の箇所から引用です。)

戦災に向き合う

 昭和二十年三月十三日。この日の夜半から十四日の払暁にかけて、由緒なつかしい浪華の町々のほとんどが灰燼に帰した。全国書房も浜田印刷所もその災厄から逃れることができなかった。その時、本書はすでに大半の再校を了え、図版や木活字の作製もほぼ完了していたが、そのすべてがやはり烏有に帰してしまった。これは私の怖れていたことでもあるが、また覚悟していたことでもあった。私が田中氏と面会したのは、その翌十五日、余燼なお収まらぬ日の午後、場所は・・・(中略)・・・仮事務所であった。私の顔を見るなり、同氏の口をついて出たものは、原稿を焼いたことに対する侘び言であった。これは私を面喰わせた。まさに逆慰問を受けた形であった。私は焦土の真っ只中を歩いて此処に来たのである。被害は想像していたよりも遥かに広汎であり、深刻であった。田中氏が罹災しているに違いないことは、大阪に到着した刹那に、すぐ念頭に閃いたのである。現に私が初めに訪ねて行ったもとの事務所のあたりには、おびただしい紙の堆積が真っ赤な火になって、しかも一枚々々、数えれば数えられるような形で積み重なっていた。その光景は、いまなお眼底に消え難い印象を刻みつけている。私の心は深い感慨に沈んだ。そしてこの人を慰める言葉に、むしろ思い窮していたのである。

 眼前で原稿が燃えてゆく空襲後のショッキングな光景と、その後の人々の交流。平岡先生の名文を読み進めると、読み手の皆様も田中氏の姿に胸を打たれるのではないでしょうか。

前向きに生きる

 二人は膝を交えて、どれほどの時間を話し合ったことであろうか。田中氏は率直に、同氏が蒙った損害の大きいことを認めた。虎の子のようにしていたものを、むざむざ灰にしてしまった紙を惜しがった。同志的な印刷所を失った痛手も痛嘆した。しかしこれらの言葉が語られるのは、同氏が既に充分に落着きを取り戻している証拠である。私はむしろ逞しいものを覚えるのであった。

(中略)刊行を予定していた書籍で、既に製本も完了して発送するばかりになっていたものも、二三に止まらないと言う。完成まぎわにあった書物の名も挙げられた。そして田中氏は、それらの書物の一つ一つに、自分が特に力を入れた箇所、即ちこの本では紙に、印刷に、あの本では図版に、装幀にと、それぞれに無限の愛着を洩らすのであった。それを聞く私には、この人の声のうちに、痛惜の悲しみが底にあるものの、それを超えて、なにやら力強いよろこびの調べの漂うのが感じられた。私は、心ひそかに、書籍出版者の冥加を思うのであった。

 「それらの書物の一つ一つに、自分が特に力を入れた箇所、即ちこの本では紙に、印刷に、あの本では図版に、装幀にと、それぞれに無限の愛着を洩らす」、これぞ出版業者の本懐、と言うべき姿。そして、これだけ愛していた対象を失ってもなお、作り続けようとする生命力の強さ。その逞しさに、深く感動を覚えます。

 そして以下は、紆余曲折を得て再出版が近づき、燃えた部分の原稿を補っている部分。一度焼失した後、推敲を加え内容もかなり変化しているようです。

 私は一字を改める毎に、意気いよいよ軒昂、再起復興に努めることの限りない喜びを覚えた。そして同時に、しみじみと文化の力強さを知った。文化事業にたずさわる者の幸福を身に沁みて味わうのであった。書物になるまでに、この原稿が再び焼失することがないとも限らない。しかしそれは、あらためて推敲の機会を与え、心はずむ一層の精進を約束するだけである。何を憂え、何を恐れることがあろう。

 「書物になるまでに、この原稿が再び焼失することがないとも限らない。しかしそれは、あらためて推敲の機会を与え、心はずむ一層の精進を約束するだけである。何を憂え、何を恐れることがあろう。」…なんという力強い言葉でしょうか。平岡先生のような書き手と、田中氏のような出版者がいる限り、文化の営みが途絶えることはないでしょう。

 美しく力強い文章に、心洗われる思いでした。

(棋客)

大濱晧『朱子の哲学』

はじめに

 私は研究書を読むとき、ついつい「あとがき」を先に読んでしまうタイプです。特に大家と呼ばれる先生の晩年の著作となると、他の有名な先生の若かりし頃のお話が載っていたりして、なかなか興味深いものです。基本的に研究の足しになるものではないのですが、本論よりあとがきのちょっとしたエピソードの方が記憶に残ることもしばしばあります。

引用

 今回は、大濱晧『朱子の哲学』(東京大学出版会、1983)のあとがきから一部抜粋してみました。

 九大卒業後、東大大学院に進もうと思い楠本先生に申し上げた。昭和九年のことである。先生は、九大で注疏は読まなかったが、試験問題に出るかもしれない、といわれた。入試のとき、左伝からの出題もあったが朱子学に関するものもあった。四書の順序や大学のよみかたについてなど。前出の東方学で山室三良君はつぎにように言う。<先生の殆ど全関心は宋明学にあったので、経学の中の小学的な面は重視されなかったわけです。同学の大濱晧君が卒業後、東大の大学院の入試を受けた時、宇野先生が『大学』を示され、この「大」は何と発音するかと聞かれたわけです。不意をつかれた様なかっこうで大濱君が宇野先生の期待する様な答が出来なかったが、宇野先生は、「帰ったら楠本君によく伝えて置け。こうしたことをよく教えよと」大濱君に告げられた。・・・大濱君が帰ってその報告をした時、先生は珍しく言葉烈しく、「今度機会があったら楠本はそんな事には重点は置いていないと言っていたと伝えなさい」と大濱君を叱って居られました。>全くそのとおりであった。今にして思えば、宇野先生は楠本先生の学問の本質や特長を十分知っておられたので、私に対してあえてそのような設問をされたと考えられる。つまり、宋明学の内面や精神については十分教え込まれているであろうが、他面常識的な知識も心得ておく方がよい、という御気持ちであったと思う。また楠本先生の叱責は、東大に行っても思想の深処の究明を第一義にせよ、という親心であったと思う。

所感

 文中にある「前出の東方学」とは、『東方学』第62集の「先学を語る」のこと。専門誌に時おり掲載されるこの手の文章も面白いですね。

 小学の追求と思想の深処の究明とは、必ずしも相容れない営みではないでしょう。それどころか、やはり両輪が噛み合ってこそ質の高い研究になるように思います。しかしその一方、上のようなやり取りにも何となく納得いくところもあります。どう両立させるか、永遠のテーマなのかもしれません。

 さて、大濱氏のこの本は、朱子理気論を、理気合離の思考法によって解説するものです。即ち、朱子理気論において矛盾があるように思われる箇所は、理と気を峻別して論じているか、或いは理と気を合一して論じているか、という観点から整理すれば、論理的に理解できるとし、そこから朱子の思想全体の解説へと進んでいきます。

 朱子学研究の界隈でどのような評価を受けている本なのかは存じ上げないのですが、平易な語り口なのでやや高級な入門書としても良いのではないでしょうか。

【中国思想史】【中国哲学史】無料で使える便利なサービスのリスト-オンライン篇

はじめに

 前回の続きです。今回はオンライン篇、無料で使える便利なサービスのリストです。前回同様、抜けや偏りの多いことをお許しください。

「国学大師」

 50 以上の辞書を串刺し検索できる便利なオンライン辞書。中国語だが使い方は簡単。しかし、著作権的にグレーのサイトであることは確かなので、注意は必要。接続が不安定なことも多い。
 使用頻度の高い辞書は、一文字単位の場合は『漢語大字典』と『故訓匯纂』。熟語の場合は『漢語大詞典』がよく参照される。『説文解字』『廣韻』など古典的な辞書も収録している。いずれも「文字版」でなく「影印版」を見ること。他によく使われるオンライン辞書として、「漢典」がある。また、とにかく正字異体字について調べたい場合、調べても読めない字がある場合には「教育部異體字字典」が便利。

「百度百科」

中国版の Wikipediaといった趣のサイト。誰の執筆か分からず内容には注意が必要だが、固有名詞らしき言葉が出てきた時や、「書名?人名?地名?」「字?号?」といったことさえ分からない時、下調べとして優秀。その後の確認作業はお忘れなく。また、Wikipedia の中国語版そのもの(維基)もそれなりに有用。

 ・「中央研究院 漢籍電子文献」

台湾の中央研究院の漢籍DB。十三経注疏・正史などを収める。誤字や脱字が比較的少なく、十三経注疏・正史なら「古籍庫」を使うより便利。「中央研究院 漢籍電子文献」→「漢籍全文資料庫」→「免費使用」で使えます。類似の DB に「寒泉」があり、収録されている書籍が微妙に異なる。

 ・「人名權威資料庫」

特に明清を中心とする、人名検索のデータベース。その人の詳しい経歴、職歴、著作、家族関係、友人関係も記載されており、非常に便利。とはいえ抜けも多い。

「中国哲学書電子化計画」

かなり広い範囲で古典籍を収めるDB。使い勝手が良い。個人運営とのことで仕方ないが、誤字はかなり多いので注意。

 ・「白水社 中国語辞典(Weblio)」

ネット上で使うことが出来る非常に便利な日中辞典。典拠調べの時などに、中中辞典と合わせて使うと作業がとても捗る。中国語を書きたいときには例文検索も役に立つ。

「漢籍データベース」

日本国内の漢籍の所在を調べられるサイト。版本検索の際に便利。

「睡人亭」

花園大の山田崇仁先生のサイト。中国学に関わるコンピュータやインターネット利用の研究にかけての第一人者。自身の研究を紹介するとともに、初学者向けのページも充実。便利な工具類や、データベース紹介もある(この記事を読むより充実しています)。

「学退筆談」

京都大学人文科学研究所の古勝隆一先生のブログ。読み物として興味深い上に、特に辞書解説、工具書解説の記事は便利。他に、漢文の学び方を一歩ずつ記した「文言基礎」もお勧め。(特に最初の方の記事は一読しておくと良い。)

 

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【中国思想史】【中国哲学史】参考書目

はじめに

 中国思想史、中国哲学史を専攻にしようかと考えている方向けの、参考書目を作ってみました。もともと、ある別分野の友人に頼まれて作ったもので、非常に簡単かつ粗雑なリストである上、その方の専攻を反映させたところがあるので、大きな偏りがあるように見受けられるかもしれません。あくまで参考程度に。

 

【中国古典研究の総合的な入門書】

・『アジア歴史研究入門I・III』同朋社、1983

Ⅰは、史学の観点から、時代ごとに工具書の一覧と研究史の概説がまとめられている。Ⅲは、目録学や地理学、思想史について同様に整理する。工具書の一覧とその特徴や使いどころが載っていて便利。更にある分野の基礎的・古典的な研究書や概説書を探す時にも非常によく利用される本。
 【2019/4/2 附記】礪波護、岸本美緒、杉山正明編『中国歴史研究入門』(名古屋大学出版会、2006)は、古くなりつつある上記の書を補完する、新しい研究入門書として有用です。上記の書に比べて、かなり細かく最新研究の紹介が行われており、初見で読み解くのは難しいですが、概説を掴んだ後ならかなり有用な本です。

狩野直喜『漢文研究法』東洋文庫、2018

漢文読解の方法を総合的に論じた講義録。最近復刊された。多種多様な工具書が作成される以前の講義録であり、最も原理的な調べ方(清人に近い調べ方)が載っていると言える。

倪其心『校勘学講義』すずさわ書店、2003

古典研究の基礎となる校勘学について、非常に詳細に解説した本。姉妹本として、洪誠『訓詁学講義』すずさわ書店、2003を併せて読めば心強い。

 

【目録学】

・井波陵一『知の座標 中国目録学』白帝社、2003

国学の基礎である目録学の概説書として最も平易で、読み物として通読できる。先人の研究(内藤湖南狩野直喜武内義雄倉石武四郎吉川幸次郎川勝義雄など)を豊富に引用しており、中国学研究史を知る上でも有益。

程千帆『中国古典学への招待 目録学入門』研文出版、2016

目録学について、より本格的で完備した概説書。

 

【版本学】

陳国慶著・沢谷昭次訳『漢籍版本入門』研文出版、1984

書籍の分類から学問の源流を考えていくような研究分野を目録学とすれば、個々の本の成立や個人の藏書書目から研究する分野を版本学と呼ぶ。この本は印刷出版の歴史の叙述や、版本学の基本的な用語解説を備えており、至れり尽くせり。

 

【経学】

・橋本秀美『論語心の鏡』岩波書店2009

経学とは何か、ということを『論語』の解釈史を通して概観する。概説書としての役割を果たしつつも、読み物としても非常に面白いという希有な本。

野間文史『五経入門』研文出版、2014

経書についてのいわゆる概説書的な概説書。経書の各編の内容がリスト的に解説されていて、一通りの基礎知識を身に付ける際や日頃のちょっとした確認に便利。

島田虔次『朱子学と陽明学』岩波書店、1967

朱子学陽明学についての古典的な概説書。要領よくまとまっている。

 

説文解字

阿辻哲治『漢字学 説文解字の世界』東海大学出版会、1985(新版は2013)

説文解字そのものとその研究史についての概説書。この本では物足りないと感じたら、次に頼惟勤『説文入門』がお勧め。

 

【音韻学】

藤堂明保ら『中国文化叢書』大修館書店、1967

『中国文化叢書』のシリーズ(Ⅰ~Ⅸ)自体、中国学関連の概説書として手堅いものだが、特に言語篇のⅠは評判が良い。

Ⅰ言語Ⅱ思想概論Ⅲ思想史

 

【思想史】

狩野直喜中国哲学史』岩波書店1953

最も古典的にして今でも出発点とされる概説書。文学史には『中国文学史みすず書房1970も。

・日原利國篇『中国哲学史』ぺりかん社1987

人物ごとに整理されている。

溝口雄三、池田知久、小島毅『中国思想史』東京大学出版会、2007

この種の概説書として最も新しいもの。

 

【仏教史】

沖本克己・菅野博史ら 『新アジア仏教史6 仏教の東伝と受容』佼成出版社、2010

『新アジア仏教史1~11』は、アジアにおける仏教の展開についてインド・中国・朝鮮・日本など地域別に詳細に解説したもの。6、7(興隆・発展する仏教)8(中国文化としての仏教)が中国に関するシリーズになっている。

 

道教史】

・金正耀『中国の道教』平河出版社、1995

コンパクトで分かりやすい。

 

※リンクはアマゾンで新品が販売されているものだけに付けました。

 

新年のご挨拶

 みなさま、あけましておめでとうございます。

 昨年の夏に始めた本ブログですが、細々と週一回のペースを守り、何とか続けることができました。

 このペースはどこかで途切れることになるでしょうが、続けられる限りは書いていこうと思いますので、今年もよろしくお願いいたします。