達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

くたばるのは、忌々しい社会や歴史を書き換えてからでも遅くはない~吉野靫『誰かの理想を生きられはしない』

 今回は、吉野靫『誰かの理想を生きられはしない―とり残された者のためのトランスジェンダー史―』(青土社、2020)について書いていく*1。この本の感想はいつかきちんと書きたいと思っていて、メモを取り始めたのはだいぶ前なのだが、完成までだいぶ時間がかかってしまった。結局ざっくりまとめるだけになってしまい、あまりきちんと書けなかったが、もっと多くの人に読んでもらうためには、不完全なものでも、とにかく人の目に触れるところに感想を置くしかない。本は思ったよりすぐに流れ去ってしまうものである。

 本書は、クィアとは何か、ということを私に叩き込んでくれた本である。詳しく言うと、(性)規範とは何か、その規範を支える制度やシステムは何か、それらはどういう関係にあり、どういう歴史から生まれてきたのか、またそれを問い直す/解体するとはどういうことなのか、そしてそのための運動のあり方と歴史について、特にトランスジェンダーとしての筆者の実践と人生を振り返りながら語りかける本である。

 本書のベースには筆者自身の語りがあり、そこからトランスジェンダーGID性同一性障害)規範の関係が中心に論じられるという形になっている。よって、当然、この本では言及されない性規範による差別・抑圧も色々あるわけで、その意味で本書が何かの(たとえば性的少数者の)網羅的な概説書になっているわけではない。しかし、トランスジェンダーだけではなく、家父長制や男女二元論に苦しめられるさまざまな属性の人々にとって、本書は一つの道標になるものだと私は思う。

 私にとってこの本は、たまに読み返しては、闘うための指針と気力を与えてくれる存在である。読むたびにこれほど心が強く揺さぶられる本はない。本書は筆者を始めとする様々な人々(特にトランスジェンダー)の苦しみと屍を克明に記したものでもあるから、私が今書いた言葉を、呑気な意味で「啓発される本」みたいなノリでは受け取ってほしくない。(とは言いながらも、結局こんな感想にまとめてしまえるのは、私自身が「わがごと」としてこの本を受け取れきれていないからなのかもしれない、と思ったりもする。)

 本書はとても厳しい本でもある。雑に言えば、二元的な規範に従うな(規範を強固にするな)と説き、当事者(もちろん別に当事者でなくてもよいのだが)を運動に参画するよう求める本でもある。逆に言えば、既に闘いのために立ち上がった人にとっては、その孤独に寄り添い、力になってくれる本でもある*2

 

 内容を大きくまとめると、「性同一性障害」という枠組みに当てはめられた物語によって、トランスジェンダーを含めた多様な生/性のあり方がその規範に押し込められ、周囲から自分に抑圧をかけられたり、また自分から自分に抑圧をかけたりすることになる、ということが書かれている。そしてその枠組みが成立していく過程での、医療・法律・政治・(当事者)運動の絡まり合いの歴史が書かれている。

 たとえば、「性同一性障害」と診断されるためには、問診で自分史を答える必要がある。その中では、正規医療に親和的で、身体に嫌悪があり、「逆の性」への同化を求めていて、ヘテロセクシャルである「患者」の姿が誘導尋問的に導き出されるようになっている(p.93-95)*3。本書では、こうした基準に自らの身体や感覚・欲求などを合わせること(または周りからこうしたトランス像で決めつけて理解されること)に対する疑問を表明し、実際の当事者の語りの中から、上の規範に当てはまらない例(身体嫌悪がない例、「逆の性」への同化志向がない例、トランス男性で男性に性的に魅かれる人など)を数多く提示している。

 それを受けて書かれる以下の一段は、本書のスタンスをよく示している。「誰かの理想を生きられはしない」というタイトルの意味もよく分かるだろう。

そろそろ、基準をずらしてもよい。生まれながらの「女性」「男性」に体を近似させ、そう扱われるように演出することは、本当は誰の願いなのか。あるべきはずだと思い描いている体は、誰の体なのか。できないものはできない、不可能なものは不可能と、その時点であぐらをかけばよい。むしろ、そうでなければ楽にならない。そんなに真面目に、規範に加担してやる必要はない。二極を避けてどこかで降りれば、そこが着地点になる。(p.102)

 この本の帯にもなっている「「本当の」トランスジェンダーなんてない」「「本当の」男女を追求する必要なんてない」という宣言の力強い内実はここにある。そもそも「本当の○○」という語り口自体が非常に危ういものであるということは、先日、『エトセトラ』vol.10 男性学特集号の感想(2) - 達而録でも書いた。

 なお、最近、GID学会が「日本GI(性別不合)学会」に名称を変更する、つまり「障害」の語を外すというニュースが流れてきた。本書にも、当事者にとって「性同一性障害」という概念が縁遠くなりつつあるという話が少し出てくる。しかし、本書を読めば分かる通り、一度成立した規範はなかなか解体されず、医療や制度、人々にこびりついた観念はすぐには変わらない。本書はまだまだ直接的な意味で必要とされていると言える。

 

 本書のもう一つの軸になっているのが、いわゆる「性同一性障害特例法」(特例法)である。特例法には、(悪名高い)五条件が附されていて、「十八歳以上であること」「現に婚姻をしていないこと」「現に未成年の子がいないこと」「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」「その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること」がそれである。

 筆者はここに三つの問題を指摘する。(p.42)

  1. 特例法の存在自体が性同一性障害の「エリート」と「落ちこぼれ」を現出させてしまう問題。「逆の性」への同化のニーズを明確化する当事者だけが恩恵を受け、そうでない当事者は排除される。
  2. 要件が妥当なのかという問題。また要件の存在自体が、要件にはまらない人、逸脱する人を、偽物・周縁にしてしまう。
  3. 特例法が性同一性障害の規範を再編し、強固にする問題。

 さて、最近、最高裁での判断を皮切りにして、特例法の「要件の改正」についての議論が進んでいる。

 確かに、この改正が実現すれば、今よりも比較的良い制度になるのであって、少なくとも現状の規範を揺るがす第一歩になると言えるだろう。しかし、決して問題の根本が全て解決するわけではない。そのことは、この筆者の指摘を見れば分かる通りである。つまり、「②要件が妥当なのかという問題」は解消される可能性があるが、①の問題、つまりそもそも特例法の存在によって、「「逆の性」への同化のニーズ」が争点として想定され、そのニーズが明確ではない当事者は排除されるという点には、それほど大きな変わりがないからである。

 その意味では、私は今こそ、この本が必要にされていると思う。色々なことが変わりつつある中で、何を見据えて闘うのか、どのような運動をするのか、という基本線を見失わないための原則を思い出させてくれるからだ。また、本書を読むと「要件を附す」ことについて当事者たちの運動の中での分裂があった歴史を知ることができるが、するとこの要件の一部が「違憲判決」されたことの意味の重さを改めて考え直すことができるだろう。

 本書に戻り、ここから筆者は、トランスジェンダー当事者の語りから、多様なトランスジェンダーの姿を描き出す。たとえば、「自分の身体に対しての、折り合いのつかない感覚」を表明しながらも、「率直に身体に向き合い、肯定していく試み」を行っていた団体の存在を示す(本書を通して、このような自分だけの身体感覚に丁寧に向き合うことの大切さを筆者は一貫して提示していると思う*4)。

 こうして、事実として存在するさまざまな性のあり方を示した上で、筆者は目指すべき地点を示す。それは、特例法では想定されないGIDの状況があること、応答し得ない身体ニーズがあること、また特例法を用いても変わらないものがあることを認識した上で、特例法を支える医療・診断や、男女二元的な社会状況ごと、解体することである。そして、筆者は以下のようにまとめる。

GIDは個人の「疾病」ではなく、社会の「疾病」である。特例法はあたかも、個人の疾病を解消することに手を貸すような姿をしているが、そもそもの生きづらさの不自由さを生む原因ごと、当事者の領域に還元してしまおうとしている。究極的に変えねばならないのは、当事者の身体ではなく、社会の方であろう。(p.57-58)

 最高裁の結果を受け、これから特例法の改正を求めていくに当たって、そもそもトランスジェンダー(に限らず多様な性的少数者)を不自由にしている、男女二元的な社会状況や戸籍の在り方自体を問い直すということを忘れてはならない。これは、たとえば同性婚を求める時に、結婚制度という枠組み自体への問いかけを放棄してはならないことと似た構造でとらえることができると思う。「クィアである」とはそういうことであると私は考える。

 

 この本は、もとより「網羅的」とか「入門」といった見出しを掲げるものではない。たとえばトランスジェンダーについて「分かりやすく説明しよう」という看板を掲げていない。そういう「わかりやすさ」を拒絶しながらも、何がトランスジェンダーを苦しめているのか、ということを分かりやすく伝えている。また、「おわりに」に顕著であるように、インターセクショナルな観点も明示されている本である。ぜひ買って読んでほしい*5

 ちなみに、吉野さんのエッセイを「REDDY:エッセイ」で読むことができるので、こちらもぜひ。また、吉野さんのSNSには吉野さんの自分の写真がしばしば載せられているのだが、私はその写真がどれもとても好きだ。こちらもおすすめ。

 また、以下の書評も合わせて参照。

(棋客)

*1:ブログタイトルは、本書のp.203から引用。

*2:闘うとか、運動するとかいうことを、定型的にとらえる必要はないと私は考える。生存そのものが抵抗になることもある。本書のあとがきには「慣れる」「慣れさせる」という日常闘争のあり方も提示されている。

*3:ほか、たとえばp.53に「精神科医に本物の女、本物の男として認めてもらわなければホルモン投与や外科手術ができず身体を変えられないので、わざとMTFはスカートを履き、メイクをし、FTMは短髪にしてできるだけ男っぽい服装で行く。それで蓄積されていくGIDデータは現実を歪めている」とある。

*4:最近、吉野さんがSNSで紹介されていた岡田索雲の『ある人』という漫画ある人 / ある人 - 岡田索雲 | webアクション)は、この観点と重ね合わせて解釈することができると思う。つまり、GID規範的な理解で自分の身体を理解していたトランスジェンダー当事者が、自分の物語を取り戻し、その規範の構造の根幹を発見する話として読める。漫画の中では、「そうだ はじめから誰とも入れ替わってなどいなかったし そのように扱われるべきではないのだ」とはっきり宣言され、最後には「しびれるような世界」を求めて規範を支える根幹を破壊しに向かう。岡田索雲『ようきなやつら』も入手したので、また後日改めて感想書くことにする。

*5:最後に付け足しておくと、この本の表紙のデザインがとても好きだ。真っ黒に見えるのだけど、よく見ると微妙な陰影のなかに砂漠が見えてくる。この本の内容をよく理解した表紙だと思う。