達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

この灯は、消しちゃあいけねえ~岡田索雲『ようきなやつら』

 先日、岡田索雲『ある人』の感想を書いた。単行本の『ようきなやつら』も買って読んだので、今日はこの本について考えたことを書いていきたい。短編集で、『東京鎖鎌』『忍耐サトリくん』『川血』『猫欠』『峯落』『追燈』『ようきなやつら』の全七作が収録されている。

 一言で言えば、とても誠実な作品が詰まった短編集である。何を作品にするか(すべきか)ということを考え抜いたうえに、題材として扱うからには、その表象に対して最後まで責任を負うことへの作家としての覚悟が感じられる。以下、大幅に自分の解釈を加えながら、感想を書いていく。

 この社会には差別・偏見による暴力やマイクロアグレッションがある。こうした暴力は、個人の問題によって生じるものではなく、社会の規範・仕組みによって生み出されている構造的な暴力である。そしてこうした暴力の先には死が待っている。本作は、全体を通してまずこのことを描き切っている。

 「猫欠」では、引きこもった猫に対して向けられる言葉の矢―「親の育て方が悪い」「みんな君のことを心配している」「アレもアピールの一種」「君なら回復できる」「前向きに生きようぜ」などなど、「生きづらさには様々な要因が複雑に絡み合っている」ことを分かっていない言葉が投げかけられる。その猫には無数のリストカットの跡が刻まれている。

 「川血」では周囲とは異なる姿をしている河童がいじめに遭うが、この世界には、入国管理局を思わせる「河童安全管理局」が存在し、異形の河童たちを牢屋に入れて閉じ込めている。そういう国家の施策が日常の場でいじめという形で噴出していると解釈でき、これは日本社会で生きる外国人が受ける差別の構造にそのまま当てはまる。この構造の先にあるものは、「追燈」で描かれる関東大震災における朝鮮人虐殺である。

 また、「ようきなやつら」では、精神病棟での拘禁が、かえって患者の病的世界を肥大化すること、つまり病院の体質が患者の暴力的な行動をエスカレートさせることが説かれている。

 

 こうした構造の中で、マジョリティに異を唱えたり、マイノリティとしての自分のアイデンティティを示すことは、非常に難しく、それ自体が死に直結することもある。

 「峯落」では、男社会の中で、実力ある女性(マサリ)が、次期統領に立候補するが、選ばれることはないと思われている。家事を始めとするケア労働が女性に押し付けられ、権力ある者のジェンダーバランスが偏っているからだ。そして、マサリは統領による性被害を訴えるのだが、「女としての魅力がないだろう」「犯された奴が笑うわけがない」という典型的な二次加害の言葉が投げかけられる(Metoo運動や、自衛隊・ジャニーズなどの性加害の流れを思わせる)。マサリは拘束され、さらにマサリを助けに入るフジトも拘束される。

 「追燈」では、朝鮮人の少年が、日本人のフリをすることをやめ、自らのアイデンティティを明かして日本人との対話を試みるが、問答無用で殺される。差別者との対話は成り立たないのだ。

 

 抑圧されている者が声を上げるのが難しい構造に置かれているのだから、こうした社会はそう簡単には変わらない。また、そうした差別・抑圧を受けてきた立場の当人にとっても、その社会は絶望でしかなく、そこに「取り返すものなどない」と考えてしまうこともある。だから、「川血」の河童は「ここにはなんもねえ」とつぶやき、生まれ育った川を去って海に出てしまうし、マサリは山を下りる決断をする。

 かといって、こうした状況の解決方法として、本作では「あなたのことを理解してあげよう」とか「あなたもつらいんだね」といった、マジョリティによる包摂的なアプローチが取られることもない。むしろ、「ようきなやつら」で、「模範的な行動をして狐のイメージ回復にでも尽力すればいいのか」という問いかけに対して、「そんなのクソ食らえですよ」と明示するように、そうした規範への順応や取り込みは徹底して拒絶する。

 前回紹介した『ある人』も同じだが、本作では、規範への順応や包摂ではなく、その規範とシステムの解体が常にまなざされている。マサリが「山を動かす」ことを諦め、「山を崩し」にかかるのは象徴的だ。

 

 では、そうした規範を解体するための、抵抗の第一歩はどこにあるのだろう。まずは、被害を忘れずに語り続けるということ―「灯を消さないこと」がある。「追燈」では、おぞましい虐殺の現場を、提灯小僧が語り続ける。明かりが灯っているから、抵抗するものたちが集うことができる。そしてその上で、対話(コミュニケーション)をもとに連帯していくことで、社会を変えていくしかない。その意味では、本作で描かれる対話の描写も示唆深い。

 たとえば、「猫欠」「ようきなやつら」での対話のシーンは、丁寧なコミュニケーションのあり方が描かれている。一方、「東京鎖鎌」は、対話が成立していない例を描いている。この物語の中では、夫婦の仲の良い会話が描かれているように見えて、オスは相手の意思を確認することがないし、生まれてくる子供も完全に所有物として扱っている。二人は会話を交わしてはいるが、対話は成立していない。そして対話が成立しない根底には、オスの側のコンプレックスがあることが示唆される。鎌鼬ではないオスは、鼬であることに誇りが持てず、最後まで鎌を手放せない。

 また、「忍耐サトリくん」は、対話への覚悟を問う作品だと思う。先生の心の中の思考が、サトリくんの妄想なのか、本物なのかは分からないのだが、どちらにせよ物語の本質は変わらない。徹底して相手の「内心の自由」は尊重したまま、外に表出した言動(言葉や行動)によって、その人のことを判断するということができるかどうかということが、対話には求められる。

 そして「ようきなやつら」で、ここまでに登場してきた差別される妖怪たち(河童、猫、マサリ、提灯小僧)が勢ぞろいする。外国人であり、在日朝鮮人であり、引きこもりであり、女性であり、さまざまな属性の存在が、精神病院の中でインターセクショナルに交わりあうこの作品がラストにあることに希望を感じる。

 当たり前のことだが、抵抗の狼煙を上げる者は、従来とは権力構造が反転した社会(たとえば女尊男卑の社会)を作ることが目的ではない。マサリが自分の記憶が曖昧でありながらも立ち上がった理由は、「他にも被害者がいる」からだ。ある猫が、引きこもりの猫の側に寄り添い続けた理由は、「少しでも生きるのが楽になっていることを願って」のことだ。精神病患者の武良木が化け狐に向き合うのも、「ちょっとでも楽になればと思って」いるからだ。

 武良木は以下のように語る。

僕も含め、ここにいるみんな、それぞれの生きづらさを抱えていて、気持ちの整理がつかず、未だに苦しんでいます。こういった問題はすぐにどうにかなるものじゃない…。よかったら、これからどうすればいいのか、一緒に探りませんか。

 ちょっとでも楽になるための連帯、それぞれの生きづらさに向き合うための連帯、いつでも第一歩はここにある。

 付け加えておくと、「鎌鼬の連係プレー」や「マタタビの乱用」など、設定を活かしたシュールな笑いがさりげなく仕込まれているのも好きだ。これだけの豊かな内容を、リズムのよい物語の展開の中に落とし込める鮮やかな筆致に惚れ惚れとする。

(棋客)