達而録

ある中国古典研究者の備忘録。毎週火曜日更新。

しびれるような世界を求めて~岡田索雲『ある人』

 前回の記事で少し触れた「ある人 / ある人 - 岡田索雲 | webアクション」を、何度も読み返して繰り返し感銘を受けている。多くの人に知って欲しい漫画家だと思ったので、詳しく感想を書いていく。

 最初にこの作品の前半を読んだ段階では、「突然誰かとぶつかって入れ替わった」という設定を武器に、現代社会に蔓延っているトランスジェンダー差別の言説の理不尽さを浮き出させた漫画という印象であった。誰も主人公の話を聞かず、出会うのは風呂とトイレについての言説ばかりで、真に自分の状況を理解しようとしてくれる人はどこにもいない、という現在の社会の状況を、鮮やかに切り取って伝えてくれている。

 しかし、読み進めていくと、「差別者を茶化す」ことだけに焦点が当てられた作品ではないということに気が付く。この物語は、間違いなく、自分を探し求め、生存のために身を投げうって闘わざるを得なかった当事者のためのものだ。細かな台詞回しと全体のストーリーから、そのことがよく分かるようになっている。

  • 「医者というより門番じゃないか」

 主人公は「本当の自分」を探す旅に出る。その道があまりに曲がりくねっていて歩きずらそうなのは、その先の苦難を感じさせる。その道中、主人公はタクシーを拾う。しかしタクシーは後戻りを始める。そして運転手は主人公に医者に行くように勧めてくるが、その医者は金剛力士像のような恐ろしい姿で仁王立ちしている。

 GID性同一性障害)の枠組みにおいて、こうした「医者」の役割は、その人の自分史を聞き取るなどして「診察」し、GIDである、手術してよい、などを判断するところにある。しかし、主人公はそもそも「病気」ではないわけで、そこに立っている医者は、ケアや治療をする存在ではなく、男女二元的な規範を維持するための「門番」(ゲートキーパーとして機能している*1

 そして「間違った身体にいるのでしょう」と言われた主人公は、それに対して「間違ってなどいない」と言い放ち、タクシーから飛び出す。この流れを見ると、このタクシーは、GID規範の中でのいわゆる「正規医療」のレールを示したものとして解釈できると思う。そのレールには自分の居場所がないと感じた主人公は、タクシーを飛び出すのだ。

  • 「時間がない 誰かわたしの声をきいてくれ」

 見開きで印象的なシーンである。主人公が歩く場所の周りには、同志たちの墓がたくさん埋まっている。こんな社会で生きている主人公は、常に死と身近な場所にいる。「時間がない」という切実な叫びは、耐えきれなくて自死するという選択肢が現実味を帯びていることを思わせる言葉だ。

 墓を通り過ぎて、主人公は自分を助けてくれる子供と出会う。子供は「おばさん/おねいさん」と主人公に呼びかけ、当人のアイデンティティを尊重していることが分かる。子供に導かれて、主人公は道を知ることができ、先に進んでいく。

 子供は最初は仮面をつけているが、見送る時に素顔をさらしている。子供のことを案じる主人公に対して、子供は「ぼくは大丈夫、おとうさんもおかあさんもわかってくれてるから ぼくはおかしくないって言ってくれたんだ」と返事をする。力強い連帯が描かれるシーンで、ここに子供が登場するのがとてもいい。

  • 「そうだ はじめから誰とも入れ替わってなどいなかったし そのように扱われるべきではないのだ」

 子供の助けを借りて、「本当の自分」の居場所に辿り着いた主人公は、このように宣言する。そして、自分が子供の頃の心象風景が描写され、「子供の頃からずっと、この世界を生き延びるための術を身につけなければならなかった」と語られる。そう、主人公はある時誰かと「入れ替わった」わけではなかったのだ。(入れ替わった相手に「顔が無い」ことも、そのことを表しているだろう。)

 言い換えると、この物語の導入になっている「ぶつかって入れ替わった」という設定自体が、実は社会の側から与えられた枠組みでしかなかったということに、主人公は気が付く。「中身が入れ替わった人」という扱い自体が、そもそも間違っているものなのだが、そういう規範が幅を利かせる中で、主人公自身もいつからか「自分は中身が入れ替わっている」という言説を内面化してしまっていた。それは社会にそういう物語しかなかったからだ。

  • 「どうして説明し続けなければならないのでしょう 繰り返し 繰り返し 私が存在している理由を」

 マイノリティには、生きていくために常に「説明」が求められるという、非対称で、差別的な状況がある*2。しかも、説明したとて、「論争のための材料」にされたり「馬鹿にされるための議題」にされるだけだったりする。ありのままの「自分を愛する」ために、「なぜここまで苦労しなければならないのか」と主人公は独白する。

 ここで『ある人』という本作のタイトルが効いてくる。どんな属性であろうが、その人は「ある人」でしかなくて、そこらへんで生きているたくさんの人間のうちの一人なのだ。しかし、ある特定の属性の人々だけが、常に説明を求められ、足蹴にされ、自分を愛することができなくなってしまう。

 では、こうした苦労を経て、「自分の物語を取り戻した」主人公は、どこに向かうのか。

 最後のシーン。主人公は「やっとわかりましたよ 本当に向かうべき場所が」と言い、爆撃機に乗って国会議事堂に向かう。こうした規範とシステムを作り出す根幹を破壊しに向かった、と解釈できるだろう。破壊・爆撃という直接行動で読むことに抵抗がある人は、比喩表現だと捉えればよい。つまり、家父長制、戸籍制度、GID規範、特例法、男女二元論、そしてそれらを支える国家というシステムを、解体するための運動を始めることの比喩である。その解体の先に待っている、解放された世界―「しびれるような世界」を目指して。

 

 この漫画は、前回紹介した吉野靫『誰かの理想を生きられはしない―とり残された者のためのトランスジェンダー史―』の論旨とかなり響き合うものを持っていると思う(前回書いたように、そもそも私はこの漫画を吉野さんのツイートから知ったので、私が勝手に本書の内容と重ね合わせて理解しているというところもあるが)。『ある人』の主人公は、まさに「とり残されたトランスジェンダー」であると言えるのではないだろうか。私の解釈が正しいかは別にして、合わせて読むと想像が膨らむことは確かである。

 また、これをきっかけに、岡田索雲の単行本『ようきなやつら』も買って読んでみた。社会の規範とシステムに殺される側に立ち、その表象に対して責任をもつ覚悟を引き受けた、誠実な作品が詰まっていて、想像以上に素晴らしい作品集だった。たとえば、MeToo運動を始めとする女性運動のほか、入管法に苦しむ外国人や関東大震災での朝鮮人虐殺、精神病患者の拘禁の反対などが、高い解像度で描かれている(中にはかなりハイコンテクストなものもある)。そして、その上で素晴らしいのが、絵柄と物語のリズム感である。短編の中で、差別される人々にここまで寄り添った作品を描き切る技量は、並大抵のものではないと思う。

 なお、『ようきなやつら』収録の「東京鎌鼬」のあとがきに、この作品が無邪気に差別的な解釈をされて愉しまれてしまい、困惑したという作者のコメントが書かれていた。当時のネットでの反応を見てみると、陰茎を置いていかれるというこの作品のオチから、トランスジェンダー差別につながる感想がいくつか見つかったので、多分このことを指しているのだと思う。

 とすると、今回紹介した『ある人』は、作者としては、当時受け取った差別的な反応に対するアンサーや抵抗として書いたという意味合いもあるのかもしれない。それは、そういう反応を生み出してしまう作品を公開した作者が、新しい作品と言う形でそのことに対する責任を取ったとも言えるだろう。

(棋客)

*1:現在の日本では、主にGID認定医がゲートキーパー的な役割を果たしてしまい、当事者の状況がまったく進展しないということがよく起きている。

*2:以前、フィクションの世界にマイノリティが登場する場合にも、その属性に対する何らかの役割づけ(ある種の「説明」)が求められてしまうという話を以前このブログで書いた(文フリで買った本①―『砂時計』第四号 - 達而録)。