達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

とある最近の本について

 最近発売された山口謠司『唐代通行『尚書』の研究』勉誠出版、2019)が大学の図書館に入っていました。

 個人的に興味のあった、第二章・第五節の「『群書治要』所引『尚書』攷」のうち、舜典について調査した部分から、「p.122、p.123の六つの条だけ」をチェックしたものを以下に載せます。ここは資料集になっている部分で(というより本書のほとんどが資料集なのですが)、『群書治要』所引の『尚書』と、現行本『尚書』の字句の異同がある箇所を比較して並べている部分です。

 念のため言っておきますが、自分の興味からこの部分を最初に読んだので細かくチェックしたというだけで、特にミスが多いところを取り立てて選んだわけではありません。

 ここは、見出し字が「」の中に二つ並べられ、場合によっては山口氏がコメントを附す、という形式になっています。最初の見出し字は「汲古書院影印の金沢文庫旧蔵鎌倉写本」の『群書治要』に引かれる『尚書』かと思われます(底本が何なのかはっきり書かれていないのですが)。次に書かれているのが「北京大学本」(十三経注疏整理本)です。

 なお、写本の書体は入力できない字(■で代用)が多くブログに載せにくいので、ここでは触れないことにしました。よって字句に関してコメントしているところは、全て「北京大学本」の条に関するものであることをご承知おきください。


 まず、最初の条。

 「■舜■■堯聞之聡明(側側陋微微賎)將使嗣位歴試諸難(歴試之以難事)」
 「虞舜側微(爲庶人故微賎)堯聞之聡明(側側陋微微賎)將使嗣位歴試諸難(嗣継繼也試以治民之難事)」(北京大学本、五九頁)

 舜典のこの部分は、偽孔伝である。今文『尚書』にはこの文章はなく堯典からすぐに「慎徽五典五典克從」に続く。はたして、今、「側側陋微微賎」は孔伝には見当たらない。『經典釋文』(敦煌本「舜典」)は「王氏注」として、この本文の「之(■)」「使(■)」「嗣(■)」「諸(■)」「作舜典」と挙ぐ。あるいは、『群書治要』所引の「舜典」は、『經典釋文』と同じ王肅注本を使っていたものかと思われる。『一切經音義』に「王注微賎也」とあり。

 北京大学本の条、「嗣継繼也」→「嗣繼也」、「賎」→「賤」、「堯聞之聡明(側側陋微微賎)」→「堯聞之聦明」(伝は削除すべき)、「歴」→「歷」。

 どれもただの異体字タイプミスですが、本書は各本における『尚書』の字句の揺れを考察するものであり、本書の他の部分では、普通は異体字として処置し気に留めない異同でも、非常に細かく掲出してあります。であれば、この辺りにも特に気を遣うべきです。本来は、これがこの本の強みになりうる唯一の点なのですが…。*1

 まあ、以上のような誤りなら、「細かいミス」ということで話は済むかもしれません(細かな字の異同をテーマにした研究書ですから、実際は致命的なミスなのですが)。問題は、次の山口氏の解説部分です。

 ①まず、「舜典のこの部分は、偽孔伝である。」という表現そのものに違和感があります。ここは経文であって孔伝ではないのですから。

 ②山口氏が言う「今文『尚書』にはない「舜典」の冒頭部分」とは、上の条の直後の「曰若稽古帝舜、曰重華協于帝、濬哲文明溫恭允塞、玄德升聞乃命以位。」の二十八字のことです。ここで挙げられる「虞舜側微、堯聞之聡明、將使嗣位歴試諸難、作舜典。」は、当然ですが、「書序」の文章です。『尚書』の書序と経文の区別がついていないとは、『尚書』の研究者としてはいかがなものでしょうか。
 また、そもそも、この二十八字部分は、齊の姚方興本によるものですから、「今文『尚書』にはこの文章はなく」という表現にも違和感を覚えます。古文『尚書』にももともとこの文章はなかったわけですから。(本書の他の部分を見てみても、著者は姚方興本のことをご存じないようです。)

 ③「「側側陋微微賎」は孔伝には見当たらない。」は事実としては正しいのですが、上の校勘のリストではあることになってしまっています。

 

 補足:先に述べたように、舜典の冒頭二十八字は齊の姚方興によったものであり、王粛よりも後代のものですから、仮に上に述べた問題点を取っ払って読んだとしても、そもそも議論になりません。ただ、上の部分は正しくは「書序」ですから、ここに王粛注が附される可能性自体はあります。

 さて、「『群書治要』所引の「舜典」は、『經典釋文』と同じ王肅注本を使っていたのかもしれない」という指摘は興味深いところです。最近、個人的に姚方興本受容の状況を少し調べているのですが、『群書治要』の例も調べてみようか、と思いました。(※2020.10.18追記:この点については、1940年代の研究である石濱純太郎『支那學論攷』に既に詳しく論じられています。このぐらいはチェックしてほしいものです。)

 


 その一つ次の条。

 「慎徽五典五典克從(五典五常之教也謂父義母慈兄■弟恭子孝舜舉八元使布五教于四方五教能從无違命也)」
 「慎徽五典五典克從(徽美也五典五常之教也謂父義母慈兄友弟恭子孝舜慎美篤行斯道舉八元使布之於四方五教能從無違命)」(北京大学本、六一頁)

 北京大学本、「五典五常之教也謂父義母慈・・・」→「五典五常之教父義母慈・・・」


 その一つ次の条。

 「納于百揆百揆時敘(揆度舜舉八凱以度百事百事時敘也)」
 「注揆度也度百事揔百官納舜於此官舜舉八凱使揆度百事百事時敘無廢事業」(北京大学本、六一頁)

 急に「注揆度也・・・」と出てきて、北京大学本の項目の立て方がおかしくなっています(びっくりされると思いますが、本当にこうなっています)。すぐに気が付きそうなものですが…。前後の体例に合わせるなら、「納于百揆百揆時敘(揆度也度百事揔百官納舜於此官舜舉八凱使揆度百事百事時敘無廢事業)」とするべきでしょうか。


 その一つ次の条。

 「賔于四門四門穆穆(賓迎也四門宮四門也舜流四凶族。諸侯群臣來朝者舜賓迎之皆有美徳无凶人也)」
 「賔于四門四門穆穆(舜流四凶族四方諸侯來朝者舜賓迎之皆有美徳无凶人)」(北京大学本、六一頁)

 北京大学本、「賔」→「賓」、「徳」→「德」、「无」→「無」

 ここの偽孔傳、北京大学本は「穆穆美也四門四方之門舜流四凶族四方諸侯來朝者舜賓迎之皆有美德無凶人」で、前半が抜けています。

 ここだけ「。」があるのも、体例に合っていません。


その一つ次の条。

 「納于納于大■烈風雷雨弗迷(納舜於尊顕之官使大錄万機之政於是陰陽清和烈風雷雨各以期應不有迷錯■伏明舜之行合於天心也)」(欄下に「■」を「籀文愆字」と)
 「納于納于大麓烈風雷雨弗迷(麓錄也納舜使大錄萬機之政陰陽和風雨時各以其節不有迷錯愆伏明舜之𤤯合於天)」(北京大学本、六一頁)

 『北堂書鈔』(巻五十九)に王肅注として、「堯納舜於尊顕之官使天下大錄万機之政」とあり。

 北京大学本「納于納于大麓」→「納于大麓」、「𤤯」→「德」(びっくりする誤字ですが、本当にこうなっています)

 王粛注の佚文を『北堂書鈔』からのみ挙げていますが、他、『釋文』に「麓、錄也。」、『尚書正義』に「堯得舜任之事無不統、自慎徽五典以下是也。」があります。(この佚文は『藝文類聚』『太平御覽』にも見えます。)


 その一つ次の条。

 「正月上日受終于文祖(略)」
 「正月上日受終于文祖(上日朔日也終謂堯終帝位之事文祖者堯文𤤯之祖廟)」(北京大学本、六四頁)

 同じく、「𤤯」→「德」。

 なお、『釋文』に「王云、文祖、廟名。」とあります。また、『尚書正義』に「先儒王肅等以為惟殷周改正、易民視聽、自夏已上、皆以建寅為正、此篇二文不同、史異辭耳。」とあるのも参考に載せておいても良いかもしれません。

 

 その一つ次の条。

 「五載一巡守羣后四朝■奏以言明試以功車服以庸(略)」
 「五載一巡守羣后四朝(略)敷奏以言明試以功車服以庸(敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言)」(北京大学本、七二頁)

 北京大学本「敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言」→「敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言明試其言以要其功功成則賜車服以表顯其能用」

 なお、「治禮之言」を、北京大学本は阮元校勘記に従って「治理之言」に改めています。が、上ではそのままになっています。

 また、コメントに「『經典釋文』(北京大学本)は、「四朝、馬、王、皆云・・・」」とありますが、北京大学本の『經典釋文』とは、上までで使ってきた北京大学本の附釋音のことでしょうかね。附釋音には改変が多いですから、これもちょっとどうかと思います。

 

 本書は、以上のような異同のリストの部分が全体の八割近くを占めているのですが、果たして他のリストは使い物になるのでしょうか。はなはだ疑問です。

 他にも書きたいことは色々あります。①考証学者の文章の長大な引用に全く句点が入っていない上に、校勘した形跡がほとんど見受けられないこと(データベースそのままではないかと思います)。②○○の問題を解決するために異同を調査する、という形で異同の整理が始まるのに、その後ろに結局何ら結論が示されないこと。③本研究によって博士号を取得されていること(そして教…に…)。④「はじめに」と「おわりに」、などなど。しかし、もうここまでにしておきます。

 

 この本は大学の図書館に相当入っているようですので(現時点で22館)、注意喚起のために記事にしておきました。正直、使い物にならないです。『尚書』について知りたい方は、野間文史『五経入門』平岡武夫『経書の成立』といった概説書や、翻訳書(加藤常賢訳などがあります)をお勧めします。

(棋客)

 

*1:なぜ「北京大学本」と比べるのか、というのはよく分かりませんが、本書全体を通してそうなっています。本書には、「こうした部分を参照しても、越刊八行本は北京大学本とほぼ一致し、従って経注疏合刻の祖である越刊八行本は、比較的本文に誤刻の少ない本であったということが出来るであろう。」(p.80)といった表現もあるほどで、なぜか「北京大学本」に特別の価値を見出されているのかもしれません。北京大学本は最近作られた標点本で、便利なものではありますが、誤字が多いことも知られており、普通はわざわざ比較対象に選ぶ本ではありません。ただ、本書を読んでいると、もはやこの点に突っ込みを入れる気さえ失せ、それならそれでせめて正確にやってくれ、という気持ちになってきます。

齋木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』について(2)

 前回紹介した鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』は現存しない佚書であり、様々な輯佚書が作られています。

 仮に『増訂四庫簡明目録標注』によって挙げておくと、漢魏叢書本、藝海珠塵本、問經堂叢書本、范述祖本、孔廣森『通德遺書所見録』本、袁鈞『鄭氏佚書』本といったものがあるようです。

 前回紹介した、斎木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』(汲古書院、2018)では、鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』について、

 叢書集成初編所収の問經堂叢書本、王復輯『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』を底本として使用する。ただし、この本には誤字が比較的多く、漢魏遺書鈔本の『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廢疾』によって字を改めた所がある。(p.238)

 と書かれています。

 

 ただ、古典研究において、原典を引用する際、その情報源にきちんと当たるのはまず基本と言うべき態度でしょう。今回の場合であれば、輯佚書が集めてきた材料の拠り所を調べる必要があるわけです。「輯佚書を底本にして元の資料と校勘」ならまだしも、輯佚書と輯佚書を校勘するというのは、ちょっと不思議というか、あまり意味のない校勘と言わざるを得ません。(実際、字の異同は色々と見つかりました。*1

 輯佚書には、その輯佚者による編集が加わっているのが常です。例えば、ある一つの佚文に対して数ヶ所の引用例が残っている場合、その両者を繋ぎ合わせて一つの文章に整理してしまうケースは、その代表的なものでしょうか。

 もちろん、その情報源を見ることが叶わない場合もあり、それなら仕方がないのですが、鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の輯佚元は大体が普通の注疏です。

 

 さて、そうはいっても、まずざっと全体を確認する場合や、その佚書の内容を一通り調べたい場合には、当然ながら輯佚書は非常に大きな武器になります。というわけで、たくさんの種類の輯佚書がある場合に、そのうちのどれが優れているかを確認しておくのも、必要な手続きということになります。

 そして調べてみると、ただの輯佚書ではなく、清人によって議論が加えられより便利になった本が見つかることもよくあります。今回の場合、皮錫瑞『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』がそれに当たります。(もちろん場合に拠りますが、単純に新しい輯佚本ほど整理が行き届いている、とも言えます。)

 

 ちなみに、自序にはこんなことが書いてありました。

 『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』自序

 三書既佚、輯本以袁鈞《鄭氏佚書》為詳。惟袁亦有疏失、以孔疏為鄭義、且以孔引蘇寬說為鄭君自引、尤謬誤之顯然者。

 皮錫瑞に拠れば、皮氏以前なら袁鈞『鄭氏佚書』が最も良いようです。現在なら、やはり皮錫瑞本が最も詳細かと思います。

 皮錫瑞はここで、袁鈞本の輯佚のおかしな部分も指摘しています。また今度確認しておきたいと思います。

 

 今回のところはとりあえず、前回紹介した『左傳』昭公七年の条について、『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』を見ておきましょう。

『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』箴膏肓疏證

 七年傳、子產曰「鬼有所歸、乃不為厲。吾為之歸也。」

 《膏育》孔子不語「怪力亂神」。以鬼神為政、必惑衆、故不言也。今《左氏》以此令後世信其然、廢仁義而祈福於鬼神、此大亂之道也。子產雖立良止以託繼絶、此以鬼賞罰、要不免於惑衆、豈當述之以示季末。

 箴。伯有、惡人也、其死為厲鬼。厲者、陰陽之氣相乘不和之名、《尚書五行傳》「六厲」是也。人死、體魄則降、魂氣在上、有尚德者、附和氣而興利。孟夏之月「令雩祀百辟卿士有益於民者」、由此也。為厲者、因害氣而施災、 故謂之厲鬼。《月令》「民多厲疾」、《五行傳》有「禦六厲」之禮。《禮》「天子立七祀、有大厲。諸侯立五祀、有國厲。」欲以安鬼神、弭其害也。子產立良止、使祀伯有以弭害、乃《禮》與《洪範》之事也。「子所不語、怪力亂神」、謂虛陳靈象、於今無驗也。伯有為厲鬼、著明若此、而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故並立公孫泄、云「從政有所反之、以取媚也。」孔子曰「民可使由之、不可使知之。」子產達於此也。

 疏證曰劉逢禄評曰「如良霄宜繼、子產宜早立良止而黜駟帶、公孫段、以弭厲於未然。如良霄宜誅、則奠其游魂、《禮》固有族厲之事矣。左氏好言怪力亂神之事、非聖人之徒也。」錫瑞案《左傳集解》曰「民不可使知之、故治政或當反道、以求媚於民。」正義曰「反之、謂反正道也。媚、愛也。從其政事治國家者、有所反於正道、以取民愛也。反正道者、子孔誅絶、於道理不合立公孫泄、今既立良止、恐民以鬼神為惑、故反違正道、兼立公孫泄、以取媚於民、令民不惑也。段與帶之卒、自當命盡而終耳、未必良霄所能殺也。但良霄為厲、因此恐民、民心不安、義須止遏、故立祀止厲、所以安下民也。」引何休《膏肓》云云。據杜孔申《左》、與鄭《箴》意合、蓋即本於鄭《箴》。《左傳》曰「鄭人立子良、子良辭、乃立襄公。襄公將去穆氏、而舍子良。子良不可、乃舍之、皆為大夫。」傳又曰「子良、鄭之良也。」案、子良有讓國之美、七穆並列卿位、皆由子良。伯有、子良之孫、雖有酒失、亦無大罪。子晳以私怨、專伐伯有。諸大夫皆祖子晳、不念子良之功、而使其後先亡。此極不平之事。惟子產能持公義、哭歛伯有、乃不明分功罪、為之立後、必使伯有為厲而後立之、固無辭於「以鬼賞罰」之譏矣。《五行傳》作「六沴」、鄭《箴》引云「六厲」、則 「厲」「沴」古通用、鄭君所見《五行傳》當有作「六厲」者。

 ちなみに「謂虛陳靈象、於今無驗也。」の句点は、十三経注疏整理本の句点も、皮錫瑞全集の句点も同じくこのように作っています。やはりこれが正しいと思います。

 鄭玄説を理解する上では、太字にした『正義』の解説が最も分かりやすいでしょうか。結論としては、「固無辭於「以鬼賞罰」之譏矣。」ということで、何休の批判を退けています。

 

 さて、少し調べてみたところ、関連する論文や書評がありましたので紹介しておきます。一応、どちらも目を通してみました。

田中麻紗巳「鄭玄「發墨守」等三篇の特色」(『日本中国学会報』第三十集、1978)

・井ノ口哲也(書評)齋木哲郎著『後漢儒学と『春秋』』(『日本秦漢史研究』第19号、2018)

 

(棋客)

*1:①p.229、僖公三十年の条、「經近立言」→「經近上言」
②p.239、注11、多くの輯佚書では儀礼疏に見える同条の佚文を大幅に付け足している。

齋木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』について(1)

 最近、斎木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』(汲古書院、2018)の第六章「鄭玄と何休の『春秋』論争」を読んでいたところ、色々と気になる記述にぶつかりました。そのうちの一部をご紹介します。鄭玄の文を読むのは非常に難しく、あまり自信はないのですが…。

 

 後漢の頃、『公羊傳』に注釈を附した何休は、『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廢疾』の三書を著し、『春秋』三傳のうち『公羊傳』の優れている点、他の二伝の批判すべき点を指摘しました。

 これに対して反論したのが鄭玄の『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』です。鄭玄は『春秋』の注釈を残さなかったとされており、この三書は彼の春秋学を知る上で非常に重要な書ということになります。

 

 今日取り上げるのは、『鍼膏肓』の昭公七年傳の条です。まずは、『左傳』本文を見ておきましょう。

『左傳』昭公七年

〔傳〕鄭人相驚以伯有、曰「伯有至矣。」則皆走、不知所往。

〔杜注〕襄三十年、鄭人殺伯有。言其鬼至。

 

〔傳〕子產立公孫洩及良止以撫之、乃止。子大叔問其故。子產曰「鬼有所歸、乃不為厲、吾為之歸也。」大叔曰「公孫洩何為。」子產曰「説也、為身無義而圖説。從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」

〔杜注〕伯有無義、以妖鬼故立之。恐惑民、并立洩、使若自以大義存誅絕之後者、以解説民心。

 鄭人がかつて殺害した伯有の鬼(幽霊)を恐れていた時に、子産が公孫洩と良止の宗廟を立てたところ、霊の祟りが止んだという話。これに対し、何休は以下のように論難しています。

 何休『膏肓』難此言「孔子不語怪力亂神、以鬼神為政必惑眾故不言也。今左氏以此令後世信其然、廢仁義而祈福於鬼神、此大亂之道也。子產雖立良止以託繼絕、此以鬼賞罰、要不免於惑眾、豈當述之以示季末。」

 「子不語怪力亂神」とは、『論語』述而篇の有名な言葉。孔子は「怪力亂神」を語らないと宣言しているにもかかわらず、ここで子産が鬼神の存在を持ち出して政治を行っているのは、民を惑わせるものではないのか、というのが何休の指摘です。

 

 これに対する鄭玄の反論はどういうものなのか?というのが今日のテーマです。まず、齋木氏の読みを見ておきましょう。

(鄭玄『鍼膏肓』の齋木氏の句読:番号は筆者が附す)

……子產立良止使祀伯有以弭害。……①子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象。于今無騐也。伯有為厲鬼、著明若此。而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故并立公孫洩云、從政有所反之以取媚也。孔子曰、民可使由之、不可使知之。②子產達於此也。(p.234)

 

(齋木氏の訓読:番号は筆者が附す)

……子產良止を立てて伯有を祀り以て害を弭めしむ。……①子の語らざる所の怪・力・亂・神は、靈象を虛陳するを謂ふ。今に于いて騐無し。伯有厲鬼と為り、著明此くの若し。而して何ぞ語らざらんや。子產固より衆愚將に惑はされんとするが為の故に、并せて公孫洩を立てて云ふ、政に從ふには之に反はんして以て媚を取る所有るなり。孔子曰はく、民は之に由らしむ可し、之を知らしむ可からずと。②子產此に達するなり。(p.234)

 そして齋木氏は、以下のように解説しています。(番号は筆者が附す)

 のごとく、『左氏』 説を辨護する。孔子が怪力亂神を語らなかったというのは、全く語らなかったということではなく、「靈象を虚陳した」のであるといい、孔子も本來は鬼神に對する關心を持ったことを想定する。その上で伯有の靈に苦しめられる民衆を救うために、子產は伯有の子孫良止を後嗣に立てて伯有の靈を祀らせ、併せて公孫洩も子孔の後嗣に立てて子孔の霊を祀らせる措置をとった。その際、子產が「政治に従事すれば、道に反して民に媚びをとることも免れ得ない」と語っているのは、『論語』泰伯篇に「子曰はく、民は之を由らしむ可し、之を知らしむ可からず」と見えている孔子を地でいくもので、②子の鬼神崇拝は「靈象を虛陳し」て牧民の意欲を滾らせた孔子の聖域に近づいたものだ、というのである。③怪力亂神を語らなかった孔子は、鄭玄によって、鬼神にも造詣を有した聖人に改造された譯である。(p.234)

 「不語怪力亂神」といえば、儒家の現実主義を体現する言葉で、思想史の文脈で非常によく用いられます。こういった思想史的発想が先に頭にあると、「“不語怪力亂神”の擁護者=何休」vs「それに反対し怪力亂神を認める鄭玄」という構図で読もうとするのかもしれません。

 

 本当にそう読めるのかどうか、原文を丁寧に見ていきましょう。

 ①の部分。上の引用の冒頭、「子所不語怪力亂神謂虛陳靈象于今無騐也」は、「A、謂B也。」(Aとは、Bということである)という基本の説明文の形で見るのが自然でしょう。つまり、「子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象、于今無騐也。」で一文です。

 ということは、「孔子が語らない“怪力亂神”」とは、「無意味に霊の現象を述べて(虛陳靈象)、現実に何の効果もないこと(于今無騐)」について言っている、という意味合いになります。(もしくは、「無意味に霊の現象を述べるのは、現実には効果がないということ」と主・客で訳した方が良いかもしれません。)

 つまり、鄭玄に拠れば、「怪力亂神を語らない」というのは、「いたずらに鬼神や霊について語らない」ということを指しているわけです。(逆に言えば、現実社会に効果のある場合に、意図するところがあって「怪力亂神」を持ち出すのであれば構わない、ということになります。)

 というより、もともとここの子産の言葉である「説也、為身無義而圖説。從政有所反之以取媚也。不媚不信、不信、民不從也。」に、そういったニュアンスが含まれているのかもしれません。この鬼神の話は、あくまで「説」や「媚」のために持ち出したものである、と既に子産が言っている訳です。

 

 よって、斎木氏の、①「孔子が怪力亂神を語らなかったというのは、全く語らなかったということではなく、「靈象を虚陳した」のであるといい」という説明では、鄭玄は孔子が「靈象を虚陳した」と考えたということになり、全く逆の意味になっています。

 斎木氏は「全く語らなかったということではなく」という原文にはない言葉を補い、更に後ろの「于今無騐」を無視することで意味の通る説明を作り上げていますが、これは原文に忠実な理解ではない、と言わざるを得ないでしょう。

 

 ②の部分。「子產の鬼神崇拝は「靈象を虛陳し」て牧民の意欲を滾らせた孔子の聖域に近づいたものだ」というところですが、原文に「孔子曰“民可使由之、不可使知之”。子產達於此也。」と続いているのを素直に読むべきでしょう。つまり、論語』の「民可使由之、不可使知之」の境地に、子産が達している、と鄭玄は言いたいのです。ここは別に子産の鬼神観を賛美するところではありません。

 『論語』泰伯篇「民可使由之、不可使知之」とは、これまた議論の的になっているところで、解釈も色々とあります。この文脈で持ち出したということは、「民は、(政治に)従わせることはできるが、(その本当のところを)知らせることはできない」といった解釈を取っているのだと思います。

 つまり、鄭玄は、子産という政治家は「(ある政策に)民を導き従わせることはできるが、その本心や意図を知らせることはできない」という『論語』の言葉をよく分かっている、と評価しているわけです。

 

 と言いつつ筆者もあまり自信は無いのですが、批判だけでは終われないので、一応句読と試訳を示しておきます。

 子所不語怪力亂神、謂虛陳靈象、于今無騐也。伯有為厲鬼、著明若此、而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故并立公孫洩、云「從政有所反之以取媚也。」孔子曰「民可使由之、不可使知之」、子產達於此也。

 孔子が語らない「怪力亂神」とは、無意味に霊の現象を述べ、現実に何の効果もないものを言っているのだ。伯有が怨霊となったのはこのように明らかであるのに、語らないということがあるだろうか。子産は、もともと愚民が惑いそうになっていたので、合わせて公孫洩を宗廟に立て、「政治を行う際には道義に反して媚びを採らねばならないことがある」と言ったのだ。孔子は「民に対しては、(政治に)従わせることはできるが、(その本当のところを)知らせることはできない」と述べるが、子産はこの境地に達している。

 結局、鄭玄は「不言怪力亂神」の適用範囲を限定し、場合に拠っては「可」とした、ということにはなると思います。その点では斎木氏の結論に近づくところはありますね。

 ただ、ここは③「怪力亂神を語らなかった孔子は、鄭玄によって、鬼神にも造詣を有した聖人に改造された」というところは大きな主題ではなく、子産の言は『論語』「民可使由之、不可使知之」に合っているもので正当性がある、というところに鄭玄説の力点があるわけで、ちょっと現代的な思想史の文脈に引っ張り込みすぎという感じがしますが、如何でしょうか。

 

 内容面に関する疑問は取りあえずここまでにしておきます。

 ただ実は、斎木氏の引く『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の底本に関して、もう一つ疑問が残っています。これに関連して、『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の輯本にはどのようなものがあるのかというのを少し調べてみました。

 また次回、皮錫瑞の議論と合わせてご紹介します。

(棋客)

北京・天津旅行⑳(最終回)―反省会

 北京・天津旅行のレポートを長々と更新してきましたが、一通り写真を載せ終わりました。まだ残っているものもあるのでまた更新するかもしれませんが、一旦最終回ということにしておきます。

 「北京に長く滞在しておいて、そこ行ってないんかい!」というツッコミを受けた場所が幾つかあります。またの機会の際に行けるように、メモしておきます。

①国家博物館
 予約が必要かと勘違いしていましたが、当日行っても全く問題ないようです。人はすごく多いそうです。

②景山公園
 故宮を北に抜けたところで疲れ果ててギブアップしました。次は単体で行きたいですね。(これは中の人のもう一人は行っています。第十七回参照。)

③十三陵
 遠くて止めましたが、電車で行けますからそれほどきつくないはずでした。

④石景山法海寺
 明代の壁画が見事だそうで、行ってみたいです。こちらは遠くてバスしかなさそう。

⑤中央広播電視塔
 高いところに登って街の景色を眺めたかったのですが、電視塔の存在を全く知りませんでした。

⑥北京798芸術区
 興味があったのですが完全に忘れていました。

 長く滞在しているとはいっても、観光続きでは段々疲れてきますから、まあ仕方のないところです。またの機会に行こうと思います。

 最後は、青島ビールで乾杯!

f:id:chutetsu:20191109131516j:plain

北京・天津旅行⑲―天津ぶらり散歩

 第十九回。天津編の余った写真を上げておきます。

f:id:chutetsu:20191109122115j:plain

 あちこちにさりげなく綺麗なスポットがあります。結婚式の写真撮影らしい方々が映っていますね。

 

f:id:chutetsu:20191109123053j:plain

 こんな感じの建物があちこちにあります。

続きを読む