達而録

ある中国古典研究者の備忘録。毎週火曜日更新。

北京・天津旅行⑱―天津の五大道

 第十八回。今日から天津編です。とはいっても、天津には半日しか滞在していないので、すぐに終わります。

 まず、天津の「五大道文化旅游」と呼ばれる地区を散策しましたので、その街並みをご紹介します。地下鉄「小白楼」駅を降りてすぐ。

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 北京とは全く風景。自転車があれば便利ですが、広すぎないので徒歩でも十分に探検できます。

 天津は旧租界地ということで、西洋の影響を大きく受けています。五大道近辺は、1900年代に建築された、西洋風の古い洋館が立ち並んでおり、異国情緒漂う通りになっています。

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 例えばこの建物は、李叔福という人が1937年に建てたもの。今は、天津外国語大学の関連施設となっているようです。
 多くの洋館は個人や会社などの所有になっているので、立ち入ることは出来ません。たまにレストランや喫茶店になっているところがあるので、その場合は内部を見ることができます。

 以下、「続きを読む」からどうぞ。

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岩本憲司『春秋学用語集 三編』について

 先日、久々に論文読書会を開き、後輩の学部生の担当で池田秀三「訓詁の虚と実」を読みました。その関係で、下調べとして岩本憲司『春秋学用語集 三編』汲古書院、2014)の「無寧」の項目を見たのですが、少し気になる記述を見つけたのでメモしておきます。

 

 「無寧」という語は『左伝』に六回ほど登場しますが、全て同じ意味では読めないようです。そこで色々な議論が出てくるわけですが、そのうちの一例が下。

『左傳』昭公二十二年

〔傳〕寡君聞君有不令之臣為君憂、無寧以為宗羞。寡君請受而戮之。

〔杜注〕無寧、寧也。言華氏為宋宗廟之羞恥。

  「無」といった助字の働きを体系的に整理した本としては、王引之『經傳釋詞』が著名です。岩本氏もよく利用してる本で、ここでは下の条が引かれています。

・『經傳釋詞』巻十・無
 「無寧」、猶「無乃」也。家大人曰、昭二十二年『左傳』曰「無寧以為宗羞」、言宋若自誅華氏、無乃以為宗族之羞、不如使楚戮之也。(杜注曰「無寧、寧也」、失之。「寧」訓為「乃」、見「寧」字條下。)

 ・『經傳釋詞』巻六・寧
 「寧」、猶「乃」也。・・・昭二十二年『左傳』「寡君聞君有不令之臣為君憂、無寧以為宗羞」、言無乃以為宗羞也。(此「無寧」與他處言「無寧」者不同。杜注「無寧、寧也。」失之。)

 王引之はここで「此“無寧”與他處言“無寧”者不同」と言っていますから、『左伝』に見える「無寧」のうちこの例だけは使い方が違うと考えたわけです。

 他の例はどう考えたのか、というのは下の通りです。

『經傳釋詞』巻十・無

 孟康注『漢書』貨殖傳曰「無、發聲助也。」字或作「毋」。・・・隱十一年『左傳』「無寧茲許公復奉其社稷。」、襄二十四年「無寧使人謂子、子實生我。」杜注並曰「無寧、寧也。」、襄二十九年「且先君而有知也、毋寧夫人、而焉用老臣。」服虔注曰「毋寧、寧也。寧自取夫人、將焉用老臣乎。」 

 ここでは、「無」が「發聲の助辭」である旨が述べられています。

 他の例も含めて論じ始めると非常にややこしいので、詳しくは岩本本や池田論文などを参照して下さい。

 

 さて、気になったのは以下の部分です。(⑥の「寧」というのが、最初に掲げた例です。) 

 王引之によれば、ここ、つまり、⑥の「寧」は①②③の「寧」が普通の意味〔おそらく、『説文』の所謂「寧 願詞也」〕であるのに對して、「乃」の意味であるということである、というのである〔したがって、王引之は「無寧」を「無乃」に置き換えるわけだが、「無」が發語の助辭であることに變わりはないから、王引之が言いたいのは、結局、「無寧 乃也」ということである。〕(岩本本、p.38-40)

 つまり、岩本氏は、昭公二十二年傳「寡君聞君有不令之臣為君憂、無寧以為宗羞。」の例について、王引之は「無寧」を「無乃」に置き換えるが、「無」が發語の助辭であることに變わりはないため、王引之はここでは結局「無寧、乃也」と言いたいのだ、と考えているようです。

 ただ、これは王引之の意図を捉え損ねているように思います。

 というのも、『經傳釋詞』の「無」の条は、以下のような構造になっているからです。(アルファベットは筆者が加えています。)

『經傳釋詞』巻十・無

A.無、毋、勿也。常語。

B.孟康注『漢書』貨殖傳曰「無、發聲助也。」字或作「毋」。・・・。以上皆發聲。

C.「無」、轉語詞也。字或作「亡」、或作「忘」、或作「妄」、或言「亡其」、或言「意亡」、或言「亡意亦」、或言「將妄」、其義一也。・・・。以上皆轉語詞。

D.「無」、猶「得無」也。・・・。

E.「無乃」、猶「得無」也。・・・。

F.「無寧」、猶「無乃」也。家大人曰、昭二十二年『左傳』曰「無寧以為宗羞。」・・・。

G.(以下略)

 「無」を発声の助字として捉えるのは、Bの項目に挙げられているものです。この中に、「無寧」の形が幾つか挙げられていることは、先に引用した通りです。

 そして、Fで「無寧」は「無乃」のようなものである場合があると述べます。そして「無乃」は「得無」のようなものと王引之は述べます(E)。

 「無乃」は「無乃・・・乎」の形でよく用いられ、反語を表します。王引之の「得無」はその方向での解説でしょう。この場合、「無」は発声の助字ではなく、「無い」という意味のある言葉として見ているはずです。(なにせ「得」と訓じているのですから。)

 「無」を発声の助字として捉えるのは、Bの項目に挙げられているものだけであって、それをFの理解に引きずってしまうのは不正確かと思います。

 

 本題とは全く関わらない、あまりに細かい指摘で恐縮です。気になると無視できなくなってくるのは、悪い癖かもしれません。

(棋客)

野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(4)

 前日の続きです。今回は気になる点というより、わからなかった点という内容です。

第十二条

〔傳〕由是觀之、則臺駘汾神也。抑此二者、不及君身。山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。

〔杜注〕有水旱之災、則禜祭山川之神若臺駘者。周禮四曰禜祭。為營攅用幣、以祈福祥。

〔疏〕周禮大祝「掌六祈以同鬼・神・示。一曰類、二曰造、三曰檜、四曰禜、五曰攻、六曰說」、鄭衆云「禜日月星辰山川之祭也」、鄭玄云「禜告之以時有災變也。禜如日食以朱絲禜社也」。玄之此言、取公羊為說。莊二十五年公羊傳曰「日食以朱絲禜社。或曰脅之、或曰為闇、恐人犯之、故營之」。然社有形質、故可朱絲營繞、日月山川、非可營之物、不得以此解禜也。賈逵以為「營攢用幣」、杜依用之。日月山川之神、其祭非有常處、故臨時營其地、立攢表用幣、告之以祈福祥也。「攅」聚也。聚草木為祭處耳。

 第十条と同じ部分の杜預注に対する疏についてです。冒頭は『周礼』の引用ですので省略して、その次から少しずつ読み進めてみます。

 玄之此言、取公羊為說。莊二十五年公羊傳曰「日食以朱絲禜社。或曰脅之、或曰為闇、恐人犯之、故營之」。

 鄭玄のこの言葉は、公羊伝から取って説をなしている。莊公二十五年《公羊傳》に「日食には朱絲を以て社を禜ず。或いは之れを脅すと曰ひ、或いは闇を為すと曰ふ。人の之れを犯すを恐る、故に之れを營(めぐら)す」。(野間訳p.37)

  『周礼』鄭注が引くのは、野間氏の指摘通り『公羊伝』莊公二十五年ですが、ここの『経典釈文』には「為闇、于偽反。」とあります。内容的にも、ここは「或るものは之れを脅すと曰ひ、或るものは闇が為にすと曰ふ。」と訓読した方が良いでしょう。

 然社有形質、故可朱絲營繞、日月山川、非可營之物、不得以此解禜也。

 しかしながら社には形質が有るので、朱絲で取り巻くことはできるが、日月山川は営することができる物ではないから、これで「禜」を解することはできない。(野間訳p.37)

 「形質」をどう訳すべきか、悩ましい問題です。現代語の感覚だと、日月山川にも「形質」はある、という感じがするので、何か言葉を改めたいところです。が、良い案は浮かんでいません。

 また、明らかに、「可朱絲營繞」と「非可營之物」は対になっています。しかし、野間訳では「可朱絲營繞」の「營繞」は「取り巻く」と訳しているのに、「非可營之物」の「營」は「営する」と訳しており、少々分かりにくいです。どちらも「取り巻く」で良いでしょう。「営」自体に「めぐらせる」「取り巻く」の意味がありますので。

 賈逵以為「營攢用幣」、杜依用之。日月山川之神、其祭非有常處、故臨時營其地、立攢表用幣、告之以祈福祥也。

 (これに対して)賈逵が「營攢〔草木を集めた祭域〕に幣を用ふ」と見なしているから、杜預は依拠してこれを用いた。日月山川の神は、その祭祀に一定の場所があるわけではないので、時に臨んでその場所を作り、攢表を立てるのに幣を用い、之に告げて福祥を祈るのである。(野間訳p.37)

  難しくなってきました。

 『史記』鄭世家「然是二者不害君身。山川之神、則水旱之菑禜之。」の『史記集解』に服虔説が引かれていて、「禜為營攢用幣也。若有水旱、則禜祭山川之神以祈福也。」とあります。すると、賈逵と服虔は同じ説を唱えていたのですね。そして杜預もそれを用いた、と。これは鄭玄説とは異なるものと疏は考えているようです。

 

 では、「營攢用幣」をどう読むべきか、考えていきましょう。

 下に「臨時營其地立攢表用幣」とあり、これが「營攢用幣」を疏が言い換えたものではないか、と考えられます。野間訳では、ここは「立攢表用幣」で一区切りにして、「攢表を立てるのに幣を用い」となっています。(その場合、賈逵説「營攢用幣」の訓読は「營し、攢に幣を用ふ」となるのでしょうか。)

 「幣」は贈答や祭祀の際の礼物、供え物のこと。「用幣」はよくセットで用いられる表現。「立攢表」が何のことかは分かりませんが、疏によれば「攢」は草木を集めて祭場を作るということですから、「幣」を用いて「立攢表」すると考えている訳ではないと思います。なので、ここは野間氏の句点の区切りを変え、「臨時營其地、立攢表、用幣告之、以祈福祥也」にしておきましょう。

 とすれば、「營攢用幣」は「營攢し、幣を用ふ」や「營し、攢(あつ)め、幣を用ふ」とか読むことになるのでしょうか?

 参考までですが、「臨時營其地、立攢表、用幣告之、以祈福祥也」は乾隆初殿版の句点もこのように作っていますし、北京大標点本もこう作っています。下に紹介する『周礼正義』標点本も同様です。やはり、この句点の方が穏当でしょう。

 

 「立攢表」がよく分からないので、清人の研究を参考にしてみます。

孫詒讓『周禮正義』卷三十七・春官・鬯人(中華書局、p.1499)

〔經〕鬯人掌共秬鬯而飾之。凡祭祀、社壝用大罍、禜門用瓢齎、廟用脩、凡山川四方用蜃、凡祼事用概、凡疈事用散。

〔注〕禜、謂營酇所祭。門、國門也。春秋傳曰「日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。山川之神、則水旱疫癘之不時、於是乎禜之。」魯莊二十五年秋、大水、鼓用牲于門。故書「瓢」作「剽」。鄭司農讀剽為瓢。杜子春讀齎為粢。瓢、謂瓠蠡也。粢、盛也。玄謂齎讀為齊、取甘瓠、割去柢、以齊為尊。

〔疏〕注云「禜謂營酇所祭」者、禜卽大祝六祈之禜、營禜聲類同。祭法注云「禜之言營也。」『説文』示部云「禜、設緜蕝為營、以禳風雨雪霜水旱癘疫於日月星辰山川也。一曰禜衞、使灾不生。」『左傳』昭元年杜注云「禜祭、為營攢、用幣以祈福祥。」史記』鄭世家『集解』引服虔説及左傳孔疏引賈逵説、並與杜同。孔又釋之云「日月山川之神、其祭非有常處、故臨時營其地、立攢表、用幣告之、以祈福祥也。攢、聚也、聚草木為祭處耳。」

 詒讓案、鄭所謂「營酇」、卽賈服杜所謂「營攢」、酇攢字通。樂記云「其治民勞者、其舞行綴遠。其治民逸者、其舞行綴短。」鄭注云「民勞則德薄、酇相去遠、舞人少也。民逸則德盛、酇相去近、舞人多也。」又奔喪「喪位」注云「位、有酇列之處。」酇又通作「纂」。『史記』叔孫通傳「為緜蕞野外習之」、『集解』引如淳云「蕞謂以翦茅樹地為纂位。春秋傳曰『置茅蕝』也。」『索隠』引纂文云「蕝、今之纂字」。是此注云營酇、又即許君所謂「設緜蕝為營」、謂立營兆酇表而祭之。黨正注謂祭禜亦為壇位如社稷、亦是也。『左傳疏』以為「立攢表」得之、其訓攢為「聚艸木」、則非。

 これによれば、「攢」はここでは「酇」「纂」「蕝」に通じ、茅を束ねたものによって儀式の際の位置、また位の順次を示す印のこと、とされているようです。また、『周禮正義』は、左伝疏の中で「營攢」を「立攢表」とするのは是としますが、「聚草木」と訓ずるのは非としています。うーん、よく分かりません。

 参考までに、『説文解字注』も掲げておきます。

説文解字』示部・禜

 禜、設緜蕝爲營,以禳風雨、雪霜、水旱、癘疫於日月星辰山川也。从示、从營省聲。一曰禜、衞、使災不生。

〔段注〕『史記』『漢書』叔孫通傳皆云「爲緜蕞野外習之。」韋昭云「引繩爲緜、立表爲蕞、蕞卽蕝也。」詳艸部。凡環帀爲營。禜營曡韵。『左氏』傳「子産曰、山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。」許與鄭司農『周禮』注引皆先日月星辰。與今本不同也。

 ただ、疏の理解がどうなのか?というのはちょっとよく分からないです。疏が「攅、聚也。聚草木為祭處耳。」と言っている以上、野間訳のように、「營攢」を「草木を集めた祭域」とシンプルに読むのが良いのかもしれません。以下の段を参照。

孫詒讓『周禮正義』巻二十二

 春秋祭禜、亦如之。

 〔注〕禜、謂雩禜水旱之神。蓋亦爲壇位、如祭社稷云。

 〔正義〕云「蓋亦爲壇位如祭社稷云」者、鬯人注云「禜、謂營酇所祭。」營酇卽謂壇之營域也。禜與社稷同爲地示、故其壇位略同。

 きちんと一から整理しないといけないことが分かってきました。このままでは終われないので、一旦保留にして、とりあえず今日のところの訳を作っておきます。

 玄之此言、取公羊為說。莊二十五年『公羊傳』曰「日食以朱絲禜社。或曰脅之、或曰為闇、恐人犯之、故營之」。然社有形質、故可朱絲營繞、日月山川、非可營之物、不得以此解禜也。賈逵以為「營攢用幣」、杜依用之。日月山川之神、其祭非有常處、故臨時營其地、立攢表、用幣、告之以祈福祥也。「攅」聚也。聚草木為祭處耳。

 鄭玄のこの言葉は、『公羊伝』から取って説を立てている。莊公二十五年『公羊傳』に「日食には朱絲を以て社を禜ず。或いは之れを脅すと曰ひ、或いは闇が為にすと曰ふ。人の之れを犯すを恐る、故に之れを營(めぐら)す」。しかしながら、社は一定のかたちがあるので朱絲で取り巻くことができるが、日月山川は取り巻くことができる物ではないから、これ(鄭玄説)によって「禜」を説き明かすことはできない。賈逵は、「營攢し〔草木を集めて祭祀の位置を示し〕、幣を用ふ」と見なしており、杜預は依拠してこれを用いたのだ。日月山川の神は、その祭祀に決まった場所があるわけではないので、祭時に当たってその場所を作り、攢表〔草木の束で位置を示す印〕を立て、幣を用いてこれ(日月山川の神)に告げ、福祥を祈るのである。(筆者試訳)

 今回は、賈逵説の本来の意図、それに対する疏の理解、そしてその疏なりの理解に基づいて下される疏の判断、が入り組んでいて、ちょっと整理できませんでした。

 なお、『周禮』大祝の方の『正義』を見てみると、鄭玄は「禜」を二種類に分けていたという説が載っています。ここで疏が鄭説を斥けているのは、疏が二つの内の片方の鄭説を引っ張ってもう一つのパターンに当てはめ、その結果「不得以此解禜也」になってしまったのではないか、という気もしています。

 というわけで、また今度、「禜」とはいかなる祭祀なのか?という方向から整理してみようと思います。(調べている過程で、金鶚『求古録禮説』の「禜祭考」という論考を見つけたので、これを見てみるつもりです。)

 →記事にしました。

chutetsu.hateblo.jp

 


 

 さて、ここまで第五冊の冒頭、巻四十一、昭公元年について検討してきました。なかなかに大変ですが、やはり「現代語訳」を作るとなると、その行間の論理関係を読む必要が出てきて、とても良い勉強になるな、と感じました。

 それと同時に、「疏」というものは、行き届いた訳文を作ること、即ち書き手の意図をしっかり読み取った訳を作ること、が相当な程度まで可能という気がしてきました。つまり、経書の本文や詩歌の翻訳の場合は、「翻訳者の解釈の相違」として片づけられる問題も多いのですが、疏の翻訳の場合は学者の間で解釈が一致する、ある種の「正解」が作れるのではないか、と感じます。(むろん、結局のところ訳文であるという壁はありますが。)

 

 この後もぼちぼち読み進めていきますが、記事にするのがかなり手間なので、一旦これで最後にしようと思います。

 つくづく思いますが、訳を作るにしても、原案があるとかなり楽になるものです。やはり全訳というのは偉大な成果であると思います。(さんざん批判しといてなんやねん、と言われそうですが、心からそう思います。)

 そして、自分で言うのも何ですが、訳を訂正するというのもなかなか大変なものです。この作業を数年にわたって続けておられる岩本先生のバイタリティにはつくづく感服いたします。

(棋客)

野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(3)

 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊のメモ。ここも巻四十一、昭公元年のところです。

第九条

 前回の最後の疏文の続きです。

 「離」之為「陳」、雖無正訓、兩人一左一右、相離而行、故稱「離衞」、「離」亦「陳」之義。

 「離」を「陳」と見なすのは、正訓が無いとはいえ、兩人のうち一人が左、一人が右で、相い並んで行くので、「離衞」と称したのであり、「離」もまた「陳」の意味である。(野間訳p.10-11)

 ここは、「離」を「陳」とする杜預の訓詁を説明するところです。何か経書などに根拠があれば良いのですが、そういうわけではないようです。そこで疏は、「離れる」の意がどうして「陳(なら)べる」の意に通じるのか、何とか辻褄を合わせようとするのです。https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20

 というわけで、その説明の肝である「相離而行」を、「相い並んで行く」と訳してしまっては、「離、陳也。」の訓詁の説明をする中で既にその訓詁を利用していることになってしまうため、不適切です。

 ここは、二人の衛が、右と左とに「離」れて一人ずついる状態が、「陳」んだ状態に通じる、よって「離、陳也。」の訓詁が成立する、という話の流れではないでしょうか。

 試訳は以下。

 「離」之為「陳」、雖無正訓、兩人一左一右、相離而行、故稱「離衞」、「離」亦「陳」之義。

 「離」を「陳」とするのは、正訓は無いのであるが、二人のうち一人が左、一人が右で離れて進む様子から、「離衞」と称したのだ。(よって、)「離」にはやはり「陳」の意https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20味があるのだ。(筆者試訳)

 

【2020/1/15追加】 https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20

 Twitterにて、「兩人一左一右、相離而行」の「離」は、やはり「並べる」の意と見た方が良い、とご指摘受けました。二人が対になって並ぶさまが「離」で、そこから陳列の「陳」という意が出てくる、と読んだ方が良さそうです。訓読ではどちらも「ならぶ」ですが、微妙に意味の違いがあって、「離≒陳」であることを示すことにより「離、陳也」という訓詁を導いているわけです。 https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20https://twitter.com/10ti3pin/status/1217356775403319296?s=20

https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20

https://twitter.com/10t

i3pin/status/121735677あ5403htあtps://twitter.com/10ti3pin/status/1217356775403319296?s=20319296?s=20ああああ

https://twitter.com/10ti3pin/status/1217356775403319296?s=20

第十条

〔傳〕由是觀之、則臺駘汾神也。抑此二者、不及君身。山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。

〔杜注〕有水旱之災、則禜祭山川之神若臺駘者。周禮四曰禜祭。為營攅用幣、以祈福祥。

〔疏〕山川至禜之○正義曰、「水旱癘疫」、在地之災、山川帶地、故祭山川之神也。「雪霜風雨」、天氣所降、日月麗天、故祭「日月星辰之神」也。此因其所在、分繫之耳、其實「水旱癘疫」、亦是天氣所致、「雪霜風雨」、亦是在地之災耳。

 「雨之不時」、而致水旱、水旱與雨、不甚為異、而分言之者、據其雨不下而霖不止、是「雨不時」也、據其苗稼生死、則為水與旱也。

 「禜」是祈禱之小祭耳。若大旱而雩、則徧祭天地百神、不復別其日月與山川者也。

 まず、上の「疏」は、内容から判断すればもう一段後の経文の後ろに入れた方が良いと思います。直後に「日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。」の文があり、上の疏文ではこの「雪霜風雨之不時」も合わせて説明しています。「山川至禜之」の「禜之」はこの部分を指しているのではないでしょうか。(現行の阮元本もそのように作っています。)

 訳で気になるのは下の部分です。

 「雨之不時」、而致水旱、水旱與雨、不甚為異、而分言之者、據其雨不下而霖不止、是「雨不時」也、據其苗稼生死、則為水與旱也。

 「雨の時ならず」して水・旱を致し、水・旱と雨とは、甚だしくは異ならないのに、これを分けて言うのは(なぜかと言えば)、雨が降らなかったり長雨が止まなかったりするのは、「雨の時ならざる」ことに拠るものであり、穀物の苗の生死が洪水や旱魃の影響に拠るからである。(野間訳p.37)

 前半は、ほとんど訓読そのままで論理の筋が分かりにくいと思います。逆に後半は、日本語を読むと自然な感じがするのですが、原文と対照させると、「據」をかける場所に違和感があり、本来の疏の意図から外れてると思います。

 尚、「雨之不時」は直後の経文の「雪霜風雨之不時」を指しています。

 さて、この疏文は、「雨が時宜にかなわないが故に水害や旱魃が起こる」のだから、ここで「水旱」と言った上で、更に下文でも「雨之不時」とは言わなくても良いはずなのに、何故このように両者を分けて言う伝文になっているのか、解明しようとするところです。

 原案の「雨が降らなかったり長雨が止まなかったりするのは、「雨の時ならざる」ことに拠る」は、「其雨不下而霖不止、「雨不時」也」といった場合なら問題ありませんが、原文は「其雨不下而霖不止、是「雨不時」也」です。この「據」はこの部分全体に掛かり、何故両者を分けて言うのか理由を説明する言葉です。

 というわけで、以下のように訳してみました。少し記号も変えています。

 雨之不時而致水旱、水旱與雨、不甚為異、而分言之者、據其雨不下而霖不止是「雨不時」也、據其苗稼生死則為水與旱也。

 雨が時宜にかなわないから水害・旱害が起こるのであって、「水」「旱」と「雨」とは、全く別物というわけではないのに、これを分けて言うのは、雨が降らなかったり長雨が止まなかったりすることが「雨の時ならず」であることに拠り、穀物の苗が生まれたり死んだりすることが「水」「旱」であることに拠る。(筆者試訳)

 いかがでしょうか? 分かりやすい訳が作れた気がします。

 疏では、「雨不時」はあくまで気象の話、「水」「旱」は穀物の被害状況に対してつく名前(むろんその原因には雨の不順があるのですが)、というように区別したわけですね。

 

 

第十一条

〔傳〕由是觀之、則臺駘汾神也。抑此二者、不及君身。山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。

〔杜注〕有水旱之災、則禜祭山川之神若臺駘者。周禮四曰禜祭。為營攅用幣、以祈福祥。

〔疏〕「癘疫」謂害氣流行、歲多疾病。然則君身有病、亦是癘氣、而云「不及君身」者、陳思王以為「癘疫之氣止害貧賤、其富貴之人攝生厚者、癘氣所不及」、其事或當然也。且子產知晉君之病不在於此、故言「二者不及君身」、以病非癘疫、故不須祭臺駘等也。

 再び、先の続きです。ここは「癘疫」を説明するところ。気になるのはこの部分の訳。

 陳思王以為「癘疫之氣止害貧賤、其富貴之人攝生厚者、癘氣所不及」

 陳思王が「癘疫の氣はただ貧賤者に害があるばかりで、富貴の人で生活が豊かな者は、癘氣が及ばないのだ」と見なしており、或いはそうであるのかもしれない。(野間訳p.37-38)

  この「攝生」は、『老子』などに見える言葉です。

老子』五十章

 蓋聞善攝生者、陸行不遇兕虎、入軍不被兵甲。

 一般的には、体を養うこと、保養すること、養生すること、といった方向で理解される言葉ですので、そのまま訳しておけば良いと思います。

 つまり、「富貴の人で生活が豊かな者」→「富貴の人で身体の養生が厚い者」となります。

 


 

 最初に「全三回」と予告しましたが、もう一つ気になる箇所があって、調べている内に長大になりすぎたので明日再度更新します。

 続きは→野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(4) - 達而録

(棋客)https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20

野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(2)

  野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊のメモの続き。ここも巻四十一、昭公元年です。

 

第五条

〔傳〕叔出季處、有自來矣。吾又誰怨。

〔杜注〕季孫守國、叔孫出使、所從來久。今遇此戮、無所怨也。

〔疏〕正義曰、歷檢上世以來季孫出使、不少於叔孫、而云「叔出季處從來久」者、季孫世為上卿、法當上卿守國、次卿出使、以此為「從來久」耳、必須使上卿者、上卿非不使也。

  気になるのは以下の部分。

 必須使上卿者、上卿非不使也。

 必ず上卿を使いとすべき時に上卿が使いしない、というわけではないからである。(野間訳p.14下)

 パッと読んで意味が取れなかったので掲出したのですが、この訳でも読み取れる人には読み取れるかもしれません。「というわけではないからである」という「非」の訳が文章全体に掛かっているかのように錯覚する訳文なので、その点で最初に分かりにくく感じたようです。

 ただ、「非不使」の二重否定がはっきりしていないので、もう少し分かりやすくすると、

 必須使上卿者、上卿非不使也。

 必ず上卿を使いにすべきという時であれば、上卿が使いをしないことはないのである。(筆者試訳)

 となるでしょうか。「使上卿」の例は、時々出てきます。一例は以下。

『左傳』襄公十五年

〔傳〕官師從單靖公逆王后于齊。卿不行、非禮也。

〔杜注〕官師、劉夏也。天子官師、非卿也。劉夏獨過魯告昏、故不書單靖公。天子不親昏、使上卿逆而公監之、故曰「卿不行、非禮。」 

 この場合は、上卿が使いをするべきところでしなかったので、「非禮」と断ぜられています。 

 

第六条

〔傳〕以什共車必克。

〔杜注〕更增十人、以當一車之用。

〔疏〕『周禮』十人為什。以一什之人共一車之地、故必克也。(p.31上)

 ここに、野間氏は『周禮』地官・旅師「五家為比、十家為聯。五人為伍、十人為聯。」賈疏「今云十家為聯者、以在軍之時、有十人為什、…」を引いていますが、肝心の「什」の語が出てくるのが経文ではなく賈公彦疏ということで、適切な注釈とは言えないと思います。ここは伝文の「什」と杜預注の「十」を説明するところのはずです。

 とはいえ、『周禮』に「十人為什」という表現はそのままは見つからないので、代案も難しいところ。『周禮』鄭注なら、以下の例はあります。

『周禮』天官・宮正

 會其什伍而教之道義。

〔鄭注〕五人為伍、二伍為什。

 また、『毛詩正義』鹿鳴之什の題疏には「『周禮』小司徒職云“五人為伍”、五人謂之伍、則十人謂之什也。故『左傳』曰“以什共車必克。”」という説があります。

 この『周禮』小司徒の経文から連想して誤って「『周禮』十人為什」としてしまったのかもしれません。参考まで。

 

第七条

 「…不爲五味の主とは為らない」と見なしているような例は…(野間訳p.45上)

 見て分かる通り、「不爲」は衍字。

 

第八条

〔傳〕三月、甲辰盟。楚公子圍設服離衞。

〔杜注〕設君服、二人執戈、陳於前、以自衞。離、陳也。

〔疏〕正義曰、穆子言「似君」、知「設服」、設君服也。唯譏執戈不言衣服、則「君服」即「二戈」是也。「離衞」之語、必為「執戈」發端、但語畧難明。

 服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。縱使在國居君之離宮、即明宮門之衞、以為離衞、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。離之為陳、雖無正訓、兩人一左一右、相離而行、故稱「離衞」、離亦陳之義。

  長いので、少しずつ見ていきましょう。

 「離衞」之語、必為執戈發端、但語略難明。

 「衞を離(なら)ぶ」の語は、必ず戈を執る發端のはずであるが、しかし言葉が簡略で明らかにし難い。(野間訳p.10-11)

 野間氏はこの文章の終わりで段落を切っていますが、この疏文から話が変わっているので、この直前で切るべきでしょう。また、以下に「離衞」をどう読むべきか、という諸説が並ぶところなので、ここではまだ「衞を離(なら)ぶ」と開かない方が良いと思います。(「離、陳也」という訓詁は、あくまで杜預に特有のものです。)

 「必ず戈を執る發端のはずであるが」というのは分かりにくいですが、「執戈」は直後の伝文に出てくる言葉(「鄭子皮曰、二執戈者前矣。」)で、「離衞」の語が「執戈」の話を導いているはず、と指摘するものです。(ただ、「発端」は術語ということで訳さない方が良い、という判断かもしれません。下では一応訳してみましたが、そのままの方が良いですかね。)

 下は、その続き。

 服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。

 服虔は「二人が戈を執って前に在るのは、國に在っては君の離宮に居り、陳衞には門に在ることだ。」と述べている。そうだとすると戈を執って前に在るのは、國君の行く時の衞であって、家に在る守門の衞ではないのである。守門の衞は、その武器は必ず多いはずで、ただに二戈だけではない。(野間訳p.10-11)

 先に述べたように、「離衞」と「執戈」は関連する語であるはずという前提の下、それがどうつながるのかということを明らかにしようとしているところです。前提ですが、楚の公子圍は、本来は君ではないのに、君と同等の振る舞いをしているから非難される、というのがこの辺りの伝文の流れです。

 上の訳文、一文目の論理がよく分からないかと思います。

 まず、服虔説を丁寧に見てみましょう。最初の「二人執戈在前」は下文の「二執戈者前矣」の言い換え。これが何故「離衞」という語で表現されるのかという点に対し、「国内にいる時に、(本来には君ではないのに)君の宮にいて、」「を門に並べている」(そしてその時に「二人が戈を持って前に並ぶ」)から、「離衞」という、というのが服虔説なのだと思います。(実は服虔も陳=衛で読んでいた可能性はありますが、少なくとも疏の理解では、後ろに「縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣」とあるので、服虔説を上で述べたように理解していたはずです。)

 それに対して『正義』は、①「執戈在前」というのは國君が外に出た時の「衞」の話であって、家にいて門を守る「衞」の話ではない、②門を守る衛兵は、その武器が多いはずで、「二戈」だけとは考えられない、という二点から、服虔説に反対しています。「然則」はこの場合、逆説で読むしかないと思います。

 「兵」は「武器」と訳すのが通例かと思いますが、この場合は「非徒二戈而巳」(二戈はここでは「二人執戈」で、戈を持つ二人の守衛のこと)に続くので、人と読むほうが良いのかもしれません。ただ疏の原文はあくまで「二戈」なので、そのまま「二つの戈」と訳し、「兵」も「武器」にしておきます。

 加えて、「陳衞在門」の解釈にあまり自信がありません。一応、「衞を陳べて門に在り」といった方向で読んでみます。(原案のままでは意味がよく分からないとは思います。「陳衞」とは?)

 縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。

 たとい國に在って君の離宮に居る場合も、そのまま宮門の衞に名付けて「離衞」とするのは、その表現が不適切である。それゆえ杜預は「離衞」とは「戈を執る」のがそれだと見なした。二人が戈を執り、前に陳列して自ら防衞することを言うのである。(p.10-11)

 冒頭は、服虔説に対する批判の続きです。もう少し補えば、「もし仮に、(服虔説の通りに、)これが國で君の離宮に居る場合の話だったとしても、宮門の衛兵を「離衞」とは呼ばないだろう」といった流れです。

 「大不辭」は用例の少ない言葉で訳しにくいのですが、とりあえず野間訳の方向で良いと思うので、そのままにしておきます。(「辭」を「侔」に作るテキストもあるようです。)

 まとめて訳出しておきましょう。

 「離衞」之語、必為執戈發端、但語畧難明。服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。

 「離衞」の語は、必ず(下文の)「執戈」を導くものであるはずだが、しかし言葉が簡略で明らかにし難い。服虔は、「『二人が戈を執って前に在る』というのは、国において(君ではないのに)君の離宮に居て、衞を門に並べていることを言う(から、「離衞」と言うのだ)」と述べている。しかしながら、ここで「戈を執って前に在る」というのは、國君が外に行く時の衞の話であって、家にいて門を守る衞の話ではないし、門を守る衞は、その武器が必ず多いはずで、ただ二つの戈だけということはなかろう。たとえ、(服虔説の通り、)国において君の離宮にいる時の話であったとしても、そのまま宮門の衞に名付けて「離衞」とするのは、表現が不適切である。それゆえ杜預は、「離衞」がとりもなおさず「執戈」のことであるとした。二人が戈を執り、前に並んで自ら防衞することを言うのである。(筆者試訳)

 いかがでしょうか。

 「離衞」をどう「二人執戈」に繋げて読むかという問題に対し、服虔は「君の離宮にいる衞」から「離衞」、杜預は「離は陳と読み、二人並んでいることを示す」からこれがそのまま「離衞」と説いたわけです。

 

 注疏は難しいものですが、最低限の専門用語は置いておくにしても、できる限り「読んで分かる」訳を作りたいものです。特に、論理関係が分かる訳文に、せめて、「何を説明しているのか」が分かる訳文にするべき、と私は考えます。注疏とは結局「説明文」なのですから。

 続きます。→野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(3) - 達而録

(棋客)