達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

入谷仙介「隠逸の境地―隠者の苦悩と喜び」

 今回は、入谷仙介『詩人の視覚と聴覚ー王維と陸游』(研文出版、2011)に収められている「隠逸の境地―隠者の苦悩と喜び」を読んでいきます。

 以前、『山月記』の最後の詩が、中国における「隠逸」の概念を踏まえて理解するべきものであることを述べました。

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 では、中国における「隠逸」とはどのようなものだったか、入谷先生に導いていただきながら勉強してみよう、というのが今回の記事の主旨です。

 まず入谷氏は、中国における「官僚」という存在の大きさと、そのからこぼれた存在としての「隠者」を指摘します。

 秦の始皇帝が中国を統一し、漢の高祖がそれを再建してから、清朝の滅亡まで、約二千年、中国は官僚制に支えられた皇帝による専制支配が続いた。この体制のもとで、天下の有能で賢明なもの、というのは実質的には儒教の経典に精通し、古典的な典雅な詩文を書くことのできるものということであるが、すべて官僚として採用し、政治に参加させるのが、皇帝の責任であり、またそのような能力を身につけて、政治に参加することが、人間(男性)の義務であるという観念が広く行き渡り、官僚が他の一切の職業に優越する位置をしめるようになった。

 しかし、この体制は容易に理解できるように、深刻な矛盾をはらんでいる。皇帝が用意できる官僚のポストよりも、官僚志望者の方が、いつの時代もはるかに上回って、余剰人員が出ざるを得ない。この大量の余剰人員の存在が、隠逸思想の基盤になったのである。(p.290-291) 

 では、こうした「隠逸思想」のもとで、人々はどのような暮らしをしたのでしょうか。

 余剰人員の中に、山中や田園に住み、政治に参加せずに、自己に忠実に生きることを標榜するものが現れた。これが隠者である。隠者は清潔、高潔の士として高い名声を獲得することができた。皇帝にとってはこれは好ましくない。「有能の士」を自己の官僚の中に加えきれないことになるからである。そこで、名声ある隠者は朝廷に招こうとする。そういうコースで官界に入るケースもある。しかし多くの隠者は、単に招かれた名誉に満足し、授けられた官職は辞退して帰っていく。官界への正規のコース外から入っても決して名誉も幸福も待っていないのが普通だからである。(p.291)

 以上は、官界の出世競争を最初から拒否して隠逸に向かった人の例です。ただ、一度は官界に出るも、のちに隠逸に向かう人々もいました。その説明が以下です。

 正規のコースで官界入りした者にも、新たな矛盾が待ち構えていた。専制政権は皇帝、臣下としては宰相を頂点とする、先鋭なピラミッド構造をなしており、頂点を目指す官僚同士の激しい抗争が待ち構えている。しかもその競争は、皇帝の恣意、派閥の力関係など、非合理な要素の介入がはなはだ多く、個人の抱負や能力、善意などはその中で押しつぶされるのが通例である。

 そこで官僚内部にも一種の隠逸思想が生まれる。官僚の勤務はしくじらない程度にほどほどにし、余暇に自分の趣味に合った生活をする方が、出世を目指して、苦しい競争をするより賢明だというのである。この道も、実は容易ではない。出世競争は上昇か下降の二方向しかない。この両方のバランスを取って、どちらにもいかないというのは、困難を極める。したがって、この方向に向かうのは、最高級の官僚で、出世の絶頂に達したと感じたものか、下級官僚で、出世を諦めたものかどちらかということになる。(p.291-292) 

 以下、入谷氏は隠者を語る詩を紹介しながら、隠者の姿を描き出していきます。そのうちのいくつかを抜粋して示しましょう。まず、王維の「送別」。

下馬飲君酒(馬を降りて君に酒を飲ましむ)
問君何所之(君に問う いずくにか之く所ぞ)
君言不得意(君は言う 意を得ず)
帰臥南山陲(帰臥す 南山のほとり)
但去莫復問(但だ去れ 復た問うなかれ)
白雲無尽時(白雲 尽くる時なし)

 「不得意」とあるように、自分の意(仕官の望み)がかなわず、引き揚げる友人を慰める詩です。「南山」とは、長安南方の終南山。

 基本的に、隠者は貧しく不遇感をもって暮らしていましたが、少なくとも、官僚生活を縛るさまざまな規則や競争からは自由でした。そうした自由を歌ったのが孟浩然の「春暁」です。

春眠不覚暁(春眠 暁を覚えず)
処処聞啼鳥(処処 啼鳥を聞く)
夜来風雨声(夜来 風雨の声)
花落知多少(花落つること 知んぬ 多少なるを)

 「春眠不覚暁」という出だしは非常に有名ですが、この詩は、出勤時間の早い官僚には味わえない、朝のゆっくりとした睡眠を楽しんだものです。

 さて、中国においては、「官隠」という隠者の在り方も多く、その典型が王維でした。「官隠」について、入谷氏は以下のように説明しています。

 いかに不愉快な側面が多かろうとも、官僚にならなければ、支配階級としてもさまざまな特権、たとえば租税の免除といったこと、生活の安定と向上が望めなかったのが、旧中国であり、唐代も例外ではあり得なかった。官僚としての地位は保持しながら、出世競争などはある程度犠牲にしても、隠者的な自由を部分的にせよ享受しようという官隠としての発想が生まれるのは自然である。(p.269)

 王維の生活は、長安の南の郊外に別荘を手に入れ、竹や花を植え、親友と舟を浮かべて往来し、琴を弾き詩を作って一日を過ごす、というものでした。そして長安にいるときには、毎日十数人の名僧を招き、仏法の談義を楽しみにしました。書斎には茶釜、薬研、経机、坐禅椅子だけがあり、一人で座ってお香を焚いて、坐禅読経に耽る日々でした。(p.296-297)

 彼がこうした日々の中で読んだ詩の一つが、『山月記』の記事でも触れた、「竹里館」です。

独坐幽篁裏(独り幽篁の裏に坐し)
弾琴復長嘯(琴を弾じ 復た長嘯す)
深林人不知(深林 人知らず)
明月来相照(明月 来たりて相い照らす)

 王維は、官僚として何度かの挫折は経験しましたが、最終的には尚書右丞というかなりの要職まで昇進しています。彼の別荘はそれにふさわしい豪華なものであったそうです。

(棋客)