達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

王国維「釈理」を読む(2)

 前回に引き続き、喬志航「王国維と「哲学」」(『中国哲学研究』20、2004)に導かれながら、王国維「釈理」を読み進めていきましょう。

 其在西洋各國語中,則英語之Reason,與我國今日「理」字之義大略相同、而與法國語之Raison,其語源同出於拉丁語之Ratio。此語又自動詞Retus(思索之意)而變為名詞者也。英語又謂推理之能力曰Discourse,同時又用為言語之義。此又與意大利語之Discorso同出於拉丁語之Discursus,與希臘語之Logos,皆有言語及理性之兩義者也。其在德意志語,則其表理性也曰Vernunft,此由Vernehmen之語出。此語非但聽字之抽象名詞,而實謂知言語所傳之思想者也。

 西洋の各言語においては、英語の「Reason」と我が国の今日でいう「理」の字の意義が概ね同じで、フランス語の「Raison」と同じく、その語源はラテン語の「Ratio」に由来する。この語は、動詞の「Retus」(「思索」の意味)が名詞化したものである。英語では、推理の能力のことを「Discourse」といい、これは同時に「言語」の意味で用いられる。これは、またイタリア語の「Discorso」と同じく、ラテン語の「Discursus」に由来し、ギリシャ語の「Logos」と同じく、いずれも「言語」と「理性」の二つの意義がある。ドイツ語においては,「理性」を表現して「Vernunft」といい、これは「Vernehmen」という語に由来する。この語は「聽く」の抽象名詞というだけではなく、「言語が伝える思想を理解する」ことを指す。

 中国における「理」の概念が、西洋における「Reason」と概ね重なることを指摘した王国維は、それらがどういった面で重なっているというのか、分析して示そうとします。

 喬氏論文によれば、「理」と「Reason」とを同一視する考え方は、元良勇次郎の『倫理学』という本の影響を受けているようです。元良は、Reasonを「理由・理性・道理」の意義があると述べていますが、王国維は「道理」を省いて残りの二つについて議論しました。これについて喬氏は、王国維は「理」の議論をする上で、道理・天理・真理といった倫理的価値の面は否定したという要因を挙げています(p.80)。

 由此觀之,古代二大國語及近世三大國語,皆以思索(分合概念之力)之能力及言語之能力,即他動物之所無,而為人類之獨有者,謂之曰理性 、Logos(希)、Ratio(拉)、Vernunft(德)、Raison(法)、Reason(英)。而從吾人理性之思索之徑路,則下一判斷,必不可無其理由。於是拉丁語之Ratio、法語之Raison、英語之Reason等,於理性外又有理由之意義。至德語之Vernunft,則但指理性,而理由則別以Grunde之語表之。吾國之理字,其義則與前者為近,兼有理性與理由之二義。於是理之解釋,不得不分為廣義的及狹義的二種。

 ここから見ると、古代の二大言語および近世の三大言語では、いずれも思索(概念を分けたり組み合わせたりする力)の能力と言語の能力こそが、とりもなおさず他の動物は持たず人類だけが持っているものであり、これを「理性」、「Logos」(希)、「Ratio」(拉)、「Vernunft」(德)、「Raison」(法)、「Reason」(英)という。我々は理性の思索の筋道に沿って、一つの判斷を下す際、その理由がないわけにはいなかい。よって、ラテン語の「Ratio」、フランス語の「Raison」、英語の「Reason」などには、「理性」のほかに「理由」という意味もある。ドイツ語の「Vernunft」は、ただ「理性」だけを指し、「理由」は別の「Grunde」という語で表現する。我が国の「理」の字は、その字義は前者に近く、「理性」と「理由」の二つの意味を兼ねている。そこで、「理」の解釈は、広義と狭義の二種に分けなければならない。

 王国維は、「理」の広義の意味として「理由」、狭義の意味として「理性」を挙げて、それぞれの説明に進んでいきます。

 (二)理之廣義的解釋 理之廣義的解釋,即所謂理由是也。天下之物,絕無無理由而存在者。其存在也,必有所以存在之故。此即物之充足理由也。在知識界,則既有所與之前提,必有所與之結論隨之。在自然界,則既有所與之原因,必有所與之結果隨之。然吾人若就外界之認識而皆以判斷表之,則一切自然界中之原因即知識上之前提,一切結果即其結論也。若視知識為自然之一部,則前提與結論之關係,亦得視為因果律之一種。

 (二)「理」の広義の解釈について 「理」の広義の解釈は、いわゆる「理由」がこれである。天下の物は、理由がなく存在するものはない。その存在には、必ずそれによって存在する理由があるのだ。これはつまり物の「充足理由」である。知識界においては、与えられた前提があれば、必ず与えられた結論がこれに沿ってある。自然界においても、与えられた原因があれば、必ず与えられた結論がこれに沿ってある。しかし我々は、外界の認識に基づいて判断しこれを表すから、全ての自然界の中の「原因」とは、知識界の上での「前提」であり、全ての「結果」とは、その「結論」である。知識を自然の一部として見れば、「前提」と「結論」の関係も、また因果律の一種として見ることができる。

 「知識界」と「自然界」は、元良の本では「論理学」と「物理学」になっています(喬氏論文p.81)。日本語の感覚ではこちらの方が分かりやすいでしょうか。

 物事には全て、その存在の根拠がある―「充足理由律(充足根拠律)」と呼ばれる考え方ですが、以下、王国維はこの考え方が欧州でどのように発展してきたのか、整理しています。

 故歐洲上古及中世之哲學,皆不區別此二者,而視為一物。至近世之拉衣白尼誌始分晰之,而總名之曰「充足理由之原則」。於具《單子論》之小詩中括之為公式曰:「由此原則,則苟無必然或不得不然之充足理由,則一切事實不能存在,而一切判斷不能成立。」汗德亦從其説,而立形式的原則與物質的原則之區別。前者之公式曰「一切命題必有其論據」,後者之公式曰「一切事物必有其原因」。其學派中之克珊范台爾更明言之曰:「知識上之理由(論據),必不可與事實上之理由(原因)相混。前者屬名學,後者屬形而上學。前者思想之根本原則,後者經驗之根本原則也。原因對實物而言,論據則專就吾人之表象言之。」

 さて、欧州の上古・中世の哲学においては、いずれもこの二者を区別せず、一つのものとみなしていた。近世のライプニッツに至って初めて分析され、まとめて「充足理由の原則」と名付けられた。ライプニッツの『単子論(モナドジー)』という小篇では、概括して公式を述べ、「この原則によると、仮に必然ないしはそうならざるを得ない充足理由がなければ、あらゆる事実は存在することができず、あらゆる判斷も成立しない」とした。カントもまたその説に従い、「形式的原則」と「物質的原則」の区別を立てた。前者の公式は「あらゆる命題には必ずその論拠がある」で、後者の公式は「あらゆる事物には必ずその原因がある」である。その学派のキーゼヴェッターは更に明確に「知識の理由(論拠)は、絶対に事実上の理由(原因)と混同してはならない。前者は名学(論理学)に属し、後者は形而上学に属す。前者は思想の根本原則であり、後者は経験の根本原則である。原因は実際の事物に対して言うもので、論拠はもっぱら我々の表象について言うものだ」と述べた。

 まずライプニッツによって「充足理由律」の考え方が立てられ、その根拠の種類が徐々に細分化されてゆくわけです。箇条書きで整理しておきましょう。このあたりの王国維の整理は、ほとんどショーペンハウアーの整理に則っているようです(喬氏論文p.82)。

①カント

  • 形式的原則(論理的原理):あらゆる命題には必ずその論拠がある
  • 物質的原則(質料的原理):あらゆる事物には必ずその原因がある

②キーゼヴェッター

  • 知識の理由(論拠):論理学、思想の根本原則。我々の表象についてのもの。
  • 事実上の理由(原因):形而上学、経験の根本原則。実際の事物についてのもの。

 そして、ショーペンハウアーに至って四種類に整理されます。

 至叔本華而復就充足理由之原則為深邃之研究曰「此原則就客觀上言之,為世界普遍之法則。就主觀上言之,乃吾人之知力普遍之形式也。世界各事物無不入此形式者,而此形式可分為四種:一,名學上之形式。即從知識之根據之原則者曰,既有前提,必有結論。二,物理學上之形式。即從變化之根據之原則者曰,既有原因,必有結果。三,數學上之形式。此從實在之根據之原則者曰,一切關係由幾何學上之定理定之者,其計算之成績不能有誤。四,實踐上之形式。曰動機既現,則人類及動物不能不應其固有之氣質,而為惟一之動作。此四者,總名之曰充足理由之原則」。

 ショーペンハウアーに至って、充足理由律について深い研究がなされ、以下のように述べた。「この原則は客観の面から言えば、世界の普遍の法則である。主観の面から言えば、我々の知力の普遍の形式である。世界のあらゆる事物にはこの形式から入らないものはなく、この形式は四種に分けることができる。一つは、名学(論理学)の形式である。つまり、知識の根拠の原則に従って、「前提があれば、必ず結論がある」というものである。二つは、物理学の形式である。つまり、変化の根拠の原則に従って、「原因があれば、必ず結果がある」というものである。三つは、数学の形式である。つまり、実在の根拠の原則に従って、全ての関係が幾何学上の定理から定められるもので、その計算の結果に誤りが生じえないものである。四つは、実践上の形式である。動機が現れたなら、人類や動物はその固有の気質に反応し、唯一の動作をせざるを得なくなる。この四者は、まとめて「充足理由の原則」と名付けられる。」

 ショーペンハウアーのいう充足理由律の四つの形式を、王国維は以下のように整理します。【】は、日本語で説明される場合の用語を入れておきました。

  • 名学(論理学)の形式【認識】:知識の根拠の原則。前提―結論
  • 物理学の形式【生成】:変化の根拠の原則。原因―結果
  • 数学の形式【存在】:実在の根拠の原則。幾何学上の定理―計算結果
  • 実践上の形式【行為】:動機―動作

 「固有の気質に反応し・・・」というところは、一見「気」という中国的な概念が現れていますので、ショーペンハウアーの言説に対応する言葉があるのかどうか気になる所ですね。

 此四分法中,第四種得列諸第二種之形式之下,但前者就內界之經驗言之,後者就外界之經驗言之,此其所以異也。要知第一種之充足理由之原則乃吾人理性之形式,第二種悟性之形式,第三種感性之形式也。此三種之公共之性質,在就一切事物而證明其所以然及其不得不然。即吾人就所與之結局觀之,必有其所以然之理由,就所與之理由觀之,必有不得不然之結局。此世界中最普遍之法則也。而此原則所以為世界最普遍之法則者,則以其為吾人之知力之最普遍之形式。

 この四分法のうち、第四種は第二種の形式の下に列することができる。ただ、前者(第四種)は内界の経験から言い、後者(第二種)は外界の経験からこれを言うのが異なる点なのだ。要するに、第一種の充足理由の原則こそが我々の「理性」の形式で、第二種は「悟性」の形式で、第三種は「感性」の形式であることが分かる。この三種の共通の性質は、あらゆる事物についてその「そうなる所以」と「そうならないことはない所以」を証明することにある。つまり、我々が与えられた結末から見れば、必ずそのそうなる理由があり、与えられた理由から見れば、必ずそうならないことはない結末がある。これは世界で最も普遍の法則であり、またこの原則がそれによって世界の最も普遍の法則となり、よって我々の知力の最も普遍の形式にもなる。

 整理すると、以下のようになります。

  • 第一種:認識の充足理由の原則:「理性」
  • 第二種:生成の充足理由の原則:「悟性」
  • 第三種:存在の充足理由の原則:「感性」

 そして王国維は、これを中国の伝統的な「理」概念と比較します。

 故陳北溪(淳)曰「理有確然不易的意」,臨川吳氏(澄)曰「凡物必有所以然之故,亦必有所當然之則。所以然者,理也。所當然者,義也」。徴之吾人日日之用語,所謂「萬萬無此理」,「理不應爾」者,皆指理由而言也。

 さて、陳淳は「「理」には確定して変化しないという意味がある」といい、臨川の呉澄は「すべて物には必ずそうなる所以があり、また必ずそうなるべき法則がある。そうなる所以とは、理である。そうあるべきこととは、義である」という。我々の日常の言葉から証拠を出すと、いわゆる「まったくこの理はない」とか「理としてそうあるべきではない」といった言葉は、いずれも「理由」を指して言っている。

 さて、喬氏論文では、王国維のこの二例は、二人の本意を掴んでいないと批判されています(p.83-84)。「所以然之故」といった字面は先ほどの「理」の分析に出ていた言葉と近いのですが、この二人のいう「理」は朱子学的な意味の「理」、つまり宇宙の本源・本体として措定された「理」であり、また同時に万事万象の生成運動の法則としての「理」のようです。よって、確かに、彼らが言う「理」と、王国維がここまで分析してきた「理」とは分けて考えなければならないものです。

 ただ、これは私の意見ですが、王国維としてもこれが朱子学の「理」であることは百も承知でしょう。その上で、中国において「理」と呼称され得るさまざまな概念の中に、(たとえ字面だけであったとしても、部分的に)欧州と重なる事例があることを示した、といったところではないでしょうか。もちろん、仮にそうだとしても、例としては適切ではないと言われてしまえばそれまでですが。

 

 さて、ここから話は「狭義」の意味の「理」の分析に移ります。

(棋客)