達而録

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野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(2)

  野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊のメモの続き。ここも巻四十一、昭公元年です。

 

第五条

〔傳〕叔出季處、有自來矣。吾又誰怨。

〔杜注〕季孫守國、叔孫出使、所從來久。今遇此戮、無所怨也。

〔疏〕正義曰、歷檢上世以來季孫出使、不少於叔孫、而云「叔出季處從來久」者、季孫世為上卿、法當上卿守國、次卿出使、以此為「從來久」耳、必須使上卿者、上卿非不使也。

  気になるのは以下の部分。

 必須使上卿者、上卿非不使也。

 必ず上卿を使いとすべき時に上卿が使いしない、というわけではないからである。(野間訳p.14下)

 パッと読んで意味が取れなかったので掲出したのですが、この訳でも読み取れる人には読み取れるかもしれません。「というわけではないからである」という「非」の訳が文章全体に掛かっているかのように錯覚する訳文なので、その点で最初に分かりにくく感じたようです。

 ただ、「非不使」の二重否定がはっきりしていないので、もう少し分かりやすくすると、

 必須使上卿者、上卿非不使也。

 必ず上卿を使いにすべきという時であれば、上卿が使いをしないことはないのである。(筆者試訳)

 となるでしょうか。「使上卿」の例は、時々出てきます。一例は以下。

『左傳』襄公十五年

〔傳〕官師從單靖公逆王后于齊。卿不行、非禮也。

〔杜注〕官師、劉夏也。天子官師、非卿也。劉夏獨過魯告昏、故不書單靖公。天子不親昏、使上卿逆而公監之、故曰「卿不行、非禮。」 

 この場合は、上卿が使いをするべきところでしなかったので、「非禮」と断ぜられています。 

 

第六条

〔傳〕以什共車必克。

〔杜注〕更增十人、以當一車之用。

〔疏〕『周禮』十人為什。以一什之人共一車之地、故必克也。(p.31上)

 ここに、野間氏は『周禮』地官・旅師「五家為比、十家為聯。五人為伍、十人為聯。」賈疏「今云十家為聯者、以在軍之時、有十人為什、…」を引いていますが、肝心の「什」の語が出てくるのが経文ではなく賈公彦疏ということで、適切な注釈とは言えないと思います。ここは伝文の「什」と杜預注の「十」を説明するところのはずです。

 とはいえ、『周禮』に「十人為什」という表現はそのままは見つからないので、代案も難しいところ。『周禮』鄭注なら、以下の例はあります。

『周禮』天官・宮正

 會其什伍而教之道義。

〔鄭注〕五人為伍、二伍為什。

 また、『毛詩正義』鹿鳴之什の題疏には「『周禮』小司徒職云“五人為伍”、五人謂之伍、則十人謂之什也。故『左傳』曰“以什共車必克。”」という説があります。

 この『周禮』小司徒の経文から連想して誤って「『周禮』十人為什」としてしまったのかもしれません。参考まで。

 

第七条

 「…不爲五味の主とは為らない」と見なしているような例は…(野間訳p.45上)

 見て分かる通り、「不爲」は衍字。

 

第八条

〔傳〕三月、甲辰盟。楚公子圍設服離衞。

〔杜注〕設君服、二人執戈、陳於前、以自衞。離、陳也。

〔疏〕正義曰、穆子言「似君」、知「設服」、設君服也。唯譏執戈不言衣服、則「君服」即「二戈」是也。「離衞」之語、必為「執戈」發端、但語畧難明。

 服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。縱使在國居君之離宮、即明宮門之衞、以為離衞、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。離之為陳、雖無正訓、兩人一左一右、相離而行、故稱「離衞」、離亦陳之義。

  長いので、少しずつ見ていきましょう。

 「離衞」之語、必為執戈發端、但語略難明。

 「衞を離(なら)ぶ」の語は、必ず戈を執る發端のはずであるが、しかし言葉が簡略で明らかにし難い。(野間訳p.10-11)

 野間氏はこの文章の終わりで段落を切っていますが、この疏文から話が変わっているので、この直前で切るべきでしょう。また、以下に「離衞」をどう読むべきか、という諸説が並ぶところなので、ここではまだ「衞を離(なら)ぶ」と開かない方が良いと思います。(「離、陳也」という訓詁は、あくまで杜預に特有のものです。)

 「必ず戈を執る發端のはずであるが」というのは分かりにくいですが、「執戈」は直後の伝文に出てくる言葉(「鄭子皮曰、二執戈者前矣。」)で、「離衞」の語が「執戈」の話を導いているはず、と指摘するものです。(ただ、「発端」は術語ということで訳さない方が良い、という判断かもしれません。下では一応訳してみましたが、そのままの方が良いですかね。)

 下は、その続き。

 服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。

 服虔は「二人が戈を執って前に在るのは、國に在っては君の離宮に居り、陳衞には門に在ることだ。」と述べている。そうだとすると戈を執って前に在るのは、國君の行く時の衞であって、家に在る守門の衞ではないのである。守門の衞は、その武器は必ず多いはずで、ただに二戈だけではない。(野間訳p.10-11)

 先に述べたように、「離衞」と「執戈」は関連する語であるはずという前提の下、それがどうつながるのかということを明らかにしようとしているところです。前提ですが、楚の公子圍は、本来は君ではないのに、君と同等の振る舞いをしているから非難される、というのがこの辺りの伝文の流れです。

 上の訳文、一文目の論理がよく分からないかと思います。

 まず、服虔説を丁寧に見てみましょう。最初の「二人執戈在前」は下文の「二執戈者前矣」の言い換え。これが何故「離衞」という語で表現されるのかという点に対し、「国内にいる時に、(本来には君ではないのに)君の宮にいて、」「を門に並べている」(そしてその時に「二人が戈を持って前に並ぶ」)から、「離衞」という、というのが服虔説なのだと思います。(実は服虔も陳=衛で読んでいた可能性はありますが、少なくとも疏の理解では、後ろに「縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣」とあるので、服虔説を上で述べたように理解していたはずです。)

 それに対して『正義』は、①「執戈在前」というのは國君が外に出た時の「衞」の話であって、家にいて門を守る「衞」の話ではない、②門を守る衛兵は、その武器が多いはずで、「二戈」だけとは考えられない、という二点から、服虔説に反対しています。「然則」はこの場合、逆説で読むしかないと思います。

 「兵」は「武器」と訳すのが通例かと思いますが、この場合は「非徒二戈而巳」(二戈はここでは「二人執戈」で、戈を持つ二人の守衛のこと)に続くので、人と読むほうが良いのかもしれません。ただ疏の原文はあくまで「二戈」なので、そのまま「二つの戈」と訳し、「兵」も「武器」にしておきます。

 加えて、「陳衞在門」の解釈にあまり自信がありません。一応、「衞を陳べて門に在り」といった方向で読んでみます。(原案のままでは意味がよく分からないとは思います。「陳衞」とは?)

 縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。

 たとい國に在って君の離宮に居る場合も、そのまま宮門の衞に名付けて「離衞」とするのは、その表現が不適切である。それゆえ杜預は「離衞」とは「戈を執る」のがそれだと見なした。二人が戈を執り、前に陳列して自ら防衞することを言うのである。(p.10-11)

 冒頭は、服虔説に対する批判の続きです。もう少し補えば、「もし仮に、(服虔説の通りに、)これが國で君の離宮に居る場合の話だったとしても、宮門の衛兵を「離衞」とは呼ばないだろう」といった流れです。

 「大不辭」は用例の少ない言葉で訳しにくいのですが、とりあえず野間訳の方向で良いと思うので、そのままにしておきます。(「辭」を「侔」に作るテキストもあるようです。)

 まとめて訳出しておきましょう。

 「離衞」之語、必為執戈發端、但語畧難明。服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。

 「離衞」の語は、必ず(下文の)「執戈」を導くものであるはずだが、しかし言葉が簡略で明らかにし難い。服虔は、「『二人が戈を執って前に在る』というのは、国において(君ではないのに)君の離宮に居て、衞を門に並べていることを言う(から、「離衞」と言うのだ)」と述べている。しかしながら、ここで「戈を執って前に在る」というのは、國君が外に行く時の衞の話であって、家にいて門を守る衞の話ではないし、門を守る衞は、その武器が必ず多いはずで、ただ二つの戈だけということはなかろう。たとえ、(服虔説の通り、)国において君の離宮にいる時の話であったとしても、そのまま宮門の衞に名付けて「離衞」とするのは、表現が不適切である。それゆえ杜預は、「離衞」がとりもなおさず「執戈」のことであるとした。二人が戈を執り、前に並んで自ら防衞することを言うのである。(筆者試訳)

 いかがでしょうか。

 「離衞」をどう「二人執戈」に繋げて読むかという問題に対し、服虔は「君の離宮にいる衞」から「離衞」、杜預は「離は陳と読み、二人並んでいることを示す」からこれがそのまま「離衞」と説いたわけです。

 

 注疏は難しいものですが、最低限の専門用語は置いておくにしても、できる限り「読んで分かる」訳を作りたいものです。特に、論理関係が分かる訳文に、せめて、「何を説明しているのか」が分かる訳文にするべき、と私は考えます。注疏とは結局「説明文」なのですから。

 続きます。→野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(3) - 達而録

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