前日の続きです。今回は気になる点というより、わからなかった点という内容です。
第十二条
〔傳〕由是觀之、則臺駘汾神也。抑此二者、不及君身。山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。
〔杜注〕有水旱之災、則禜祭山川之神若臺駘者。周禮四曰禜祭。為營攅用幣、以祈福祥。
〔疏〕周禮大祝「掌六祈以同鬼・神・示。一曰類、二曰造、三曰檜、四曰禜、五曰攻、六曰說」、鄭衆云「禜日月星辰山川之祭也」、鄭玄云「禜告之以時有災變也。禜如日食以朱絲禜社也」。玄之此言、取公羊為說。莊二十五年公羊傳曰「日食以朱絲禜社。或曰脅之、或曰為闇、恐人犯之、故營之」。然社有形質、故可朱絲營繞、日月山川、非可營之物、不得以此解禜也。賈逵以為「營攢用幣」、杜依用之。日月山川之神、其祭非有常處、故臨時營其地、立攢表用幣、告之以祈福祥也。「攅」聚也。聚草木為祭處耳。
第十条と同じ部分の杜預注に対する疏についてです。冒頭は『周礼』の引用ですので省略して、その次から少しずつ読み進めてみます。
玄之此言、取公羊為說。莊二十五年公羊傳曰「日食以朱絲禜社。或曰脅之、或曰為闇、恐人犯之、故營之」。
鄭玄のこの言葉は、公羊伝から取って説をなしている。莊公二十五年《公羊傳》に「日食には朱絲を以て社を禜ず。或いは之れを脅すと曰ひ、或いは闇を為すと曰ふ。人の之れを犯すを恐る、故に之れを營(めぐら)す」。(野間訳p.37)
『周礼』鄭注が引くのは、野間氏の指摘通り『公羊伝』莊公二十五年ですが、ここの『経典釈文』には「為闇、于偽反。」とあります。内容的にも、ここは「或るものは之れを脅すと曰ひ、或るものは闇が為にすと曰ふ。」と訓読した方が良いでしょう。
然社有形質、故可朱絲營繞、日月山川、非可營之物、不得以此解禜也。
しかしながら社には形質が有るので、朱絲で取り巻くことはできるが、日月山川は営することができる物ではないから、これで「禜」を解することはできない。(野間訳p.37)
「形質」をどう訳すべきか、悩ましい問題です。現代語の感覚だと、日月山川にも「形質」はある、という感じがするので、何か言葉を改めたいところです。が、良い案は浮かんでいません。
また、明らかに、「可朱絲營繞」と「非可營之物」は対になっています。しかし、野間訳では「可朱絲營繞」の「營繞」は「取り巻く」と訳しているのに、「非可營之物」の「營」は「営する」と訳しており、少々分かりにくいです。どちらも「取り巻く」で良いでしょう。「営」自体に「めぐらせる」「取り巻く」の意味がありますので。
賈逵以為「營攢用幣」、杜依用之。日月山川之神、其祭非有常處、故臨時營其地、立攢表用幣、告之以祈福祥也。
(これに対して)賈逵が「營攢〔草木を集めた祭域〕に幣を用ふ」と見なしているから、杜預は依拠してこれを用いた。日月山川の神は、その祭祀に一定の場所があるわけではないので、時に臨んでその場所を作り、攢表を立てるのに幣を用い、之に告げて福祥を祈るのである。(野間訳p.37)
難しくなってきました。
『史記』鄭世家「然是二者不害君身。山川之神、則水旱之菑禜之。」の『史記集解』に服虔説が引かれていて、「禜為營攢用幣也。若有水旱、則禜祭山川之神以祈福也。」とあります。すると、賈逵と服虔は同じ説を唱えていたのですね。そして杜預もそれを用いた、と。これは鄭玄説とは異なるものと疏は考えているようです。
では、「營攢用幣」をどう読むべきか、考えていきましょう。
下に「臨時營其地立攢表用幣」とあり、これが「營攢用幣」を疏が言い換えたものではないか、と考えられます。野間訳では、ここは「立攢表用幣」で一区切りにして、「攢表を立てるのに幣を用い」となっています。(その場合、賈逵説「營攢用幣」の訓読は「營し、攢に幣を用ふ」となるのでしょうか。)
「幣」は贈答や祭祀の際の礼物、供え物のこと。「用幣」はよくセットで用いられる表現。「立攢表」が何のことかは分かりませんが、疏によれば「攢」は草木を集めて祭場を作るということですから、「幣」を用いて「立攢表」すると考えている訳ではないと思います。なので、ここは野間氏の句点の区切りを変え、「臨時營其地、立攢表、用幣告之、以祈福祥也」にしておきましょう。
とすれば、「營攢用幣」は「營攢し、幣を用ふ」や「營し、攢(あつ)め、幣を用ふ」とか読むことになるのでしょうか?
参考までですが、「臨時營其地、立攢表、用幣告之、以祈福祥也」は乾隆初殿版の句点もこのように作っていますし、北京大標点本もこう作っています。下に紹介する『周礼正義』標点本も同様です。やはり、この句点の方が穏当でしょう。
「立攢表」がよく分からないので、清人の研究を参考にしてみます。
孫詒讓『周禮正義』卷三十七・春官・鬯人(中華書局、p.1499)
〔經〕鬯人掌共秬鬯而飾之。凡祭祀、社壝用大罍、禜門用瓢齎、廟用脩、凡山川四方用蜃、凡祼事用概、凡疈事用散。
〔注〕禜、謂營酇所祭。門、國門也。春秋傳曰「日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。山川之神、則水旱疫癘之不時、於是乎禜之。」魯莊二十五年秋、大水、鼓用牲于門。故書「瓢」作「剽」。鄭司農讀剽為瓢。杜子春讀齎為粢。瓢、謂瓠蠡也。粢、盛也。玄謂齎讀為齊、取甘瓠、割去柢、以齊為尊。
〔疏〕注云「禜謂營酇所祭」者、禜卽大祝六祈之禜、營禜聲類同。祭法注云「禜之言營也。」『説文』示部云「禜、設緜蕝為營、以禳風雨雪霜水旱癘疫於日月星辰山川也。一曰禜衞、使灾不生。」『左傳』昭元年杜注云「禜祭、為營攢、用幣以祈福祥。」『史記』鄭世家『集解』引服虔説及左傳孔疏引賈逵説、並與杜同。孔又釋之云「日月山川之神、其祭非有常處、故臨時營其地、立攢表、用幣告之、以祈福祥也。攢、聚也、聚草木為祭處耳。」
詒讓案、鄭所謂「營酇」、卽賈服杜所謂「營攢」、酇攢字通。樂記云「其治民勞者、其舞行綴遠。其治民逸者、其舞行綴短。」鄭注云「民勞則德薄、酇相去遠、舞人少也。民逸則德盛、酇相去近、舞人多也。」又奔喪「喪位」注云「位、有酇列之處。」酇又通作「纂」。『史記』叔孫通傳「為緜蕞野外習之」、『集解』引如淳云「蕞謂以翦茅樹地為纂位。春秋傳曰『置茅蕝』也。」『索隠』引纂文云「蕝、今之纂字」。是此注云營酇、又即許君所謂「設緜蕝為營」、謂立營兆酇表而祭之。黨正注謂祭禜亦為壇位如社稷、亦是也。『左傳疏』以為「立攢表」得之、其訓攢為「聚艸木」、則非。
これによれば、「攢」はここでは「酇」「纂」「蕝」に通じ、茅を束ねたものによって儀式の際の位置、また位の順次を示す印のこと、とされているようです。また、『周禮正義』は、左伝疏の中で「營攢」を「立攢表」とするのは是としますが、「聚草木」と訓ずるのは非としています。うーん、よく分かりません。
参考までに、『説文解字注』も掲げておきます。
『説文解字』示部・禜
禜、設緜蕝爲營,以禳風雨、雪霜、水旱、癘疫於日月星辰山川也。从示、从營省聲。一曰禜、衞、使災不生。
〔段注〕『史記』『漢書』叔孫通傳皆云「爲緜蕞野外習之。」韋昭云「引繩爲緜、立表爲蕞、蕞卽蕝也。」詳艸部。凡環帀爲營。禜營曡韵。『左氏』傳「子産曰、山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。」許與鄭司農『周禮』注引皆先日月星辰。與今本不同也。
ただ、疏の理解がどうなのか?というのはちょっとよく分からないです。疏が「攅、聚也。聚草木為祭處耳。」と言っている以上、野間訳のように、「營攢」を「草木を集めた祭域」とシンプルに読むのが良いのかもしれません。以下の段を参照。
孫詒讓『周禮正義』巻二十二
春秋祭禜、亦如之。
〔注〕禜、謂雩禜水旱之神。蓋亦爲壇位、如祭社稷云。
きちんと一から整理しないといけないことが分かってきました。このままでは終われないので、一旦保留にして、とりあえず今日のところの訳を作っておきます。
玄之此言、取公羊為說。莊二十五年『公羊傳』曰「日食以朱絲禜社。或曰脅之、或曰為闇、恐人犯之、故營之」。然社有形質、故可朱絲營繞、日月山川、非可營之物、不得以此解禜也。賈逵以為「營攢用幣」、杜依用之。日月山川之神、其祭非有常處、故臨時營其地、立攢表、用幣、告之以祈福祥也。「攅」聚也。聚草木為祭處耳。
鄭玄のこの言葉は、『公羊伝』から取って説を立てている。莊公二十五年『公羊傳』に「日食には朱絲を以て社を禜ず。或いは之れを脅すと曰ひ、或いは闇が為にすと曰ふ。人の之れを犯すを恐る、故に之れを營(めぐら)す」。しかしながら、社は一定のかたちがあるので朱絲で取り巻くことができるが、日月山川は取り巻くことができる物ではないから、これ(鄭玄説)によって「禜」を説き明かすことはできない。賈逵は、「營攢し〔草木を集めて祭祀の位置を示し〕、幣を用ふ」と見なしており、杜預は依拠してこれを用いたのだ。日月山川の神は、その祭祀に決まった場所があるわけではないので、祭時に当たってその場所を作り、攢表〔草木の束で位置を示す印〕を立て、幣を用いてこれ(日月山川の神)に告げ、福祥を祈るのである。(筆者試訳)
今回は、賈逵説の本来の意図、それに対する疏の理解、そしてその疏なりの理解に基づいて下される疏の判断、が入り組んでいて、ちょっと整理できませんでした。
なお、『周禮』大祝の方の『正義』を見てみると、鄭玄は「禜」を二種類に分けていたという説が載っています。ここで疏が鄭説を斥けているのは、疏が二つの内の片方の鄭説を引っ張ってもう一つのパターンに当てはめ、その結果「不得以此解禜也」になってしまったのではないか、という気もしています。
というわけで、また今度、「禜」とはいかなる祭祀なのか?という方向から整理してみようと思います。(調べている過程で、金鶚『求古録禮説』の「禜祭考」という論考を見つけたので、これを見てみるつもりです。)
→記事にしました。
さて、ここまで第五冊の冒頭、巻四十一、昭公元年について検討してきました。なかなかに大変ですが、やはり「現代語訳」を作るとなると、その行間の論理関係を読む必要が出てきて、とても良い勉強になるな、と感じました。
それと同時に、「疏」というものは、行き届いた訳文を作ること、即ち書き手の意図をしっかり読み取った訳を作ること、が相当な程度まで可能という気がしてきました。つまり、経書の本文や詩歌の翻訳の場合は、「翻訳者の解釈の相違」として片づけられる問題も多いのですが、疏の翻訳の場合は学者の間で解釈が一致する、ある種の「正解」が作れるのではないか、と感じます。(むろん、結局のところ訳文であるという壁はありますが。)
この後もぼちぼち読み進めていきますが、記事にするのがかなり手間なので、一旦これで最後にしようと思います。
つくづく思いますが、訳を作るにしても、原案があるとかなり楽になるものです。やはり全訳というのは偉大な成果であると思います。(さんざん批判しといてなんやねん、と言われそうですが、心からそう思います。)
そして、自分で言うのも何ですが、訳を訂正するというのもなかなか大変なものです。この作業を数年にわたって続けておられる岩本先生のバイタリティにはつくづく感服いたします。
(棋客)