達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

岩本憲司『春秋学用語集 三編』について

 先日、久々に論文読書会を開き、後輩の学部生の担当で池田秀三「訓詁の虚と実」を読みました。その関係で、下調べとして岩本憲司『春秋学用語集 三編』汲古書院、2014)の「無寧」の項目を見たのですが、少し気になる記述を見つけたのでメモしておきます。

 

 「無寧」という語は『左伝』に六回ほど登場しますが、全て同じ意味では読めないようです。そこで色々な議論が出てくるわけですが、そのうちの一例が下。

『左傳』昭公二十二年

〔傳〕寡君聞君有不令之臣為君憂、無寧以為宗羞。寡君請受而戮之。

〔杜注〕無寧、寧也。言華氏為宋宗廟之羞恥。

  「無」といった助字の働きを体系的に整理した本としては、王引之『經傳釋詞』が著名です。岩本氏もよく利用してる本で、ここでは下の条が引かれています。

・『經傳釋詞』巻十・無
 「無寧」、猶「無乃」也。家大人曰、昭二十二年『左傳』曰「無寧以為宗羞」、言宋若自誅華氏、無乃以為宗族之羞、不如使楚戮之也。(杜注曰「無寧、寧也」、失之。「寧」訓為「乃」、見「寧」字條下。)

 ・『經傳釋詞』巻六・寧
 「寧」、猶「乃」也。・・・昭二十二年『左傳』「寡君聞君有不令之臣為君憂、無寧以為宗羞」、言無乃以為宗羞也。(此「無寧」與他處言「無寧」者不同。杜注「無寧、寧也。」失之。)

 王引之はここで「此“無寧”與他處言“無寧”者不同」と言っていますから、『左伝』に見える「無寧」のうちこの例だけは使い方が違うと考えたわけです。

 他の例はどう考えたのか、というのは下の通りです。

『經傳釋詞』巻十・無

 孟康注『漢書』貨殖傳曰「無、發聲助也。」字或作「毋」。・・・隱十一年『左傳』「無寧茲許公復奉其社稷。」、襄二十四年「無寧使人謂子、子實生我。」杜注並曰「無寧、寧也。」、襄二十九年「且先君而有知也、毋寧夫人、而焉用老臣。」服虔注曰「毋寧、寧也。寧自取夫人、將焉用老臣乎。」 

 ここでは、「無」が「發聲の助辭」である旨が述べられています。

 他の例も含めて論じ始めると非常にややこしいので、詳しくは岩本本や池田論文などを参照して下さい。

 

 さて、気になったのは以下の部分です。(⑥の「寧」というのが、最初に掲げた例です。) 

 王引之によれば、ここ、つまり、⑥の「寧」は①②③の「寧」が普通の意味〔おそらく、『説文』の所謂「寧 願詞也」〕であるのに對して、「乃」の意味であるということである、というのである〔したがって、王引之は「無寧」を「無乃」に置き換えるわけだが、「無」が發語の助辭であることに變わりはないから、王引之が言いたいのは、結局、「無寧 乃也」ということである。〕(岩本本、p.38-40)

 つまり、岩本氏は、昭公二十二年傳「寡君聞君有不令之臣為君憂、無寧以為宗羞。」の例について、王引之は「無寧」を「無乃」に置き換えるが、「無」が發語の助辭であることに變わりはないため、王引之はここでは結局「無寧、乃也」と言いたいのだ、と考えているようです。

 ただ、これは王引之の意図を捉え損ねているように思います。

 というのも、『經傳釋詞』の「無」の条は、以下のような構造になっているからです。(アルファベットは筆者が加えています。)

『經傳釋詞』巻十・無

A.無、毋、勿也。常語。

B.孟康注『漢書』貨殖傳曰「無、發聲助也。」字或作「毋」。・・・。以上皆發聲。

C.「無」、轉語詞也。字或作「亡」、或作「忘」、或作「妄」、或言「亡其」、或言「意亡」、或言「亡意亦」、或言「將妄」、其義一也。・・・。以上皆轉語詞。

D.「無」、猶「得無」也。・・・。

E.「無乃」、猶「得無」也。・・・。

F.「無寧」、猶「無乃」也。家大人曰、昭二十二年『左傳』曰「無寧以為宗羞。」・・・。

G.(以下略)

 「無」を発声の助字として捉えるのは、Bの項目に挙げられているものです。この中に、「無寧」の形が幾つか挙げられていることは、先に引用した通りです。

 そして、Fで「無寧」は「無乃」のようなものである場合があると述べます。そして「無乃」は「得無」のようなものと王引之は述べます(E)。

 「無乃」は「無乃・・・乎」の形でよく用いられ、反語を表します。王引之の「得無」はその方向での解説でしょう。この場合、「無」は発声の助字ではなく、「無い」という意味のある言葉として見ているはずです。(なにせ「得」と訓じているのですから。)

 「無」を発声の助字として捉えるのは、Bの項目に挙げられているものだけであって、それをFの理解に引きずってしまうのは不正確かと思います。

 

 本題とは全く関わらない、あまりに細かい指摘で恐縮です。気になると無視できなくなってくるのは、悪い癖かもしれません。

(棋客)