達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

桃崎有一郎「日本「肉食」史の進展に寄せて〈学術雑誌の書評のあり方〉を問う:中澤克昭著『肉食の社会史』を題材に」

 今回は、桃崎有一郎氏の「日本「肉食」史の進展に寄せて〈学術雑誌の書評のあり方〉を問う:中澤克昭著『肉食の社会史』を題材に」という論考を取り上げて、私なりの感想を述べたいと思います。

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 この論考は、前半中澤克昭『肉食の社会史』(山川出版社、2018)についての書評であり、全くの門外漢である筆者にも本書の魅力がよく分かるものになっています。そして、後半は「提言としての書評論」と題し、一風変わった文章が載せられています。

 今回この論考を取り上げたのは、その後半部分で、「書評とはどうあるべきか?」という問題に対して、分野の垣根を越えた刺激的な問題提起がなされているからです。(もう一点、桃崎氏は『礼とは何か:日本の文化と歴史の鍵』などで、日本史の側から中国の礼制関連のことを研究されており、いつか中国学の側から「書評」をされることがあるのではないかと思うから、という理由もあります。)

 

 今回取り上げる後半部分は、(私が勝手に分けると)「①書評とはどうあるべきか」そして「②過去の歴史学会の態度の問題」の二つの議論がなされています。

 ①から見ていきましょう。端的に言えば、桃崎氏は、書評において当該書籍への批判を展開することに反対し、ポジティブな評価をすることに専念すべきであると主張しています。

 私は書評の95%以上を、できれば100%を、前向きな評価で埋めるべきと考えている。…学問でも何でも、一つの世界を先に進めるのは、リスクを取って未開の世界へと踏み出し、そして現に多くの失敗で苦渋を味わった人だけだ。

 桃崎氏は、「相手も同等の苦労をして批判するならまだしも、書評でお手軽に批判する者に、そんな権利などあろうはずがない」とし、批判する場合には以下のような手続きが必要であると述べています。

 批判するなら、書評のような媒体で批判だけ単体で行うのではなく、自分の論文や著書を公にする時、自分が描く「より魅力的な絵」とともに、その絵を描くにはどうしても批判せざるを得ないタイミングで提示すればよい。

 そして以下の結論に至ります。

 書評には、〈その本によって我々学界全体がどのように前進できたか。そして、あくまでその評価すべき前進の成果として、どのような新たな課題が学界全体に見えてきたか〉だけを書くのが有意義だと信ずるに至った。

 以上の内容については、書評の対象となる「研究書」が、実際にその分野の研究の進展に貢献するものであった場合に限定すれば、概ね納得できます。(研究の進展に貢献しない書籍など「研究書」とは呼べない、と言われてしまえばそれまでですが。)

 細かいことを言うと、「書評でお手軽に批判する者」という表現は気になってしまうでしょうか。書評であるからといって、「お手軽」に取り組む研究者など、少数派ではないかと思うからです。(あるいは氏の文章では具体的なターゲットが念頭に置かれているのかもしれません。)

 もう一点気になるのは、以下の記述です。

 たまたま自分の蛸壺的な専門知識が勝っている部分を見つけて、事もなげに批判する。そうした営みに価値があるとは、今の私にはどうしても信じられない。

 ここは桃崎氏自身の過去の体験を振り返って述べたものですから、一般論として論じるのは危険かもしれません。

 ただ、これを読んで最初に浮かぶ感想としては、専門が異なる研究者による「蛸壺的な専門知識」こそ、その著者の側が得ることが難しい知識であり、他分野の研究者のレビューにおいて最も必要とされる箇所ではないか、と言いたくもなります。

 もちろん、桃崎氏はこういった営みを否定するわけではなく、これを書評・レビューという形で行うことを批判しているだけでしょう。先の言葉を借りれば、批判する際には「自分の論文や著書を公にする時、自分が描く「より魅力的な絵」とともに」するべきであるということになります。しかし、「魅力的な絵が示されなければ、批判は許されない」と断じてしまってよいものでしょうか?

 

 ここで、自分に置き換えて考えてみたいと思います。中国の礼学を一応の専門とする私が、桃崎氏の礼とは何か』の中で語られる中国の礼学に関する部分について(学術的に認められた場で)何か指摘をしたい場合、どのような方法が考えられるでしょうか。

 中国の礼学研究者が、日本中世史の世界を桃崎氏よりも「魅力的な絵」で書くことは不可能であり、自分の論文や著書でこれを表現することはできません。また、書評するにしても、この本によって「日本中世史の分野の学界がどのように前進したか」といったことは書きようがありません。

 しかし、中国の礼学研究者の「蛸壺的な専門知識」による批判が、桃崎氏の研究に何らかの示唆を与えることもあるはずで、学問的良心から、これを公にしたいと考える人がいるかもしれません。(分野外の側から「蛸壺的」に見える事柄は、当該分野においては往々にして「基礎的な事柄」であるものです。

 かりに「書評」という場にこれを載せるべきでない場合、こうした営みを発揮する場所は、どこに求めるのがよいのでしょうか。私としては、現状の枠で考えるならば、結局「書評」が最適であるかと思います。

 

 さて、どうでもいい細かな疑問を挟んでしまいましたが、①の論旨は明快であり、書評を書く場合の大まかな指針としては、ある程度納得できる内容なのではないでしょうか。実際、この指針を実践して書かれた『肉食の社会史』の書評部分は非常に魅力的な文章であり、本書の意義が存分に伝わるものになっているといえるでしょう。

 

 次に、「②過去の歴史学会の態度の問題」に進みます。これは①の議論から引き出された論点であり、最初は「書評」に限定した話なのかと思っていましたが、どうもそういうことではなく、学界全体に対する問題提起になっているようです。

 ここでは、歴史学会における「批判」の在り方についての問題提起が行われています

 理性と向上心がある者なら批判は受け入れるべき、というよりも自ら進んで批判を求めるのが正しい、という考え方が、少なくとも日本の歴史学会には広く受け入れられている。…こうした考え方の根底にあるのは、〈学説への批判は、人格への非難とは違う〉という「正論」である。

 それは確かに一理ある。しかし、一理しかない。こうした考え方は、〈学問は所詮、人間の営みだ〉という観点が欠落している。研究者の多くは、……生業と寝食以外のほぼ全時間を、研究に費やしている。ある仮説を世に問うまでに五年かかったなら、それはその人の人生の五年を丸ごと費やしたということである。その仮説を否定することは、その研究者が費やした、限りある人生の五年という時間を丸ごと否定することに等しい。そう考えたとき、〈学説への批判は人格への非難とは別物だ〉という考え方が、正論でも何でもなく、〈人間が行う学問という営み〉に対する洞察がすっぽり欠如した、机上の空論であることに気づく。

 「理性と向上心がある者なら批判は受け入れるべき」また「自ら進んで批判を求めるのが正しい」という発想は、それこそ『論語』まで遡れそうなほど、ごくごく普遍的な考え方でしょうね。ただ、「理性と向上心がある者なら批判は受け入れるべき」という話と、「学説への批判は、人格への非難とは違う」という考え方とは、似ているようで全然別の話ではないかという気もしますが。

 さて、安易な批判は、その人の研究に対するリスペクトに欠けるものであるという話は、よく分かります。しかし、その次の「その仮説を否定することは、その研究者が費やした、限りある人生の五年という時間を丸ごと否定することに等しい」という部分については、別の考え方もあると思います。これは最後に述べることにし、いまは桃崎氏の行論を見ましょう。

 人は自分の人生のために学問をするのであって、学問の犠牲となるために人生があるのではない。歴史学は、人文科学を標榜していながら、そうした「学問と人」の問題にあまりに疎かったのではないか。…

 そう考えた時、すぐに閃くものがあった。なるほど、学問と人を機械的に切り分けて是とする考え方は、人文科学の所産ではなく、歴史学を社会科学だと信じている人々の発想なのだ、と。…歴史学が完全に社会科学に取り込まれ、社会科学の弱点まで抱え込んで、人文科学の強みを忘れ去る必要はない。象牙の塔の中からは想像しにくいと思うが、外の実社会では、仕事をけなしたり褒めるのは、人をけなしたり褒めるのと同じことである。

 研究者によるアカハラの問題を想起するまでもなく、桃崎氏の言いたいことは伝わるでしょう。私の考えでは、そもそも「学説への批判は、人格への非難とは違う」という言葉が一人歩きしているのが問題なのだと思います。もともとの順番としては、「議論の相手へのリスペクトを前提にして、その学説に対する批判を行う」ということのはずです。「学説批判だから問題ないだろう」と開き直って配慮に欠けた批判をする態度は、これとは似ても似つかぬものであると言わざるを得ません。

 この点には賛同するのですが、「学問と人を機械的に切り分けて是とする考え方は、人文科学の所産ではなく、歴史学を社会科学だと信じている人々の発想なのだ」というのは、どうなのでしょうか。議論の枠が大きすぎて、「本当にそうなんですか?」と問いかけたくなってしまいます。が、一旦わきに置いておきましょう。

 

 さて、話を戻して、先ほどの「その仮説を否定することは、その研究者が費やした、限りある人生の五年という時間を丸ごと否定することに等しい」という考えには、私は賛成できません。この文章の少し先には、「研究者は、自分の研究に人生を賭けている。その研究成果を否定することは、その人の人生の何割かを否定することと同じだ」という言葉もあります。この主張について考えていきましょう。

 

 みなさん、少し考えてみてください。「学説を否定すること」は、「その説を唱えた学者の人生の一部を否定すること」になるのでしょうか?

 答えは否。そんなことはないはずです。むしろ、このような考え方こそ、「人生」を「学問の犠牲」(言い換えれば「学問的真理の犠牲」)にしてしまうものではないでしょうか

 鄭玄・朱子考証学者たち、また武内義雄宮崎市定ニュートンガリレオなど誰を考えてもよいのですが、その人の学説が「学問的真理」を失ったからといって、その学説が無価値なものになるわけでもありませんし、その学者の人生が否定されるわけでもないというのは、言うまでもないことです。「研究成果を否定することは、その人の人生の何割かを否定することと同じ」なのであれば、過去の研究者のほとんど全員が、人生の何割かを否定されたということになってしまいます。こういう考え方もあるかもしれませんが、桃崎氏とて、こうした事態の出来を望んでいるわけではないでしょう。

 以上を一言で表現すれば、「ある学説が学問的真理でなくなったとしても、学術史的意義は残り続ける」といったところでしょうか。いやむしろ、「ある学説は、学問的真理を失うことと引き換えに、新たに学術史的意義という側面から輝きを放つ」と逆説的・積極的に表現してもいいのかもしれません。「歴史学」の意義は、まさしくこうしたところにあるのではないでしょうか。

 

 ……などど書き連ねてきましたが、こんなことは桃崎氏としても百も承知であり、あくまで氏としては、建設性のない批判や、無意味なほど細かい批判に対して言っているだけなのかもしれません。ただ、上の文章だけを見ると、どうしてもこうした反論をしたくなってしまいます。(それは桃崎氏の行論が、刺激的な問題提起になっているからです。)

 桃崎氏は、以下のようにも述べています。

 歴史学者には、自分が歴史の一部であるということを忘れ、歴史学の常識的な大原則と自分を結びつけない人が多い。

 仰る通り「歴史学者」が「歴史」の一部であるのと同様に、歴史学者の否定された学説もまた、悠久なる「学問の歴史」の一頁であるはずですね。歴史学者は、このことも忘れてはならないでしょう。

 

 結局のところ、人格攻撃やハラスメントとの線引きが前提としてあれば、「批判によって私の人生が否定されるのでは」という心配は無用であると思います。それによって色々な誤りが発覚したとしても、研究者の「人生」や研究に向けた「努力」そのものが否定されるわけではありません。また、仮に批判者自身が「魅力的な絵」を示すことができなかったとしても、その批判を通してその著者の側が後に「より魅力的な絵」を提示する一助となれば、十分ではないでしょうか。

 以上の意見でさえ、桃崎氏には「歴史学を社会科学だと信じている人々の発想だ」と言われてしまうのでしょうか。更に言えば、本記事自体、ブログという媒体で「お気軽に」批判したものということになってしまうのかもしれませんが…。

 

 最後に寄り道がてら、無理やり専門に引き付けて考えてみると、「研究への評価が人格への評価に直結する状態」は、古代中国の気の理論でいうところの「角砂糖モデル」に近い感じですね。すると両者を分離するのが「箱モデル」に当てはまります。

 「角砂糖モデル」とは、ある人の作品(書画・詩など、表現されたもの)には、その人の「気」(本質・精神・肉体といったその人を形作るもの)が反映されるものであるという考え方。簡単に言うと、優れた気をもつ人物であれば、優れた作品を残しているはずだ(または、これは優れた作品だから、優れた気をもつ作者が書いたに違いない)となります。逆に、「作品を見てもその人の中身は分からない」という考え方が「箱モデル」です。

 ……少々無理やりすぎました。いずれにしても、②に類する議論は、近年の歴史学会がどうこう、社会科学がどうこうではなく、古くからよくあるものではないでしょうか。

 

礼とは何か: 日本の文化と歴史の鍵

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(棋客)

鄭玄が注を書いた順序(3)

 前回の続きです。藤堂明保「鄭玄研究」(蜂屋邦夫編『儀礼士昏疏』汲古書院、1986)から、鄭玄の著作の執筆順を考えていきましょう。

 残された疑問は、『周礼』『儀礼』『礼記』の三礼注がどの順番で成立したのか、というものです。三礼注が党錮の禁に坐していた時に書かれたことは数種の資料から確かめられますが、そのそれぞれの順番を伝える記録は何もありません。

 ということは、三礼注の中身を見て判断するしかないわけです。中身で判断すると一言に言っても、三礼注の中に直接書いた年代や当時の周辺情報が書かれているわけではありません。

 そこで藤堂氏は、各書の間での引用関係に目をつけ、その順番を考察しました。

①『礼記』月令、孟冬
〔経文〕是月也、命大史、龜筴占兆、審卦吉凶。
〔鄭注〕今月令曰「釁祠」、「祠」衍字。
(訳)今の『礼記』月令孟冬には「釁祠」とあるが、「祠」は余計な字である

②『周礼』春官宗伯、龜人
〔鄭注〕月令孟冬云「釁祠龜策。」
(訳)『礼記』月令孟冬に「釁祠龜策」とある。

 鄭玄は①『礼記』注で「釁龜筴」が正しく、「釁龜策」は誤りとするにもかかわらず、②『周礼』注では「釁龜策」と引用しています。

③『礼記』内則
〔経文〕麋、鹿、田豕、麕、皆有
〔鄭注〕軒、或為胖。
(訳)「」の字は、異本では「」に作る。

④『周礼』天官冢宰、腊人
〔鄭注〕内則曰「麋、鹿、田豕、麕、皆有胖。」
(訳)『礼記』内則に「麋、鹿、田豕、麕、皆有」とある。

  ③『礼記』注で正本「」、異本「」とするのに、④『周礼』注では「」を引きます。藤堂氏は似た例を十以上挙げ、またこれと逆の現象はほとんど見当たらないとします。

 先に『礼記』のテキストが定まっていたのなら、『周礼』の方でわざわざ他のテキストの字を用いないのではないかと考えられます。特に①,②の場合、『礼記』の経文に衍字があるという結論が先に出ていたなら、わざわざ引用しないでしょう。ここから、『礼記』注より先に『周礼』注を書いたのではないか、と推測できます。

 

 一般に、「文字の異同」に着目して行う推論は、堅い証拠のようにも見えますが、危険なところも多いものです。後漢の鄭玄が注釈を書いてから現在に至るまで長い年月の経過があり、しかも最初の千年近くは手書きで書写されて本が伝えられました。現在われわれが見ている字から、「鄭玄は間違いなくこの字を使っていた」とは言い切れないのです。

 ただ今回の場合、ただの「文字の違い」を見ているというより、「祠は余計な字である」というように鄭注の「内容の違い」を見て推測しているので、推測の強度はやや高いと言えます。

 藤堂氏は、『儀礼』についても数は少ないですが同様の例を出し、さらに他に鄭玄が『礼記』注で他の二つの注釈を補足しているように見える例、学説の変更がある例を出し、三礼注が『周礼』『儀礼』『礼記』の順で成立したと結論付けています。

 

 さて、藤堂氏はここまで見てきた検討から、鄭玄の著作の執筆順を以下のように結論付けます。

  1. 緯書注、六藝論
  2. 三禮注(周禮→儀禮→禮記)、駁五経異議、箴膏肓など三篇
  3. 古文尚書
  4. 論語
  5. 毛詩箋、詩譜
  6. 周易

 鄭玄は、建寧三年(一七〇年)前後から、黄巾の乱の発生により党錮が解かれるまでの間、党錮に坐していました。②はその党錮の禁の時期、③は解けた以後、⑥は最晩年ということになります。

 なお、鄭玄の著作には、他に『尚書大伝』注、『魯禮禘祫志』など多数ありますが、上に挙げたもの以外は不明ということになります。

 

 上の一覧のうち、③古文尚書については、前回の記事で述べたように、ここに置いてよいのか一考の余地はあると思います。また、②駁五経異議も、今文説が多いこと、箴膏肓など三篇と体裁が似ていることからここに置かれているようですが、きちんとした根拠があるとは言えません。

 とはいえ、鄭玄の著作の執筆順について、初めて全面的に精密な調査を行った本研究は、今後も参考にされ続ける論文でしょう。

(棋客)

鄭玄が注を書いた順序(2)

 先週の続きです。 藤堂明保「鄭玄研究」(蜂屋邦夫編『儀礼士昏疏』汲古書院、1986)から、鄭玄の著作の執筆順を考えていきましょう。今回は、併せて池田秀三「鄭学における「毛詩箋」の意義」(渡邉義浩編『両漢における詩と三伝』汲古書院、二〇〇七)、間嶋潤一「鄭玄『尚書注』と『尚書大伝』―周公居攝の解釋をめぐって」(『東洋史研究』六〇(四)、二〇〇二)を参考にしています。

 再び基本資料を掲げておきます。

『唐會要』卷七十七

 劉子玄上孝經註議、・・・鄭自序云「遭黨錮之事、逃難注禮、至黨錮事解、注『古文尚書』、『毛詩』、『論語』。爲袁譚所逼、來至元城、乃注『周易』。」

(訳)鄭玄の「自序」に「党錮の禁に遭って、難から逃れて『礼』に注した。党錮が解けて、『古文尚書』『毛詩』『論語』に注した。袁譚に迫られて、元城に行き、ようやく『周易』に注した」という。

  今日は、『古文尚書』『毛詩』『論語』の三つの注釈の執筆順に関する、藤堂氏の説を見ていきましょう。

 上に書かれている順番をそのまま受け取るなら、古文尚書→毛詩→論語の順になるのですが、少なくとも『論語』注が『毛詩』注より先に作られたことは確実です。

 根拠は、鄭玄の『論語』注が『毛詩』注とかみ合わない部分があり、これについて弟子の劉炎が鄭玄に質問し、鄭玄が答えた文章が残っていることです。

『鄭志』(『毛詩』國風關雎疏所引)

 鄭荅劉炎云「論語註人閒行久、義或宜然、故不復定、以遺後説。」

(訳)鄭玄は劉炎に答えて「『論語』の注釈は、既に人々の間に行き渡って久しいので、意味としてはこうするべき(「衷」に改めるべき)かもしれないが、改めて定めることはせず、両説を後世に残す」と言った。

  鄭玄の『論語』注と『毛詩』注がかみ合わない部分というのは、以下です。

論語』八佾
〔経文〕關雎樂而不淫、哀而不傷。
〔鄭注〕世失夫婦之道、不得此人、不為滅傷其愛也。
(訳)世に夫婦の道を失い、この人を得られなかったとしても、その愛を傷つけ消し去るということはない。

『毛詩』國風、周南、關雎
〔詩序〕哀窈窕、思賢才。
〔鄭箋〕、蓋字之誤也、當為
(訳)「哀」というのは、おそらく字の誤りであって、「衷」とするべきだ。

 鄭玄が『鄭志』で「論語註人閒行久」と言っていることを見ると、『論語』注は、『毛詩』箋よりもだいぶ前に作られていたのかもしれませんね。

 また、『毛詩』箋の編纂が遅れることは、以下の記録からも分かります。

『鄭志』(『礼記』礼器疏所引)

 鄭荅炅模云、為記注之時、依循舊本、此文是也。後得毛詩傳、而為詩注、更從毛本、故與記不同。

(訳)鄭玄は炅模に答えて「『礼記』の注釈を作った時、旧来の本に従った。この文はこの旧来のものなのだ。その後に『毛詩』を得て、このために注釈を作り、改めて毛氏の本に従った。よって『礼記』と異なるのである」と言った。(『礼記』礼器疏所引)

 

 次に、『古文尚書』については、藤堂氏は以下の資料を掲げています。

『鄭志』(『礼記』檀弓下疏引)

 張逸問「書注曰書説、書説何書也」。荅曰「尚書緯也。當為注時、時在文網中、嫌引祕書、故諸所牽圖讖、皆謂之説。」

 張逸は「先生の『書』の注に「書説」とありますが、この「書説」とは何の本のことですか」と質問した。鄭玄は「これは『尚書緯』のことだ。注釈を書いていた頃は、ちょうど文網(党錮の禁)の時で、秘書(宮中に秘された図書)を引用するのは憚られたので、諸々の引用した緯書はいずれも「説」と称した」と答えた。

 ちなみに、上の文章の「秘書を引用することが憚られた」とは意味が分かりにくいですが、池田秀三氏は、党錮に処せられた身で未来予知の内容を含む緯書を用いることが憚られたということではないか、と述べています。緯書には王朝交代を含む未来予知に関わる内容がありますから、敏感な時期には用いるのが躊躇われるのでしょう。

 ここから、党錮の禁の時に『尚書』注は書かれたということになり、先ほど挙げた三つの注釈の中では、早い方に位置することになります。

 ただ、この推理にも気になる点があります。というのも、冒頭の「注曰書説」は、『礼記正義』の原文では、「注曰書説」になっているのです。これを、袁氏の説に基づいて、藤堂先生は「注」に改め、『尚書』注の執筆時期の証拠としているのです。

 袁氏がなぜ改めるのかというと、三礼注には実際には「書説」からの引用がないため、これは『尚書』注の話なのではないか、と考えたからです。ただ、三礼には例えば「易説」など、緯書を「説」という言葉で引くこと自体はよくありますし、疏の引用者もこれをあくまで『礼記』に関係する『鄭志』の条として引いていることは確かです。よって、これを『尚書』の話に改めてしまうのは行き過ぎではないかと思いますが、いかがでしょう。

 ここで、『尚書』注の執筆時期を特定し得る他の証拠があればよいのですが、藤堂氏は挙げていません。上の「古文尚書、毛詩、論語」が執筆順と考えれば証拠になりますが、既に「毛詩、論語」の順番はひっくり返りましたから、信憑性は今一つというところです。

 なお、三礼注の執筆時期が党錮の時期に当たることは、前回述べたように他の資料があるので問題ありません。

 

 ここで考証が進む可能性があるとすれば、鄭玄の『尚書』注の中身からの論定ということになります。『尚書緯』と『尚書中候』の注釈は初期のものということでよいですが、ここに『尚書大伝』注も絡んでくるので状況は複雑です。

 鄭玄と『尚書』の関係については、間嶋潤一氏の研究が詳細で示唆に富むのですが、藤堂氏の執筆順の結論に関しては前提として受け入れているので、この点についての考察はあまりないように思います。

(棋客)

鄭玄が注を書いた順序(1)

 藤堂明保「鄭玄研究」(蜂屋邦夫編『儀礼士昏疏』汲古書院、1986)は、鄭玄についての古典的な研究です。後篇第四章が闕文になっているのですが、それでも今なお鄭玄研究の第一に挙げられる基礎的な論文といえます。

 この論文には、鄭玄の生涯、また社会的背景を辿りつつ、その各経書への注釈の特徴などが論じられていますが、特に重要なのは、鄭玄が経書に注釈を附した順番を以下のように想定する点にあります。

  1. 緯書注、六藝論
  2. 三禮注(周禮→儀禮→禮記)、駁五経異議、箴膏肓など三篇
  3. 古文尚書
  4. 論語
  5. 毛詩箋、詩譜
  6. 周易

 以下、池田秀三「緯書鄭氏学研究序説」(『哲学研究』47(6)、p787-815、1983)、「鄭學の特質」(『兩漢における易と三禮』汲古書院、2006)あたりも参考にしながら、順番に考えていきましょう。

 

 上に挙げた執筆順は、それぞれ別の根拠に基づいているので、一筋縄で論じられるわけではありません。そもそも『後漢書』鄭玄伝から、はっきり著作した時期が分かるのは『発墨守』などの三篇のみです(党錮の禁に遭った頃、何休と論争した話があります)。しかし、これ以外は正史の列伝を見ても全く分からないので、他の方法で見分けていくしかありません。

 例えば、緯書注が最初期とされる根拠は、以下の記述からです。

『続漢志』百官志、劉昭注

 康成淵博、自注『中候』、裁及注『禮』。

(訳)鄭玄の学は該博であり、『尚書中候』に注してから、ようやく『礼』に注した。

 これが何の資料に基づくのかは不明ですが、劉昭(梁)の頃は『鄭玄別伝』といった資料がまだ存在していますから、一応信頼できると考えておきましょう。

 ここには『尚書中候』しか出てきていませんが、他の緯書注も同時期と考えてよいとされています。鄭玄が若いころから緯書や術数学に精通していたという話は、鄭玄伝に明文がありますし、鄭玄の注釈を見ていても明らかです。

 

 次は『六藝論』です。『六藝論』は、鄭玄の注釈の総序、序説とでもいうべき著作で、鄭玄が自分で自分の学問の概説を述べた書です。この著作の執筆時期については意見が分かれており、最初期とするものと最晩年にするものとがあります。

 晩年とする根拠は、この中で鄭玄が『毛詩』に言及しているが、鄭玄が『毛詩』を知ったのは晩年のことであるはずだから、というものです。内容が全体を総括する色彩をもっていることからも、晩年の著というイメージが出てくるのでしょうか。

 最初期とする直接の根拠は以下の太字部分です。

『公羊注疏』何休序、疏

 何氏本者作『墨守』以距敵長義以強義、為『癈疾』以難『穀梁』、造『膏肓』以短『左氏』、蓋在注傳之前、猶鄭君先作『六藝論』訖、然後注書

(太字訳)鄭玄は先に『六藝論』を作り終わってから、その後に他の書物に注した。

  下線を引いたところがよく読めず、阮元校勘記でも色々と議論されているのですが、今は置いておきましょう。とにかく『公羊疏』は、何休が公羊注を書く前に『墨守』などを著していたのではないかと推測し、これを鄭玄が先に『六藝論』を書き、後に書(この場合は普通名詞でしょう)に注釈を附したことになぞらえています。

 同じく、この情報が何の資料に基づくのかは不明なのですが、『公羊疏』も古いものですから、信頼できると考えておきましょう。

 これに加えて、皮錫瑞は、鄭玄が初期に今文学を学び、徐々に古文学を取り入れたと考えるので、『六藝論』が今文説を多く取り、緯書をよく引用することから、初期の作であると結論付けています。今文説・古文説の話は置いておくにしても、『六藝論』の内容はほとんどが緯書の引用からなり、それによって経書の成り立ちを総論している書であることは確かです。よって、上の緯書注の制作と同時期であったとすると納得できます(池田秀三「緯書鄭氏学研究序説」を参照)。

 ここから、藤堂氏・池田氏は、六藝論は最初期のものであるが、一部は晩年に増補された、としています。

 

 さて、三禮以下の執筆順については、以下の記述が大きな考証材料になっています。

『唐會要』卷七十七、劉子元上孝經註議

 鄭自序云「遭黨錮之事、逃難注禮、至黨錮事解、注『古文尚書』、『毛詩』、『論語』。爲袁譚所逼、來至元城、乃注『周易』。

(訳)鄭玄の「自序」に「党錮の禁に遭って、難から逃れて『礼』に注した。党錮が解けて、『古文尚書』『毛詩』『論語』に注した。袁譚に迫られて、元誠に行き、ようやく『周易』に注した」という。

 『文苑英華』にも「孝經老子注易傳議」として引かれています。『孝経注疏』の引く文章には「注禮」の二字がありません。

 この文章は、劉知幾が今文『孝経』鄭注に反対する十二の条のうち、最初の一つに引かれている根拠です。劉知幾を経由したこの引用以外に、この文章は見えません。今回の私の疑問は、この「鄭自序」とはどういう本なのか? というものです。過去の議論は基本的にこの記述をそのまま信用しており、それ以上の議論が見当たりません。

 文章の内容から素直に考えると、『周易』の自序なのかな、という感じですが、そういう理解で良いのでしょうか。ただ、鄭玄が自分で書いたものと考えると、少々引っ掛かる点があるのも事実です。

 というのも、『後漢書』鄭玄伝の最後に、

後漢書』鄭玄伝

 時袁紹曹操相拒於官度,令其子譚遣使逼玄隨軍。不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒,年七十四。

 と記されており、先の「爲袁譚所逼、來至元城」と内容は確かに符合します。しかし、鄭玄が自分で「爲袁譚所逼」と書くものでしょうか。当時の最有力者の子である袁譚の名を直言し、かつ「所逼」などと書いてよいものかどうか、気になります。『後漢書』鄭玄伝に「不得已」とあることから、鄭玄が袁譚に応じたのが「所逼」であったのは事実でしょうが、鄭玄が自分でこう書くとは考えにくいようにも思えます。

 もう一つの疑問は、「載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒」という有様であった鄭玄が、この時期に『周易注』や「自序」を書けるものだろうか、という疑問。まあ、これは前々から書いていて完成したのがこの時、と考えればいいでしょうか。

 個人的には、「遭黨錮之事、逃難注禮」や「爲袁譚所逼、來至元城、乃注周易」という文に、『後漢書』鄭玄伝を題材にしながらも、いわゆる「発憤著書」のイメージで味付けされた創作の香りがするのですが、皆さんはいかがでしょう。

 ただ、いろいろ議論したところで、数少ない資料である「鄭自序」の引用は、結局参考にせざるを得ないのも確かです。

 

 最後に、これは細かな揚げ足取りですが、池田秀三「緯書鄭氏学研究序説」では、「自注中候、裁及注禮」と、「遭黨錮之事、逃難注禮」を組み合わせて、緯書注の執筆は党錮の禁以前とします(p.64)。ただ、この二つの記述から、緯書注の執筆は党錮以前であるとは言い切れないのではないでしょうか。党錮の禁→緯書注→三禮注という可能性は否定しきれないかと思います。

 

  さて、「著作の順番」と一言でいうのは簡単ですが、実際には「これで完成」という絶対的なタイミングは存在するものではなく、後から何度も書き直されるものであるはずです。『六藝論』はその一例ですが、他の著作も同様で、集中的に書かれた時期はあるのでしょうが、その後に各説の修正は不断になされているはずです。

 また、『鄭志』を見ると、弟子の質問によって鄭玄説の矛盾が明らかになり、鄭玄が苦労して説明している例もよく見受けられます。学者や弟子との対話の中で、誤りを発見し後から修正することもあったはずです。結局、「著作の順番」というのは緩やかな括りで考えなければならないことも、忘れてはいけません。

 とはいえ、こうした考察が無意味というわけでもありません。「中心的に書いたのはこの時期」という想定を頭に置いておくことによって、鄭注を読んでいてぶつかった疑問が解けることもあるのです。

 

 今週は初期の著作だけを取り上げました。次回に続きます。

 

 ちなみに、鄭玄の著作の執筆順について整理した内容は、最近更新しているnoteの『鄭玄から学ぶ中国古典』の後篇・第二章に載せています。宣伝がてら、貼り付けておきますので、ぜひご覧ください。

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(棋客)

「達而録」note、始動!

 先日、「達而録」のnoteを開設いたしました!

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 「note」とは、作者が文章・漫画・写真などを投稿し、読者はそのコンテンツを楽しみながら支援することができる場所です。最近は、私の知り合いでもnoteに記事を投稿する人が増えており、学術的な内容を含むものも増えている印象があります。はてなブログほど高機能なわけではないですが、広告がなく見やすいレイアウトは魅力的ですし、気軽に金銭的な支援をできる/受けられるのも大きな要素です。

 「達而録」noteには、「新たな学びに興味を持っている方に、最初の入り口を提供する」記事を載せてまいります。レベルとしては「入門」で、多くの方に無理なく読んでいただけるものですが、「簡単なことだけ」を伝えるのではなく、「難しいことを、かみ砕いて分かりやすく」伝えることに重点を置いていていきたいと考えています。

 

 早速、先日から、『鄭玄から学ぶ中国古典』というシリーズを更新し始めました。ひと月の間、月・水・金の週三回更新しますので、楽しみにお待ちください。

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 これは、本ブログでも何度も取り上げている「鄭玄」の生涯とその学問について、一から振り返りながら詳しく解説したシリーズです。

 書き上げるのに三か月ぐらいかかり、本の購入・遠方への図書調査もしましたので、売り物にしてもバチは当たらないかと思い、全文読むためには少々ご支援を頂くことにいたしました。もしよろしければ、購入して応援頂けると嬉しいです。

 誰でも読みやすいように書いたつもりですが、後半の途中あたりからはどうしても難しくなってしまったかもしれません。考えるための道具はだいたい説明しているので、もしよろしければ、時間を掛けてゆっくり読んでみてください。

 

 なお、本ブログ「達而録」の活動方針が大きく変わるというわけではありません。あくまでこのブログの更新を主とし、これまで通り、こちらに専門的な記事・読書紹介記事を載せてまいります。noteの方は、時間をかけて書いた作品を発表するイメージで使います。過去本ブログに載せた連載記事を、分かりやすく整理してnoteにアップする、という使い方も考えています。

 

 ちなみに、他の方のnoteのおすすめ記事として、以下のシリーズを挙げておきます。たいへん興味深い内容ですので、ぜひ読んでみてください。

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