達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

鄭玄が注を書いた順序(3)

 前回の続きです。藤堂明保「鄭玄研究」(蜂屋邦夫編『儀礼士昏疏』汲古書院、1986)から、鄭玄の著作の執筆順を考えていきましょう。

 残された疑問は、『周礼』『儀礼』『礼記』の三礼注がどの順番で成立したのか、というものです。三礼注が党錮の禁に坐していた時に書かれたことは数種の資料から確かめられますが、そのそれぞれの順番を伝える記録は何もありません。

 ということは、三礼注の中身を見て判断するしかないわけです。中身で判断すると一言に言っても、三礼注の中に直接書いた年代や当時の周辺情報が書かれているわけではありません。

 そこで藤堂氏は、各書の間での引用関係に目をつけ、その順番を考察しました。

①『礼記』月令、孟冬
〔経文〕是月也、命大史、龜筴占兆、審卦吉凶。
〔鄭注〕今月令曰「釁祠」、「祠」衍字。
(訳)今の『礼記』月令孟冬には「釁祠」とあるが、「祠」は余計な字である

②『周礼』春官宗伯、龜人
〔鄭注〕月令孟冬云「釁祠龜策。」
(訳)『礼記』月令孟冬に「釁祠龜策」とある。

 鄭玄は①『礼記』注で「釁龜筴」が正しく、「釁龜策」は誤りとするにもかかわらず、②『周礼』注では「釁龜策」と引用しています。

③『礼記』内則
〔経文〕麋、鹿、田豕、麕、皆有
〔鄭注〕軒、或為胖。
(訳)「」の字は、異本では「」に作る。

④『周礼』天官冢宰、腊人
〔鄭注〕内則曰「麋、鹿、田豕、麕、皆有胖。」
(訳)『礼記』内則に「麋、鹿、田豕、麕、皆有」とある。

  ③『礼記』注で正本「」、異本「」とするのに、④『周礼』注では「」を引きます。藤堂氏は似た例を十以上挙げ、またこれと逆の現象はほとんど見当たらないとします。

 先に『礼記』のテキストが定まっていたのなら、『周礼』の方でわざわざ他のテキストの字を用いないのではないかと考えられます。特に①,②の場合、『礼記』の経文に衍字があるという結論が先に出ていたなら、わざわざ引用しないでしょう。ここから、『礼記』注より先に『周礼』注を書いたのではないか、と推測できます。

 

 一般に、「文字の異同」に着目して行う推論は、堅い証拠のようにも見えますが、危険なところも多いものです。後漢の鄭玄が注釈を書いてから現在に至るまで長い年月の経過があり、しかも最初の千年近くは手書きで書写されて本が伝えられました。現在われわれが見ている字から、「鄭玄は間違いなくこの字を使っていた」とは言い切れないのです。

 ただ今回の場合、ただの「文字の違い」を見ているというより、「祠は余計な字である」というように鄭注の「内容の違い」を見て推測しているので、推測の強度はやや高いと言えます。

 藤堂氏は、『儀礼』についても数は少ないですが同様の例を出し、さらに他に鄭玄が『礼記』注で他の二つの注釈を補足しているように見える例、学説の変更がある例を出し、三礼注が『周礼』『儀礼』『礼記』の順で成立したと結論付けています。

 

 さて、藤堂氏はここまで見てきた検討から、鄭玄の著作の執筆順を以下のように結論付けます。

  1. 緯書注、六藝論
  2. 三禮注(周禮→儀禮→禮記)、駁五経異議、箴膏肓など三篇
  3. 古文尚書
  4. 論語
  5. 毛詩箋、詩譜
  6. 周易

 鄭玄は、建寧三年(一七〇年)前後から、黄巾の乱の発生により党錮が解かれるまでの間、党錮に坐していました。②はその党錮の禁の時期、③は解けた以後、⑥は最晩年ということになります。

 なお、鄭玄の著作には、他に『尚書大伝』注、『魯禮禘祫志』など多数ありますが、上に挙げたもの以外は不明ということになります。

 

 上の一覧のうち、③古文尚書については、前回の記事で述べたように、ここに置いてよいのか一考の余地はあると思います。また、②駁五経異議も、今文説が多いこと、箴膏肓など三篇と体裁が似ていることからここに置かれているようですが、きちんとした根拠があるとは言えません。

 とはいえ、鄭玄の著作の執筆順について、初めて全面的に精密な調査を行った本研究は、今後も参考にされ続ける論文でしょう。

(棋客)