達而録

ある中国古典研究者の備忘録。毎週火曜日更新。

緊急事態宣言に対する各大学のメッセージ

 先日、二度目の緊急事態宣言が行われました。

 対面授業が再開したり休止したり、テストだけ対面で行ったりやっぱり中止にしたり、何かと振り回されている学生の身としては、自分の大学の学長・総長が学生に対してどんなメッセージを発しているのか、というのは気になるところです。

 そんな中、各大学のメッセージを眺めていると、なかなか興味深いものがありましたので、みなさんと共有したいと思います。

 

 まず、2021年1月12日の同志社大学学長の植木朝子氏のメッセージ(太字強調は筆者による、以下同様)。

 新型コロナウイルス感染者数は増加の一途をたどっており、感染拡大が深刻になっています。世界中で多くの人々が苦しんでおられる現状において、まずは、感染された方、そのご家族、関係者の方々に心よりお見舞い申し上げますとともに、困難な状況下において、社会生活を支えて下さっている方々に、心からの敬意と謝意を表します。

 1月7日に、政府より首都圏の1都3県を対象とした緊急事態宣言が発出されました。また、大阪府京都府兵庫県は国に対し緊急事態宣言の発令を要請しています。この要請を受けて、京阪神の2府1県にも緊急事態宣言が発令される見通しです。しかし、すでに緊急事態宣言が発出された首都圏においても、教育機関に対する休業要請は出されていません。

 教育研究活動は不要不急の事柄ではありません。同志社大学は、秋学期の授業は現状通り続けてまいりますし、秋学期末試験についても、既にお知らせしている通りで変更はありません。もちろん「同志社大学新型コロナウイルス感染症拡大予防のためのガイドライン」に示している通り、発熱等の一定の症状がある場合は、申告により出校停止とし、また基礎疾患や持病がある等、感染した場合に重症化するリスクの高い学生に対しては、通学を強要せず受講・受験機会の確保等の配慮を行うこととしていますので、そのような場合は申し出てください。

 本学ではコロナ禍にあっても、感染症拡大予防に最大限の注意を払い、秋学期の対面授業を進めてきましたが、現在まで、本学構内の授業におけるクラスターの発生はありません。私たちはこの困難な状況下での経験から多くを学び、感染拡大予防と教育研究活動を両立させてきました。学生の皆さんと教職員の不断の努力に敬意を表し、心から感謝いたします。

 引き続き、お一人お一人が基本的な感染予防策を踏まえた適切な行動をとり、自律的に体調管理に努めてくださいますようお願いいたします

学生・教職員の皆様へ~京都府から国への緊急事態宣言の発令要請を受けて~/To Students and Staff - In response to Kyoto Prefecture’s request to the Japanese government to declare a state of emergency -|2020年度の学長からのメッセージ一覧|同志社大学

 

 続いて、上智大学学長の曄道佳明氏(2021年1月7日)。

 新しい年を迎えて早々に、首都圏では新型コロナウイルス感染拡大が止まらず、緊急事態宣言が発出される事態となりました。感染の危険性がより一層身近なものとなり、学生の皆さんも不安を感じていると思います。

 今回の宣言発出を受けて、当面の大学の活動について協議した結果、今学期の授業は予定通り対面とオンラインを併用して継続することとしました。対面授業については、健康上の不安がある場合、オンラインによる受講でも不利益になることはありません。また卒業、修了に向けての実験などの研究活動、それを支える図書館等の施設利用も維持します。本学では入構者の確認、検温、十分な対人距離を確保した教室使用など、感染防止策を講じてきました。今回の緊急事態宣言では教育機関への休校要請等は特に行われないことも踏まえ、引き続き細心の注意を払いながら教育・研究活動を継続する判断をしました。ただし、状況がさらに悪化した場合には、皆さんや教職員の安全確保のため、さらに踏み込んだ措置を取りますので、大学からのお知らせには注意してください。

 他方、課外活動については、残念ながら当面の間、対面での活動は停止をお願いします。学生の皆さんがどれだけ感染防止に気を遣い、工夫をして活動してきたかは十分承知しています。1年生の大学生活を仲間として支えることにも尽力し、さまざまな場面で上智の精神を体現してくれたことに心から敬意と感謝の意を表します。課外活動の制限は不本意ですが、社会の回復に向けた貢献と考え、感染の拡大をくい止めるべく、宣言解除までの間は今後の活動に備えていただきたいと思います。

 社会活動の制限による心理的な不安、経済的な心配ごとなどに対し、緊急事態宣言下でも今まで通り学生センター、カウンセリングセンターは常時皆さんからの相談を受け付けています。キャリアセンターもオンライン相談や多数の動画配信を続けて、皆さんの進路選択を支援していますので、ぜひ活用してください。

 すでにお示ししている通り、2021年度は対面授業を中心とし、一部にオンデマンドの授業を取り入れる方針で準備を進めています。皆さんとご家族の健康が守られ、キャンパスでの活動再開が可能になるよう、何としてもこの感染拡大を鎮静化させ、この局面を乗り越えなければなりません。引き続き自覚を持って行動し、感染を防ぐ努力を怠らないよう、どうぞ各自がその責任を果たしてください。コロナとの付き合いはすぐには終わらないかもしれませんが、私たち自身が持つ力を信じ、困難に直面する世界中の人々とともに乗り越えていきましょう。

(学生の皆さんへ)学長メッセージ ~緊急事態宣言の発令にあたって~ | ニュース | 上智大学 Sophia University

 

 続いて、大阪大学総長の西尾章治郎氏。今回の緊急事態宣言に対するメッセージは特に出されていないようですが、一か月前、「年末年始に向けた感染防止対策のお願い」が出されています。

 今年も残すところあと僅かとなりましたが、2020年は新型コロナウイルス感染症と向き合う一年となりました。新型コロナウイルス感染防止対策について、本学学生・教職員の皆さんの長きにわたるご協力に深く感謝申し上げます。

 新型コロナウイルス感染症は、私たちの日常生活を一変させました。特に、学生の皆さんにおかれては、オンラインによる授業の実施や課外活動への制限、さらには入学式や大学祭の実施見送りなど、学生生活の変化に大きく戸惑われたのではないかと案じています。また、教職員の皆さんにおかれても、こうした変化への対応にひと際ご苦労をなされてきたのではないかと思います。

 このような状況の中、本学では、教育・研究活動への影響が最小限となるように、そして、学生の皆さんの学生生活が充実したものとなるように、できる限り平常時に近い状態で大学活動を行えるよう対応を進めてまいりました。

 そのため、本学では、突発的な感染者の発生は想定しつつも、できる限り感染から身を守り、感染者が出た場合でもそこからの感染拡大を防ぐことに主眼を置いた感染防止対策を実施しているところです。これまで本学においても50人を超える感染者が出ていますが、教育・研究活動においては感染防止対策を適切に実行していただいており、このため、これまで学内で感染拡大を起こしたケースはなく、対策は有効に機能しているものと考えています。

 これから年末年始を迎え、公私においてさまざまな行事が増える時期ではありますが、感染拡大を防ぎ、教育・研究活動の平常化を保つためには、継続的な感染防止対策の徹底が不可欠です。特に、1月中旬には大学入学共通テストが控えており、大学として万全の状態で入試の時期を迎えるには、年末年始の過ごし方が極めて重要になります。

 もとより、大阪府において医療非常事態宣言が発出されたように、このたびの第3波と呼ばれる感染拡大により、全国において医療体制がひっ迫しており、こうした状況を克服するためには、一人ひとりの行動変容が強く求められています。

 つきましては、本学の学生・教職員の皆さんにおかれては、皆さんの命と、皆さんを支えてくれている人々の命を守るため、そして今般の危機的状況を共に乗り越えるために、引き続き、別紙の感染防止対策の徹底にご理解とご協力をいただきますよう、よろしくお願いいたします。

 2021年が幸多き飛躍の一年となりますようお祈り申し上げます。

年末年始に向けた感染防止対策のお願い — 大阪大学

 以上、三つのメッセージを見てきました。どれも、広い視野に立って教職員と学生に寄り添いつつ、改めて協力を要請する内容です。

 たいへん常識的な内容で、読んでいて不快になることもなく、素直に読めば「うんうん、先生たちが大変なのも分かっているよ、一緒に頑張っていこうじゃないか」という気持ちになるのではないでしょうか。また、これらのメッセージを見ると、教職員や学生の頑張りが見え、「どこもなかなかいい大学なんじゃない?」という印象を受けます。

 

 一方、京都大学の総長である湊長博氏の2021年1月12日のメッセージが以下です。湊氏のメッセージはこれが初めてのもので、かつ以下の文章が全文です。

 昨年末から首都圏における新型コロナウイルス感染症が急速に拡大し、現在では関西圏にも拡大波及しています。コロナウイルスは極めて感染性の高いウイルスであり、主な感染経路は経口飛沫感染です。従って、感染防止の基本は、不織布マスクをはずした状態での第三者との近距離での会話や食事(会食)を避けることに尽きます。これは相手が誰であるか、どのようなシチュエーションであるか、昼か夜か、を問いません。ウイルスに言い訳は通用しません。もし皆さんが感染した場合には、たとえ皆さん自身は無症状や軽症であったとしても感染拡大の起点になり、高リスクの人々に深刻な病気をもたらす危険性があることを強く肝に銘じて下さい。今上記の基本を忠実に守った生活を送ることが、少しでも早く本来の自由で活発な大学生活を取り戻すための必須条件です。皆さんの、京大生としての良識と自覚を信頼しています

(PDF直リンク:https://www.kyoto-u.ac.jp/sites/default/files/inline-files/kinkyu-message-210112-f8b51b9d1288c1a6cc057eb39bfbfa53.pdf

 教職員・学生への理解を示すでもなく、今後の方針を示すでもなく、ただ学生に注意をするだけで終わり。しかも、学生側は感染を引き起こす加害者としてのみ扱われています。

 湊氏は10月に新たに着任した総長ですから、全体の総長メッセージの方に詳しく言及があるのかと思いましたが、「昨今の新型コロナウイルスに代表される感染症の拡大…」という一文があるだけです。→湊長博総長からのメッセージ | 京都大学

 むろん、メッセージなどは形だけのもので、実際にどのような対策を行い、学生支援を行っているか、というのが重要な点ではあります。しかし、総長の態度・メッセージというのは、その大学全体の態度を示すものとして第一に参照にされ得るものです。このメッセージでは、学生だけでなく、学生に寄り添いながら感染予防に協力してきた他の京大教職員の方々まで、外部から誤解を受けてしまいます。もう少し慎重なメッセージを書けなかったものか、と思ってしまいます。

 さて、もしかすると、「第三者との近距離での会話や食事を避ける」「昼か夜か、を問いません」という一文は、湊氏なりの微言大義春秋の筆法であり、京大生に向けたメッセージに見せかけて、実は湊氏は政府批判をしていたのかもしれません。一見でそこまで読み取れなかったのは、私の不徳の致すところです(冗談です)。

 

 こうなると、東京大学のメッセージが気になりますが、今回の緊急事態宣言に対するメッセージは特に出ていないようです。代わりに、2020年6月1日に東京大学総長の五神真氏による「“With-Corona” “Post-Corona”の新しい大学の創造に向けて」というメッセージがあります。→新型コロナウイルス感染症に関連する対応について 総長メッセージ | 東京大学

 

 また、同じく緊急事態宣言が出された福岡の九州大学も、同様に今回の緊急事態宣言に対する総長のメッセージは現時点で特に出されていないようです。その代わりに、「新型コロナウイルス特設ページ」がオープンしています。

www.kyushu-u.ac.jp 

 内容を見たところ、上に挙げた各大学の特設ページに比較すると、けた違いで充実しています。ここに示される対策や方針、感染時の対応は、九大関係者に限らず、多くの組織で流用できるのではないでしょうか。こうした「知の提供」の方法もあるのだと、感心いたしました。

 むろん、見た目だけが大事というわけではありませんが、ちょっと京大と見比べてみてくださいよ(棒)新型コロナウイルス感染症への対応 | 京都大学

(棋客)

新年のご挨拶

 遅れましたが、明けましておめでとうございます。

 昨年は、コロナの猛威を目の当たりにし、家で読書を楽しめる心を持つことの素晴らしさを改めて実感した一年でした。願わくば多くの方に、(本ブログの「読書案内」のカテゴリーから本を探し、)気軽に古典に触れていただきたいと思います。

 週一回更新というのはなかなか大変なもので、最近は専門的な記事をあまり書けておりません。とあるブログで、「毎週不断に続けている達而録はいったい何者なのかと思うようになってきた」というお褒めの言葉をいただきました。私の場合、長い記事を分断して一か月分にしていたりするので、実は毎週更新というほどの内容ではないのですが、気づいていただいて嬉しいものです。ただ、最近は別の作業で少し忙しいので、しばらくは読書案内型の気楽な放言記事が続くかと思います。

 

 さて、ブログを開設してから二年半ほどの間に、161本の記事を書いていたようです。過去の記事を見返してみると、なかなか面白いものもありますが、内容に誤りがあるものや、文章が読みにくい記事も多いと感じます。また、たいへん恐縮ながら、他の先生方に言及いただく機会が増え、ちょっとしたプレッシャーも感じております。とはいえ、今後も「難しいものを分かりやすく」という基本方針は変えずに執筆していく予定です。

 なお、本ブログにおいては、内容を書き直す場合や追加する場合は、【〇年〇月〇日追記】という形で書き足すようにしています。コメント欄やTwitterなどで情報提供をいただいた場合は、その旨も合わせて記載しています。但し、内容の主旨が変わらない変更(誤字脱字の修正、読みにくい文章の書き直し)は、特に断っていませんのでご留意ください。 

 

 ↓橋本秀美先生の連載、世事と古典に触れながら思索を深めていく、たいへん刺激的な記事になっています。ウェブ雑誌「Mercure des Arts」に載っていて、下から読めます。おすすめです。

mercuredesarts.com

小徐本「祁寯藻本」についての記事の訂正

 先日、木津祐子先生の論文京都大学蔵王筠校祁寯藻刻『説文解字繫伝』四十巻について」(『汲古』78号、p.21-28、2020-12)に、本ブログへの言及があると知り合いに教えていただき、驚きでひっくり返りました。確認してみると、筆者が以前書いた記事の誤謬をご指摘いただいており大変お恥ずかしいですが、論文で言及していただいて嬉しい限りです。 ※雑誌『汲古』バックナンバーのページ

 このような事情から、今回は以前の記事の訂正になります。また、最近新たに公開された『説文』の版本や研究もありますので、ここで合わせてご紹介いたします。

 

 本ブログでは、しばしば『説文解字』の版本について整理をおこなってきました。→ 「『説文解字』公開画像データ一覧【改】 - 達而録」など

 その中で、『説文解字』の小徐本(説文解字繫伝)の代表的な版本の一つである「祁寯藻本」について、人文研・京大文学部図書館に蔵されている版本の種類を調べて載せておりました。→『説文解字』小徐本「祁寯藻本」について - 達而録

 ところが、この記事の調査結果に誤りがあり、木津先生の論文でこの点をご指摘いただいています。以下でご説明します。

 


 

 「祁寯藻本」は道光十九年に刻された刊本ですが、その後に何度も修補を経ており、印刷時期によって微妙に、また大きく字句が異なります。郭立暄『中國古籍原刻翻刻與初印後印研究』(中西書局、2015)では、これを印刷順に初印甲本、初印乙本、初印丙本、初印丁本、後印甲本、後印乙本、後印丙本に分別しています(それぞれの相違は以前の記事を参照)。

 そこで、人文研・京大文学部図書館の『説文解字繫伝』のA本(人文科学研究所図書館 東方 經-X-2-15)、B本(人文科学研究所図書館 東方 經-X-2-16)、C本(文学研究科図書館 中文 A Xg 4-2)がどれに当てはまるのか調べたのが以前の記事です。

 

 以前の記事では、A.初印丙本、B.後印丙本、C.初印乙本としていましたが、このうちC本が誤りで、正しくはC.初印甲本です。つまり、もう一段遡る、最初期の版本だったということになります。

 また、完全に書き忘れていたのですが、さらにD本(文学研究科図書館 中文 A Xg 4-3)が存在し、これは後印丙本に当たります。

 以上、謹んで訂正いたします。木津先生、ありがとうございました。

 

 木津先生の論文の内容は多方面に亘っていますが、その中の一つに、上の二種の後印丙本(BとD)が、実は他の後印丙本と異なる特徴を持ち、郭氏のいう「後印丙本」は更に二分されると指摘するところがあります。BとDは、後印丙本の中でも更に新しい時期に印刷された本ということになるようです。

 以前の記事で、私が行った作業は郭氏の作った異同表をもとに確認しただけで、実は郭氏の分類ではどこにも入らない新種の印本という可能性もあると無責任に書いていましたが、本当にそうだったとは思いもよりませんでした。これを確かめるためには全ての字句を細かく確認せねばなりませんから、当たり前ですがたいへんな作業が必要です。

 また、続稿にて、顧千里の『説文』校勘に関する議論が取り上げられるということで、こちらも楽しみにしております。(ちなみに本ブログでも、顧千里と段玉裁の論争を紹介したことがあります。→顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁(1)

 


 

 続いて、最近のニュースです。まず、上に紹介したB本は、昨年の七月ごろ、人文研の「東方學デジタル圖書館」にて画像公開されています。→說文解字繫傳 四十卷 坿 校勘記 三卷

 さらに、問題となったC本が、去年の十月ごろ、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブにて画像公開されています。→説文解字繋傳 40卷 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 

 ブログで扱った直後に貴重な版本が立て続けに公開されて、これまた嬉しい限りです。もともと祁寯藻本の公開画像はほとんど皆無でしたので、大きな価値があると言えます。

 祁寯藻本の「初印本」と「後印本」の間で校勘記が付け加わり、その後も更に多くの修正がなされました。同じ版本ですから見た目はそっくりなのですが、細かく見てみると字句の修正が入っているのは面白いものです。上の二種の画像公開により、図らずも、祁寯藻本「初印本の中でも最初期の本(C)」「後印本の中でも最末期の本(B,D)」が揃ったということになります。興味のある方は、ぜひ眺めてみてください。

 


 

 さて、『説文』の版本研究は近年非常に盛んで、こうして新たな画像公開も進んでいるほか、論文も多数発表されています。そのうち、鈴木俊哉先生に教えていただいた董婧宸先生「毛氏汲古閣本《説文解字》版本源流考」(『文史』、2020-08-01、CNKI)にはたいへん啓発を受けました。

 まだ内容を消化しきれていませんが、汲古閣本の前後の版本状況を図版とともに詳細に整理し、また近年の中国・日本の研究を丁寧に踏まえながら、全面的な記述がなされています。以前、高橋由利子先生が疑問を提起していた版本の正体を明かしている部分もあります。また、末尾には汲古閣本関係の版本全体の系統図も示されています。汲古閣本に関する決定版の研究の一つと言えるのではないでしょうか。

 特に、汲古閣本の源流に迫る部分について、簡単な要約を以下に示しておきます。

 

 汲古閣本の祖は、趙均(1591-1640)の抄本です。これは、当時通行していた李燾『説文解字五音韻譜』明刊本と、趙宦光(1559-1625)旧蔵の宋本『説文解字を基礎として作られました。趙均抄本は、篆文と正文は『五音韻譜』明刊本(当時の通行本)を用いており、これを宋本『説文』の配列を参考にしながら切り貼りすることによって、作られたものでした。つまり、これは摩耗が大きかった趙宦光蔵の宋本『説文』を、通行本『五音韻譜』を使って作り変えたものだったようです。

 これまで、趙均抄本は宋刊大字本をもとにしていると考えられることが多かったようですが、むしろその篆文や字句は、『五音韻譜』明刊本に拠るものであったということになります。(このこと自体は、本論文以前から指摘があったようですが、ここでより詳細な考証がなされています。)

 汲古閣本は、この趙均抄本を底本とし、毛晋(1599-1659)と毛扆(1640-1713)の手によって制作されました。この間に何度も修補がなされながら印刷が試みられ、最終的に第五次修改本によって完成しました。その修正の過程を追うのは容易ではありませんが、材料がある以上は不可能というわけではありません。

 董氏は、汲古閣本を毛試印本、毛初印本、毛剜改本などに分別し、それぞれの修補において主に用いられた材料を事細かに論証しています。大雑把に言えば、汲古閣本は例の趙均抄本によって基礎が作られ、その上に宋本『説文』、宋本『繫傳』による修正を加え、更に『玉篇』『広韻』『類篇』など多数の書籍の『説文』引文をもとに細かな修正を加えて作られています。

 清儒たちはよく、『五音韻譜』による『説文』改編を、『説文』の原貌を失わせたものであるとして深く嘆いています。しかし、汲古閣本を辿ると結局『五音韻譜』(しかも明刊本)の再配列本にたどり着くというのは、なんとも皮肉な結果です。

 こうなってくると、最初に紹介した 「『説文解字』公開画像データ一覧【改】 - 達而録」 も、更に改訂版を作らなければならないことになりますね。苦笑

 


 

 汲古閣本にせよ、祁寯藻本にせよ、これだけ版本が豊富に残っていると、奥深い研究ができるものですね。版本研究はどうしても現物を相手にせねばならないものですから、現物が残っていなければどうしようもない分野です。また、『説文』では文字の出入だけではなく、篆字の形の相違など注目できるポイントが多い上に、基準となる宋本が現存しています。他に、清朝考証学者はどの段階の版本を用いていたのか、といった方向の研究も可能でしょう。私は専門というわけでは全くありませんが、このように材料が豊かな状況を考えると、『説文』は版本研究として理想的なフィールドの一つなのかもしれません。

 末尾になりますが、実は以前、鈴木俊哉先生に謝辞で本ブログに言及していただいたこともありました。本ブログを取り上げていただいた木津先生、鈴木先生に改めて感謝申し上げます。(この訂正記事でまた誤りを重ねていないか、不安で仕方がないですが…)

(棋客)

大学院生が好きな小説・五選

 気分転換に、好きな小説を語るのもいいのではないかと思い立ちました。「大学院生が好きな」とかいうとんでもなく大風呂敷を広げたタイトルがついていますが、完全に私の独断と偏見によります。

 基準としては、物語としての豊饒さ、エンターテインメント性に優れていると同時に、研究・歴史・文学といった学問的な営為、そして「物語を語るとはどういうことだろう」ということを考えさせてくれるような作品をピックアップしています。

 以下、さも小説を読みまくっているかのような口調で解説していますが、実は全くの素人です!

 

グレアム・スウィフト 『ウォーターランド』(真野泰訳)

 ある歴史教師が、生徒に対する最終講義として、その街と土地の歴史、一族の歴史、そして彼自身の歴史を語る物語。地史であり、自然科学史であり、また殺人ミステリーでもあります。彼は歴史を語るうちに、歴史とは何か、なぜ歴史を語るのか、どうして物語が紡がれるのか、そんな考えを深めていきます。

 というわけで、私は私の科目を引き受け、背に負った。というわけで、私は歴史を―手あかのついた広い世界の歴史ばかりでなく、わがフェンズの祖先たちの歴史も、というよりはこちらをとりわけ熱心に、調べはじめた。というわけで、私は歴史に〈説明〉を求めるようになった。しかし、ひたむきに探究するうちに、最初に抱えていたよりもかえって多くの、神秘や怪奇、不思議、驚愕の種を発見することとなり、四十年ののちには―自分が選んだ学問分野の有用であること、その教育に資するところ大であることを信じて疑わぬにかかわらず―歴史は一つのお話であるという結論に達することとなる。そして、私がずっと手に入れようとしていたのは、歴史が最後の最後に差しだす金塊のごときものではなく、〈歴史〉そのもの、つまり〈偉大なる物語〉、空虚を満たす埋草、暗闇に対する恐怖心を追い払ってくれるもの、だったのではないだろうか?(p.93-94)

 接続詞の多用が心地よいリズムを生み出しています。彼の歴史の授業は、一方的な語り掛けではなく、プレイスというクラスの優等生にして問題児の野次や問いかけを通して、その相互の関係の中でより充実し、ドラマチックな展開を迎えます。

 彼の最終講義は一風変わったもので、以下のように語りかけが始めります。彼らが住む「フェンズ」(イングランド東部沿岸の平野)は、かつては水の広がっていた土地(ウォーターランド)であり、これを干拓することからその歴史が始まりました。彼は干拓にかかる困難、利益と弊害、そして干拓地であることと今日のフェンズの関係などを述べ、こうまとめます。

 だから歴史に出てくる革命とか転換期だとか大変化、そんなものは忘れてしまってほしい。代わりに考えてほしいのは、干拓という、多大の時間と労力を要するプロセスのこと。沈泥作用の人間版ともいうべき、いつ果てるともない、あいまいなプロセスのことである。(p.22)

 全てを飲み込む雄大な自然と、そこで働くちっぽけな人間一人一人の動きが語られます。歴史とは誰のための歴史で、誰を語ることが歴史なのでしょうか。またある授業では、代々の人間の研究によって明かされた自然の謎(ウナギの生殖について)が説明されます。自然科学の探求であり、また未知なるものを探検する人間の歴史でもあります。

 ここで紡がれた豊饒な物語は、到底語り切れません。ぜひ、手に取って読んでみて下さい。同じ作者の『マザリング・サンデー』もおすすめです。

 

劉慈欣『三体』(立原透耶監修、大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳)

 言わずと知れた、今まさに話題沸騰中の中国SF。Amazonの商品の宣伝コメントには、ジェームズ・キャメロンバラク・オバママーク・ザッカーバーグだの錚々たる顔ぶれが並んでいます。

 もちろん、日本でも大ヒット中です。この作品が日本でも売れたということに、不思議な嬉しさを覚えます。私は中国語版・日本語版を両方読みましたが、翻訳版も非常によい出来栄えであると思います。

「まもなくわかる、すべての人間が知ることになる。汪教授、これまでに、人生が一変するような経験をしたことは?その出来事からあと、世界がそれまでとは全く違う場所になってしまうような経験」

「いいえ」

「では、先生のこれまでの人生は幸運だったわけだ。世界には予測不可能な要素があふれているのに、一度も危機に直面しなかったのだから」

(略)「たいていの人はそうじゃないでしょうか」

「では、たいていの人の人生も幸運だった」

「でも…何世代にもわたって、人間はそんなふうに生きてきた」

「みんな、幸運だった」

(略)「今日の私はどうも頭がまわらないらしい。つまりそれは……」

「そう、人類の歴史全体が幸運だった。石器時代から現在まで、本物の危機は一度も訪れなかった。われわれは運がよかった。しかし、幸運にはいつか終わりが来る。はっきり言えば、もう終わってしまったのです。われわれは、覚悟しなければならない」(p.71-72)

 終始ドラマチックで、特に「三体」のゲームをめぐる展開は秀逸というほかありません。

 さて、的外れなことを言っているかもしれませんが、翻訳小説はSFの強みがよく出るように感じます。SFは設定とストーリー展開がまず重要ですから、翻訳によってその言語独特の文学的表現・含蓄とやらが(ある程度)失われても、その本来の魅力が損なわれにくいと思うのです。しかも、劉慈欣氏の作品はもともとそういう要素が薄いですから、逆に言語を越えて広く受け入れられやすいのではないでしょうか。

 …って、「SFは文学ではない」とかいう筒井康隆の『大いなる助走』みたいな話になってきましたが、そういうことが言いたいわけではありません。

 

円城塔『文字渦』

 現代日本のSFから、いやSFなのかよく分かりませんが、そういうジャンル付けを拒否するような円城塔の作品も、色々な方に味わってほしいものです。これについては以前記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp

 円城塔の作品も、英訳は当然として、中国語訳もちらほら出始めています。もっとも、ルビや漢字を使って遊んでいる作品などは、到底翻訳できない気もしますが…。

 

ボルヘス『伝奇集』(鼓直訳)

 「大学院生が~」なんてタイトルをつけてしまったせいで、徐々に無難に「名著」と呼ばれるものを紹介しとこうか、という気になってくるのは困りものです。これも引用付きで紹介したいのですが、引っ越しの際に友人邸に預けたままになってしまいました。

 ボルヘスは序文で、長編になりそうなアイデアから実際に長編を書くのは面倒であるから、そういう長編の本が既に存在することにして、その本に対するブックレビューを書いて作品とすればよいので、といったことを書いています。(そして、実際にそうして書かれた短編が収録されています。)

 人によって印象に残る作品は異なるでしょうが、私はやっぱり「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」が大好きですね。何度読み返したか分かりません。どういう内容なのか、少し紹介してみます。

 

 では、ちょっと思考実験をしてみてください。ここにある「文章」があって、その意味内容が何なのか考えているとしましょう。「文章」には必ず「書き手」がいますね。この「文章」を通して、「書き手」が「読み手」に伝えたいこと(その意味内容)を伝達する、という状況です。

 ということは、まずはこの「文章」が変われば、当然その「意味内容」は変わってきます。では「文章」が同じなら「意味内容」が不変というと、そう単純ではありません。「文章」が同じでも、「読み手」が変わった場合、その読み取り方は究極的には人それぞれですから、「意味内容」は変化します。(同じ『論語』の文章であっても、漢代の鄭玄、宋代の朱熹、現代の日本人、によって読み取られた内容は多種多様ですね。)

 では、最後の実験です。仮に「文章」と「読み手」は同じまま、「書き手」だけが変化した場合、どうなるでしょうか。というより、そもそも「書き手」だけが変化するとは、どういう状況でしょうか。まずボルヘスは、「文章」と「読み手」は同じまま、「書き手」だけが変わる、というシチュエーションを上手く作り上げます。そして、「書き手」が変わった場合、その読解が変化し、意味内容が変化することを見事に示しています。

 この現象自体は、あちこちで見受けられるものです。同じ発言でも、AさんがするのとBさんがするのとでは何か違う、というのは皆さんも感じたことがあるでしょう。中国古典で言えば、孔子を「誇り高き理想主義者」として見るか、「虚勢を張った悲劇の田舎人」として見るかによって、『論語』の読解が変わってくる現象なんかを思い浮かべればいいでしょうか。

 ボルヘスの「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」は、この現象を鮮やかに描写し、一丁上がり!と人を感嘆せしめる作品です。

 

 ちなみに中国の教科書には「八岐の園」が載っているそうです。これは物語の主人公が中国人だからということですが、これを教育現場でどのように読んでいるのか、全く想像がつきません。

 より読みやすいものから入りたい方には、ボルヘスの晩年の語りを記録した『七つの夜』 がおススメです。そういえば、円城塔の小説でも相当にボルヘスが意識されていますから、先にボルヘスを読んだ方がよいかもしれませんね。

 

村上龍『五分後の世界』

 日本があの戦争で降伏せず、戦い続けている世界線、そのパラレルワールドに飛ばされた主人公の格闘と羨望を描く作品。色物に見られそうなテーマを、圧倒的なリアリティと社会観から描いて読者を黙らせることに長けた作者の代表作、と言えるのではないでしょうか。

 下は、このパラレルワールドで使われている歴史の教科書の一節です。強烈な刃が隠されているのが分かるでしょう。

 自分の生命を大切にしない人間が、他の人間の生命を大切に思うことはできません。それでは、なぜ当時の日本人は、生命を大切にしなかったのでしょう。また、なぜそれほどまでに「無知」だったのでしょう。 

 それは、それまで本当の民族的な危機というものを体験したことがなかったからです。まわりを海で守られていたために、他の民族と戦うことがなかったので、他の民族や国を理解することがいかに大切か学ぶことができませんでした。そして、生命というものはそれを積極的にそんちょうしなければ守れないものだということも学ぶことはできませんでした。

 もし、本土決戦を行わずに、沖縄をぎせいにしただけで、大日本帝国が降伏していたら、日本人は「無知」のままで、生命をそんちょうできないまま、何も学べなかったかもしれません。 

 このパラレルワールドを理想化するでもなく、また貶めるでもなく、最前線から首脳部まで、上から下までを描き尽くした作品です。同時に、終始スリリングなアクションものでもあり、人々の熱狂と狂乱を描き出す筆致も見事なものです。

 「最後の一文が衝撃」なんていう使い古された宣伝文句に、最もふさわしい作品なのではないでしょうか? ほかに、『半島を出よ』も大好きですが、とても長いのでこちらをおすすめにしました。

 

 みなさん、師走なんて呼ばれる忙しい時期ですが、年末年始に時間を取って、読書に勤しむのもよいのではないでしょうか(^^)。

(棋客)

2020年中国関係の新著案内!

 昨年末、こんな記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp

 

 これの2020年版を執筆しました。(一冊、2年前の本が混じっています)

 コンセプトは同じで、「高い質を備えながらも、初学者でも気軽に読める本」を紹介します。歴史や哲学、中国に興味のある高校生や大学生のみなさま、少し違う世界に目を向けてみたい社会人のみなさま。外出しにくいこのご時世、家で読書なんてのもいいのではないでしょうか!

 

神塚淑子『道教思想10講』(岩波新書、2020)

 研究者の間では、道教の全体像は捉えにくいということがよく言われる。実際、道教という言葉が含む内容は幅広く多様である。道教の経典を見ても、哲学的・教理学的なものから種々の民間信仰的なものに至るまで多彩であり、儒教に近い内容のものもあれば、仏教とよく似た内容のものもある。さまざまな性格が混在していて、一体どこに道教の中心があるのか分からなあくなりそうなこともある。しかし、多様な要素を包み込みつつも、一つのまとまりとして認識されて、道教は存在している。その道教について、思想面に焦点を当てて、そのエッセンスを分かりやすく伝えることが、この講義の狙いである。(p.2)

 難解な道教思想を長年専門に研究されてきた著者が、分かりやすい語り口で書いた道教の入門書。

 中国思想の概説書などでは、道教思想は必ず登場するとはいえ、さらっとした説明で済まされていることが多く、なんだかよく分からないまま等閑にしてしまう、なんてこともあるかと思います(筆者です)。

 講義形式でテーマごとに整理された本シリーズは非常に読みやすく、全く予備知識のない方でも手軽に読むことができます。広くアジア圏の思想に興味のある方、また中国の歴史に興味のある方におすすめいたします。

 

金文京『三国志の世界』(講談社学術文庫、2020)

 二〇〇五年の本が文庫になって再版されたもので、一部修正も加えられています。この「中国の歴史」シリーズは粒ぞろいで、日本で出版されたのちにすぐさま中国語訳が中国で発売されました。近年の中国歴史物のシリーズの中で、最も成功したものと言ってよいのではないでしょうか。川本芳明『中華の崩壊と拡大―魏晋南北朝』も好きでよく読んでいます。

 本書の魅力は、日本人に馴染みの深い『三国志演義』と、史実の上での三国志とを比較しながら、事実を探求する面白さと、人が物語を紡ぎだす営みの力強さが描かれていることです。また、他の三国志本に比較して、文化面の発展や変化(儒学、文学、仏教、民衆の風俗など)がかなり手厚く触れられているのも、本書の特徴と言えます。

 誰でも楽しく読める本です。おすすめ!

 

武田時昌『術数学の思考―交差する科学と占術』(臨川書店、2018)

 術数学とは、自然科学の諸分野と易を中核とする占術とが複合した中国に特有の学問分野である。科学と占術は、アウトプットの形式、運用の目的は異なっている。しかし、理論の組み立て方は、老子や易の数理や陰陽五行説を共通の基盤とし、定式的な自然把握と技術操作的な側面において、両者は類縁関係にある。…占星術錬金術や伝統医療を見ればわかるように、自然探求の学問が思想、宗教と占術の境界領域に自生することは、中国に限ったことではない。今日のように科学と迷信、俗信をはっきりと峻別していたわけではなく、サイエンスの域を逸脱した言説も数多く存在するが、数理的思考や博物学的考察を発揮する場がそこにはあった。(p.18)

 世界のどの地域でも、かつては科学と迷信・魔術がきっちり分化せず、両者が渾然一体となりながら、世界の成り立ちを説明しようという営みが発展してきました。中国の場合、『易』と陰陽五行説を主軸にしながら、古くから高度な数学、暦法天文学、音律などの研究が進んだ一方、災異説や未来予測の讖緯思想も発達しました。

 この「術数学」研究の第一人者である氏による、待望の解説書が本書です。

 近代科学の合理主義的立場から眺めることによる最も厄介な弊害は、今日の科学的真理を基準として、非西洋型の思考様式に非科学、不合理のレッテルを貼ってしまうことである。中国科学の基礎理論や説明原理は易象数や陰陽五行説に依拠するが、それらは中国科学の迷信性を証明するものとして徹底的に糾弾される。古代ギリシャ四元素説が、自然哲学の根本原理として今でも広く認知されているのとは、雲泥の差である。(p.10)

 中国に限らず、広く学問史・科学史に興味のある方に推薦いたします。

 

川原秀城編『漢学とは何か―漢唐および清中後期の学術世界』(勉誠出版、2020)

第一部 両漢の学術
 今文・古文(川原秀城)
 劉歆の学問(井ノ口哲也)
 『洪範五行伝』の発展と変容(平澤歩)
 前漢経学者の天文占知識(田中良明)

第二部 六朝・唐の漢学
 鄭玄と王粛(古橋紀宏)
 北朝の学問と徐遵明(池田恭哉)
 明堂に見る伝統と革新─南北朝における漢学(南澤良彦)

第三部 清朝の漢学
 清朝考証学と『論語』(木下鉄矢
 清代漢学者の経書解釈法(水上雅晴)
 乾隆・嘉慶期における叢書の編纂と出版についての考察(陳捷)
 嘉慶期の西学研究―徐朝俊による通俗化と実用化(新居洋子)

第四部 総論:漢学とは何か
 清朝考証学における意味論分析の数学的原理と満洲語文献への応用―データ・サイエンスとしての漢学(渡辺純成)
 漢学は科学か?─近代中国における漢学と宋学の対立軸について(志野好伸)

  東西の研究者を揃え、各々の角度による「漢学」に関する論考を集めた本。内容は人それぞれですが、学問上、解釈学上の事柄に焦点を当てるものから、現実政治との絡みを考察するもの、実際の学問の伝授や指導を解き明かすものなど、バラエティ豊かな内容が揃っています。

 漢学という古臭い(?)テーマについて、現在の日本の学界ではどのような角度から研究するのが主流なのだろうか、ということを知りたい方におすすめです。

 

 みなさま、ぜひお気軽に手に取って読んでみてください!

(棋客)