達而録

ある中国古典研究者の備忘録。毎週火曜日更新。

「嘯」について―齋藤希史『漢文スタイル』より

 今回と次回は、齋藤希史『漢文スタイル』(羽鳥書店、2010)の第七章「花に嘯く」に導かれながら、「嘯」そして「長嘯」という言葉について考えてみます。以下は、斎藤氏の本のp.220~225の要約になっています。

 

 まず、本章のタイトルになっている「花に嘯く」という言葉は、どういう意味でしょうか?

 現代日本で「嘯く(うそぶく)」というと、「そらとぼけて平然として言う」などという意味で使われる場合が多いですが、「うそぶく」というのはもともとは「口をすぼめて息を出す」(口笛を吹く、作り声をする)という意味でした。

 では「花に嘯く」は「花を見ながら口笛を吹く」という意味かというと、そうではありません。「うそぶく」には「詩歌を吟じる」という意味もあり、「花に嘯く」という場合は「花を賞(め)でつつ吟詠する」という意味を表します。

 

 ここで「うそぶく」という和語を離れ、「嘯」という漢字の中国での意味を調べてみると、①「原義は口をすぼめて息を出すこと」で、②「魏晋以降、ふしを付けて詩歌を吟じる意味にも用いられる」ことが分かります。

 こうして並べると、「嘯」は日本の「うそぶく」と全く同じように見えますが、実は大きな相違があります。中国の場合は、②の意味で用いる場合にも①の意味が忘れられず、「響きのある独特の音声をともな」って詩歌を吟じる意味に用いられるのです。

 例えば、日本においては、「嘯風弄月」(風月を楽しんで詠う)という言葉がありますが、これは中国では「吟風弄月」「潮風弄月」としか用いません。つまり、日本と中国で以下のような相違があるわけです。

  • 日本:「嘯く」=「吟じる」、詩歌を吟じること。
  • 中国:「嘯」の「響きのある独特の音声を出す」というニュアンスが強く残り、「嘯」と「吟」は同じではない。

 つまり、もともと「嘯」という字には強い独特のニュアンスがあるのであって、漢語の「嘯」という字を読解する際には、常にこのことを念頭に置かなければならないわけです。ここから斎藤氏は文献を遡り、その独特の意味の由来を説明します。

 『楚辞』招魂に以下のようにあります。

 招具該備、永呼些。
 魂兮歸來、反故居些。

 この「嘯」について、王逸は「長嘯大呼して以って君を招(よ)ぶなり」と言っています。ここで「嘯」は、神霊を招くための特別な発声を表す言葉です。

 ここから「嘯」は遠くに響く澄んだ音を表し、魏晋になるとその音調の美しさを楽しむものとして「嘯」が用いられるようになります。その代表例が阮籍の「長嘯」の逸話です。

世説新語』棲逸

 籍登嶺就之,箕踞相對。籍商略終古,上陳黃農玄寂之道,下考三代盛德之美,以問之,仡然不應。復敘有為之教,棲神導氣之術以觀之,彼猶如前,凝矚不轉。籍因對之長嘯。良久,乃笑曰:「可更作。」籍復嘯。意盡,退,還半嶺許,聞上【口+酋】然有聲,如數部鼓吹,林谷傳響。顧看,迺向人嘯也。

 阮籍が蘇門山の仙人を訪ね、黄帝・神農の玄妙の道から夏・殷・周の盛徳の事跡までを論じた。仙人は何とも答えない。さらに人為を超えた仙術について述べても、目を凝らしたまま動かない。そこで、仙人に向かって長嘯すると、しばらくして、もう一度やってみろ、と笑う。再び嘯き、阮籍はそれで気が済んで山を下りたが、半ばまで来たところで、鼓笛の偏楽のような音が林や谷に響き渡った。振り返ると、かの人がいているのであった。(p.223の斎藤氏の訳)

 斎藤氏はこれを、仙人との邂逅によって、世俗の言語を超えた究極のコミュニカシオンを体得する話と説明しています。

 ちなみに、斎藤氏の議論は、青木正兒『中華名物考』(東洋文庫)収録の「「嘯」の歴史と意義の変遷」に基づいていますが、青木氏は「嘯」の意味の変遷を以下のように説明しています。

 以上は「嘯」の本義についてその沿革を考察したのであるが、その転義を考えてみると、その使用が魏晋以後と依然とでは一大相違があるように思われる。すなわちそれ以前においては悲声を意味し、以後においては超世高蹈的気持を含んでいるようである。……魏晋間に至って、嘯が神仙家道家的臭気を帯びてきており、したがって「嘯」という言葉にもそうした気持が加わってきた。そして嘯は元来口笛を吹くことだったが、転じて歌を唱うことを意味した。 また口笛を吹かず歌を唱わなくても、神仙家や道家が浮世の外に超然として、嘯いているのと同じ気持になることをも意味するようになった。(青木正兒『中華名物考』平凡社東洋文庫、1988、p.273-274)

 つまり、こうした超世高蹈的な気持ち、隠逸に向かう者の行為の象徴として「嘯」が用いられるようになるわけです。斎藤氏は、その例として有名な陶淵明の「帰去来辞」の最後を挙げています。

陶淵明「歸去來兮辭」

 登東臯以舒、臨清流而賦詩。
 聊乗化以歸盡、樂夫天命復奚疑。

 そして、先ほどの阮籍の例から分かるように、「長嘯」と言った場合は、隠逸行為の象徴というニュアンスがより強く出るようです。斎藤氏は、王維の例を挙げています。

王維 「竹里館」

 獨坐幽篁裏、彈琴復長嘯
 深林人不知、明月來相照。

 斎藤氏はここから、中島敦山月記』の最後の詩についての議論に移ります。その話はまた次回に。

(棋客)

杉山正明『遊牧民から見た世界史』

 杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞出版1997、のち日経ビジネス人文庫2003、増補版2011)広大な中央アジアの大地で活躍した「遊牧民」の生活とその興亡を描いた傑作です。そのうちから、「モンゴル残酷論の誤り」という節の文章をご紹介します。

 以下の引用は、1997年版のp.287~289に拠ります。

 これまで、モンゴルとその時代については、あまりよいイメージでは語られてこなかった。暴力、破壊、殺戮、圧制、野蛮などの悪い印象がさきに立った。モンゴルといえば、残酷なイメージで論じられるのがふつうであった。

 すでに述べたように、遊牧民とその国家については、総じて負の評価がかぶされてきたが、そのなかでもとびぬけてひどい。それは、無意識のうちに「悪役」「蛮族」「血ぬられた文明の破壊者」という先入観や偏見があたえられていたためである。

 それをあたえたのは、過去の歴史のなかで、実際に「被害」をうけた人びとよりも、むしろ 「被害者」たちの子孫とみずからを思いこんだ後世の人びとによって、多くいいたてられてきたものであった。もしくは、自分たちの先祖は直接の「被害者」ではないけれども、自分たちが築きあげた「近代文明社会」を誇るあまり、他の地域の現在や過去をことさらに、貶めたい心理を強く抱く人びとの心の所産であった。

 そうした人びとにとって、モンゴルは、アジアの最奥部からでてきた劣等な野蛮人が過去にくりひろげたおぞましい歴史の暗部だとして、格好の攻撃目標になった。おもしろいのは、そうした心情が、歴史研究者といわれる人たちの心に暗黙の「前提」を生み、それが歴史の解釈・説明に色濃く影を落としたことである。

 本書一冊は、モンゴルに限らず「遊牧民」全体に対する誤解を解き、正確な認識を得るために奮闘している本ですが、ここでは特に「モンゴル」に対する従来の認識に誤りが多いことを指摘する段です。

 こうしたことは、「文明主義」という名の偏見、もしくはおもいあがりといっていい。なぜなら、モンゴルとその時代について、いちおう東西文献、ひととおりの原典史料が眺められるようになったのは、つい最近のことだからである。

 それよりまえの人たちの意見は、たとえその人が世に「大学者」「大歴史家」「大歴史哲学者」 などともてはやされる人であろうとも、たんなる感想にすぎない。別のいい方をすれば、自己肥大したおごりか倨傲の言である。確たる根拠もないことを、まわりがみなそういうからと、もっともらしく語り綴る人は、「研究者」といわれる人たちにも、けっして少なくない。

 とかく、自分の理解の枠をこえたことにたいして、過去の「文明人」も、近現代の思想家・ 歴史家・知識人という名の「文化人」も、ある種の共通したアレルギーをひきおこしたからである。かれらは、その潜在意識のなかで、自分たち「文明」の優位を無条件に信じたかった。無意識のうちに、過去のことがらについて見くだし、断罪する立場にたった。

 モンゴルは、最適の「悪役」となった。「野蛮な」遊牧民の代表者であるモンゴルが、かつて世界をあらたな段階に導き、ひょっとすると自分たちも時代をこえた受益者であるからしれぬなどとは、夢にもおもわなかったのである。偏見を生みだす根拠は、しばしばその人の心のなかにある。そして、根拠のない非難は、感情に傾くから、しばしばもっとも激しくなりがちである。

 普通に大学で勉強をしていれば、たとえば「西洋文化東洋文化の対立と融合」とか、「西洋的価値観から東洋を見ることの危険性」といった話は、いくらでも耳にする機会があるでしょう。しかし、杉山先生の議論は、その西洋と東洋といった枠組みを丸ごと相対化するものです。

 歴史研究者は、直接に原典史料にあたって確認しえた事実だけで発言し、叙述しているとばかり考える必要はない。まして、そうした歴史研究者の「成果」を踏まえて、もっともらしい「おはなし」を述べたてる人たちについては、いうまでもないだろう。事実を事実として見ようとはしない精神は、おそろしい。もとより、歴史上の事実は、色とりどりにあり、はたしてなにが真実か、つかみがたいことが多いのもたしかではある。だからといって、過去の事実を追うことを、すべて空しいことだとするのは極論である。

 そういう場合、歴史を虚無主義のドグマにおとしいれて、遂には、なにも本当のことはわからないのだからおもしろければそれでいいのだと居直って、ポスト・モダン風のでたらめさを正当化するねらいが、ちらほらしたりしがちである。

 じつは、歴史のなかには、否定しようのない事実というものもまた多いのである。問題は、むしろ「知らないこと」に正直になれるかどうかである。

 ここは説明不要でしょう。最後の「知らないことに正直になれるか」という言葉は、『論語』の 「不知為不知、是知也」(知らざるを知らざるを為す、是れ知なり)を思い起こさせますね。

 

 この本に限らず、杉山先生の本を読むといつも、そこに載っている「地図」の範囲の広さに驚かされます。西はヨーロッパ、東は中国、広大なユーラシア大陸の動きを捉える巨視的な視点と、その巨大な動きを描き切る筆致の鮮やかさには感服する次第です。

 本書は遊牧民を広く描いた本ですので、より「モンゴル」にフォーカスして書いた本を読みたければ、『クビライの挑戦』や、「興亡の世界史」シリーズのモンゴル帝国の長いその後』などがよいでしょう。

(棋客)

『論語』の「川上の嘆」の二つの解釈

 前回→ 井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(3) - 達而録

 これまで、井筒俊彦著(澤井義次監訳、金子奈央・古勝隆一・西村玲訳『東洋哲学の構造 : エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会,、2019)の中から、第六章の儒教形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」を読んできました。

 今回は、最後のまとめの一段(p.290-291)を読みながら、関連する他の研究を紹介したいと思います。今回は、『論語』の「川上の嘆」が中心のテーマです。

 この講演の冒頭部分で、儒教哲学の世界観を特徴づける、根本的な楽観主義についてお話しいたしました。この楽観主義は、世界の時間的な性質をめぐって観察されるものです。また「時間」とは、世界におけるあらゆるものに避けがたく作用する、絶え間ない変化と転変という具体的な形によって知覚されるものであることにも注目しました。この事実に知的な解釈を与えようとする体系的な試みとして、儒教哲学をより広く理解することができるかもしれません。さらに前述の内容によって、こうした観点から、儒教について概観しようといたしました。

 ここに至り、存在する全てのものが決して逃れられない普遍的な変化の景色を眼前にして、どうして儒教の哲学者が、かき乱されず静かにいることができるのか、そのわけが明らかになったものと思います。この学派の哲学者が採る楽観的な態度は、時間的なものはそれ自体の中に、非時間的なものを持っており、むしろ時間的なものこそまさに非時間的なものであるという哲学的信念に基づいております。変わり続ける世界それ自体が、永遠に変わらないものなのです。そのとき、絶え間なく変わり続ける万物を見て、哀れに思い悲しくなる理由が、彼らにはありません。

 ここまでは、前回までの内容の復習です。儒教哲学では、「普遍的に起こる変化」に対して悲観的になるのではなく、楽観的な態度から、むしろそこに永遠の法則を見出します。

 そして井筒は、「おそらくこうした意味において、孔子が川岸で発したという有名な言葉は理解しなければならないでしょう」と言い、『論語』の「川上の嘆」を引き合いに出します。

 川のほとりに佇みながら、先生は次のように言われた。「あらゆるものは、これと同じように流れていく、止むことなく、昼も夜も」、と。(『論語』述而篇)

 ここは非常に有名な一段で、原文は『論語』子罕篇の「子在川上、曰、逝者如斯夫、不舍晝夜」(子川上に在り、曰く、逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず)です。

 なお、井筒本に「述而篇」とありますが、「子罕篇」の誤りかと思います。

 この一段に対する井筒の解説が以下です。

 この言葉を読みますと、言いようもない悲しみが心に染みわたりそうになります。存在するあらゆるものは、流れの水と同じように、一瞬たりとも止まることなく、終わりへと向かって、死と絶望へと向かって過ぎ去っていきます。ふつうの人間であれば、ここに全ての事物の儚さの表現を見ることでしょう。悲しい諦めの気分で、彼はこの言葉のうちに、存在の悲劇の象徴的な表現を見てとることでしょう。

 それとは反対に、『論語』のより一般的な文脈において、この一章は、存在の儚さや脆さといった感情を示唆するものではありません。むしろそれは、何かしら積極的なものの表現です。それは「天地」の働きを克明に描写したものなのです。さらに、この一節のそういう解釈は、宋代の儒教哲学者たちによって最高潮に達します。孔子のこの言葉には、世界における万物の儚さや悲劇的な運命などは全く見いだされません。存在の脆さや移ろいやすさを示す代わりに、この言葉は存在の永遠性の証言しているように思えます(原文ママ)。それらは存在の喜びを表現しているのです。

 この一段からは、「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という、悲しみや儚さを覚えるのが、現代の我々の感覚では一般的かもしれません。しかし井筒は、儒教、特に宋学では「天地の働きを克明に描写したもの」であり、「存在の永遠性の証言」として受け止められてきたことを述べています。

 最後に、程氏の言を引いて、本章の結びとしています。

 程伊川の弟子が、この「論語』の一章について、師に尋ねました。「これらの言葉が永遠性を意味していると考えるのは正しくないのでしょうか。」師は答えました。「本当にそうだね。それらの言葉は、事物の永遠の不変性を示そうとしたものだね。」

 ここの『二程遺書』(『二程外書』や『近思録』にも見える)の原文は、「張繹曰、此便是無窮。先生曰、固是道無窮」ですかね。

 

 この「川上の嘆」についての二つの解釈は、どちらも由緒ある解釈です。福谷彬『道学の展開』の冒頭に解説があるので、一緒に読んでみましょう(p.6~)。

 さて、『論語」という書物は、このように多様な解釈が可能な古典であるが、右の二系統の解釈の相違は、更に遡って中国の注釈に由来がある。『論語』の注釈には大別して、漢や唐の時代の注釈である「古注」系統のものと、以降の「新注」系統のものとがある。現代の日本の『論語』の訳注書・解説書の内容は、遡ればこれらの中国の注釈の解釈に行き着くことが多い。

 二つの解釈のうち、悲観的な理解(井筒流に言えば、「存在の悲劇の象徴的な表現を見てとる」解釈)に近いものとして、福谷氏は鄭玄の解釈(太字)を挙げています。

 人が年老いるのは、川が流れ行くようであるということを言っている。道が有っても、任用されないことを嘆いたのだ。(言人年往、如水之流行。傷有道而不見用也)

 鄭玄注は、『論語』の川上の嘆を、川の流れのように時が過ぎ去り、君主に任用されることなく空しく年老いていく我が身の不遇を嘆いたものと解釈する。現行の日本の翻訳本もこの方向で理解するものが少なくない。

 一方、新注の解釈(太字)はこれと大きく異なります。

 天地の造化は、往くものは過ぎ行き、来るものは続き、一息の止まることもない。それはつまり、道の本体の姿である。しかしそれを具体的にこれと指さして見やすいのは、川の流れが一番である。それゆえ、この語を発して人に示し、学ぶ者に常にこのことを省察して、少しの間断もないようにさせたいと望んだのである。(天地之化、往者過、來者續、無一息之停、乃道體之本然也。然其可指而易見者、莫如川流。故於此發以示人、欲學者時時省察、而無毫髮之間斷也。)

 このように新注では、宇宙の運行は川の流れのように止まることないのであるから、学問を志す者も常に我が身を間断なく省察せよ、との意味にとっているのである。この新注の解釈には、古注に表れるような目らの不遇に対する悲嘆はない。むしろ古注とは反対方向の、力強い自己改革の精神をこの『論語』の一節に読み込んでいるのである。

 この両者の相違について、福谷氏は以下のように説明していきます。『方丈記』の冒頭については第一回で触れました。(なお、『方丈記』の冒頭「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……」は、『論語』のこの一節を踏まえて書かれたとする説もあります。)

 『方丈記』の内容に慣れ親しむ私たちにとって『論語』の一節は過ぎゆく時間に対する嘆きとして捉えるのが自然な解釈に感じられるかも知れない。実際に、古注と新注を比較した上で新注を批判する日本の訳注書もある。しかし、『孟子』の以下のような一節も合わせて見る時、単純に新注的な理解を恣意的と排斥できるだろうか。

 徐子は言った。「孔子はしばしば水に譬えて「水よ、水よ」と言ったそうです。何を譬えたのでしょうか。」孟子は言った。「泉はその源からこんこんと湧き出て、昼も夜も休むことがない。その流れは、窪みがあればまずその穴を満たしたのち、初めて溢れ出して四海に進む。根本があるものは、このようだ、ということを比喩で言い表したのさ。(徐子曰「仲尼亟稱於水、曰「水哉、水哉」、何取於水也」。孟子曰「原泉混混、不舍晝夜。盈科而後進、放乎四海、有本者如是、是之取爾」。)

 『孟子』には、『論語』の川上の嘆を想起させるこのような言葉があった。孟子は「根本があって休むことがない」様子を表現するために、孔子は水を譬え話に用いた、と説明しているのである。右に挙げた朱熹のの解釈も、遡ればこの『孟子』の言葉を敷衍したものに他ならない。

 そして福谷氏は、古注と新注の相違を以下のように説明しています。

 さて、ここで「川上の嘆」に対する古注と新注の解釈の共通性と相違点に目を向けよう。古注も新注も、川の流れを、止まることない時の流れの象徴として捉える点で違いはない。異なるのはその「時の流れが止まることのないこと」に対する受けとめ方である。古注の解釈では、時が移ろうこととは、己が衰えることの不安と、道を天下に行うことができないことに対する焦燥感をかき立てるものとして理解されている。これに対して、新注の朱熹の解釈には、止まることのない時の流れとは、不断の努力とそれに伴う人間の向上の可能性をもたらすものとして理解されているのである。

 井筒の議論では、「物事の普遍的な変化」を悲観的に捉える仏教と、楽観的に捉える儒教宋学)、という枠組みの議論でした。引き合いに出されるのは、方丈記の理解と程伊川の理解の相違です。

 一方、福谷氏の議論では、両者の対立を「古注」と「新注」の相違として説明しています。井筒の理解も実際は宋学(新注)を中心にしているので、前者の悲劇的な読みを仏教的とみて儒仏の相違の議論を引き出す井筒と、古注・新注の相違から思想的展開を見出そうとする福谷氏、という対比になるでしょうか。

 

 さて、吉川幸次郎訳の『論語』を見ると、上の二つの説を唱えた学者が整理されています。これらを踏まえて、以上の内容を整理しておきましょう。

論語』子罕篇「子在川上、曰、逝者如斯夫、不舍晝夜(子川上に在り、曰く、逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず)の解釈:

  1. 悲観的な解釈。「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という悲しみや儚さを表現したものとする。(鄭玄・皇侃・皇侃の引く魏晋の諸家・六朝の詩文・現代の多くの日本語翻訳など)
  2.  楽観的・積極的な解釈。天地の働きを克明に描写し、そこに普遍の法則を見て取る。(孟子・揚雄・宋学伊藤仁斎など)

井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(3)

前回→井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(2) - 達而録

 井筒俊彦著(澤井義次監訳、金子奈央・古勝隆一・西村玲訳)『東洋哲学の構造 : エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会,2019)の中から、第六章の儒教形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」を読んでいます。第三回です。

 

 今回は、前回紹介した儒教哲学の根拠が『易経』にあることを述べるところです(p.261~)。

 簡素で地味ながらも、根本的に楽観的な儒教哲学の本質は、万物の「変化」の特殊な解釈によって決定づけられます。この解釈は『易経』の基本的な世界観によって決定づけられます。世界の万物は、終わりなく動き続けています。つまり、それらは一瞬たりとも止まることなく変化し続けています。あらゆるものの中核それ自体に影響するその動きは、必ずそれをその終わりへと導きます。しかし、これは決して儚さの暗示ではないのです。なぜなら、終わりが新しい始まりと直接につながっているからです。その普遍的な変化は死に向かう動きではありません。ちょうどその逆に、それはむしろ生命、新しい生命に向かう動きなのです。儒教哲学は根本的に楽観的です。それは普遍的な変化の中に、決して終わることのない普遍的な生命力の創造的な活動を見ているからです。『易経』は言います。

 〈道〉は毎日、新しい。これがその輝かしい働きなのだ。(『易経』繋辞伝上)

 「道」の輝かしい働きは、四季の定期運行する循環――春、夏、秋、冬、そして再び春……と無限に続く循環――によって典型的に例示される、厳密に調整された原理に従って実践されます。それを知覚するのが容易であるかどうかにかかわらず、あらゆる宇宙の動きは循環します。つまり、それは確実なリズムと無期限性をもっているのです。そのリズムは二つの宇宙の原理である「陰」と「陽」の気の活動によって与えられ、それらは互いに厳密な相関関係をもって不断に盛衰を繰り返します。(中略)

 こうしてみてみると、やはり第一回で紹介した仏教的世界観とは、物事の変化のとらえ方が対照的であることがよく分かります。井筒は続けてこう述べています。

 こうした文脈において、永遠に一時的であること、もしくは無常であることこそ、それ自体、永遠の永続性なのです。事物の無常は、それらの衰退や滅亡へ落ちていく不可避的な運命を表してはいません。むしろ、それは「道」の永遠の不変性を表しています。儒教哲学はこのように、事物の絶え間ない変化を「輪廻転生」とみなす仏教とは対蹠的な立場を採ります。

 そして程明道の発言を引用します。

 仏教は「陰」と「陽」、昼と夜、古さと新しさというリアリティを知らない(それは単にそれらを「輪廻転生」とか幻であると考えている)。それは、「形而上」(すなわち、超感覚的、超物理的もしくは形而上的)である物事について話すことにとても興味を持っている。そんな教説がどのように儒教の聖人たちの考えと同一になることができようか。(『二程遺書』巻十四)

 『二程遺書』の原文は「佛氏不識陰陽晝夜死生古今、安得謂形而上者與聖人同乎」だと思います。上の訳文には若干問題があるでしょうか。

 儒教の哲学者は、感覚で捉えられる現象を誤りや幻想の現れとして蔑んで扱って、リアリティの視野からできるだけすぐに追いやったりはいたしません。反対に、形而下的なものは彼らの観点では、形而上的なものと同様に現実なのです。終わることのない変化と変容によって特徴づけられる形而下的な世界は、その活動的な観点からは、まさに形而上的なもの以外の何ものでもありません。リアリティの形而下的次元において観察できる変化と変容は、永遠に不可変的な形而上的な法則の動的な本質の直接的かつ可視的な現れなのです。(中略)

 ここから井筒は『易経』の第三十二の卦である「恒」の解釈を説明します。

 私はこの卦が耐久性と恒常性を象徴していることのあまり込み入った理由の説明には立ち入りません。ここでは、次の点を述べるだけで十分でしょう。すなわち、上方の三卦(震)は雷を、下方(巽)は風を象徴しており、その卦はしたがって、風に運ばれる雷、あるいは互いに合体している雷と風を象徴しています。ここでの話題に特に関係があるのは、とどろく雷と吹く風はともに激烈な動きを象徴しているということです。二つの激しい動力は互いに強まり、合体した機動性は極限へ向かいます。今回のエラノス会議の中心的な主題がもつ視点からは非常に重要なことですが、この卦〔恒〕がもつ持続する存在と不可変性を指し示す構造のために、二つの象徴は極度の機動性を指し示すのに使われます。

 そして井筒は、『伊川易伝』の「恒」卦の注釈を引用します。 

 何ものも、ゆるぎなく不動であって、そうであるのに不変である(「恒」)ことなどありえないことは、普遍的に真実だ。何でも動き(そして変化し)必然的に終わりを迎えるが、その終わりは常にじかに新しい始まりに受け継がれる。これはまさに、永遠に恒常的に、そして果てしなく、(〈道〉の成り行きを)保つものなのだ。……
 したがって、不変はゆるぎなく固定された不動を意味するのではない。絶対的に不動であるものは、何であっても不変ではあり得ない。むしろ、不変は時の流れとともに果てしなく変化や変容を続けることにあるのだ。
 自然界の中で永遠に変化しないものと人間関係の中で永遠に変化しないものは、真に〈道〉を知る人たちだけに分かる。

 原文は複数個所にまたがっていて分かりにくいのですが、おそらく「天下之理、未有不動而能恒者也。動則終而復始、所以恒而不窮」、「故恒非一定之謂也。一定則不能恒矣。唯隨時變易乃常道也」、「天地常久之道、天下常久之理、非知道者孰能識之」かと思います。

 世界の万物は流動の状態にあります。それらは止まることなく、無数のそれぞれのあり方で変化し変容します。太古の儒教の聖人たちは、これらの変化の不定の姿を基本的な型へと変換するために六十四卦を設けました。これらの普遍的な変化の基本的な型の下で、「叡知」を備えた人は、それらの卦を内側から支配している永遠の法則を把握しなければならず、さらに、この独特の変化の法則の下で、最上の変化の「法則」に気づくことが期待されます。そこで先ほど引用した一節によって、参考となる言葉が作られ、初めて真に「道」を知る人となるのです。

 しかしながら、儒教的な変化の捉え方の意味と意義は、私たちがその基礎となる形而上学的な構造を把握した場合にのみ、十分に理解することができます。さらにまた、儒教形而上学的な理論は、その基礎となる精神修練の独特な方法を探究した場合にのみ、十分に理解可能なものとなるのです。

 ここまでで、本章の導入部分を読み終えることができました。ここから先の部分で、井筒は宋学における「修養」の在り方を説明しています。むしろそこが本章の本編なのですが、ブログで紹介するのはこの辺りまでにしておきましょう。以下はぜひみなさんご自身でお読みください。

 次回、本章の全体のまとめの部分を引用しながら、関連する他の研究を合わせて紹介しようと思います。

(棋客)

井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(2)

前回→ 井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(1) - 達而録 

 

 井筒俊彦著(澤井義次監訳、金子奈央・古勝隆一・西村玲訳)『東洋哲学の構造 : エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会,2019)の中から、第六章の儒教形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」を読んでいます。第二回です。

 

 前回、仏教哲学では、「普遍的な変化」はカゲロウのように儚く無常な「存在の非永遠性」という意味で理解されることを述べました。今回は、これに対して儒教哲学(特に宋学)がこれとは異なる見方で世界を捉えることが説明されます(p.259~)。

 儒教に向かって、全く異なる世界へと踏み出すことにいたしましょう。儒教の世界観には、暗い場所がどこにもありません。儒教哲学は存在の悲劇的な感覚とは無関係なのです。ここには、びくびくするような恐怖は見えませんし、不安もなく、悲しみの跡さえありません。悲劇の存在であるとか、内的な危機の主体であるとか、そのように人が見なされることなど、全くありません。これはごく当然なことです。なぜなら、儒教哲学者の目をとおして見る世界には、人を落胆や失意や憂鬱へと向かわせる何らの要素もないからです。先にも見ましたように、確かに普遍的な変化に対する認識は、儒教哲学の出発点であり基盤です。この点では、またこの範囲では、儒教はまさに仏教と同じです。しかし儒教においては、その要点は、万物の絶え間ない変化が存在の非永遠性や儚さとして捉えられるのではないということです。変化はまさに恒常性の現れです。変化こそが永遠の「法則」です。変化こそが恒常性です。

 「普遍的な変化」を認識することは仏教・儒教に共通するのですが、儒教ではこの「普遍的な変化」そのものが「恒常性の現れ」であり、「変化こそが永遠の法則」というように考えます。

 続けて井筒は、程伊川とその弟子の韓持国の会話を引用します。

 ある夕方、韓持国が程子とともに坐っていた。韓持国は悲しくふさぎ込んで言った。「ああ、もう夕方です。もう一日が経ってしまいます!」
 これに対して、程子は言った、「それは永遠の〈法則〉以外の何ものでもない。常にこのようにあり続けてきている。それに嘆き悲しむ理由はない。」弟子は言い返した。「しかし、老人たちは世を去りつつあります。」程子は「あなたは去らなくてもよい。」
 韓は、「私が世を去らないでいようなど、どうやって可能になりましょうか」と言った。程子は述べた。「それが不可能なら、あなたは去ればよい。」(『二程遺書』巻二十一、第一)

 『二程遺書』の原文は「韓公持國與程子語。歎曰、今日又暮矣。程子對曰、此常理、從來如是、何歎為。公曰、老者行去矣。曰、公勿去可也。公曰、如何能勿去。子曰、不能則去可也」です。

 井筒はこの一節を以下のように説明しています。

 この会話は、禅の「公案」として、大変よく用いられます。弟子の韓持国は、「ああ…もう一日が経ってしまいます!」と言います。その日は過ぎ去ってしまい戻ることはありません。それ自体は、絶えず繰り返す変化ですが、夕方は私たちの心に悲しみと憂鬱をもたらします。忍び寄ってくるその暗闇は、私たちに衰退と老いを想い起こさせます。それはおのずと老齢と結びついており、人を死の意識に近づけます。「老人たちは世を去りつつあります。」程子から見ますと、そのような取り組み方は、たとえ常識的な立場からはごく自然であっても、根本的に誤っています。彼は明るい日光が夕方の暗闇へと変容するのは永遠の法則の創造的な活動の結果にほかならないとただ指摘することによって、それを一突きで拒絶します。彼はこの永遠の法則を「常」と呼びますが、これは文字通りには、「不変な」または「不変」を意味します。彼の観点からすると、変化すなわち非恒常性のように見えるものこそ、恒常性なのです。

 ここでは、弟子が「物事が変化してしまうこと」に対する悲哀・慨嘆を表現するのに対して、程伊川は「これは永遠の法則であり、嘆き悲しむ理由はない」とあっさりと否定します。程伊川は、こうした「変化」こそが永遠の法則たる「常」であることを見出すのです。

 「常」とは、普遍的な変化の過程が永遠の法則によって厳密に支配されていることを示します。存在世界に絶え間ない変化があることと、あらゆる変化が、やみくもにではなく、同様の変化が不断にそれ自体を繰り返すように、そして常に同一の軌道を取るように確実に調整された原理に応じて起こること――、こうしたことがまさに「常」の意味です。したがって、程子は自然の中に見いだされるものとしての事物の変化を、怖がることなく、不安がることなく穏やかに認めて、次のように言います。「生命のある所には、必然的に死がある。始まりがある所には、必然的に終わりがある。このようにしてのみ、普遍的な恒常性は永遠に保たれているのだ」(『二程遺書』巻七)。したがって、日常的な脈絡において、永遠の不変性を意味する「常」は、儒教の哲学者たちにとっては、永遠の可変性を意味しております。

 程氏の引用の原文は「有生者必有死、有始者必有終、此所以爲常也」です。「『二程遺書』巻七」とありますが、正確には「『二程外書』巻七」のようです。

 では、この「常」の考え方、普遍的な変化を永遠の法則とみなす考え方は、どこから来たのでしょうか。次回、これが『易』から来たことを述べます。

(棋客)