達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『論語』の「川上の嘆」の二つの解釈

 前回→ 井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(3) - 達而録

 これまで、井筒俊彦著(澤井義次監訳、金子奈央・古勝隆一・西村玲訳『東洋哲学の構造 : エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会,、2019)の中から、第六章の儒教形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」を読んできました。

 今回は、最後のまとめの一段(p.290-291)を読みながら、関連する他の研究を紹介したいと思います。今回は、『論語』の「川上の嘆」が中心のテーマです。

 この講演の冒頭部分で、儒教哲学の世界観を特徴づける、根本的な楽観主義についてお話しいたしました。この楽観主義は、世界の時間的な性質をめぐって観察されるものです。また「時間」とは、世界におけるあらゆるものに避けがたく作用する、絶え間ない変化と転変という具体的な形によって知覚されるものであることにも注目しました。この事実に知的な解釈を与えようとする体系的な試みとして、儒教哲学をより広く理解することができるかもしれません。さらに前述の内容によって、こうした観点から、儒教について概観しようといたしました。

 ここに至り、存在する全てのものが決して逃れられない普遍的な変化の景色を眼前にして、どうして儒教の哲学者が、かき乱されず静かにいることができるのか、そのわけが明らかになったものと思います。この学派の哲学者が採る楽観的な態度は、時間的なものはそれ自体の中に、非時間的なものを持っており、むしろ時間的なものこそまさに非時間的なものであるという哲学的信念に基づいております。変わり続ける世界それ自体が、永遠に変わらないものなのです。そのとき、絶え間なく変わり続ける万物を見て、哀れに思い悲しくなる理由が、彼らにはありません。

 ここまでは、前回までの内容の復習です。儒教哲学では、「普遍的に起こる変化」に対して悲観的になるのではなく、楽観的な態度から、むしろそこに永遠の法則を見出します。

 そして井筒は、「おそらくこうした意味において、孔子が川岸で発したという有名な言葉は理解しなければならないでしょう」と言い、『論語』の「川上の嘆」を引き合いに出します。

 川のほとりに佇みながら、先生は次のように言われた。「あらゆるものは、これと同じように流れていく、止むことなく、昼も夜も」、と。(『論語』述而篇)

 ここは非常に有名な一段で、原文は『論語』子罕篇の「子在川上、曰、逝者如斯夫、不舍晝夜」(子川上に在り、曰く、逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず)です。

 なお、井筒本に「述而篇」とありますが、「子罕篇」の誤りかと思います。

 この一段に対する井筒の解説が以下です。

 この言葉を読みますと、言いようもない悲しみが心に染みわたりそうになります。存在するあらゆるものは、流れの水と同じように、一瞬たりとも止まることなく、終わりへと向かって、死と絶望へと向かって過ぎ去っていきます。ふつうの人間であれば、ここに全ての事物の儚さの表現を見ることでしょう。悲しい諦めの気分で、彼はこの言葉のうちに、存在の悲劇の象徴的な表現を見てとることでしょう。

 それとは反対に、『論語』のより一般的な文脈において、この一章は、存在の儚さや脆さといった感情を示唆するものではありません。むしろそれは、何かしら積極的なものの表現です。それは「天地」の働きを克明に描写したものなのです。さらに、この一節のそういう解釈は、宋代の儒教哲学者たちによって最高潮に達します。孔子のこの言葉には、世界における万物の儚さや悲劇的な運命などは全く見いだされません。存在の脆さや移ろいやすさを示す代わりに、この言葉は存在の永遠性の証言しているように思えます(原文ママ)。それらは存在の喜びを表現しているのです。

 この一段からは、「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という、悲しみや儚さを覚えるのが、現代の我々の感覚では一般的かもしれません。しかし井筒は、儒教、特に宋学では「天地の働きを克明に描写したもの」であり、「存在の永遠性の証言」として受け止められてきたことを述べています。

 最後に、程氏の言を引いて、本章の結びとしています。

 程伊川の弟子が、この「論語』の一章について、師に尋ねました。「これらの言葉が永遠性を意味していると考えるのは正しくないのでしょうか。」師は答えました。「本当にそうだね。それらの言葉は、事物の永遠の不変性を示そうとしたものだね。」

 ここの『二程遺書』(『二程外書』や『近思録』にも見える)の原文は、「張繹曰、此便是無窮。先生曰、固是道無窮」ですかね。

 

 この「川上の嘆」についての二つの解釈は、どちらも由緒ある解釈です。福谷彬『道学の展開』の冒頭に解説があるので、一緒に読んでみましょう(p.6~)。

 さて、『論語」という書物は、このように多様な解釈が可能な古典であるが、右の二系統の解釈の相違は、更に遡って中国の注釈に由来がある。『論語』の注釈には大別して、漢や唐の時代の注釈である「古注」系統のものと、以降の「新注」系統のものとがある。現代の日本の『論語』の訳注書・解説書の内容は、遡ればこれらの中国の注釈の解釈に行き着くことが多い。

 二つの解釈のうち、悲観的な理解(井筒流に言えば、「存在の悲劇の象徴的な表現を見てとる」解釈)に近いものとして、福谷氏は鄭玄の解釈(太字)を挙げています。

 人が年老いるのは、川が流れ行くようであるということを言っている。道が有っても、任用されないことを嘆いたのだ。(言人年往、如水之流行。傷有道而不見用也)

 鄭玄注は、『論語』の川上の嘆を、川の流れのように時が過ぎ去り、君主に任用されることなく空しく年老いていく我が身の不遇を嘆いたものと解釈する。現行の日本の翻訳本もこの方向で理解するものが少なくない。

 一方、新注の解釈(太字)はこれと大きく異なります。

 天地の造化は、往くものは過ぎ行き、来るものは続き、一息の止まることもない。それはつまり、道の本体の姿である。しかしそれを具体的にこれと指さして見やすいのは、川の流れが一番である。それゆえ、この語を発して人に示し、学ぶ者に常にこのことを省察して、少しの間断もないようにさせたいと望んだのである。(天地之化、往者過、來者續、無一息之停、乃道體之本然也。然其可指而易見者、莫如川流。故於此發以示人、欲學者時時省察、而無毫髮之間斷也。)

 このように新注では、宇宙の運行は川の流れのように止まることないのであるから、学問を志す者も常に我が身を間断なく省察せよ、との意味にとっているのである。この新注の解釈には、古注に表れるような目らの不遇に対する悲嘆はない。むしろ古注とは反対方向の、力強い自己改革の精神をこの『論語』の一節に読み込んでいるのである。

 この両者の相違について、福谷氏は以下のように説明していきます。『方丈記』の冒頭については第一回で触れました。(なお、『方丈記』の冒頭「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……」は、『論語』のこの一節を踏まえて書かれたとする説もあります。)

 『方丈記』の内容に慣れ親しむ私たちにとって『論語』の一節は過ぎゆく時間に対する嘆きとして捉えるのが自然な解釈に感じられるかも知れない。実際に、古注と新注を比較した上で新注を批判する日本の訳注書もある。しかし、『孟子』の以下のような一節も合わせて見る時、単純に新注的な理解を恣意的と排斥できるだろうか。

 徐子は言った。「孔子はしばしば水に譬えて「水よ、水よ」と言ったそうです。何を譬えたのでしょうか。」孟子は言った。「泉はその源からこんこんと湧き出て、昼も夜も休むことがない。その流れは、窪みがあればまずその穴を満たしたのち、初めて溢れ出して四海に進む。根本があるものは、このようだ、ということを比喩で言い表したのさ。(徐子曰「仲尼亟稱於水、曰「水哉、水哉」、何取於水也」。孟子曰「原泉混混、不舍晝夜。盈科而後進、放乎四海、有本者如是、是之取爾」。)

 『孟子』には、『論語』の川上の嘆を想起させるこのような言葉があった。孟子は「根本があって休むことがない」様子を表現するために、孔子は水を譬え話に用いた、と説明しているのである。右に挙げた朱熹のの解釈も、遡ればこの『孟子』の言葉を敷衍したものに他ならない。

 そして福谷氏は、古注と新注の相違を以下のように説明しています。

 さて、ここで「川上の嘆」に対する古注と新注の解釈の共通性と相違点に目を向けよう。古注も新注も、川の流れを、止まることない時の流れの象徴として捉える点で違いはない。異なるのはその「時の流れが止まることのないこと」に対する受けとめ方である。古注の解釈では、時が移ろうこととは、己が衰えることの不安と、道を天下に行うことができないことに対する焦燥感をかき立てるものとして理解されている。これに対して、新注の朱熹の解釈には、止まることのない時の流れとは、不断の努力とそれに伴う人間の向上の可能性をもたらすものとして理解されているのである。

 井筒の議論では、「物事の普遍的な変化」を悲観的に捉える仏教と、楽観的に捉える儒教宋学)、という枠組みの議論でした。引き合いに出されるのは、方丈記の理解と程伊川の理解の相違です。

 一方、福谷氏の議論では、両者の対立を「古注」と「新注」の相違として説明しています。井筒の理解も実際は宋学(新注)を中心にしているので、前者の悲劇的な読みを仏教的とみて儒仏の相違の議論を引き出す井筒と、古注・新注の相違から思想的展開を見出そうとする福谷氏、という対比になるでしょうか。

 

 さて、吉川幸次郎訳の『論語』を見ると、上の二つの説を唱えた学者が整理されています。これらを踏まえて、以上の内容を整理しておきましょう。

論語』子罕篇「子在川上、曰、逝者如斯夫、不舍晝夜(子川上に在り、曰く、逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず)の解釈:

  1. 悲観的な解釈。「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という悲しみや儚さを表現したものとする。(鄭玄・皇侃・皇侃の引く魏晋の諸家・六朝の詩文・現代の多くの日本語翻訳など)
  2.  楽観的・積極的な解釈。天地の働きを克明に描写し、そこに普遍の法則を見て取る。(孟子・揚雄・宋学伊藤仁斎など)