達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(1)

 井筒俊彦著(澤井義次監訳、金子奈央・古勝隆一・西村玲訳)『東洋哲学の構造 : エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会,2019)を読んでいきます。

 この文章は、1974年の第43回エラノス会議(テーマ:時代の変化における規範)における井筒俊彦の講演をもとにしています。この章は、本書の中では読みやすい部類に入り、内容も本ブログの読者の方々にとって興味深いものであると思いますので、一緒に読み進めていきましょう。

 本章の冒頭は以下です(p.255~)。

 「時代の変化における規範」とは、儒教哲学にとってこの上なく相応しいテーマです。この講演テーマが、この学派のあらゆる哲学者の中心的な関心事を見事に示しているからです。それは彼らの思想における最も基本的なテーマです。あらゆることがそこから始まり、あらゆることがそれに関して発言されます。事実、儒教形而上学の体系あるいは体系群の全体が、この中心テーマ―変化する世界における規範―についての、思考のさまざまなレベルにおける労作にほかなりません。

 「儒教哲学」という言葉を、ここでは、中国の宋代に、孔子の教えを継承する者たちのあいだで展開した哲学思想という意味に用いたいと思います。

 この哲学は全体として、『易経』の基本的発想を基礎とし、それを哲学的に洗練させて提示したと言えるでしょう。その中心テーマが「変化する世界における規範」という問題の中に見いだされるべきであることは、誠に当然でしょう。なぜなら、これこそがまさに『易経』全篇の主要な問題であるからです。これは『易経』の哲学のそのものであります。『易経』は、この世界のあらゆる場所において、果てしない変化と駐変を観察します。しかしながら、『易経』はそういう流れと果てしない事物事象の変化の下にありながら、それらを内側から支配する合理的な法則を決して見過ごすことはありません。ありとあらゆる仕方で次から次へと変化し続ける、さまざまな事物の限りない多様性に、『易経』は変化の軌跡を統制する法則と規範を見いだしますが、その法則と規範は水遠に同じままで変化しません。

 ここで宣言されている通り、本章は『易経』を基礎に発達した程朱の思想を手掛かりに、儒教の「変化」の哲学を探究するものです。

 ここで井筒は、程伊川の言葉を引用します。

 世界の変化には限りがないが、日月の軌道や寒暑および昼夜の交代の中に見いだされる恒常性がいつもある。これ(現象の継続的な変化の上にあって統轄する恒常性と永遠の秩序)があるからこそ、〈道〉(すなわち、存在の形而上的な〈基盤〉)が万物の絶対の規範として機能できるのだ。(『二程遺書』巻十五)

 なお、ここの『二程遺書』の原文は「天地之化、雖廓然無窮、然而陰陽之度日月寒暑晝夜之變、莫不有常、此道之所以為中庸」です。

 続きです。

 このように、『易経』の哲学は、あらゆる時、あらゆる場所における事物の決してとどまることのない変化を観察することから始まります。私たちの周りの万物、すなわち世界そのもの、およびそれらを見ている私たち自身は、流動の絶え間ない状態の中に存在しています。存在のこの普遍的な流れの中で、一瞬たりとも変化しないものなどありません。万物の不断の変化は、感覚的にすぐに分かる事実ですし、あまりにも明白ですので、だれもそのことを否定することはできません。この世界に人が生まれ育ち、さらに老いていき、ついには死んで、この世から消えるという事実そのもの、この人間存在の最も基本的な事実によって、人は必ず事物の普遍的な変化を認識せざるを得ないのです。(中略)

 こうした宋代の儒教思想家たちの態度がどのような点で特徴的なのかということについて、井筒は仏教との比較を通して説明を試みます。

 儒教哲学の特異性は、同様の問題に対するもう一つ別の典型的な態度、すなわち、儒教の立場とちょうど正反対のあり方を保持する態度と比較することによって、最もよく照らし出すことができるでしょう。そのとき参考になるのは、仏教を歴史的かつ構造的に特徴づけている否定的で厭世的なものの見方です。普遍的で果てしないさまざまな事物の変化に対する否定主義という根本的態度の基礎の上に立って、仏教は壮大な形而上学的体系を構築しています。

 仏教は、万物の不可避的な変化を注視することから始まります。これを注視する中で、普遍的な変化は、ある事物が生じ、ある期間にわたり存在を続け、さらに遅かれ早かれ、終末の時を迎え、存在の領域からすっかり消え去るという、存在論的なプロセスの形をとって現れます。

 この段階において、事柄全体は、人がそのプロセスの最初の地点、すなわち誕生、つまり新しい事物として生ずることと、その最終地点、すなわち死および古い事物の消滅との、どちらに特に重点を置くかによって、二つの全く異なる世界観へと導くことができることに注意いたしましょう。後ほど、より詳しく見ますが、儒教は前者を選択します。(中略)

 それと全く異なるのが、仏教が採る立場です。先述したプロセスの最初の地点に重点を置く代わりに、仏教は最後の段階――避けようのない衰退、老い、崩壊、そして死――に重点を置きます。仏教は全ての自己欺瞞を避けながら、普遍的な変化の否定的側面に関する明確な認識から出発します。それは第一義的に、救済(避けがたく見える宿命から、存在する全てのものを救済すること)の方法、すなわち、存在に内在する悲劇性を克服する方法を教えようとする宗教です。この点において、仏教は少なくとも最初の段階では、存在に対する尋常ならざる陰鬱で厭世的な存在論的見解によって特徴づけられています。実にもっともなことですが、普遍的な変化は、仏教の文脈では、カゲロウのように儚く無常であり、存在の非永遠性という意味で理解されます。同じ絶え間ない事物の変化について、儒教が永遠に新しい生命または永遠の生成力と捉えたのとは違っております。

 「万物の不可避的な変化」を注視すること自体は、儒教と仏教に共通しています。しかし、井筒はその際に「誕生」と「消滅」のどちらに重点を置くかによって、世界観が大きく変わってくることを指摘しています。

  1. 儒教:プロセスの最初の地点、すなわち誕生、新しい事物として生ずることに重点を置く
  2. 仏教:プロセスの最終地点、すなわち死および古い事物の消滅に重点を置く

 なお、便宜上「儒教」と表現していますが、最初に述べたように、ここで論じられる「儒教哲学」は「宋学」を主眼に据えたものであることは注意しておいてください。

 

 そして井筒は、仏教が表現する「本質的な儚さ」そして「強烈な悲劇的意味の感覚」が最も痛切に感じられる例として、有名な『方丈記』の冒頭の一節を掲げます。

 川は絶え間なく流れる。しかし、その水は決して同じではない。その流れがゆっくりになって停滞すると、泡が水の表面に集まる。泡はここでは壊れ、そこでは作られ、そこでは消え、ここでは現れて、長く留まることがない。この世に住む人々の暮らしもまさしく同じだ。彼らの住まいも同じだ。……

 水の泡と同様なのが人間だ。ある人が朝にここで死ぬと、一方、あちらでは夕方に別の人が生まれる。死に向かって生まれる人――人がいずこから来て、いずこへ向かうのかをだれが知りえようか。……

 人とその住まいは、朝日に照らされた花びらの露と変わらない。まるで互いにはかなさを競い合うかのように、ともに突然の風の中で滅びていく。ある時は露が落ち、花が後に残される。花は残るが、朝日に枯れるのを待つだけだ。ある時は花が枯れ、露が後に残される。露は残るが、夕方まで持ちこたえることはない。

 この一節について、井筒は以下のように解説しています。 

 ここに引用した文章全体に通底する悲しい調子は、自分自身の儚さゆえに、人間の主体が、万物の有限性やげさを感じたり経験したりするものであると、はっきり示唆しています。ここに見えるようなものの儚さは、もはや穏やかに、また客観的に観察したり考えたりすることができるような外的な事実ではありません。事物の普遍的な有限性が、ここでは個人的な有限性に集約されています。それはその人自身の存在論的な問題です。生きているというその人の存在そのものが危ういと、その人自身が気づいているからです。

 事物の普遍的な有限性が、主観的に人間の有限性へと変容するに伴って、言いようもない不安がその人の心に顔をもたげます。仏教の基底にあるのは、この種の存在論的な厭世主義です。仏教、そしてその結果としての仏教哲学は、現世で今ここに存在する人間主体の根本的な有限性という形をとった普遍的な事物の変化を自覚することに、その起源があります。これがまさに、ブッダ自身が至高の「叡智」を求めて、世の俗事を離れるという行動に至った動機です。このことは、悲しみの濃い影が、仏教史全体を暗くしている事実を説いているかのようです。悟った後に人が生涯まとう明るい外見にもかかわらず、さらに、約束された「西方浄土」が壮麗な輝きをもっているにもかかわらず、仏教の世界観は存在の悲劇的な感覚によって彩られています。

 ここまで、それほど問題なく読み進められるのではないでしょうか。

 次回、本日紹介した仏教的な世界観と対照させながら、宋学における「変化」の世界観を説明します。

(棋客)