達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(3)

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 井筒俊彦著(澤井義次監訳、金子奈央・古勝隆一・西村玲訳)『東洋哲学の構造 : エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会,2019)の中から、第六章の儒教形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」を読んでいます。第三回です。

 

 今回は、前回紹介した儒教哲学の根拠が『易経』にあることを述べるところです(p.261~)。

 簡素で地味ながらも、根本的に楽観的な儒教哲学の本質は、万物の「変化」の特殊な解釈によって決定づけられます。この解釈は『易経』の基本的な世界観によって決定づけられます。世界の万物は、終わりなく動き続けています。つまり、それらは一瞬たりとも止まることなく変化し続けています。あらゆるものの中核それ自体に影響するその動きは、必ずそれをその終わりへと導きます。しかし、これは決して儚さの暗示ではないのです。なぜなら、終わりが新しい始まりと直接につながっているからです。その普遍的な変化は死に向かう動きではありません。ちょうどその逆に、それはむしろ生命、新しい生命に向かう動きなのです。儒教哲学は根本的に楽観的です。それは普遍的な変化の中に、決して終わることのない普遍的な生命力の創造的な活動を見ているからです。『易経』は言います。

 〈道〉は毎日、新しい。これがその輝かしい働きなのだ。(『易経』繋辞伝上)

 「道」の輝かしい働きは、四季の定期運行する循環――春、夏、秋、冬、そして再び春……と無限に続く循環――によって典型的に例示される、厳密に調整された原理に従って実践されます。それを知覚するのが容易であるかどうかにかかわらず、あらゆる宇宙の動きは循環します。つまり、それは確実なリズムと無期限性をもっているのです。そのリズムは二つの宇宙の原理である「陰」と「陽」の気の活動によって与えられ、それらは互いに厳密な相関関係をもって不断に盛衰を繰り返します。(中略)

 こうしてみてみると、やはり第一回で紹介した仏教的世界観とは、物事の変化のとらえ方が対照的であることがよく分かります。井筒は続けてこう述べています。

 こうした文脈において、永遠に一時的であること、もしくは無常であることこそ、それ自体、永遠の永続性なのです。事物の無常は、それらの衰退や滅亡へ落ちていく不可避的な運命を表してはいません。むしろ、それは「道」の永遠の不変性を表しています。儒教哲学はこのように、事物の絶え間ない変化を「輪廻転生」とみなす仏教とは対蹠的な立場を採ります。

 そして程明道の発言を引用します。

 仏教は「陰」と「陽」、昼と夜、古さと新しさというリアリティを知らない(それは単にそれらを「輪廻転生」とか幻であると考えている)。それは、「形而上」(すなわち、超感覚的、超物理的もしくは形而上的)である物事について話すことにとても興味を持っている。そんな教説がどのように儒教の聖人たちの考えと同一になることができようか。(『二程遺書』巻十四)

 『二程遺書』の原文は「佛氏不識陰陽晝夜死生古今、安得謂形而上者與聖人同乎」だと思います。上の訳文には若干問題があるでしょうか。

 儒教の哲学者は、感覚で捉えられる現象を誤りや幻想の現れとして蔑んで扱って、リアリティの視野からできるだけすぐに追いやったりはいたしません。反対に、形而下的なものは彼らの観点では、形而上的なものと同様に現実なのです。終わることのない変化と変容によって特徴づけられる形而下的な世界は、その活動的な観点からは、まさに形而上的なもの以外の何ものでもありません。リアリティの形而下的次元において観察できる変化と変容は、永遠に不可変的な形而上的な法則の動的な本質の直接的かつ可視的な現れなのです。(中略)

 ここから井筒は『易経』の第三十二の卦である「恒」の解釈を説明します。

 私はこの卦が耐久性と恒常性を象徴していることのあまり込み入った理由の説明には立ち入りません。ここでは、次の点を述べるだけで十分でしょう。すなわち、上方の三卦(震)は雷を、下方(巽)は風を象徴しており、その卦はしたがって、風に運ばれる雷、あるいは互いに合体している雷と風を象徴しています。ここでの話題に特に関係があるのは、とどろく雷と吹く風はともに激烈な動きを象徴しているということです。二つの激しい動力は互いに強まり、合体した機動性は極限へ向かいます。今回のエラノス会議の中心的な主題がもつ視点からは非常に重要なことですが、この卦〔恒〕がもつ持続する存在と不可変性を指し示す構造のために、二つの象徴は極度の機動性を指し示すのに使われます。

 そして井筒は、『伊川易伝』の「恒」卦の注釈を引用します。 

 何ものも、ゆるぎなく不動であって、そうであるのに不変である(「恒」)ことなどありえないことは、普遍的に真実だ。何でも動き(そして変化し)必然的に終わりを迎えるが、その終わりは常にじかに新しい始まりに受け継がれる。これはまさに、永遠に恒常的に、そして果てしなく、(〈道〉の成り行きを)保つものなのだ。……
 したがって、不変はゆるぎなく固定された不動を意味するのではない。絶対的に不動であるものは、何であっても不変ではあり得ない。むしろ、不変は時の流れとともに果てしなく変化や変容を続けることにあるのだ。
 自然界の中で永遠に変化しないものと人間関係の中で永遠に変化しないものは、真に〈道〉を知る人たちだけに分かる。

 原文は複数個所にまたがっていて分かりにくいのですが、おそらく「天下之理、未有不動而能恒者也。動則終而復始、所以恒而不窮」、「故恒非一定之謂也。一定則不能恒矣。唯隨時變易乃常道也」、「天地常久之道、天下常久之理、非知道者孰能識之」かと思います。

 世界の万物は流動の状態にあります。それらは止まることなく、無数のそれぞれのあり方で変化し変容します。太古の儒教の聖人たちは、これらの変化の不定の姿を基本的な型へと変換するために六十四卦を設けました。これらの普遍的な変化の基本的な型の下で、「叡知」を備えた人は、それらの卦を内側から支配している永遠の法則を把握しなければならず、さらに、この独特の変化の法則の下で、最上の変化の「法則」に気づくことが期待されます。そこで先ほど引用した一節によって、参考となる言葉が作られ、初めて真に「道」を知る人となるのです。

 しかしながら、儒教的な変化の捉え方の意味と意義は、私たちがその基礎となる形而上学的な構造を把握した場合にのみ、十分に理解することができます。さらにまた、儒教形而上学的な理論は、その基礎となる精神修練の独特な方法を探究した場合にのみ、十分に理解可能なものとなるのです。

 ここまでで、本章の導入部分を読み終えることができました。ここから先の部分で、井筒は宋学における「修養」の在り方を説明しています。むしろそこが本章の本編なのですが、ブログで紹介するのはこの辺りまでにしておきましょう。以下はぜひみなさんご自身でお読みください。

 次回、本章の全体のまとめの部分を引用しながら、関連する他の研究を合わせて紹介しようと思います。

(棋客)