達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(2)

前回→ 井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(1) - 達而録 

 

 井筒俊彦著(澤井義次監訳、金子奈央・古勝隆一・西村玲訳)『東洋哲学の構造 : エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会,2019)の中から、第六章の儒教形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」を読んでいます。第二回です。

 

 前回、仏教哲学では、「普遍的な変化」はカゲロウのように儚く無常な「存在の非永遠性」という意味で理解されることを述べました。今回は、これに対して儒教哲学(特に宋学)がこれとは異なる見方で世界を捉えることが説明されます(p.259~)。

 儒教に向かって、全く異なる世界へと踏み出すことにいたしましょう。儒教の世界観には、暗い場所がどこにもありません。儒教哲学は存在の悲劇的な感覚とは無関係なのです。ここには、びくびくするような恐怖は見えませんし、不安もなく、悲しみの跡さえありません。悲劇の存在であるとか、内的な危機の主体であるとか、そのように人が見なされることなど、全くありません。これはごく当然なことです。なぜなら、儒教哲学者の目をとおして見る世界には、人を落胆や失意や憂鬱へと向かわせる何らの要素もないからです。先にも見ましたように、確かに普遍的な変化に対する認識は、儒教哲学の出発点であり基盤です。この点では、またこの範囲では、儒教はまさに仏教と同じです。しかし儒教においては、その要点は、万物の絶え間ない変化が存在の非永遠性や儚さとして捉えられるのではないということです。変化はまさに恒常性の現れです。変化こそが永遠の「法則」です。変化こそが恒常性です。

 「普遍的な変化」を認識することは仏教・儒教に共通するのですが、儒教ではこの「普遍的な変化」そのものが「恒常性の現れ」であり、「変化こそが永遠の法則」というように考えます。

 続けて井筒は、程伊川とその弟子の韓持国の会話を引用します。

 ある夕方、韓持国が程子とともに坐っていた。韓持国は悲しくふさぎ込んで言った。「ああ、もう夕方です。もう一日が経ってしまいます!」
 これに対して、程子は言った、「それは永遠の〈法則〉以外の何ものでもない。常にこのようにあり続けてきている。それに嘆き悲しむ理由はない。」弟子は言い返した。「しかし、老人たちは世を去りつつあります。」程子は「あなたは去らなくてもよい。」
 韓は、「私が世を去らないでいようなど、どうやって可能になりましょうか」と言った。程子は述べた。「それが不可能なら、あなたは去ればよい。」(『二程遺書』巻二十一、第一)

 『二程遺書』の原文は「韓公持國與程子語。歎曰、今日又暮矣。程子對曰、此常理、從來如是、何歎為。公曰、老者行去矣。曰、公勿去可也。公曰、如何能勿去。子曰、不能則去可也」です。

 井筒はこの一節を以下のように説明しています。

 この会話は、禅の「公案」として、大変よく用いられます。弟子の韓持国は、「ああ…もう一日が経ってしまいます!」と言います。その日は過ぎ去ってしまい戻ることはありません。それ自体は、絶えず繰り返す変化ですが、夕方は私たちの心に悲しみと憂鬱をもたらします。忍び寄ってくるその暗闇は、私たちに衰退と老いを想い起こさせます。それはおのずと老齢と結びついており、人を死の意識に近づけます。「老人たちは世を去りつつあります。」程子から見ますと、そのような取り組み方は、たとえ常識的な立場からはごく自然であっても、根本的に誤っています。彼は明るい日光が夕方の暗闇へと変容するのは永遠の法則の創造的な活動の結果にほかならないとただ指摘することによって、それを一突きで拒絶します。彼はこの永遠の法則を「常」と呼びますが、これは文字通りには、「不変な」または「不変」を意味します。彼の観点からすると、変化すなわち非恒常性のように見えるものこそ、恒常性なのです。

 ここでは、弟子が「物事が変化してしまうこと」に対する悲哀・慨嘆を表現するのに対して、程伊川は「これは永遠の法則であり、嘆き悲しむ理由はない」とあっさりと否定します。程伊川は、こうした「変化」こそが永遠の法則たる「常」であることを見出すのです。

 「常」とは、普遍的な変化の過程が永遠の法則によって厳密に支配されていることを示します。存在世界に絶え間ない変化があることと、あらゆる変化が、やみくもにではなく、同様の変化が不断にそれ自体を繰り返すように、そして常に同一の軌道を取るように確実に調整された原理に応じて起こること――、こうしたことがまさに「常」の意味です。したがって、程子は自然の中に見いだされるものとしての事物の変化を、怖がることなく、不安がることなく穏やかに認めて、次のように言います。「生命のある所には、必然的に死がある。始まりがある所には、必然的に終わりがある。このようにしてのみ、普遍的な恒常性は永遠に保たれているのだ」(『二程遺書』巻七)。したがって、日常的な脈絡において、永遠の不変性を意味する「常」は、儒教の哲学者たちにとっては、永遠の可変性を意味しております。

 程氏の引用の原文は「有生者必有死、有始者必有終、此所以爲常也」です。「『二程遺書』巻七」とありますが、正確には「『二程外書』巻七」のようです。

 では、この「常」の考え方、普遍的な変化を永遠の法則とみなす考え方は、どこから来たのでしょうか。次回、これが『易』から来たことを述べます。

(棋客)