達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

アンリ・マスペロ『道教』(2)

 次回に引き続き、アンリ・マスペロの名著『道教』川勝義雄訳、平凡社東洋文庫329、1978)を読んでみます。

 もし道教徒が仏教徒と同じくらい細心で、六世紀初頭以来、かれらのコレクションに関する一連の古い目録をすべて保存していたとすれば、われわれは三つの貴重なよりどころを得たことであろう。というのは、道蔵の古い目録は少くとも三つ作成されたからである。その第一は、劉宋王朝の命令によって、四十一年に陸修静が完成したもの、第二は、『三洞瓊綱』という書名で、七一三年から七一八年に勅令によって張仙庭が編纂したもの、第三は、北宋のはじめ、徐鉉監修のもとに勅令によって編纂され、やがて一〇〇八年から一〇一七年のあいだに、王欽若監修のもとにその補遺がつくられたものである。この第三の目録は補遺とあわせて、はじめ『新録』とよばれたが、宋の真宗皇帝に奉呈されたのち、皇帝から『宝文統録』という題をたまわったものである。しかし、これらの目録はいずれも現存しない。ただ二番目の唐代の目録の数行が残っていて、それが二十四の書名をとどめているにすぎない。にもかかわらず、唐代のはじめの道教書のコレクションがどういうものであったかという観念を得ることは可能である。それは、この時代に作られた抜萃文の選集があるからで、『無上秘要』百巻と『三洞珠嚢』十巻という二つの選集が残っている。『三洞珠嚢』の著者名とその時代は唐の王懸河であって、『道歳』のなかの書名の下に偶然保存されていた。『無上秘要』は著者の名もなく、年代も不明な作品であるが、七一八年に書かれたその写本の重要な断片が、ペリオ氏によって敦煌からもたらされた文書のなかに発見されている。したがって、これはおそくとも八世紀のはじめには作られていたものである。この二つの選集によって、われわれはおそくとも七世紀に遡る一九四種の書名と、その多くの抜き書きを知ることができる。

 ここまでで、敦煌本によって7世紀まで遡る書名のリストを得ることができると分かりました。では、さらにさかのぼることはできるのでしょうか?

 ところが、さらに古く遡ろうとすると、研究はさらに困難になる。六世紀についていえば、仏教側からする反道教論争の作品に、道教書の多くの書名と文章とが引用されている。五世紀については、唐代の目録を含む敦煌写本の断片の中に、今日では散伏した前述の陸修静の目録のことが正確に載せられていて、これが約二十ばかりの書名を知らせてくれる。さらに、六世紀前半の道士、宋文明の著作で、今日亡んでいるものの一つ、すなわち『道徳義淵』という書物の一文が珍しく保存されており、そこに『上清高上八素真経』という書物が引用されている。この書物は今日までうまく保存されていて、今度はこれが、不死を探究する人々の学ぶべき二十四の書物を、いろいろな修行の進行程度に応じて列挙している。以上のことから、約五十の書物が五世紀の中ごろのものであることがわかる。最後に四世紀については、二つの重要な書名リストがあり、その一つは四世紀後半、もう一つは四世紀前半に属する。すなわち、『紫陽真人内伝』のなかに約四十種の書名が書かれている。この『紫陽真人内伝』という書は、不死に到達した周義山という道士の伝記であって、そこに偶然書きのこされた写字生の識語に、「三九九年二月二二日に筆写し了る」とあるところから、この書が四世紀末より以前に作られたことがわかる。もう一つのリストは、これよりもはるかに重要である。すなわち、三二五年から三三六年のあいだに死んだ錬金術師の葛洪は、その著『抱朴子』の中で三百以上の書名を引用しており、その大部分は錬金術と符籙に関するものであるが、また教義の書や儀式の書も含まれている。

 以上のように、われわれは十分確かな若干の基点をもっている。そしてこのことは、西紀二世紀から唐代までの道教文献に関して、不完全ではあるにしても、なおかなり妥当な概観を得る上に手助けとなるものである。

 『抱朴子』外篇の「遐覧篇」は、最古の道教経典の目録としてよく知られています。ただ、そこに載せられている書籍のほとんどは現存しません、

 まずわれわれは、二世紀から四世紀の書物で、一群の同じ性質のものを決定することができる。それらは相互に親近な関係にあり、なかんずく、同一の道教的環境から出たことが明らかであって、すべてが同じ根本的な思想につながっている。そのなかにはまず、おそらく最も古いと思われる『黄庭玉経』があり、ついで『黄庭玉経』を体系的に整理したと思われる『大洞真経』三十九章がある。前者はきわめて雑然たるもので、隠密な表現と神々の名に満ちており、その多くの箇所は今日ほとんど理解できない。それは古代においても、そこに述べてある考え方に親しんでいた読者にとってさえも、決して読みやすいものではなかったであろう。後者はよりよく整理されており、文体もずっと簡単で、はるかにやさしく、したがって一そう流布していたと思われる。この二つの経典は、ともに『抱朴子』に引用されているが、それは非常に古いものだと思われる。なかでも前者は『列仙伝』に引用されているから、少くとも二世紀にまで溯るものである。

 この二つの経典から、それを引用する一連の、より新しい経典が出てくる。すなわち、先にのべた『八素真経』や、『大有妙経』・『七転七変洞経』・『金闕帝君三元真一経』、および『三天正法経』がそれである。これらの書はすべて先の二つの経典を引用しているが、逆にこの二つの経典にはこれら一連の書のことは全く出ていない。したがって、これらの書は確実に先の二つの経典より後の作品である。しかし一方では、これらのすべての書について述べている『紫陽真人内伝』よりも時代が早い。そしてこれらの書は相互に引用しあっているから、私は全く同時代のものだと考える。おそらくそれらは四世紀前半のものであろう。

 ところで、これらの書はすべて『大洞真経』を非常に重要視し、これに特別な敬意を払っている。そして、そこにのべられている考え方は、この経典と『黄庭玉経』の考え方にはなはだ密接につながっている。きわめて緊密な関係にあるこの一組の書は、私の考えでは、『大洞真経』の伝統をしっかりとひきうけている同一の道教グループから出てきたものと思われる。

 『大洞真経』を尊ぶグループとは、つまり上清派(茅山派)のことです。

 ところで、『大洞真経』を所依とする書物は大して困難なしにその著作年代を決定できるとしても、『霊宝』を所依とする書物について正確な結果に到達することは一層困難である。霊宝とはそれ自体、聖なる諸経典であって、世界のはじめ、「純なる気」の凝集によって自然に、黄金の彫りのある玉札の形で創造されたものである。これを読むことができたのは、ただ元始天尊のみであって、かれは同じく世界のはじめに、気の凝集によって霊宝と同時に自然に形成された神であった。そこでかれほど至純でないために、霊宝について直接沈思することができなかった神々は、元始天尊がそれを詠誦するのを聞いて、自分たちで玉札の上にそれを文字にして彫りこんだうえ、天宮に保存したのである。私は『霊宝』という言葉がいつから使用されはじめたのか知らない。しかし『霊宝』の最も古い諸経典は、やはり少くとも三世紀まで溯るものであって、それはある種の宗教的儀式に関する次第書きであったらしい。この霊宝グループにおける教義の書は、もっとおくれて現われたと思われる。その中で最も重要なものは『元始無量度人経』であって、これは四・五世紀のさかい目のものであろう。この時期は『霊宝』の伝承が普及して、道教の中でそれが第一位を獲得しはじめたように見える時である。

 上清経に比べ、霊宝経の系統は成立時期がばらばらだとされています。また、仏典の影響が強いとされるのも霊宝経です。

 この二つの作品グループには、救済の仕方と、したがって宗教全体とに関して、それぞれちがった考え方を表わすところの二つの傾向が具体的に現われている。しかしこの二つの傾向は、その根本的な相違にもかかわらず、対立者として表われたのではない。『霊宝』の道士たちは、『大洞真経』その伝承をうけつぐ他の書を知っており、これを攻撃するのではなく、逆にこれを引用し、利用する。これにとって代ろうとするのではなくて、これを完成し、継承する。『大洞真経』の道士も、前者の主張に抗議するのではなく、全く自然にそれを受けいれる。どちらの側にとっても、大事なことは教義よりも礼拝勤行の実践的な面であった。これらの書が浮彫にして見せる二つの傾向は、道教にはいつの時代にも存在したが、ただその比重は常に異なっていたようである。すなわち、『霊宝』の方はとくに三・四世紀以後、一方では自然発生的に、他方ではある種の仏教教理の影響をうけて発展したように思われる。そのころ道教徒はまだ、仏教のなかにかれら自身の宗教の特殊な形が見られると信じ、かれら流にそれを偏向して理解していたのである。

 こうして上清経・霊宝経についての文献学的な前提と、大きな方向性が提示されたわけです。以上のマスペロの議論は、現代でも概ね認められているものと思います。

 序文の最後のまとめが、以下の部分です。

 私は西暦初頭数世紀における道教の全発展を、全般的に叙述できるとは夢にも思っていない。それは叙述が非常に長くなりすぎるからではなく、『霊宝』の諸経に関する若干の要点を十分明快に理解するまでに至っていないからである。したがって私はそれをしばらく措き、四世紀に『大洞真経』を所依とした道教界の研究を主として行なうにとどめる。まず最初に、私は三ないし五世紀の道における信者の個人的宗教生活と「永生」の探究を検討し、ついで一八四年の黄巾の乱前後における教会組織と儀式とかれらの生活をしらべ、最後に、中国最初の仏教教団における仏教と道教の関係について調べたいと思う。しかしこういう問題について完全な研究を示そうというのではない。礼拝の儀式・教理・組織・歴史などのすべてが、全く、あるいはほとんど知られていないような宗教にとりくむ場合、多くの欠陥や誤謬は避けることができないであろう。私はただ若干の見通しを立てるだけにとどまらねばならないが、それが後日の研究に、ある程度、役立つようにと願っている。

 一つの分野を切り開き、体系的な著述を完成させた著作というものは、どの分野の研究者であれ、読んでおく必要があるものなのでしょう。私も中国学に限らず、さまざまな分野の本を読んでいかなければなりません。

(棋客)