達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

劉咸炘の目録学講義(4)

 前回、劉咸炘「目録学」の部目篇を読んでいる途中でした。そして、前回扱った部分の後ろで、章学誠『校讐通義』宗劉篇、劉咸炘『続校讐通義』通古今、治四部などが引かれると書きました。

 というわけで、今回はまず劉咸炘『続校讐通義』の「通古今」篇を見ておくことにしましょう。『続校讐通義』というタイトルの通り、章学誠の『校讐通義』に続けた著作を作ろうという意図のある著作です。

 似たような話が何度も出てきて恐縮ですが、お付き合いください。

 古くは「七略」といい、いまは「四部」という。章先生(章学誠)は、四部分類を「七略」に戻すことは不可能だが、人々が「七略」の意図を四部の中に残していることを明らかにしており、本当に素晴らしい。しかし、章氏の撰じた『和州志藝文書』は、「七略」の古い方法を専らに用いていて、「七略」には存在しない史部の類目は別に「紀載」の分類を作り、さらに無理やり「文集」を儒家・雑家の二家にまとめている。これらは、鄭樵よりはわずかに優るとはいえ、その偏りや誤りは補えるものではない。また、収録する書物が少なく、分類も備わっておらず、折衷しようがない。「七略」は何度もの変遷を経た後に四部になり、同じところや異なるところが入り混じってくるなかで、四部になるという大勢はすでにできあがっていて、どうしても「七略」に戻すということは不可能なのだ。よって、章先生の定めた分類は使うことができない。かといって、仮にそのまま四部の方法を用いて、ただ叙録で数語の説明を加えただけで、四部の部目の是非や「七略」の法則の在り処については不問としてしまうのなら、それはそれで空理空論に陥ってしまうだろう。

 中国の伝統的な図書分類の方法は「四部分類」で、いまも中国の古典籍を多く所蔵している図書館ではこの方法がよく用いられています。しかし、「四部」の分類法が確立したのは『隋書』経籍志などを待ってのことであり、漢代、最初の宮廷の図書目録が作られた際には、六部の分類が用いられていました。劉歆によって作られたこの目録が「七略」と呼ばれるものです(六部+輯略(叙録)で「七」となります)。

 ここまで述べてきた目録学の骨子が、「七略」の時点で既に現れているとされることから、目録学における「七略」の立ち位置は別格です。劉咸炘は、章学誠が「七略」の意義を明らかにしたことについては、高く評価しています。一方で、実際に七略そのものを現代に通用させようとすることには否定的です。

 以下、続きを読んでいきます。

 私は、四部が「七略」と同じであることを明らかにすることによって、(校讐の学に)通じた。「七略」の大義が明らかであれば、それがとりもなおさず四部の大義である。(ただ、)私のいう四部がまことに「七略」と合うと言っているのであって、世俗でいう四部のことではない。では、「七略」の大義とは何だろうか。「六藝」が群書を統一していて、幹である。諸子・詩賦・兵書・術数・方技は、枝である。諸子は幹から出て枝となり、小宗のように別で門戸を立てている。詩賦・兵書・術数・方技は、幹にくっついた枝であり、正宗のなかにある一室で、人が多いから宮を別にしているようなものだ。班孟堅(班固)は、劉歆(七略の編纂者)の意図を理解していたといえ、(『漢書』の)「志」に「藝文」と名付けた。「藝」とは六藝のことで、「文」とは諸子以下が該当する。『隋書』経籍志が「藝」を「経」に変え、「文」を「籍」に変えたのも、班固の意図を理解していたようだ。

 正宗・小宗は、本家・分家のようなものと考えればよいでしょう。「六藝」つまり六経が幹・正宗となって、諸学を統合しているさまを示したことに、七略大義があるというわけです。

 『続校讐通義』には「明隋志」篇があり、『隋書』経籍志についても力を入れて議論されています。劉咸炘は、もともと章学誠が隋志についてあまり議論していないことについて疑問を持っていたようです。

 続きを読みます。

 では、四部の大義とは何だろうか。史・子が幹である。六藝は、幹の根である。別に経部が作られ、経についての解釈が収められ、六藝の流れは史部に入り、別に出たものが子部となった。文集は詩賦の一略から出て拡大したもので、兼ねて六藝の流れを収め、最後に置かれていて、幹の末となっている。これを家に譬えると、史は大宗、子は小宗、経は廟、集は小宗で雑居しているところである。経・史は、「七略」でいう六藝である。子は「七略」でいう諸子・兵書・術数・方技である。集は、「七略」でいう詩賦である。どうして、章氏のように史部の書目を分裂させ、文集を無理に編集することでやっと「七略」に似せられる、ということになるだろうか。

 史・子を幹とするのは何故か…ということについては、ただ目録学の流れだけではなく、章学誠を受けた劉咸炘の学問観が出ている部分と言えそうです。次回の記事で、「通古今」篇のまとめの部分を読みますが、そこで関連する話が出てきます。

 

(棋客)