達而録

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「曲礼」について(上)―『礼記目録後案』より

 礼記経書の一つですが、成立過程が複雑であり、全体で体系だった書になっているというわけではありません。『礼記』を構成する四十九篇のなかには、祭祀に関する「祭法」「祭義」、喪服に関する「喪服小記」「服問」、子思学派の著作とされる「中庸」「緇衣」、『呂氏春秋』との関係が指摘される「月令」…などなど、様々なジャンルの篇が混在していて、内容を整理するだけでも大変というものです。現行の『礼記』は前漢の戴聖『小戴礼記』の系統を引くものとされていますが、その『小戴礼記』が、どのような基準で各篇を集め整理したのか、よく分からないのです。

 さて、礼学の大成者である後漢の鄭玄は、三礼目録』という書を作りました。この書自体は現在は失われた本ですが、『経典釈文』『礼記正義』『周礼疏』『儀礼疏』といった書に引用される形で残存しており、その内容を一部確認することができます。

 そしてこの『三礼目録』の『礼記』部分は、『礼記』の各篇に対して、鄭玄による概説が示されるとともに、劉向の『別録』をもとにした分類が書かれています。つまり、ここを読めば、鄭玄による各篇の内容説明と、劉向によるジャンル分けの両方を確かめることができるわけです。

 まず、『禮記』の最初の篇である、「曲禮上」についての鄭玄の目録を掲げておきます。

『三禮目録』禮記・曲禮上(『經典釋文』所引)

 名曰「曲禮」者、以其篇記五禮之事。祭祀之説、吉禮也。喪荒去國之説、凶禮也。致貢朝會之説、賓禮也。兵車族鴻之説、軍禮也。事長敬老執贊納女之説、嘉禮也。此于《別録》屬制度。

 この『三礼目録』の記述を読み解きながら、その篇の内容について独自の整理を施したのが任銘善『礼記目録後案』です。任銘善(1913‐1967)氏は、語言学、訓詁学の分野に通じ、『辞海』の作成にも携わった学者です。

 上の引用文はあくまで「目録」ですから、現代語に翻訳するだけならそれほど大変ではありませんが、任氏の導きを借りてその先の探求を進めることによって、礼学全体への認識を深めることができるのです。

 以下、『礼記目録後案』の内容を見ていきましょう。便宜上、節に区切って示していますが、原書にこのような区分はありません。

任銘善『禮記目録後案』(齊魯書社、1982、p.3-6)

【第一節】
 ①陸德明曰「《曲禮》是《儀禮》之舊名、委曲説禮之事。」孔頴達曰「此篇既含五禮、故其篇名為《曲禮》。曲禮之與《儀禮》、其事是一。以屈曲行事則曰《曲禮》、見于威儀則《儀禮》。」今案、陸孔二家本鄭君為説。鄭君《禮器》注曰「曲猶事也、曲禮謂今禮也。」又《奔喪》、《投壺》目録皆云「逸《曲禮》之正篇。」故二家以曲禮為儀禮。

 ②「五禮」之名見《周官・大宗伯》文。《司徒・保氏》「乃教以六藝、一曰五禮。」鄭注「五禮、吉、凶、賓、軍、嘉也。」

 ③「于《別録》屬制度」者、《別録》劉向所作、其書于《禮記》四十九篇、分屬制度、通論、喪服、世子、祭祀、子法、吉事、明堂陰陽、樂記。惟《投壺》云「吉禮」、禮乃事字之誤、説見下。據此知《別録》于《禮》目本皆有説、鄭君作目録者、本劉氏《別録》也。

 ①まず、この篇の題名「曲礼」の名前について。陸德明『経典釈文』、孔頴達『礼記正義』は、こまごました礼の規則を述べることから「曲礼」と名付けられたとし、これを「儀礼」と同一視して説明しています。この説は、鄭玄説に由来するものとされています。

 ②次に、鄭玄のいう「五礼」の典拠を述べます。『周禮』司徒・保氏に六藝の一つを「五礼」とする記述があり、その鄭注に五礼とは「吉、凶、賓、軍、嘉」であると説明されています。

 ③最後に、劉向『別録』における分類について説明します。劉向の『礼記』の分類は、制度・通論・喪服・世子・祭祀・子法・吉事・明堂陰陽・樂記の9つで、曲礼は「制度」に属しています。

【第二節】
 孫希旦《集解》曰「《曲禮》者、古禮篇之名。《禮記》多以簡端之語名篇、此篇名《曲禮》者、以篇首引之也。鄭氏謂篇中記五禮之事、故名曲禮、非是。」又曰「此篇所引之《曲禮》、則別為古禮篇之名、非《禮器》所言之曲禮。蓋「曲禮三千」即《儀禮》中之曲折、而此所引「母不敬」以下、其文與《儀禮》不類也。而此篇之為《曲禮》、則特以篇首引《曲禮》而名之、不可謂此篇皆《曲禮》之言。」

 今案、孫氏駁鄭君之義是也、而以「曲禮三千」為《儀禮》、則仍徇鄭注之非。此篇雜取諸書、如「若夫坐如尸、立如齊」二句取之《曾子》、而失删若夫二字、其迹最顕。蓋出之西漢儒者之摭拾、且雜出漢人之制、首引《曲禮》之文、故取以為一篇之名耳。

 ここからしばらく、【第一節】①の「曲礼」の名前の由来についてという点と、これが他文献に引かれる「曲礼」の語とどのような関係があるのかという点について、考察が進められます。まず、清朝考証学の成果の一つである孫希旦『禮記集解』の説を引用していますが、孫説の要点は以下の二点です。

 1.「曲礼」というのは、古礼の篇名である。『礼記』においては多く最初の語によって篇名を付けていて、この「曲礼」というのも、篇首の言葉を引用しただけである(曲禮篇の最初は「曲禮曰、毋不敬、儼若思、安定辭、安民哉。」という言葉から始まっています。)。鄭玄が五礼から曲礼と名付けられたと説明するのは、誤りである。

 2.この篇で引用される「曲礼」というのは、古礼の篇名であって、『礼記』礼器篇に云われる「曲礼」とは異なる。『礼記』礼器に云う「曲禮三千」とは、『儀礼』の細々した礼をいうのである。この篇の引用する「母不敬」以下の語は、その文章が『礼禮』とは似ていない。また、この篇が「曲礼」というのは、篇の最初の語から名付けられただけで、この篇の全てが「曲礼」の言葉というわけではない。

 そして、原文の「今案」以下が、任氏の意見です。任氏は孫説に概ね賛成しています。ただ、礼器篇のいう「曲禮三千」を『儀礼』とすることにだけは異論があるようで、これは後に詳しく説明しています。

 また、任氏は孫説を継承し、この篇が「曲礼」なる書(篇)のそのものではなく、様々な書からかき集められたものであるということについて、この篇の中に『大戴禮記』曾子事父母篇の「若夫坐如尸、立如齊」の語が見えていることを挙げます。

 

 

 「曲礼」の名が、ただ篇の頭の言葉を使っただけで深意は無い、という説はなかなか面白いですね。今はどういう考え方が一般的なのでしょうか。

 以下、次回に続きます。

(棋客)