達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

「選挙に行こう」と呼びかける時に考えるべきこと

 先日、衆議院選挙が行われました。選挙前に政権交代の機運があり、関心の高い選挙という位置づけだったはずで、実際熱気を感じるところもありましたが、結局のところ投票率はさして高くありません。投票率の低さは「政治への無関心」の指標として捉えられることが多く、近年は「投票に行こう」という呼びかけがよくなされているのを見かけます。この呼びかけには、大筋において私も同意しますし、実際私も選挙に行きました。

 ただ私は、場合によっては、「投票に行こう」という呼びかけに「なんだかなあ」と思うことがあります。また、選挙自体への注目のされ方や報道のされ方にも違和感を覚えることがあります。今日はそのもやもやについてまとめてみたいと思います。(最近考えたことを深夜に雑にまとめたので、色々後で修正を入れるかもしれません。)

不当な理由で選挙権を奪われた人がいるということ

 まず、日本に永住権のある人でも、外国人には選挙権がありません。特に、何世代にもわたって日本に住み続けている在日朝鮮人に選挙権が無いのは深刻な不公正です。戦前、大日本帝国の植民地で、同じ「国内」という扱いで朝鮮から渡ってきた人々が、戦後は「みなし外国人」とされ、選挙権が剥奪されました。国家体制が人を振り回し、一部の人の人権を奪う過程がよく分かります。国連からも在日朝鮮人の選挙権を認めるように勧告が出ています(→在日コリアンの参政権についての懸念・勧告 | 反差別国際運動(IMADR))。

 こういう現状がある中で、たとえば「選挙に行かない奴はダメ」とか「NO 選挙 NO LIFE」みたいな言い方は、選挙権が不当に奪われているがために選挙に行けない人がいることを踏んでしまっているので、他の表現にするべきだと思います。

 また、選挙に行くキャンペーンの一環として、「投票済証」を見せることで割引を得られるサービスもあります。これも選挙割を奪われた人を思うと、私は歓迎できないです。仮に、「選挙権がない人は同じ特典を受けられます」としたとしても、無用なアウティングの強制になりかねず、あまり良い仕組みではないと思います。(どうしても類似のサービスがやりたいなら、たとえば「あなたが行った政治的アクションを共有してくれたら割引」とか、店内に貼るビラを受け付けるとか*1、何か他の方法を考えた方がいいと思います。)

投票所へのアクセスの格差があるということ

 上の問題と重なりますが、投票所の締切時間繰り上げ、被災地における投票所のリソース不足、障害者に課せられる交通手段の格差など、さまざまな理由で「選挙権があってもアクセスできない人」がいます。先日見かけたSNS投稿では、障害のある子どもの世話から手が離せず、選挙に行けないという話がありました。期日前も込みでずっと労働だったという人もいるでしょう。急な日程での選挙だったこともあり、在外投票も難しいところが多かったようです。「投票に行こう」と呼びかけるのなら、こうした問題にも目を向けて、合わせて改善要求していかなければなりません。

 また、少し別の問題になりますが、「秘密投票で分かりっこないんだから、律儀に組織票を守ってどうする」みたいな批判も、あまり好きではありません。当人はそんなこと百も承知で、それでも内面まで支配してくるのがその「組織」なのです。批判するべきはそういう組織のあり方であって、組織の通りに動く一個人をこき下ろしても、何も変わらないのではないかと思います。

よって選挙権は一つの特権であるということ

 以上から分かる通り、そして選挙権がより多くの人に獲得されてきた歴史を振り返ってきても分かる通り、選挙権があること、投票できることのは一つの特権です。つまり、選挙の際には、選挙権を持った人が、自分の特権をどう行使するか、ということが問われているわけです。

 さて、より解放的で、公正な社会にしていくためには、特権のある人が、特権を奪われた人のために行動する(特権を分配する)ということが必要になると私は考えます。

 そして選挙権が特権である以上、問われるのは「特権を行使したかどうか」ではなく、「特権をどのように行使したか」であるはずです。「選挙に行こう!」「選挙に行くのは良いこと!」という感覚でいると、そのうち投票率80%で極右政権が誕生することになると思います。

 たとえば、男性特権を持っている人は、「その特権を、特権が無い人のためにどのように使うか」を考えることが求められますよね(男性特権と選挙の特権はパラレルには考えられないですから、かなり乱暴な比喩になってしまいますが)。これが、その特権に対して自罰的感情に陥ることでもなく、ましてやその特権を指摘されたときに「そんなものはない」と反撃することでもないのは言うまでもありませんが、また「特権を使えてえらい」ということでもありませんよね。問題は「それをどのように行使したか」であって、責任が生じるのはそのポイントなのです。(つまり、「特権を持っていること自体」は社会構造の問題で一個人が責任を負う話ではないが、「特権をどう使うか」にはその人に対する責任が生じるのであって、特権の使い方によっては批判され得るということです。)

選挙だけが政治を決めるわけではないということ

 確かに、選挙の結果は、一つの指標にはなるものですし、政治に大きな影響を与えます。しかし、選挙だけが政治の行く末を決めるわけではありません。選挙以外によって政治が大変革を迎えたことは過去にいくらでもあります。

 たとえば、今回の選挙結果は、「自民党が弱まり、改憲勢力が減った」とまとめることができます。しかし、もし今回自民党が圧勝したとしても、その結果、それが逆に何かの起爆剤になって、大規模な運動が起き、体制を転覆させることになったかもしれません。また、今回の選挙結果が、むしろ立憲の反共を加速し、実は改憲に向けた最短ルートを歩いているのかもしれません。

 選挙がどんな結果になろうとも、その状況に応じてできることを考え、権力をチェックし続けないと、どこが勝っても同じ結果になってしまいます。選挙は無数にある分水嶺の一つに過ぎないのです。(しかし、一つの分水嶺であることに変わりはなく、その意味でやはり重要です。)

選挙は政治行動の中の一つに過ぎないということ

 今述べたことに関連しますが、選挙は、数ある政治行動の中の一つにすぎません。選挙以外の「政治行動」というと、ロビイングやデモが思い浮かぶかもしれません。憲法訴訟やメディアの報道なども分かりやすいでしょうか。

 むろんこれらも重要ですが、われわれの日常生活は(否が応でも)あらゆる場面で政治化されており、他にもさまざまな方法で政治的な意思表示をすることができます(させられてしまう、とも言えます)。職場での行動、SNSでの発信、聴く音楽、行くスーパー、友人との会話。さまざまな場面でその人の政治性が発揮されます*2

 これは、別に「○○党の支持者です」という話をしろと言っているわけではありません(してもいいですが)。「どう考えたらよいのだろう?」「どうすれば困っている人を助けられるのだろう?」といった素朴な問いを出発点にして、それを個人の能力・素質の問題として終わらせるのではなく、社会の制度の問題としてとらえていくことが大切なのだろうと思います。

 さて、このように、政治や社会をどうしていくかという問題は、一人一人がさまざまな方法で取り組んでいくもので、政治行動にはさまざまな方法があります。にもかかわらず、「選挙」だけがクローズアップされると、代表された「国会議員」が政治を動かし、その一票を握る一市民、という対比でとらえられてしまいます。選挙の時だけ「投票に行こう」と呼びかけるのに、普段はこうしたことを考えないのでは、この構造を強化してしまうことになるでしょう。

 たとえば、今回の選挙で数多くの著名人が「投票に行こう」と宣言する動画を公開していましたが、発信力のある人が「普段は政治の発言はしないのに選挙だけは発言する」のだと、選挙だけが政治行動という感覚を強めてしまいます。この動画自体はよい試みだと思いますので、この動画が通過点の一つとして忘れ去られるぐらい、普段から政治と社会について発信してほしいと思います。

「戦略的投票」について思うこと

 別件ですが、選挙に関連して書いておきます。特に小選挙区選挙において、「戦略的投票」が提唱されることがあります。典型的なのが、自民・立憲・共産の三候補がいる場合に、政策内容からは共産党が近いけれども、情勢を見ると共産党の候補者が通りそうにないので、政策が比較的希望に近く、かつ当選可能性の高い立憲に入れよう、というパターンです(そして比例は共産に入れるわけです)。

 この戦略をどう見るかというのは難しい問題で、文脈に応じて評価は変わるように思います。ただ、少なくとも私は、政策内容がマッチしているという理由で共産党に票を入れ、結果として自民党を利することになった人がいたとしても、その人を批判する気にはあまりならないです。先ほども少し書きましたが、その結果、立憲が選挙に落ちたなら、それはそれで立憲が敗因を分析し、反共路線を改めるかもしれません。でも、立憲を後押しして当選させたうえで、その議員をしっかりチェックしていく、という方法も有力でしょう。(逆に言えば、戦略的投票を呼び掛けた人は、特にそのチェックをやっていく責任があります。)

 これは、小選挙区制度の限界が現れた事象と見るべきだと思います。

今回の選挙結果への雑感

 最後に、今回の選挙の結果についての私の雑感を述べておきます。私は比例は共産か社民に入れることが多く、今回は社民に入れました。小選挙区は他に選択肢が無く立憲です。

 総じて、とてもきつい結果だなと思いました。なかなか良い選択肢がない中で、せめて権力を握る勢力を定期的に入れ替えていくことが最低目標になると思うのですが(同じ勢力が権力を長く握ると必ず腐敗していくと考えるからです)、その入れ替わりの中で、着実に全体主義に向かっているという感覚があります。実際、「(この国を~~から守るために)投票に行こう*3」というように、排外的な弱者叩きや差別の扇動が人を投票に向かわせる煽り文句として機能し始めたように思います。

 政権交代できたとしても、ここ数年にできた悪法の数々が急に消えてなくなるわけでもありません。今回の結果は、改憲・戦争に向けたつゆ払いにしか見えないと思っています。この選挙をそういう文脈にさせないよう、今から頑張るしかありません。

 まずはその一環として、選挙について思うことを書いてみました。

‪(棋客)

*1:ろくでもないビラが大量に届きそうですが…。

*2:これを考えるのはしんどいことですが、そのしんどさを引き受けながらどう生きていくかということを、私は高島鈴さんの『布団の中から蜂起せよ』に教えてもらいました。

*3:~~には、「外国人」や「トランスジェンダー」などのマイノリティが入ります。