達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

京都大学学術出版会「プリミエ・コレクション」冒頭の湊総長の言葉への批判

 京都大学学術出版会からは、「プリミエ・コレクション」というシリーズが継続的に出版されています。このシリーズは、若手研究者の初の単著を出版することが多く、上質な研究書を多く世に送り出していることで知られています。本ブログで紹介したことがある、陳佑真『三蘇蜀学の研究』福谷彬『南宋道学の展開』も、このシリーズから出版されたものです。

 さて、このプリミエ・シリーズの冒頭には、その時の京都大学学長の言葉が掲載されるしきたりになっているらしく、いまは湊長博総長の言葉が載っています。以下、一部分を引用します。

今,全世界が新型コロナ感染症パンデミックの洗礼を受けていますが,この厄災は人々の健康と生命を脅かしているのみならず,その思考や行動様式にも大きな影響を与えずにはおきません。時代はまさに,新しい人文・社会科学からの指針を求めているといえるのではないでしょうか。世界では,イスラエルの歴史家ユヴァール・ノア・ハラリやドイツの哲学者マルクス・ガブリエルなどの若い思想家達が,この状況に向けて積極的な発信を続けています。

 この言葉は湊総長の就任以後の本シリーズの巻頭に掲載されているでしょうから、数十冊の本に掲げられているものと思います。巻頭の言葉は、誰もが最初に読むものですから、それなりに影響力を与え得るものです。湊総長としては、さして深い意味を考えずに書いたものかもしれませんが、どうしたって権威を帯びて届いてしまう言葉になります。

 私が気になるのは(というより、今の世界情勢を考えて今すぐ取り止めるべきだと思うのは)、ここでわざわざ「ユヴァール・ノア・ハラリ」と「マルクス・ガブリエル」を取り上げることです。

 まず、マルクス・ガブリエルは、近年の日本のメディアで盛んに取り上げられる人物ですが、非常に典型的なイスラエル支持者であることがよく知られています。パレスチナイスラエルの専門家である早尾貴紀は、こう言っています。

 ガブリエルの発言のうち、日本語で読める記事がこちらです。→ガザでの虐殺 反ユダヤ主義復活に警戒 独哲学者、ボン大教授 マルクス・ガブリエル | 山陰中央新報デジタル

 ここでガブリエルがしていること、つまり「ガザでの虐殺に反対する立場・イスラエルによるパレスチナ占領に反対する立場」を、「反ユダヤ主義」に結びつけようとすること自体が、通俗的シオニストの発想と同じです。(これについては、前回紹介したジュディス・バトラー『分かれ道』に詳しく書かれています。)

 ドイツのアカデミアがイスラエル主義に偏重していく背景については、藤原辰史の分析が分かりやすいです。これについては岡真理・小山哲・藤原辰史『中学生から知りたいパレスチナのこと』にも詳しく書かれています。→ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史 | 長周新聞

 ちなみに、マルクス・ガブリエルをめぐる問題は、中国哲学分野の研究者にとって、まったく他人事ではありません。というのも、マルクス・ガブリエルを盛んに顕彰してきた(そして現在進行形で顕彰している)のが、中島隆博だからです。

 「哲学界のロックスター」という呼び名も、ロックに失礼なので止めた方がいいと思います。こういう批判記事も見つかりました。→▶ マルクス・ガブリエルのイスラエル擁護記事を批判的に考える〈1〉 - It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

 

 次が、ユヴァル・ノア・ハラリです。早尾はこう言っています。

 また、こうも言っています。

 ユヴァル・ノア・ハラリの主張については、以下が分かりやすいです。

 以上を読めばわかる通り、ネタニヤフの極右政権は批判するものの、その主張は「ネタニヤフのやり方は暴力集団であるハマスの思うつぼ」や「イスラエルを批判するのにハマスを批判しない左派はおかしい」というものであり、行きつく先はオスロ合意を守れ、という点にとどまっています。ハマスの攻撃をホロコーストに喩えるのも暴力的すぎます。「そもそもなぜパレスチナ人がイスラエルに抵抗するのか」について言及することなく、巧妙にイスラエル国家の存在を前提のものとして語っており、これは早尾の言う通り、「中道シオニスト」の態度です。

 ほか、ハラリへの批判としては、以下の記事が分かりやすいです。

 おそらく、湊総長は、さして深い意味はなく、ハラリもガブリエルも、そんなにちゃんと読んだわけではないけれど、なんとなく名前のある人を使っただけだと思います。しかし、この人選は、不幸にも、ジェノサイドを支持するかのようなメッセージとして機能してしまっています。(もっとも、これは不幸な偶然ではなく、なんとなく持ち上げられている人を選ぶとそうなってしまうという、アカデミアとアメリカ・イスラエルの結びつきを示していると思いますが。)

 文章を書き直して、今後出版する巻頭言を変えることはすぐにできるはずですので、そうなることを期待します。

 岡真理は、パレスチナへの沈黙は「人文学の死」であると言っていますが、その言葉の意味をわれわれは今一度噛み締めなければなりません。パレスチナが犠牲にされてきた背景の一つに、アカデミアの共謀があるということをわれわれは忘れてはいけません。

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(棋客)