達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

音楽に感情はあるのか?―嵆康「声無哀楽論」(1)

 前回、以下の『礼記』楽記篇の一節を紹介しました。

 凡音者,生人心者也。情動於中,故形於聲,聲成文謂之音。是故治世之音,安以樂,其政和。亂世之音,怨以怒,其政乖。亡國之音,哀以思,其民困。聲音之道與政通矣。

 一般に音とは、人心から生じるものである。心の中に感情が生じるから、声となってあらわれ、その声が文(交錯の美、こころよい旋律)を備えるようになったものを「音」とよぶ。だから治世の音楽は、その響きも安らかで楽しさを感じさせる。その政治が安定し人心も安定しているからである。乱世の音楽は、その響きに怨みがこもり、怒気を感じさせる。その政治が中正を失い、人心も険悪だからである。亡国の音楽は、その響きが悲哀に満ち憂愁を感じさせる。その民は痛苦にのたうっているからである。かくて、音楽の在り方は、政治の在り方と通じ合っているのである。

 この訳文は、福永光司『芸術論集』(吉川幸次郎小川環樹監修、朝日新聞社、1971、p.14-16)の解説を元に作成したものです。この一節を、福永氏は以下のようにまとめています。

 かくて、この篇の作者は結論する。感情のあらわれである声と、声の旋律化された音と、要するに音楽というものの在り方は、政治の在り方と通じ合っているのである。音楽と政治は密接な関連を持ち、両者は共通の基盤の上に立っている、と。

 この楽記篇の考え方は、中国の伝統的な音楽観で、特に儒家経典に多く見えるものです。たとえば、『論語』八佾篇には、

 子謂韶、盡美矣、又盡善也。謂武、盡美矣、未盡善也。

 孔子は韶(舜の音楽)について、美を尽くし、善を尽くしていると言った。武(武王の音楽)について、美を尽くしているが、善を尽くしていないと言った。(訳は何妟注を参照)

 とあり、孔子がその政治と重ね合わせて音楽を評価する一段があります。ほか、『論語』述而篇には「子在齊聞韶、三月不知肉味。曰、不圖為樂之至於斯」(孔子は斉で音楽を聴き、三か月肉の味が分からなかった。曰く、音楽がここまで素晴らしいものだとは思わなかった)という逸話もあります。

 また、音楽とその地域の風土・政治の関係を物語る代表的な逸話として、『左伝』襄公二十九年の例があります。

 吳公子札來聘……請觀於周樂、使工為之歌周南召南、曰、美哉、始基之矣、猶未也、然勤而不怨矣……」

 吳公子札(季札)が訪問し……周の音楽を見せるよう頼んだ。そこで、楽工に周南・召南を歌わせた。札は「美しい。最初はこれに基づくのだ。ただ、善を尽くしてはいない。しかし、真面目で怨みがこもっていない……」。(訳は杜預注を参照)

 以下に続く部分で、季札は他の土地の音楽を色々聞き、同様に品評していきます。各地の音楽を聴き、その風土と関連させながら音楽の性質を述べたわけです。

 

 ただ、魏晋時代に入り、この考え方を否定する人が現れました。それが嵆康という人です。その考えは「声無哀楽論」に詳しく述べられています。

 「声無哀楽論」は、「秦客」と「東野主人」の問答という形を取っており、その問答を通して嵆康の考え方が示されます。冒頭は、秦客が以下のように問いかけるところから始まります。

 有秦客問於東野主人曰:聞之前論曰「治世之音安以樂,亡國之音哀以思。」夫治亂在政,而音聲應之,故哀思之情表於金石,安樂之象形於管弦也。又仲尼問韶,識虞舜之德。季札聽弦,知眾國之風;斯已然之事,先賢所不疑也。今子獨以為聲無哀樂,其理何居。若有嘉訓,請聞其說。

 秦客が東野主人に質問して言った。「私は、古い言説に「治世の音楽は、その響きも安らかで楽しさを感じさせる。亡国の音楽は、その響きが悲哀に満ち憂愁を感じさせる」というのを聞いたことがあります。世の中の治乱は政治に依り、音聲もこれに呼応するから、悲哀の情が金石(鍾などの楽器)に表れ、安楽の様子が管弦に表れるのです。また、仲尼は舜の音楽を問うて、虞舜の德を知りました。季札は弦を聞いて、各国の風土を知りました。これらは既にあったことで、先の賢人が疑わなかったものです。今、あなただけが「聲無哀樂」(音楽に哀楽の情はない)と主張するのは、その道理はどこにあるのでしょうか。もしよい説明があれば、お聞かせください。

 「仲尼問韶」や「季札聽弦」の逸話については、先ほど紹介しましたね。秦客は、こうした逸話を証拠として示しながら、音楽と政治の関わりがあること、より具体的に言えば音楽には「哀楽の情」があり、その人や地域の状況によって悲しい音楽、楽しい音楽というようなものが生まれてくること、を述べています。

 これに対する嵆康の答えが以下です。

 主人應之曰:斯義久滯,莫肯拯救。故令歷世濫於名實。今蒙啟導,將言其一隅焉。夫天地合德,萬物資生。寒暑代往,五行以成。章為五色,發為五音。音聲之作,其猶臭味在於天地之間,其善與不善,雖遭遇濁亂,其體自若而無變也,豈以愛憎易操,哀樂改度哉。

 主人はこれに答えて言った。「この義(音楽についての正しい道理)は長い間通じなくなっていて、救いようがなく、よって歴代(音楽の)名実が当を失してきたのです。いまわたくしが導いて、その一隅を述べてみましょう。天と地が德を合わせ、萬物が生じ、季節が交代し、五行が形作られる。(五行が)色としてあらわれると五色になり、音としてあらわれると五音になる。音楽の発生は、臭いや味が天地に存在するのと同様で、その善と不善とは、乱世であったとしても、その体(本質的な部分)はあるがままで変化しないのである。どうして愛憎や哀楽の感情が、音楽の規則(ルール、尺度)を改めることがあろうか。

 嵆康の立場はなかなか明快です。以下、問答の形式を採りながらかなり長い議論が進みます。

 以上、『礼記』楽記篇の一節と、それに反応した嵆康の議論の冒頭を紹介しました。次回、「声無哀楽論」の研究を紹介しながら、簡単に内容をまとめてこの話題を終わりにしたいと思います。

(棋客)