現在は経・注・疏が合刻された形で見ることの多い「十三経注疏」ですが、かつては「疏」は単行していたことがよく知られています。一般に「単疏本」と呼称される形態です。
では、清朝考証学者の間で、この「疏の単行」を最初に取り上げたのは誰だったのかという点が気になって、少し調べてみました。常識的な事柄に属するのかもしれませんが、メモ代わりに残しておきます。
当初は、顧炎武『日知録』で読んだ説かと思っていたのですが、勘違いだったようで見当たらず。とはいえ、段玉裁や錢大昕よりは早く言われていそうな感じがします。色々調べてみたところ、『文獻徵存録』の盧文弨(康熙56年-乾隆60年、1717-1795)の伝に辿り着きました。
錢林『文獻徵存録』卷四 盧文弨
盧文弨、字紹弓、又字抱經、仁和人。・・・又典籍之府、聚書頗有古本、遂精校勘之事。每得一書、必參正指要、抉摘迷誤、注疏史籍、益切留神。嘗謂、唐人之爲義疏本單行、不與經注合。單行經注、唐以後尚多善本。自宋後附疏於經注、而所附之經注、非必賈孔諸人所據之本也、則兩相鉏鋙矣。南宋後又附經典釋文於注疏閒、而陸氏所據之經注、又非孔賈諸人所據也、則鉏鋙更多矣。淺人必比而同之、則彼此互改、多失其真、有改之不盡益滋鉏鋙者矣。
盧文弨といえば、特に校勘学者として著名な人物です。伝記史料で、盧文弨の学説の代表例としてこの説が引かれているということは、編者としては「疏(並びに経典釈文)の単行を指摘したのは、盧文弨が最初」という認識なのだろうと一応は考えられます。
とはいえ、『文獻徵存録』はあくまで編纂物であり、二次史料ですから、盧文弨自身の文章からこの説を確かめたいところです。
そんな折、汪紹楹「阮氏重刻十三経注疏考」(『文史』第三輯)を何気なく読み返したところ、以下のような記述に出会いました。
其分別“經注”“義疏”“釋文”各本之別行、亦始發於文弨。於《周易注疏輯正題辭》曰「・・・(略)・・・」、於《重雕經典釋文緣起》(乾隆56年)云「・・・(略)・・・」。其後錢竹汀、段茂堂始大暢其論。
ここで汪氏はさらっと「其分別“經注”“義疏”“釋文”各本之別行、亦始發於文弨。」と書いているので、あるいは以前に指摘があることかもしれません。もしくは、他の考証学者の文章の中に指摘があるのかもしれません。
とにかく、盧文弨『抱経堂文集』を開いてみると、確かにありました。
盧文弨『抱経堂文集』周易注疏輯正題辭
余有志欲校經書之誤、蓋三十年於茲矣。乾隆己亥、友人示余日本國人山井鼎所為『七經孟子考文』一書、歎彼海外小邦、猶有能讀書者、頗得吾中國舊本及宋代梓本、前明公私所梓復三四本、合以參校、其議論亦有可採。然猶憾其於古本宋本之譌誤者、不能盡加別擇。因始發憤為之刪訂、先自周易始亦旣有成編矣。・・・。毛氏汲古閣所梓、大抵多善本。而周易一書、獨於正義破碎割裂、條繫於有注之下、致有大謬戾者。蓋正義本自爲一書、後人始附於經注之下。
これは正義(疏)の話。本題とは関係ありませんが、冒頭に、山井鼎『七經孟子考文』が校勘を始めるきっかけになったことが記されていて、なかなか興味深いところです。
そして、下が経典釈文の単行に言及するところ。
盧文弨『抱経堂文集』重雕經典釋文緣起
古來所傳經典、類非一本。陸氏所見、與賈孔諸人所見本不盡同。今取陸氏書附於注疏本中、非強彼以就此、卽強此以就彼。欲省兩讀、翻致兩傷。
どちらも『文獻徵存録』の文章とは異なっているのが気になるところ。編纂によるブレとみるか、他により適当な引用源があるのか、難しいところです。
しかし、どちらも意味するところは変わりません。疏と『経典釈文』が単行していたことを最初に指摘したのが盧文弨で、その説が他の学者に浸透したと言えましょうか。
(棋客)
【2019.6.19訂正】「然猶憾其於古本來本之譌誤者」→「然猶憾其於古本宋本之譌誤者」
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