達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

内容が良ければそれで良いのか?―閻若璩『尚書古文疏證』より

 読書会で議論のあった部分から。閻若璩『尚書古文疏證』より。

尚書古文疏證』巻二 第十七

 或又曰「晚出之書、其文辭格制、誠與伏生不類、兼多脫漏、亦復可疑。然其理則粹然一出於正、無復有駁雜之譏、子何不過而存之乎。」
 余曰「似是而非者、孔子之所惡也。彌近理而大亂真者、朱子之所惡也。余之惡夫僞古文也、亦猶孔子朱子之志也。今有人焉、循循然無疵也、且斌斌然敦『詩』『書』也、說『禮』『樂』也、而冒吾之姓以爲宗黨、其不足以辱吾之族也、明矣。然而有識者之惡之、尤甚於吾族之有敗類。何也。吾族之有敗類、猶吾之一脈也。乃若斯人固循循然、固斌斌然、而終非吾之族類也。吾恐吾祖宗之不血食也。僞古文何以異此。

 或人と閻若璩自身の問答から、閻若璩が自分の考えを語るシーン。一般的に「読みにくい」と評される『尚書古文疏證』だけあって、特に後半は意味が取りにくいかもしれません。

 まず、或人の意見を要約してみます。
 「確かに、晩出の『古文尚書』(=閻若璩が後世の偽作だと主張する書)は、伏生の『今文尚書』とは文章や風格が異なっていて、疑いの余地がある。しかし、その書を貫く理は、純粋に正しいものから出ていて、反駁する余地はない。何故、あなたはこれを残そうとしないのか。」
 「其理則粹然一出於正」とは一見唐突に思えますが、この意見の背景には、朱子学の重要な根拠となる典拠が、閻若璩によって「偽古文」とされた部分にあるということがあります。(『尚書』大禹謨篇が代表例。)たとえ偽古文であっても、その文章は理学の根本原理を表していて、正しい理で貫かれているのだから、排除する必要は無い、という意見ですね。

 これに対する、閻若璩の回答の要約。まず前半部分だけ。
 「一見正しいようだがそうでないものというのは、孔子が憎んだものだ。非常に理に近いのだが大いに真を乱すものは、朱子の憎んだものだ。私が偽古文尚書を憎むのは、孔子朱子の志と同じなのだ。」
 閻若璩は、基本的に朱子の意に背くことは意図していません。確かに閻若璩の業績は、朱子学の根本文献を否定し、伝統的な朱子学の学問体制を破壊する可能性を秘めており、これが考証学の発展へと影響を与えていきます。しかし、閻若璩自身はその方向性を周到に打ち消しているのは注意すべき点です。ここでもその姿勢がよく分かりますね。

 続いて、後半部分。ここは喩え話になっていて、なかなか意味が取りづらいです。読書会でも苦労し、自信はありませんが、要約すると
 「今、詩・書・礼・楽を篤実に説く人がいて、その人が私の一族を騙って祭祀をしていたとしても、それが私の一族を辱めるわけではない。それにもかかわらず、識見の有る者がこれを憎むことが、一族の者の中に悪人がいる場合よりも甚だしいのは何故だろうか。(その理由は、)私の一族に悪人がいたとしても、その者が私の一族であることには変わりがない。しかし、先の私の一族を騙る者は、確かに篤実ではあるけれども、結局のところ、私の一族ではない。私は、私の一族の血縁が途絶えてしまうことを恐れるのだ。偽古文もこれと同じ話だ。」
 といった具合でしょうか。経書偽経書の関係を、宗族と宗族を騙る者という関係で説明しているのが面白いところです。閻若璩の意図としては、「内容が正しいものだからという理由で残すことによって、正統な由来を持つものが失われてしまう」ということが説明したいのでしょう。

 この種の、「正統なものでなくとも、中身が良ければ使ってよいのではないか」という素朴な発想が学者に批判される、という話は、昔からあるのですね。最近でも、江戸しぐさ関連や教育勅語関連でそんな話があったので、少し興味深く思った次第でした。(棋客)