達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『中国思想史研究』の一部リポジトリ化!

 一年ほど前の話になりますが、京都大学文学研究科中国哲学史研究室の発行する学術雑誌『中国思想史研究』が、京都大学学術情報リポジトリ「KURENAI」にてオンライン上で公開されました。(現時点では未公開の論文もかなり多いです。特に古いもの。)

 リポジトリ化された論文のダウンロードは以下から。
 →Kyoto University Research Information Repository:『中國思想史研究』

 バックナンバー一覧は、以下のページを見ると便利。
 →『中国思想史研究』京都大学大学院文学研究科・文学部

 折角なので、現時点で公開されているものの中から、比較的読みやすいものや、ガイドブック的役割のあるものを、独断と偏見で並べておきます。読んでみようと思っている方がいらっしゃいましたら、参考までに眺めてみて下さい。

 お盆休みということで、今回は軽めの更新。修論、読書会、ブログと、夏休みも漢文漬けの毎日です。(棋客)

句読の難―『困学紀聞』と『尚書大伝』(下)

 前回の続きです。
 回りくどい話をしてきましたが、ここで登場するのが、丁杰(乾隆3年-嘉慶12年、1738-1807)です。まずは伝記資料から、彼の功績を確認してみましょう。

 『文獻徵存録』卷七
 丁杰、字升衢、歸安人。少以清苦建志、家貧不能得書。日就書肆中、讀自朝至晡、以爲常。肆主閔之、爲具食、不食也。久之、博學多通。・・・朱學士筠、盧學士文弨、戴編修震、程孝廉瑶田、皆與爲友、學益進、聚書益多。四十六年成進士。・・・尤善校書、雅雨堂盧氏所刻『書傳』乃惠徵君所裒輯、杰以爲疏舛。如「鮮度作刑以詰四方」、誤讀『困學紀聞』乃謬之甚者。

 最初の、「貧しかったため本屋に通って読書していた」というエピソードからは、『後漢書』王充伝が思い出されて興味深いところ。*1

 何はともあれ、『尚書大伝』における恵棟(康熙36年-乾隆23年、1697-1758)の輯佚作業にミスが多かったため、丁杰が補正した、という話が載せられていて、実例として前回紹介した例が引かれています。他に丁杰は、最初に王応麟が輯佚し、のちに恵棟が補った『周易鄭注』を、更に補正し、『周易鄭注後定』を作っています(この本は今でも見ることができます)。恵棟の作った輯佚本に全体的に誤りが多いことに気が付き、修正を施したのでしょう。

 文中の「雅雨堂盧氏」とは盧見曾(康熙29年-乾隆33年、1690-1768)のことで、彼の手にかかる「雅雨堂叢書」の中に、『尚書大伝』が収められています。そしてこの叢書に収められる輯佚本『尚書大伝』では、なるほど確かに、「鮮度作刑以詰四方」を本文として掲載しています。前回紹介した江声あたりは恵棟の直弟子ですから、誤りを継承してしまったのも頷けます。

 上は伝記資料なので、できれば本人の著作から確かめたいところですが、どうにも見つけられません。(彼の著作自体、『周易鄭注後定』を除くと国内にあまり所蔵がありません。)
 しかし、これが彼の発見であることについては、あちこちに記録が残っています。この説にいち早く反応し、自書に取り入れたのが段玉裁(雍正13年-嘉慶20年、1735-1815)です。

段玉裁『古文尚書撰異』呂刑
 度作刑、以詰四方。
 ・・・惠氏集『尚書大傳』、書云「鮮度作刑以詰四方。」丁小雅杰曰、『困學紀聞』云「費誓」、『説文』作「〓(北+米)誓」、『史記』作「肹」、『大傳』作「鮮」(句)、「度作刑以詰四方」、周禮注云「度作詳刑、以詰四方。」惠氏誤聯「鮮度」為句。

 奇しくも、前回紹介した例でも、王鳴盛『尚書後案』江声『尚書集注音疏』の誤りが、段玉裁『古文尚書撰異』では改められており、孫星衍『尚書今古文注疏』はどれもはっきり否定しない微妙な立場、というパターンでした。まだ僅か二例ですが、もう少し積み重ねれば何か見えてくるかもしれません。

 珍しい例では、途中で誤りに気が付いたと思われる人として、孫志祖(乾隆2年-嘉慶6年、1737-1801)が挙げられます。

孫志祖『讀書脞録』荒度
 呂刑「度作刑以詰四方」、蘇氏連上「荒」字作句、云「荒、大也。大度作刑、猶禹貢曰、予荒度土功。」以『尚書大傳』引書曰「鮮度作刑以詰四方」證之、似「鮮度」卽「荒度」之異文。蘇讀爲優。(丁小山云、輯『尚書大傳』者、讀『困學紀聞』破句以鮮度二字連文、致有此誤。)・・・

 本文では明らかに、『尚書大伝』に引く『尚書』の「鮮度作刑以詰四方」という例から、蘇軾の注釈を証明できるようだ、と述べています。しかし、自注(括弧内、原文では割注の形)では、丁杰(丁小山)の発見が引用され、輯佚書の誤りを指摘しています。そして後ろの省略した部分で、前半の説をやはりあまり良くないと否定しているのです。最初からこの説を知っていれば、「以『尚書大傳』引書曰、鮮度作刑以詰四方」とは言わないでしょうから、最初は輯佚本を見て誤りを踏襲していたのではないか、と考えられます。丁杰、段玉裁、孫志祖はほぼ同世代の三人で、交流があったのでしょう。

 以上は『尚書』の側からの考察ですが、『尚書大伝』の輯佚の側から焦点を合わせた考察として、このようなものも出てきました。

嚴元照(乾隆38年-嘉慶22年、1773-1818)『蕙櫋雜記』
 『尚書大傳』王厚齋猶及見之、殆亡於元明之際。令行世有三本。一仁和孫氏之騄本、一德水盧氏見曾本、一烏程董氏豐垣本。皆由采輯所成、盧本乃惠定宇所輯。其序中不詳言、但云「得之呉中藏書家」。竟似舊本之存於今者、似近於欺矣。其中踳駁甚多、聊摘一二言之。・・・丁小雅云、・・・又甫刑條書曰「鮮度作刑、以誥四方。」此誤讀『困學紀聞』也。『紀聞』云「・・・」。此其文義甚明、而定宇乃以『大傳』作「鮮度作刑、以詰四方」為一句、其疎不已甚乎。

 さて、結局のところ、『尚書大伝』の輯佚本の補正版は、まず陳寿(乾隆36年-道光14年、1771-1834)によって作られました(四部叢刊に収められる『尚書大伝』は、この本です)。その末尾に付された「尚書大傳辨譌」にて、上の問題点が指摘されています。*2

  『尚書大伝』の最善の輯佚本は、今文家として著名な皮錫瑞(道光30年-光緒34年、1850-1908)によって作られた『尚書大伝疏証』とされることが多いようですが、ここでも当然、誤りが正されています(繰り返しになるので、引用は控えておきます)。
 皮錫瑞が『尚書大伝疏証』を作った背景には、『尚書大伝』は前漢の伏生の作(もしくはその流れを汲む)ということで、今文学派には重要視された書であるということが背景にあります。これは陳寿祺も同様でしょうか。

 さて、今回の話題で、少々不憫なのは孫星衍です。前回紹介したように、『尚書今古文注疏』にて、「『大傳』「度」作「鮮度」者、釋詁云、鮮、善也。・・・」と、本来であれば必要のない訓詁を注釈し、無用な辻褄合わせをする羽目になってしまいました。(無論、彼自身の確認不足に責任の一端はあるのですが…。)

 逆に言えば、「何の由来もないでたらめな文章でも、訓詁を駆使すれば、無理やりそれっぽく読んでしまうことも可能である」と言えるのかもしれません。訓詁学、この成果なしに古典を読むことはできませんが、ちょっと「読めすぎてしまう」ところもあり、注意が必要なことが、上の例からよくわかります。改めて言うまでもないことかもしれませんが。(棋客)

*1:後漢書』王充列傳
 王充字仲任,會稽上虞人也,其先自魏郡元城徙焉。充少孤,鄉里稱孝。後到京師,受業太學,師事扶風班彪。好博覽而不守章句。家貧無書,常游洛陽市肆,閱所賣書,一見輒能誦憶,遂博通衆流百家之言。

*2:尚書大傳』(陳壽祺輯)尚書大傳辨譌
 『尚書大傳』南宋時已多佚脱、今坊間盛行。盧氏雅雨堂本、譌漏不可勝舉。・・・。『困學紀聞』云「・・・」。案此大傳作「鮮」、四字斷句、度作刑以下又一事、而誤連「鮮度作刑以誥四方」爲句。・・・

ブログ開設一周年!

 「達而録」を開設してから、丸一年が経過いたしました!

 毎週更新というハードルは、最初は楽勝かと思っておりましたが、内容の「面白い」ものを目標としつつ(現実に面白いかはともかく)、分量もそれなりにあるものを書くとなると、正直かなりきつい、という感じもしてまいりました。出来る限りは今のペースで書き進めるつもりですが、いつまで続けられるか、ちょっと分かりません。
 とはいえ、ちょっとした発見や読んだ論文のまとめなど、他に発表するところもないが、かといってノートにメモするだけでは紛失・忘却のリスクがつきまとう上に、若干もったいない気がする、といった事を書く場としては、なかなか優秀というようにも感じ始めています。
 また、開設の際にも書きましたが、「自分の考えを不特定多数の他人に伝える」ことを前提として文章をまとめるという作業は、それ自体が自己研鑽として非常に大きな意味があることも、実感しているところです。
 最近はアクセス数も増えて、嬉しく思っております。今後ともよろしくお願いいたします!

句読の難―『困学紀聞』と『尚書大伝』(上)

 以前、「考証学における学説の批判と継承」と題して、『尚書』のある一条を題材に取り、考証学者たちの学説の変化を追ってみました(全五回)。この調査は、環境さえ整っていればそれほど難しいものではないのですが、なかなか興味深い結果が出てくることもあります。一条ごとでは研究と呼べる代物にはならないでしょうが、百回ぐらい繰り返せば、それなりに面白い何かが見えてくるかもしれません。

 今回の出発点は、王應麟『困学紀聞』です。この書は、早くも南宋において考証学の萌芽が認められるものであり、清朝考証学者に好んで読まれ、よく引用されているという印象があります。

王應麟『困學紀聞』卷二
 呉才老『書裨傳』考異*1云「伏氏口傳與經傳所引、有文異而有益於經、有文異而無益於經、有文異而音同、有文異而義同。」才老所述者、今不復著。「以閏月定四時成歲」、古文「定」作「正」、開元誤作「定」。・・・無逸「肆高宗之享國、五十有九年」、石經曰「肆高宗之饗國百年」、漢杜欽亦曰「高宗享百年之壽」。費誓説文作〓(北+米)誓史記作肹大傳作鮮度作刑以詰四方周禮注云度作詳刑。「哀矜折獄」、漢于定國傳*2作「哀鰥哲獄」。・・・

 今回の主題に関わる部分(下線部)については、敢えて句を切らずに掲げています。下線部に見える「大傳」とは、前漢尚書学者として著名な伏生の手になるとされる『尚書大伝』のこと。

 また、もう一つの材料として、もともと『尚書』に、以下のような一文があることを挙げておきます。

尚書』呂刑
 惟呂命、王享國百年、耄荒。度作刑、以詰四方。
(偽孔傳:度時世所宜、訓作贖刑、以治天下四方之民。)

 では、『尚書』のこの条に関わる、考証学者の学説を見てみましょう。まずは、王鳴盛(康熙61年-嘉慶2年、1722-1798)の『尚書後案』から。

王鳴盛『尚書後案』呂刑
 度作刑、以詰四方。
(案曰)鄭天官大宰、秋官大司寇注引、此俱作「度作詳刑。」『大傳』引此又作「鮮度偉刑以詰四方。」

 続いて、江声(康熙60年-嘉慶4年、1721-1799)の『尚書集注音疏』から。以前、この本がもともと篆書で木版印刷された珍しい本であることを言及しましたが、「中国哲学書電子化計画」で版本の写真が見られるようです。(よ、よみにくい…。)

江聲『尚書集注音疏』呂刑
 今文曰「鮮度作刑以詰四方」者、據伏生『書大傳』引『書』如此。

 続いて、孫星衍(乾隆18年-嘉慶23年、1753-1818)の『尚書今古文注疏』を開いてみましょう。『尚書今古文注疏』は、「清人十三経注疏」に収録されており、まず手軽に清人の説を確認する時に用いられる本でしょうか。

孫星衍『尚書今古文注疏』呂刑
 度作刑、以詰四方。
(注)大傳「度」作「鮮度」。馬融曰「度、法度也」。「刑」一作「詳刑」、「詰」一作「誥」。
(疏)大傳「度」作「鮮度」者、釋詁云「鮮、善也。」漢書刑法志云「度時作刑」、詩傳云「時、善也」、則今文「鮮度」「度時」、俱言「度善」也。或以度時爲相度時宜、非也。・・・

 つまり彼らは、尚書』の「度作刑以詰四方」を、『尚書大伝』では「鮮度作刑以誥四方」に作っていた、と考えているようです。注意すべき点は、『尚書大伝』は、『困学紀聞』が書かれた時、つまり南宋の頃にはまだ存在していましたが(この時すでに完本では無かったという説もあります)、清代には既に失われた本であったということです。
 ということは、彼らが利用した『尚書大伝』の文は、他書に残された佚文を利用したものであるということになります。『困学紀聞』以外にこの文章は残っていないようですので、先に挙げた清儒の引く『尚書大伝』の出所は、先の『困学紀聞』の文章であるはずです。
 そのように理解するためには、最初に掲げた『困学紀聞』の下線部を、「「費誓」、『説文』作「〓(北+米)誓」、『史記』作「肹」。『大傳』作「鮮度作刑以詰四方」、『周禮注』云「度作詳刑」。」と句読した、と考えなければなりません。

 簡単に調べてみた限りでは、この説は、他に阮元(乾隆29年-道光29年、1764-1849)の『詩書古訓』や、莊述祖(乾隆15年-嘉慶21年、1750-1816)の『尚書今古文考證』にも見えるようで、当時それなりに受け入れられていたようです。

 しかし、これはどうにもおかしい。『困学紀聞』の前後の体例を見ると、例えば一条目は

「以閏月定四時成歲」、古文「定」作「正」、開元誤作「定」。

 また直前の条は、

無逸「肆高宗之享國、五十有九年」、石經曰「肆高宗之饗國百年」、漢杜欽亦曰「高宗享百年之壽」。

 と、最初に問題となっている経文を出し、後ろにその異同を付す、という形式になっています。一方、先の問題の箇所については、先ほどの句読をもとに分断すると、

「費誓」、『說文』作「〓誓」、『史記』作「肹」。
『大傳』作「鮮度作刑以詰四方」、『周禮注』云「度作詳刑」。

 と分けるよりありません(「費誓」は篇名で、そこを「鮮度作刑以詰四方」に作ったとは読めず、別条とみなすべき)。すると、後半の見出し語が見当たらず、どうにも宙ぶらりんの格好になってしまいます。
 この問題を解決する第一の手段は、「大傳」の前に、「度作刑以詰四方」の見出し語の七字を補って読むという方法です。なるほど、可能性としては考えられます。が、七字をまるまる補うからには、別の証拠が欲しいところです。

 …とまあ、長々と前口上を述べましたが、実はそれほど難しい問題ではありません。以下のように句読すれば、万事解決する話なのです。(現代の標点本も同様に作っています。)

「費誓」、『說文』作「〓誓」、『史記』作「肹」、『大傳』作「鮮」。
「度作刑以詰四方」、『周禮注』云「度作詳刑」。

 つまり、前半は「費誓」を「〓誓」、「肹誓」、「鮮誓」に作るテキストがあると述べるだけ、後半は「度作刑以詰四方」が見出し語で以下に異同のリスト、という構造になっているわけです。(なお、「費誓」を『尚書大伝』で「鮮誓」に作るという例は、『史記索隠』にも言及があり、追証できます。*3

 やれやれこれで一件落着…とはならず、まだ疑問が残っています。『困学紀聞』の当該箇所は、上に示した通りに体例が統一されており、並み居る考証学者がみな誤るほどに複雑なものではないように思われるのに、何故みな同じ誤りを犯しているのでしょうか。(次回紹介しますが、正しく認識している学者も存在するのです。)

 まず、『尚書』全体に対する注釈書としての成立が早い王鳴盛『尚書後案』や江声『尚書集注音疏』の誤りを、後続の学者が引き写したという考え方があるでしょう。実際そういう側面もありそうですが、結局、ではなぜ王鳴盛や江声は誤ったのか、というところに話は戻っていきます。

 ここで、『尚書大伝』が、「清代には失われていたものの、早くから輯佚本が作られていた」という事実が利いてきます。つまり、彼らはいちいち『困学紀聞』の該当箇所を見て『尚書大伝』の佚文を見つけ出していたのではなく、恐らくは簡便に『尚書大伝』の輯佚本を利用していたはずで、その「輯佚本」が全ての誤りのもとになっているのではないか?ということが推測できます。

 大分長くなってしまいましたので、「誤った輯佚を行ったのは誰か」、そして「その誤りを正したのは誰か」という話は、また来週!(棋客)

↓つづき

chutetsu.hateblo.jp

*1:呉才老は呉棫、宋代の人。閻若璩『尚書古文疏証』で、偽古文尚書の存在を最初に疑った人として紹介されることでよく知られる。また、『韻補』も、音韻学に多大な貢献があったことで知られる。

*2:漢書』于定國傳の贊に見える言葉。

*3:史記』魯周公世家「伯禽即位之後、有管、蔡等反也、淮夷、徐戎亦並興反。於是伯禽率師伐之於肸、作肸誓。」(集解)徐廣曰「肸、一作『鮮』、一作『獮』。」・・・(索隱)尚書作「費誓」。徐廣云一作「鮮」、一作「獮」。按、『尚書大傳』見作「鮮誓」、 鮮誓即肸誓、古今字異、義亦變也。・・・

考証学読書会(2)―阮元「王伯申經義述聞序」下

 前回の続き。

 嘉慶二十年、南昌盧氏宣旬讀其書而慕之。旣而伯申又從京師以手訂全帙寄余。余授之盧氏。盧氏於刻『十三經注疏』之暇、付之刻工。伯申亦請余言序之。

 王引之による『経義述聞』の自叙の執筆は、嘉慶2年(1797年、王引之32歳)の時ですが、 阮元による本序文の執筆は嘉慶22年(1817年、王引之52歳)の時になります。上に書かれているのは、嘉慶20年(1815年)、阮元が盧宣旬に委託し、『経義述聞』を出版する運びとなった、という話です。(尚、『春秋名字解詁』二巻と『太蔵考』二巻は、道光七年の重刊の際の増入です。)本文中にある通り、この時期はいわゆる「阮元本十三經注疏」の出版とちょうど同時期です。
 盧宣旬といえば、『経典釈文』の「盧宣旬摘録」でよく名前を見掛けますが、その事蹟はほとんど分からないようです。

 昔余初入京師、嘗問字於懷祖先生、先生頗有所授。既而伯申及余門。余平日説經之意、與王氏喬梓投合無閒。

 ここは阮元が王念孫、王引之との昔話をするところ。かつて阮元が初めて入京した際、王念孫から手ほどきを受けたことがあったようです*1。具体的な教授内容については、一例ですが、『揅經室集』卷一・釋且「説文訓且為薦字、屬象形。元按諸古誼、且、古祖字也。古文祖皆且字。……王懷祖給事謂元曰、詩言、終風且㬥、終和且平、終溫且惠。終皆當訓既。言既風且㬥也。元為之加證曰、終即既。既、終也。且、始也。……」などに伺うことができます。

 阮元が試験官の時の進士及第が王引之であることは、前回述べました。「伯申及余門」とはそのことを言っています。「喬梓」とは、父子の意味。*2

 是編之出、學者當曉然於古書之本義、庶不致為成見舊習所膠固矣。雖然、使非究心於聲音文字以通訓詁之本原者、恐終以燕説為大寶、而嚇其腐鼠也。
 嘉慶二十二年春、阮元序於荊州舟中。

 ここが最後のまとめ。本書の学問的意義を改めて宣言し、また他の学者への警鐘を鳴らしたところで、筆を措きます。

 まず喩え話から過去の学問の問題点を語り、それに比べて考証学者の学が優れていることを述べ、著者についてその祖から思い出を交えながら語り、最後にその意義が重大であることを述べるという流れは、全体的に序文の典型的なパターンを備えているように思います。(棋客)

【追記 2019/7/24】
 有志の方より、『揅經室集』の引用部分に句読の誤りがあることを指摘して頂き、訂正いたしました。

*1:『國朝先正事略』卷二十一・阮文達公事略「乾隆五十一年、公年二十三、舉鄉試、入都、與邵二雲(邵晉涵)、王懷祖(王念孫)、任子田(任大椿)、三先生友、作考工記車制圖解。有江戴諸家所未及者。」

*2:陳壽祺輯『尚書大傳』卷四・梓材「伯禽與康叔見周公、三見而三笞之。康叔有駭色、謂伯禽曰、有商子者、賢人也、與子見之。乃見商子而問焉。商子曰、南山之陽有木焉、名喬。二三子往觀之、見喬實高高然而上。反以吿商子。商子曰、喬者、父道也。南山之陰有木焉、名梓。二三子復往觀焉、見梓實晉晉然而俯。反以吿商子。商子曰、梓者、子道也。二三子明日見周公、入門而趨、登堂而跪、周公迎拂其首、勞而食之、曰、爾安見君子乎。」