達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(3)

 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊のメモ。ここも巻四十一、昭公元年のところです。

第九条

 前回の最後の疏文の続きです。

 「離」之為「陳」、雖無正訓、兩人一左一右、相離而行、故稱「離衞」、「離」亦「陳」之義。

 「離」を「陳」と見なすのは、正訓が無いとはいえ、兩人のうち一人が左、一人が右で、相い並んで行くので、「離衞」と称したのであり、「離」もまた「陳」の意味である。(野間訳p.10-11)

 ここは、「離」を「陳」とする杜預の訓詁を説明するところです。何か経書などに根拠があれば良いのですが、そういうわけではないようです。そこで疏は、「離れる」の意がどうして「陳(なら)べる」の意に通じるのか、何とか辻褄を合わせようとするのです。https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20

 というわけで、その説明の肝である「相離而行」を、「相い並んで行く」と訳してしまっては、「離、陳也。」の訓詁の説明をする中で既にその訓詁を利用していることになってしまうため、不適切です。

 ここは、二人の衛が、右と左とに「離」れて一人ずついる状態が、「陳」んだ状態に通じる、よって「離、陳也。」の訓詁が成立する、という話の流れではないでしょうか。

 試訳は以下。

 「離」之為「陳」、雖無正訓、兩人一左一右、相離而行、故稱「離衞」、「離」亦「陳」之義。

 「離」を「陳」とするのは、正訓は無いのであるが、二人のうち一人が左、一人が右で離れて進む様子から、「離衞」と称したのだ。(よって、)「離」にはやはり「陳」の意https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20味があるのだ。(筆者試訳)

 

【2020/1/15追加】 https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20

 Twitterにて、「兩人一左一右、相離而行」の「離」は、やはり「並べる」の意と見た方が良い、とご指摘受けました。二人が対になって並ぶさまが「離」で、そこから陳列の「陳」という意が出てくる、と読んだ方が良さそうです。訓読ではどちらも「ならぶ」ですが、微妙に意味の違いがあって、「離≒陳」であることを示すことにより「離、陳也」という訓詁を導いているわけです。 https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20https://twitter.com/10ti3pin/status/1217356775403319296?s=20

https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20

https://twitter.com/10t

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https://twitter.com/10ti3pin/status/1217356775403319296?s=20

第十条

〔傳〕由是觀之、則臺駘汾神也。抑此二者、不及君身。山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。

〔杜注〕有水旱之災、則禜祭山川之神若臺駘者。周禮四曰禜祭。為營攅用幣、以祈福祥。

〔疏〕山川至禜之○正義曰、「水旱癘疫」、在地之災、山川帶地、故祭山川之神也。「雪霜風雨」、天氣所降、日月麗天、故祭「日月星辰之神」也。此因其所在、分繫之耳、其實「水旱癘疫」、亦是天氣所致、「雪霜風雨」、亦是在地之災耳。

 「雨之不時」、而致水旱、水旱與雨、不甚為異、而分言之者、據其雨不下而霖不止、是「雨不時」也、據其苗稼生死、則為水與旱也。

 「禜」是祈禱之小祭耳。若大旱而雩、則徧祭天地百神、不復別其日月與山川者也。

 まず、上の「疏」は、内容から判断すればもう一段後の経文の後ろに入れた方が良いと思います。直後に「日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。」の文があり、上の疏文ではこの「雪霜風雨之不時」も合わせて説明しています。「山川至禜之」の「禜之」はこの部分を指しているのではないでしょうか。(現行の阮元本もそのように作っています。)

 訳で気になるのは下の部分です。

 「雨之不時」、而致水旱、水旱與雨、不甚為異、而分言之者、據其雨不下而霖不止、是「雨不時」也、據其苗稼生死、則為水與旱也。

 「雨の時ならず」して水・旱を致し、水・旱と雨とは、甚だしくは異ならないのに、これを分けて言うのは(なぜかと言えば)、雨が降らなかったり長雨が止まなかったりするのは、「雨の時ならざる」ことに拠るものであり、穀物の苗の生死が洪水や旱魃の影響に拠るからである。(野間訳p.37)

 前半は、ほとんど訓読そのままで論理の筋が分かりにくいと思います。逆に後半は、日本語を読むと自然な感じがするのですが、原文と対照させると、「據」をかける場所に違和感があり、本来の疏の意図から外れてると思います。

 尚、「雨之不時」は直後の経文の「雪霜風雨之不時」を指しています。

 さて、この疏文は、「雨が時宜にかなわないが故に水害や旱魃が起こる」のだから、ここで「水旱」と言った上で、更に下文でも「雨之不時」とは言わなくても良いはずなのに、何故このように両者を分けて言う伝文になっているのか、解明しようとするところです。

 原案の「雨が降らなかったり長雨が止まなかったりするのは、「雨の時ならざる」ことに拠る」は、「其雨不下而霖不止、「雨不時」也」といった場合なら問題ありませんが、原文は「其雨不下而霖不止、是「雨不時」也」です。この「據」はこの部分全体に掛かり、何故両者を分けて言うのか理由を説明する言葉です。

 というわけで、以下のように訳してみました。少し記号も変えています。

 雨之不時而致水旱、水旱與雨、不甚為異、而分言之者、據其雨不下而霖不止是「雨不時」也、據其苗稼生死則為水與旱也。

 雨が時宜にかなわないから水害・旱害が起こるのであって、「水」「旱」と「雨」とは、全く別物というわけではないのに、これを分けて言うのは、雨が降らなかったり長雨が止まなかったりすることが「雨の時ならず」であることに拠り、穀物の苗が生まれたり死んだりすることが「水」「旱」であることに拠る。(筆者試訳)

 いかがでしょうか? 分かりやすい訳が作れた気がします。

 疏では、「雨不時」はあくまで気象の話、「水」「旱」は穀物の被害状況に対してつく名前(むろんその原因には雨の不順があるのですが)、というように区別したわけですね。

 

 

第十一条

〔傳〕由是觀之、則臺駘汾神也。抑此二者、不及君身。山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。

〔杜注〕有水旱之災、則禜祭山川之神若臺駘者。周禮四曰禜祭。為營攅用幣、以祈福祥。

〔疏〕「癘疫」謂害氣流行、歲多疾病。然則君身有病、亦是癘氣、而云「不及君身」者、陳思王以為「癘疫之氣止害貧賤、其富貴之人攝生厚者、癘氣所不及」、其事或當然也。且子產知晉君之病不在於此、故言「二者不及君身」、以病非癘疫、故不須祭臺駘等也。

 再び、先の続きです。ここは「癘疫」を説明するところ。気になるのはこの部分の訳。

 陳思王以為「癘疫之氣止害貧賤、其富貴之人攝生厚者、癘氣所不及」

 陳思王が「癘疫の氣はただ貧賤者に害があるばかりで、富貴の人で生活が豊かな者は、癘氣が及ばないのだ」と見なしており、或いはそうであるのかもしれない。(野間訳p.37-38)

  この「攝生」は、『老子』などに見える言葉です。

老子』五十章

 蓋聞善攝生者、陸行不遇兕虎、入軍不被兵甲。

 一般的には、体を養うこと、保養すること、養生すること、といった方向で理解される言葉ですので、そのまま訳しておけば良いと思います。

 つまり、「富貴の人で生活が豊かな者」→「富貴の人で身体の養生が厚い者」となります。

 


 

 最初に「全三回」と予告しましたが、もう一つ気になる箇所があって、調べている内に長大になりすぎたので明日再度更新します。

 続きは→野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(4) - 達而録

(棋客)https://twitter.com/KogachiRyuichi/status/1217371779548606464?s=20

野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(2)

  野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊のメモの続き。ここも巻四十一、昭公元年です。

 

第五条

〔傳〕叔出季處、有自來矣。吾又誰怨。

〔杜注〕季孫守國、叔孫出使、所從來久。今遇此戮、無所怨也。

〔疏〕正義曰、歷檢上世以來季孫出使、不少於叔孫、而云「叔出季處從來久」者、季孫世為上卿、法當上卿守國、次卿出使、以此為「從來久」耳、必須使上卿者、上卿非不使也。

  気になるのは以下の部分。

 必須使上卿者、上卿非不使也。

 必ず上卿を使いとすべき時に上卿が使いしない、というわけではないからである。(野間訳p.14下)

 パッと読んで意味が取れなかったので掲出したのですが、この訳でも読み取れる人には読み取れるかもしれません。「というわけではないからである」という「非」の訳が文章全体に掛かっているかのように錯覚する訳文なので、その点で最初に分かりにくく感じたようです。

 ただ、「非不使」の二重否定がはっきりしていないので、もう少し分かりやすくすると、

 必須使上卿者、上卿非不使也。

 必ず上卿を使いにすべきという時であれば、上卿が使いをしないことはないのである。(筆者試訳)

 となるでしょうか。「使上卿」の例は、時々出てきます。一例は以下。

『左傳』襄公十五年

〔傳〕官師從單靖公逆王后于齊。卿不行、非禮也。

〔杜注〕官師、劉夏也。天子官師、非卿也。劉夏獨過魯告昏、故不書單靖公。天子不親昏、使上卿逆而公監之、故曰「卿不行、非禮。」 

 この場合は、上卿が使いをするべきところでしなかったので、「非禮」と断ぜられています。 

 

第六条

〔傳〕以什共車必克。

〔杜注〕更增十人、以當一車之用。

〔疏〕『周禮』十人為什。以一什之人共一車之地、故必克也。(p.31上)

 ここに、野間氏は『周禮』地官・旅師「五家為比、十家為聯。五人為伍、十人為聯。」賈疏「今云十家為聯者、以在軍之時、有十人為什、…」を引いていますが、肝心の「什」の語が出てくるのが経文ではなく賈公彦疏ということで、適切な注釈とは言えないと思います。ここは伝文の「什」と杜預注の「十」を説明するところのはずです。

 とはいえ、『周禮』に「十人為什」という表現はそのままは見つからないので、代案も難しいところ。『周禮』鄭注なら、以下の例はあります。

『周禮』天官・宮正

 會其什伍而教之道義。

〔鄭注〕五人為伍、二伍為什。

 また、『毛詩正義』鹿鳴之什の題疏には「『周禮』小司徒職云“五人為伍”、五人謂之伍、則十人謂之什也。故『左傳』曰“以什共車必克。”」という説があります。

 この『周禮』小司徒の経文から連想して誤って「『周禮』十人為什」としてしまったのかもしれません。参考まで。

 

第七条

 「…不爲五味の主とは為らない」と見なしているような例は…(野間訳p.45上)

 見て分かる通り、「不爲」は衍字。

 

第八条

〔傳〕三月、甲辰盟。楚公子圍設服離衞。

〔杜注〕設君服、二人執戈、陳於前、以自衞。離、陳也。

〔疏〕正義曰、穆子言「似君」、知「設服」、設君服也。唯譏執戈不言衣服、則「君服」即「二戈」是也。「離衞」之語、必為「執戈」發端、但語畧難明。

 服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。縱使在國居君之離宮、即明宮門之衞、以為離衞、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。離之為陳、雖無正訓、兩人一左一右、相離而行、故稱「離衞」、離亦陳之義。

  長いので、少しずつ見ていきましょう。

 「離衞」之語、必為執戈發端、但語略難明。

 「衞を離(なら)ぶ」の語は、必ず戈を執る發端のはずであるが、しかし言葉が簡略で明らかにし難い。(野間訳p.10-11)

 野間氏はこの文章の終わりで段落を切っていますが、この疏文から話が変わっているので、この直前で切るべきでしょう。また、以下に「離衞」をどう読むべきか、という諸説が並ぶところなので、ここではまだ「衞を離(なら)ぶ」と開かない方が良いと思います。(「離、陳也」という訓詁は、あくまで杜預に特有のものです。)

 「必ず戈を執る發端のはずであるが」というのは分かりにくいですが、「執戈」は直後の伝文に出てくる言葉(「鄭子皮曰、二執戈者前矣。」)で、「離衞」の語が「執戈」の話を導いているはず、と指摘するものです。(ただ、「発端」は術語ということで訳さない方が良い、という判断かもしれません。下では一応訳してみましたが、そのままの方が良いですかね。)

 下は、その続き。

 服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。

 服虔は「二人が戈を執って前に在るのは、國に在っては君の離宮に居り、陳衞には門に在ることだ。」と述べている。そうだとすると戈を執って前に在るのは、國君の行く時の衞であって、家に在る守門の衞ではないのである。守門の衞は、その武器は必ず多いはずで、ただに二戈だけではない。(野間訳p.10-11)

 先に述べたように、「離衞」と「執戈」は関連する語であるはずという前提の下、それがどうつながるのかということを明らかにしようとしているところです。前提ですが、楚の公子圍は、本来は君ではないのに、君と同等の振る舞いをしているから非難される、というのがこの辺りの伝文の流れです。

 上の訳文、一文目の論理がよく分からないかと思います。

 まず、服虔説を丁寧に見てみましょう。最初の「二人執戈在前」は下文の「二執戈者前矣」の言い換え。これが何故「離衞」という語で表現されるのかという点に対し、「国内にいる時に、(本来には君ではないのに)君の宮にいて、」「を門に並べている」(そしてその時に「二人が戈を持って前に並ぶ」)から、「離衞」という、というのが服虔説なのだと思います。(実は服虔も陳=衛で読んでいた可能性はありますが、少なくとも疏の理解では、後ろに「縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣」とあるので、服虔説を上で述べたように理解していたはずです。)

 それに対して『正義』は、①「執戈在前」というのは國君が外に出た時の「衞」の話であって、家にいて門を守る「衞」の話ではない、②門を守る衛兵は、その武器が多いはずで、「二戈」だけとは考えられない、という二点から、服虔説に反対しています。「然則」はこの場合、逆説で読むしかないと思います。

 「兵」は「武器」と訳すのが通例かと思いますが、この場合は「非徒二戈而巳」(二戈はここでは「二人執戈」で、戈を持つ二人の守衛のこと)に続くので、人と読むほうが良いのかもしれません。ただ疏の原文はあくまで「二戈」なので、そのまま「二つの戈」と訳し、「兵」も「武器」にしておきます。

 加えて、「陳衞在門」の解釈にあまり自信がありません。一応、「衞を陳べて門に在り」といった方向で読んでみます。(原案のままでは意味がよく分からないとは思います。「陳衞」とは?)

 縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。

 たとい國に在って君の離宮に居る場合も、そのまま宮門の衞に名付けて「離衞」とするのは、その表現が不適切である。それゆえ杜預は「離衞」とは「戈を執る」のがそれだと見なした。二人が戈を執り、前に陳列して自ら防衞することを言うのである。(p.10-11)

 冒頭は、服虔説に対する批判の続きです。もう少し補えば、「もし仮に、(服虔説の通りに、)これが國で君の離宮に居る場合の話だったとしても、宮門の衛兵を「離衞」とは呼ばないだろう」といった流れです。

 「大不辭」は用例の少ない言葉で訳しにくいのですが、とりあえず野間訳の方向で良いと思うので、そのままにしておきます。(「辭」を「侔」に作るテキストもあるようです。)

 まとめて訳出しておきましょう。

 「離衞」之語、必為執戈發端、但語畧難明。服虔云「二人執戈在前、在國居君離宮、陳衞在門。」然則執戈在前、國君行時之衞、非在家守門之衞也。守門之衞、其兵必多、非徒二戈而巳。縱使在國居君之離宮、即名宮門之衞以為「離衞」、其言大不辭矣。故杜以「離衞」即「執戈」是也。言二人執戈、陳列於前、以自防衞也。

 「離衞」の語は、必ず(下文の)「執戈」を導くものであるはずだが、しかし言葉が簡略で明らかにし難い。服虔は、「『二人が戈を執って前に在る』というのは、国において(君ではないのに)君の離宮に居て、衞を門に並べていることを言う(から、「離衞」と言うのだ)」と述べている。しかしながら、ここで「戈を執って前に在る」というのは、國君が外に行く時の衞の話であって、家にいて門を守る衞の話ではないし、門を守る衞は、その武器が必ず多いはずで、ただ二つの戈だけということはなかろう。たとえ、(服虔説の通り、)国において君の離宮にいる時の話であったとしても、そのまま宮門の衞に名付けて「離衞」とするのは、表現が不適切である。それゆえ杜預は、「離衞」がとりもなおさず「執戈」のことであるとした。二人が戈を執り、前に並んで自ら防衞することを言うのである。(筆者試訳)

 いかがでしょうか。

 「離衞」をどう「二人執戈」に繋げて読むかという問題に対し、服虔は「君の離宮にいる衞」から「離衞」、杜預は「離は陳と読み、二人並んでいることを示す」からこれがそのまま「離衞」と説いたわけです。

 

 注疏は難しいものですが、最低限の専門用語は置いておくにしても、できる限り「読んで分かる」訳を作りたいものです。特に、論理関係が分かる訳文に、せめて、「何を説明しているのか」が分かる訳文にするべき、と私は考えます。注疏とは結局「説明文」なのですから。

 続きます。→野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(3) - 達而録

(棋客)

野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(1)

 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊を、冒頭の「巻四十一」(昭公元年)から少しずつ見ています。折角ですので、気付いた点を適宜メモしておこうと思います。(事情は前回の記事を参照。)全部で三回の記事になりましたので、今日、明日、明後日で更新します。

 むろん、一学生の身、私がかえって誤ってしまうかもしれませんが、議論が生まれてゆくことが大切だと思いますので、恥を恐れずにやっていきます。(既に指摘のあるところと被ってしまったらごめんなさい。)

 ご指摘は歓迎ですので、何でもコメントしてください。

 

第一条

〔經〕三月、取鄆。

〔杜注〕不稱將帥、將卑師少。書取、言易也。

〔疏〕(略)傳云「武子伐莒」者、武子為伐莒之主耳、別遣小將而行、故不書武子。猶如成二年傳言「楚子重侵衞」、經書「楚師」、杜云「子重不書、不親兵」之類是也。(略)

 気になるのは以下の部分です。

 傳云「武子伐莒」者、武子為伐莒之主耳、別遣小將而行、故不書武子。

 いま伝に「武子 莒を伐つ」と言うのは、武子が莒を伐つ主人公であって、別に小将を遣わして行くので、「武子」を書かなかった。(野間訳p.4上)

 このままでは論理がよく分かりません。また、「主人公」という訳はどうでしょう?

 これは、経には「三月、取鄆。」とあるところが、伝には「季武子伐莒取鄆。」とあることについて、経で「武子」と書いていないことについて解説する疏文です。直後の疏文は、

 猶如成二年傳言「楚子重侵衞」、經書「楚師」、杜云「子重不書、不親兵」之類是也。

 と別の例を挙げます。これは、成公二年の経に「楚師」、伝に「楚子重」と言っている例ですから、似た例ということになります。(ただ実際は、成公二年伝も「冬、楚師侵衞、遂侵我師于蜀。」となっていて、「子重」とは書かれていません。)そしてここの経に、杜預は「子重不書、不親伐」と注しています。「不親伐」、つまり子重が自ら討伐に赴いたわけではないから、「楚師」とだけ書き、「子重」と書かなかった、という判断です。

 以下のように訳した方が、分かりやすいと思いますがいかがでしょう。

 傳云「武子伐莒」者、武子為伐莒之主耳、別遣小將而行、故不書武子。

 いま伝に「武子 莒を伐つ」と言う(が経では「武子」と言わない)のは、武子は莒を伐つ長というだけであって、(実際には)別に小将を遣わして行かせたのであるから、(経では)「武子」と書かなかった。(筆者試訳)

 「主」は、「長」と訳してみましたが、司令官、トップ、といった言葉もあるかもしれません。

 細かい所ですが、上の疏文の直前までは経文の「取」を解説する部分で、ここは「武子」の不書を解説する部分です。話が変わっていますから、野間氏の体例に従えば、ここの訳は改行して段落分けを施すべきでしょう。

 

第二条

〔傳〕周有徐奄。

〔杜注〕二國皆嬴姓。書序曰、成王伐淮夷、遂踐奄。徐即淮夷。

〔疏〕(略)故以為徐即淮夷。賈逵亦然、是相傳説也。

  気になるのは以下の部分です。

 賈逵亦然、是相傳説也。

 賈逵もやはりそうだから、このように相い伝えて説いてきたのだろう。(野間訳p.18上)

 「是」→「このように」、「相」→「相い」、「傳説」→「伝え説く」というように訳出されたのでしょうか。

 そうとも読めるのかもしれませんが、「賈逵亦た然り、是れ相傳の説なり。」が自然ではないでしょうか? 訳せば、以下のようになります。

 賈逵亦然、是相傳説也。

 賈逵もやはり同じであるから、受け継がれてきた説なのだろう。(筆者試訳①)

 これでも少し分かりにくいので、もっと言葉を補って訳せば、

 賈逵もまた同じ説を唱えているから、(根拠は分からないけれども)、これは(学者の間で)受け継がれてきた説なのだろう。(筆者試訳②)

 といったニュアンスです。念のため、一例は以下。 

『左傳正義』昭公二年傳・杜注「褚師市官」

〔疏〕○注褚師市官○正義曰、蓋相傳説也。

 ここも野間訳は「たぶんそのように相伝えて説いてきたのであろう」p.76)です。これも、「杜預の説の出所は分からないけれども、おそらく、学者の間で受け継がれてきた説なのだろう」といったニュアンスになるはずです。

 結局意味としてはあまり変わらないので、こだわらなくても良いかもしれませんが。

 

【2020/1/14】

 有志の方よりご指摘頂きましたが、「相傳爲説」「相傳説」については、野間文史『五経正義研究論攷 義疏学から五経正義へ』(研文出版、2013)p.253-257にて、既に解説されています。これによれば、ある訓詁について、『爾雅』にその訓詁の根拠がない場合に、それが先儒の間で伝えられてきたものであることを示す言葉で、評価としては肯定的なもの、と述べています。

 概ね上の読解と一致しているので一安心です。読み方としてはどちらが自然か、というのはまた別問題ですが。

 

第三条

〔傳〕吾與子弁冕端委、以治民臨諸侯、禹之力也。

〔杜注〕弁冕冠也。端委禮衣。言今得共服冠冕有國家者、皆由禹之力。

 これはケアレスミスの類ですが、この杜預注の冒頭が、以下のように訓読されています。

 「弁」は冕冠なり。(p.22下)

 これは傳の「弁冕」を説明するところなので、

 「弁冕」は冠なり。

  が正しいでしょう。

 

第四条

〔傳〕僑聞之。君子有四時、朝以聽政、晝以訪問、夕以脩令、夜以安身、於是乎節宣其氣。

〔杜注〕宣、散也。

〔疏〕正義曰、以時節宣散其氣也。「節」即四時是也。・・・

  気になるのは以下の部分です。

「節」即四時是也。

「節」とは四季である。(p.38下)

 「四時」を「四季」に言い換えるのは正確ではありません。ここは、直前に言われる「君子有四時」の「四時」を指しています。「即四時是也」は「直前に出てくるあの“四時”のこと」ということですから、「四時」は訳出してはいけない言葉です。

 更に言えば、上の文の通り、ここで言う「四時」は直接的には「朝・晝・夕・夜」のことですから、訳して「四季」とするのも問題があると思います。(尤も、少し先で季節の話が出てくるのですが、ここで単に「四季」だけを指すことにはできないでしょう。)

 続きます。→野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(2) - 達而録

(棋客)

野間文史『春秋左傳正義譯注』と岩本憲司『春秋学用語集 補編』

 野間文史氏の『春秋左傳正義譯注』(第一冊~第六冊)は、『左傳正義』の初めての全訳本です。注疏の全訳というのは、その全体量と内容の難解さから、とにかく難事業と言えます。

 例えば、吉川幸次郎氏らによって『尚書正義』全訳は成し遂げられましたが、継続して行われた『毛詩正義』全訳の作業は完成しませんでした。蜂屋邦夫氏らによる『儀禮疏』翻訳も、十年以上の歳月を掛けてようやく十分の一ほどが成果になりましたが、それ以降は出版されませんでした。他にも部分的な翻訳はありますが、現時点で完成しているものはほとんどありません。そのような状況を考えると、野間文史氏によって『左傳正義』全訳が成し遂げられたのは、本当に素晴らしいことです。

 ただ、膨大な量が短い期間で発表されている上、恐らくほとんど独力で作成されているようで、ちょっとしたミスや論理の取り違え、言葉足らずな訳文が多いという印象もあります。一気に全訳を作るとなると、どうしても作業的に訳を進める必要があるのは仕方のないことで、機械的に訓読を作りそれを現代語に置き換えた、という感じがしてしまう場合もあります。

 

 さて、訳文に問題があるのであれば、それを適切な形で指摘し、議論を加えた上で、誤りが正されれば良い話です。この分野の学問が活発に動いている限り、そのような営みが続けられていくはずです。

 その試みの一が、岩本憲司『春秋学用語集 補編』です。これは野間氏の翻訳のうち第一冊、第二冊に対して、その補訂を試みたものです。

 私は当初、この本は単なる訂正集であり、野間氏の訳を見る時に参考に調べる時に使うものかと思っていました。しかし、丁寧に読んでみると、注疏の訳文を作る時の注意点が随所に踏まえられていて、注疏を学ぶ身としては、非常に面白い本でした。

 具体的に言うと、論理関係のはっきりしない疏文に対して論理の筋道を通しながら訳すテクニック、連文に注意を踏まえた訳の作り方、典拠や他の用例への目配りといった点。また、野間氏は訓読から訳を作っていると思うのですが、その場合に生じやすい誤解の指摘も多く、参考になります。

 ①経文・注文・疏文の原文、②原文に対する野間氏の句読、③野間訳の該当箇所、④岩本氏の補訂、を見比べなければならないので、なかなか読み解くのには骨が折れるのですが、疏を読む必要のある人は、一度チェックしてみるとよいでしょう。

 

 更に、これは有志の方に教えて頂いたのですが、この野間本・岩本本への訂正として、橋本秀美「『春秋用語集補編』訂議」(『青山国際政経論集』103、2019)が最近発表されています。(ちなみに、ここに『春秋用語集補編』とあるのは誤りで、本の正式なタイトルは『春秋學用語集 補編』です。)

 ここでは、岩本氏の訂正に対する再訂正や、野間氏の原案が正しい場合の再指摘などが行われています。冒頭の以下の部分は、ぜひ皆様に読んでいただきたい文章です。

 そこで,『補編』に対して筆者が疑問を抱いた箇所を挙げて,私見を付して公にしておきたい。思えば,岩本先生と筆者の共通の師である戸川芳郎先生は,注疏を的確な日本語に翻訳することを非常に重視して授業しておられたが,現在では,一字一字丁寧に注疏を読もうというような人は少ないのではないか,と疑われる。野間・岩本両先生が多くの時間と精力を注がれたお仕事が,単なる暇つぶしや揚げ足取りではなく,今後も続けられるべき探求の歩みなのだと広く認識され,そこに込められた正確な理解を求める熱意の貴重さが若い人々にも伝えられていくことを願って,両先生の成果の上に更に鄙見を呈するものである。(p.181-182)

 この、「現在では,一字一字丁寧に注疏を読もうというような人は少ないのではないか」、「そこに込められた正確な理解を求める熱意の貴重さが若い人々にも伝えられていくことを願って」という言葉に、触発されるものがありました。

 私の所属する大学では、『左傳正義』の講読が長年にわたり開講されているほか、かつては『周禮疏』や『論語義疏』の演習が開かれていることもあったようです。もちろん、私が出席したことがあるものもあります。

 ただ個人的には、「精密に注疏の訳を作る」という作業や、「他の人の注疏の訳を検討する」という作業は、意外とやってこなかった気がします。もちろん、読むこと、目を通すこと、調べることに関しては、毎日といっても過言ではない程に続けてきましたが、「的確な訳を作る」に当たっては、また違った能力が必要になってくると思います。よって、少し練習しておいてもいいかな、という気がしてきました。

 

 というわけで、早速、野間文史『春秋左傳正義譯注』の第五冊を借りてきて、少し丁寧に訳文に目を通してみました。明日から、気付いた点を整理して示したいと思います。以下の四記事です。

  1. 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(1) - 達而録

  2. 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(2) - 達而録

  3. 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(3) - 達而録

  4. 野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(4) - 達而録

(棋客)

北京・天津旅行⑰―景山公園・元大都城垣遺址公園

 北京・天津旅行レポの第十七回です。今回は、景山公園と元大都城垣遺址公園を紹介します。

 景山公園は、紫禁城のすぐ北にある公園です。紫禁城側から見るとこんな感じです。

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 次は、景山公園側から紫禁城を見てみましょう。

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 続いて、元大都城垣遺址公園です。これは、現代に作られた城壁の遺跡です。地下鉄の北土城駅で降りてすぐ南、城壁公園に到着です。第十二で明代の城壁を紹介しました。明代より数百年も前の城壁はどんな趣なのでしょうか・・・

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 こ、これは、、、城壁はどこなんだ、、、

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 林なのか城壁なのか良くわかりませんが、散歩するには最高の公園でした。