野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊を、冒頭の「巻四十一」(昭公元年)から少しずつ見ています。折角ですので、気付いた点を適宜メモしておこうと思います。(事情は前回の記事を参照。)全部で三回の記事になりましたので、今日、明日、明後日で更新します。
むろん、一学生の身、私がかえって誤ってしまうかもしれませんが、議論が生まれてゆくことが大切だと思いますので、恥を恐れずにやっていきます。(既に指摘のあるところと被ってしまったらごめんなさい。)
ご指摘は歓迎ですので、何でもコメントしてください。
第一条
〔經〕三月、取鄆。
〔杜注〕不稱將帥、將卑師少。書取、言易也。
〔疏〕(略)傳云「武子伐莒」者、武子為伐莒之主耳、別遣小將而行、故不書武子。猶如成二年傳言「楚子重侵衞」、經書「楚師」、杜云「子重不書、不親兵」之類是也。(略)
気になるのは以下の部分です。
傳云「武子伐莒」者、武子為伐莒之主耳、別遣小將而行、故不書武子。
いま伝に「武子 莒を伐つ」と言うのは、武子が莒を伐つ主人公であって、別に小将を遣わして行くので、「武子」を書かなかった。(野間訳p.4上)
このままでは論理がよく分かりません。また、「主人公」という訳はどうでしょう?
これは、経には「三月、取鄆。」とあるところが、伝には「季武子伐莒取鄆。」とあることについて、経で「武子」と書いていないことについて解説する疏文です。直後の疏文は、
猶如成二年傳言「楚子重侵衞」、經書「楚師」、杜云「子重不書、不親兵」之類是也。
と別の例を挙げます。これは、成公二年の経に「楚師」、伝に「楚子重」と言っている例ですから、似た例ということになります。(ただ実際は、成公二年伝も「冬、楚師侵衞、遂侵我師于蜀。」となっていて、「子重」とは書かれていません。)そしてここの経に、杜預は「子重不書、不親伐」と注しています。「不親伐」、つまり子重が自ら討伐に赴いたわけではないから、「楚師」とだけ書き、「子重」と書かなかった、という判断です。
以下のように訳した方が、分かりやすいと思いますがいかがでしょう。
傳云「武子伐莒」者、武子為伐莒之主耳、別遣小將而行、故不書武子。
いま伝に「武子 莒を伐つ」と言う(が経では「武子」と言わない)のは、武子は莒を伐つ長というだけであって、(実際には)別に小将を遣わして行かせたのであるから、(経では)「武子」と書かなかった。(筆者試訳)
「主」は、「長」と訳してみましたが、司令官、トップ、といった言葉もあるかもしれません。
細かい所ですが、上の疏文の直前までは経文の「取」を解説する部分で、ここは「武子」の不書を解説する部分です。話が変わっていますから、野間氏の体例に従えば、ここの訳は改行して段落分けを施すべきでしょう。
第二条
〔傳〕周有徐奄。
〔杜注〕二國皆嬴姓。書序曰、成王伐淮夷、遂踐奄。徐即淮夷。
〔疏〕(略)故以為徐即淮夷。賈逵亦然、是相傳説也。
気になるのは以下の部分です。
賈逵亦然、是相傳説也。
賈逵もやはりそうだから、このように相い伝えて説いてきたのだろう。(野間訳p.18上)
「是」→「このように」、「相」→「相い」、「傳説」→「伝え説く」というように訳出されたのでしょうか。
そうとも読めるのかもしれませんが、「賈逵亦た然り、是れ相傳の説なり。」が自然ではないでしょうか? 訳せば、以下のようになります。
賈逵亦然、是相傳説也。
賈逵もやはり同じであるから、受け継がれてきた説なのだろう。(筆者試訳①)
これでも少し分かりにくいので、もっと言葉を補って訳せば、
賈逵もまた同じ説を唱えているから、(根拠は分からないけれども)、これは(学者の間で)受け継がれてきた説なのだろう。(筆者試訳②)
といったニュアンスです。念のため、一例は以下。
『左傳正義』昭公二年傳・杜注「褚師市官」
〔疏〕○注褚師市官○正義曰、蓋相傳説也。
ここも野間訳は「たぶんそのように相伝えて説いてきたのであろう」p.76)です。これも、「杜預の説の出所は分からないけれども、おそらく、学者の間で受け継がれてきた説なのだろう」といったニュアンスになるはずです。
結局意味としてはあまり変わらないので、こだわらなくても良いかもしれませんが。
【2020/1/14】
有志の方よりご指摘頂きましたが、「相傳爲説」「相傳説」については、野間文史『五経正義研究論攷 義疏学から五経正義へ』(研文出版、2013)p.253-257にて、既に解説されています。これによれば、ある訓詁について、『爾雅』にその訓詁の根拠がない場合に、それが先儒の間で伝えられてきたものであることを示す言葉で、評価としては肯定的なもの、と述べています。
概ね上の読解と一致しているので一安心です。読み方としてはどちらが自然か、というのはまた別問題ですが。
第三条
〔傳〕吾與子弁冕端委、以治民臨諸侯、禹之力也。
〔杜注〕弁冕冠也。端委禮衣。言今得共服冠冕有國家者、皆由禹之力。
これはケアレスミスの類ですが、この杜預注の冒頭が、以下のように訓読されています。
「弁」は冕冠なり。(p.22下)
これは傳の「弁冕」を説明するところなので、
「弁冕」は冠なり。
が正しいでしょう。
第四条
〔傳〕僑聞之。君子有四時、朝以聽政、晝以訪問、夕以脩令、夜以安身、於是乎節宣其氣。
〔杜注〕宣、散也。
〔疏〕正義曰、以時節宣散其氣也。「節」即四時是也。・・・
気になるのは以下の部分です。
「節」即四時是也。
「節」とは四季である。(p.38下)
「四時」を「四季」に言い換えるのは正確ではありません。ここは、直前に言われる「君子有四時」の「四時」を指しています。「即四時是也」は「直前に出てくるあの“四時”のこと」ということですから、「四時」は訳出してはいけない言葉です。
更に言えば、上の文の通り、ここで言う「四時」は直接的には「朝・晝・夕・夜」のことですから、訳して「四季」とするのも問題があると思います。(尤も、少し先で季節の話が出てくるのですが、ここで単に「四季」だけを指すことにはできないでしょう。)
続きます。→野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について(2) - 達而録
(棋客)