達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

古橋紀宏『魏晋時代における礼学の研究』の紹介(2)

 前回の続きです。古橋紀宏『魏晋時代における礼学の研究』(p.9~)より。

 まず、加賀説で鄭玄と王粛がともに「新」に位置付けられ、段階的な発展が想定されていたことに対して、以下のように反応します。

 そこで注目されるのが、王粛の立場を説明する際にしばしば引用される「善賈馬之学、而不好鄭氏(賈逵・馬融の学問を評価し、鄭玄を好まなかった)」(『三国志』魏書王粛伝)という記述である。これは、賈逵・馬融の学、即ち、後漢の伝統的な古文学説と、鄭玄の説とが、異質のものであったことを述べており、このことを無視することはできない。即ち、鄭玄も王粛も、古文学の特徴である今古文折衷による新しい学説として位置付けるべきであるが、その中で、王粛の経書解釈には、鄭玄以前の賈逵・馬融らの伝統的な古文学説を指向する傾向が見られる。また、他の魏の経書解釈を見ても、王弼の『周易』注や、何晏の『論語集解』は、加賀氏が指摘されたように、鄭玄を含めた先儒の説を取捨選択したものであり、鄭玄の説に比べると、後漢の伝統的な古文学説を多く採用している。さらに、晋の杜預の説や、偽古文『尚書』孔安国伝を見ても、鄭玄説に比べ、伝統的な古文学説に近い立場をとっている。これらのことから考えれば、王粛やその他の魏晋の経書解釈は、鄭玄に比べて、古文学の中での「旧」として位置付けることができる。即ち、今古文折衷による新解釈という観点から見れば、鄭玄も王粛も、ともに「新」に属するものではあるが、その中で、王粛や魏晋の経書解釈には、「旧」に回帰する傾向が見られる。

 それでは、新しい注釈が生み出された魏晋時代の王粛の学説が「旧」であって、後漢古文学に再び戻っているとするなら、それは何故か、という疑問が浮かびます。

 この問題は、王粛が鄭玄説を批判した具体的な事例から考える必要がある。前述のように、王粛の鄭玄説批判の中心は、礼学、特に、当時実際に施行されていた礼制に関するものであった。従って、王粛による鄭玄説批判の背景を考える上では、当時の礼制の具体的な状況の中で考えなければならない。

 この問題について、当時の具体的な礼制度の状況と比較しながら、鄭玄説・王粛説の性質を考える、というのが本研究の骨格になっています。

 では、最後に、各章の構成を説明する部分を引用しておきます。

 このことから、魏晋時代は、経書の規定が制度に導入される過程にあり、経書が社会規範としての性質を強める時期に当たると言うことができる。そして、その状況の中において、鄭玄・王粛両説が、どのような意味を持っていたかを検討する必要がある。

 そこで、本稿においては、第二章において、魏における礼制改革と、その中における鄭玄・王粛両説の意義について検討を加えたい。そして、魏の明帝期において経書の規定に基づく礼制改革が行われ、その際に鄭玄説に基づく制度改正が議論される中で、王粛説は、それまでの制度や通念を保守する立場から反論を加えたことを明らかにしたい。

 これは、王粛説を保守、鄭玄説を革新と位置付けるものである。そして、王粛が後漢の伝統的な古文学説に回帰しているのは、それが当時の制度や、一般的な通念に適合していたためと考えられる。また、郊祀の制度について、南朝では王粛説に合致し、北朝では鄭玄説に合致する点が見られることが指摘されているが、それは、後漢との連続性を持つ南朝と、五胡十六国時代を経て後漢との連続性を持たない北朝との違いによるものと理解される。

 無論、魏晋時代の全体的な特徴を論じるためには、王粛説の検討だけでは不足で、同時代の他の学説も見ておく必要があります。これが第三章に当たります。

 そして、第三章においては、王粛説以外の魏晋時代における新解釈について検討を加えたい。ここでは、王粛以外の新解釈についても、経書の規範化に伴い、当時の社会の実態の立場から、新しい解釈を行ったもので、王粛が現実の制度や通念から鄭玄説を批判したのと同様の傾向が見られることを明らかにしたい。これらの新解釈は、今文・古文の違いとは関係のないものであることから、このような現実的立場からの修正解釈こそが、魏晋時代の経書解釈の特質であり、この点が、理念的に構築された鄭玄説と、現実性を重視する魏晋の解釈との対立をもたらした背景であると考えられる。

  次に、魏晋時代の礼学議論と『大唐開元礼』の比較を通して、結局礼学の主流が鄭玄に切り替わったことを示します。

 これは、魏晋時代の習俗においては受け入れられなかった経書の規定が、その後、次第に現実の社会に浸透したため、習俗自体が改められ、もはや現実に合わせて解釈する必要がなくなったものと考えられる。これは、魏晋時代の新解釈が、経書の規定の普及という現実の変化によって、その役割を終えたことを示しており、現実に合わせることに特徴を持つ魏晋の新解釈が衰え、体系的な鄭玄の解釈が盛んになる理由を示すものである。

 以上、研究書の序文として非常に優れたものである上に、本分野の研究史の概括としても参考になるかと思い、勝手に紹介させていただきました。

 本論の内容についても、また紹介したいと思っております。

(棋客)

古橋紀宏『魏晋時代における礼学の研究』の紹介(1)

 今日は、古橋紀宏『魏晋時代における礼学の研究』をご紹介します。博士論文で、たまたま近くの図書館に入っており、読むことができました。

 二回分の記事で、序章を簡単にまとめてお示しします(p.11~)。

 

 本研究の主眼は、特に礼学に関する鄭玄説・王粛説の対立について、両説を丁寧に整理することから出発し、その社会的背景、思想史的背景を明らかにするところにあります。

 この問題についての過去の主要な研究としては、藤川正数『魏晉時代における喪服禮の研究』加賀栄治『中国古典解釈史』が挙げられます。序章では最初にこの両説についてすぐれた整理をしつつ、両説への批判を通して本研究の目標が設定されています。

 以下、特に加賀説に関するところを抜き出していきます。

 一方、加賀栄治氏は、鄭玄・王粛両学説の違いをそのような今文学的・古文学的な対立として捉える(※ブログ筆者注:これが藤川氏の説)のではなく、後漢の古文学の方法・態度に着眼し、古文学の方法・態度の違いが、鄭玄・王粛両学説の対立をもたらした原因であることを指摘している。加賀氏の所説は以下の通りである。

 本来、今文学と古文学の違いは、依拠する文献の違いに由来するものではあるが、古文学においては、複数の文献を用いた客観的な解釈を指向する。そして、経書ごとに博士の置かれた今文学が、一つの経書についての伝承された解釈(章句)を墨守したのに対し、古文学では、複数の経書に通じる者は「通儒」と呼ばれ、貴ばれた。そのため、古文学においては、古文資料をより重視するが、それに限定することなく、今文の資料も用いた。この幅広い資料を重視する学風を後漢古文学の特質とすることができる。

 この幅広い資料を用いた解釈を重視する後漢の古文学の一つの到達点として、後漢末の鄭玄の説を捉えることができる。鄭玄は、今文・古文の経書のほか、緯書等の幅広い文献を用いて、精緻で体系的な解釈を創出した。

 ところが、その後、魏晋時代になると、学風に変化が生じる。魏晋の経学は、幅広い資料を重視する点においては後漢の古文学を継承しながらも、論理の通達や合理性という点から後漢の古文学の頂点である鄭玄の学に反駁し、新しい解釈を提示した。王弼・王粛・杜預などがそれである。この論理の重視は、後漢荊州において劉表らによって行われた学問に遡るものであり、それは後漢の古文学に属するものであるから、結局は後漢の古文学から継承されたものである。

 その後、南北朝隋唐時代の義疏学は論理通達の面から選択を行った。その際、魏晋の新しい経書解釈が、後漢古文学の到達点である鄭玄の解釈に取って代わった。しかし、鄭玄の解釈のいくつかは、論理の面で優れ、義疏学においても採用された。鄭玄の三礼注や『毛詩』鄭箋はそれである。

 以上が加賀氏の説であり、加賀氏は、後漢古文学の特質を、古文資料に限らず今文・古文両資料の対比を通して客観的な経書解釈を指向する点、即ち、資料重視という点に見出し、その到達点として、鄭玄を位置付ける。そして、王粛については、後漢古文学のもう一つの特徴である論理重視の考え方が、後漢末の荊州の学から魏晋へとつながり、王粛はその流れを継承して、鄭玄の非合理的な解釈を批判したと位置付けている。この説によれば、鄭玄も王粛もともに古文学者であるが、鄭玄は資料重視、王粛は論理重視の立場から、後漢古文学の特質を発展させたものとして位置付けられる。そして、加賀氏は、後漢の資料重視の古文学を「旧」とし、その到達点に鄭玄を位置付け、魏晋の合理的解釈を「新」と位置付けられている。

 以上は、加賀栄治『中国古典解釈史の説明として、簡にして要を得た分かりやすいものになっていると思います。

 では、この加賀説に対して、本研究はどのような点に問題を見出すのか。

 また、加賀氏の所説について考えてみると、加賀氏が、鄭玄・王粛をいずれも後漢古文学の延長とする点については首肯される。しかし、加賀氏は、後漢の古文学を資料重視の「旧」、魏晋の新解釈を論理重視の「新」として位置付けているが、そのような区別が妥当なものであるか疑問である。加賀氏は、魏晋時代の新しい経書解釈の特徴として、論理という点を挙げているが、加賀氏もそれが後漢古文学から継承されたものと認めているように、この論理重視の立場は、古文学の一般的な特徴であり、特に荊州の学とその流れを承けた魏晋の新解釈のみに見られるものとは言えない。従って、加賀氏が指摘される、後漢古文学の特質を資料重視、魏晋の解釈の特質を論理重視とする区別は、明確なものではない。この見解は、鄭玄が資料に優位性を置いた解釈をしているために、後漢の古文学全体の特質を資料重視としたものであって、それは鄭玄以外の後漢古文学の特徴とまでは言えない。

 従って、加賀氏が、古文学を、後漢の古文学と魏晋の古文学との間で新旧に区別することには、明確な根拠を見出すことはできない。鄭玄の経書解釈は、前述のように、由来のそれぞれ異なる三礼を整合的に解釈しようとしたものであり、さらにそれは三礼のみならず、それ以外の諸文献を含めて体系化・総合化を図ったものである。それは、今文学から古文学へという流れの中で考えれば、章句にとらわれない新しい解釈体系というべきである。従来、鄭玄の解釈は、両漢経学の総括として、「鄭玄=漢」という認識が定着している。これは、鄭玄の用いる説が、漢代の今文・古文両説を総合的に採用しているためである。しかし、採用する説の範囲の問題と、採用の仕方の問題とは別に考えなければならない。鄭玄の説を「旧」、魏晋の解釈を「新」とする加賀氏の所説においては、鄭玄説の持つ「新」の側面が見失われるという問題点がある。当時の今文学から古文学へという流れにおいては、後漢の古文学も魏晋の古文学も、いずれも「新」として捉えるべきであり、鄭玄説についても、魏に入ってから今文学に代わって正統的な地位を占めることになる古文学の一説として、その「新」の側面に着眼すべきである。

  鄭玄が示した礼制を、漢代の実際の礼制度に密着するものとして捉える見方は、旧来一般的であった考え方です。しかし、近年(特に池田秀三氏、橋本秀美氏らの研究)によって、これはそう簡単には言い切れず、むしろ鄭玄の学説の観念性、理念性といった面が強調されるようになってきています。

 個人的な感覚では、古い研究では、漢代における中央集権国家体制の完成と、その最晩年に登場する鄭玄の礼学の完成というものが、何となく結び付けられて理解されてきたようなところがあると感じていますが、いかがでしょうか。

 

 さて、では本研究ではどのような角度から検討するのか、という点が問題になります。以下は次回にお示しします。

(棋客)

「禘祫」の祭祀について(2)

 今回は、前回に引き続いて、「禘」と「祫」がどのように区別されてきたのか、について整理します。前回同様、池田秀三「黄侃<禮學略説>詳注稿(一)」*1に依拠しています。

 

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 「禘」と「祫」が区別される場合、その相違点は、①祭祀を行う周期、②内容の差異・大小、③祭祀の意義、の三点に(大雑把にいえば)分けられるようです。しかし、それぞれについて細かく異説が存在することには留意が必要です。

 

1.「禘」と「祫」を行う周期

 大きく、「三年一祫、五年一禘」説と、「三年一禘、五年一祫」説に分かれる。

 

1-1.「三年一祫、五年一禘」

 三年の喪が明けた時、太祖廟で大祫を行い、翌年の春に太祖廟と四親廟で吉禘を行い、それ以後は三年目に(常祭としての)祫、五年目に(常祭としての)禘、を繰り返す。(祫を三年に一度・禘を五年に一度するわけではなく、五年の内に両者を一度ずつ、つまり三年目に祫、五年目に禘、八年目に祫、十年目に禘、を繰り返す。)

 これは鄭玄の他、『説苑』修文篇、『禮緯稽命徴』、『説文』、『公羊伝』何休注、『爾雅』孫炎注、『後漢書』張純傳などに見え、基本学説と言える。ただ、細かな説の相違はあり、例えば鄭玄は『禘祫志(魯禮禘祫議)』(『毛詩』閟宮疏引)にて「周改先王夏祭之名為礿、故禘以夏、先王祫於三時、周人一焉、則宜以秋」とし、祫は孟秋、禘は孟夏に行うとする(鄭玄の礼説では祭祀は孟月を用いる)。一方、張純は、祫は冬十月、禘は夏四月に行うとし、後世この張純説が定説となる。

 

1-2.「三年一禘、五年一祫」

 上の逆。こちらは『左傳』僖公八年の杜預注に「禘、三年大祭之名」とあることに基づくが、『禮記』王制疏に「若左氏説及杜元凱、皆以禘為三年一大祭、在大祖之廟。」とあり、これは後漢の左氏説を継承するらしい。但し、『周禮』春官・鬯人に「賈服以為三年終禘、遭烝甞則行祭禮、與前解違、非鄭義也」とあることから考えると、これらは「三年目に禘を行う」の意ではなく、単に「三年の喪が明けた時に禘(吉禘)を行う」ことを指しているだけかもしれない。

 しかし、六朝~隋唐期の経説に既に「三年一禘、五年一祫」は現れており、梁の武帝は実際にこの制度を施行しており、有力な説になっていたらしい。

 

 なお、前回省略した段注には『駁五經異義』の引用があり、許慎説と鄭玄説が紹介されている。

・段玉裁『説文解字注』一篇上、示部、禘(十葉裏)

〔段注〕『五經異義』「今『春秋公羊』説「五年而再殷祭」。古『春秋左氏』説「古者日祭於祖考、月祀於高曾、時享及二祧、歲祫及壇墠、終禘及郊宗石室」。許君謹案、叔孫通宗廟有日祭月薦之禮、知自古而然也。三歲一祫、此周禮也。五歲一禘、疑先王之禮也。鄭君駁之曰、三年一祫、五年一禘、百王通義。以爲禮讖云、殷之五年。殷祭亦名禘也」。

 玉裁按、此與『公羊』「五年而再殷祭」説正合。今閩縣陳氏恭甫名壽祺云「『初學記』、『藝文類聚』引許『異義』、文有譌脱。當作「三歲一祫、五歲一禘、此周禮也。三歲一禘、疑先王之禮也」。今脱四字、譌一字。陳説是也。

 『駁五經異義』は佚書で、この文は『初學記』、『藝文類聚』、『太平御覽』からつぎはぎしたもの。整理すると以下。

許慎説:三歲一祫、此周禮也。五歲一禘、疑先王之禮也。

鄭玄説:三年一祫、五年一禘、百王通義。

 ただ、確かにこれではよく分からない感じもあり、陳壽祺は以下のように訂正するわけ。

許慎説:三歲一祫、五歲一禘、此周禮也。三歲一禘、疑先王之禮也

鄭玄説:三年一祫、五年一禘、百王通義。

 ただ、ここまで直してしまってよいかは難しいところでしょうか。

 

1-3.その他の説

 鄭玄の『禘祫志』に「儒家之説、禘祫通俗不同。或云、歲祫終禘。或云、三年一祫、五年再禘」とあり、この「歲祫終禘」は毎年祫を行い、終禘(吉禘)を一度だけ行う、という説。似た説として、『禮記』王制疏「皇氏取先儒之義、以為虞夏祫祭每年皆為」などがある。

 

2.内容の差異、大小

 「禘大祫小」説:馬融・王肅(『通典』禮九)、張融・孔晁(『禮記』王制疏)、何休(『公羊伝』僖公三十一年注)

 「祫大禘小」説:鄭玄は、祫は毀廟と未毀廟の全ての主(位牌)を太祖廟に合わせて祀るのに対し、禘は毀廟の遷主のみを始祖廟に升し、未毀廟はその廟に就くから、「祫大禘小」とする(『毛詩』長發疏引『禘祫志』「禘、大祭也。大於四時而小於祫」)。鄭玄の「三年一祫、五年一禘」説なら「禘大祫小」になりそうにも思えるが、これをどう考えていたのかは不明。

 

3.祭祀の意義

 『白虎通』に「禘之為言諦也、序昭穆、諦父子也。祫者合也、毀廟之主、皆合食於太祖也」とある。「禘、諦也。祫、合也」はほぼ定訓。つまり、「禘」の目的は「昭穆の順序をはっきりさせること」で、「祫」の目的は「毀廟の位牌を太祖の廟に合わせて祀ること」といったところになる。

 ただ、「禘祫によって昭穆を序す」とされることもあるし、また昭穆でなく功徳の優劣を審諦するとする場合や、禘に功臣も祀るとする場合もある。(『公羊傳』文公二年何休注「禘所以異於祫者、禘則功臣皆祭也、祫則合食於大祖而巳」など)

 

 

 以上、一応のあらましは整理できたかと思います。だいぶ省略しましたので、詳しくは上掲の論文をご覧ください。参考資料や先行研究なども載せられております。

 前回・今回の記事は、ただ先行の論文をまとめなおしただけなのですが、一つ一つ元資料に当たりながら読むことによって、「禘祫」を議論する際の重要文献は一通りおさえることができたような気がします。

(棋客)

*1:『中国思想史研究』28、2006

「禘祫」の祭祀について(1)

 最近、礼学上の大きな問題の一つである「禘祫」の祭祀について概要を整理する機会があったので、こちらに残しておきます。前回までは部屋の扉と窓とかいうかなり細かい話をしていましたが、「禘祫」は歴代の学者が必ず言及しているといってもよいぐらいに重要な議論のテーマです。今回は、池田秀三「黄侃<禮學略説>詳注稿(一)」*1に全面的に依拠しながら整理しています。(オンラインで読めます↓)

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 更に詳しい専論として、新田元規「唐宋より清初に至る禘祫解釈史」があります。歴代の議論が総ざらいされており、より詳しく知りたい方はこちらを読むと良いです。(オンライン上での公開はありません。)

 

 これまで何度も出てきたように、経学・礼学の調べごとには、やはり段注が便利です。まずは、「禘」字の『説文』段注を見ておきましょう。

・段玉裁『説文解字注』一篇上、示部、禘(十葉裏)

 禘、諦祭也。从示。帝聲。周禮曰「五歲一禘」。

〔段注〕

 言部曰「諦者、審也」。「諦祭」者、祭之審諦者也。何言乎審諦。自來說者皆云「審諦昭穆」也。禘有三、有時禘、有殷禘、有大禘。時禘者、王制「春曰礿、夏曰禘、秋曰嘗、冬曰蒸」、是也、夏商之禮也。殷禘者、周春祠、夏禴(卽礿字)秋嘗、冬蒸、以禘爲殷祭。殷者、盛也。「禘」與「祫」皆合羣廟之主祭於大祖廟也。大禘者、大傳、小記皆曰「王者禘其祖之所自出、以其祖配之」、謂王者之先祖皆感大微五帝之精以生、皆用正歲之正月郊祭之。『孝經』「郊祀后稷以配天」、配靈威仰也。

 『毛詩』言禘者二。曰「雝、禘大祖也」。大祖謂文王、此言殷祭也。曰「長發、大禘也」。此言商郊祭感生帝汁光紀、以玄王配也。云「大禘」者、葢謂其事大於宗廟之禘。『春秋』經言諸矦之禮。僖八年「禘于太廟」、太廟謂周公廟、魯之太祖也。天子宗廟之禘、亦以尊太祖、此正禮也。其他經言「吉禘于莊公」、傳之禘於武公、禘於襄公、禘於僖公、皆專祭一公、僭用禘名、非成王賜魯重祭、周公得用禘禮之意也。

 昭穆固有定、曷爲審諦而定之也。禘必羣廟之主皆合食、恐有如夏父弗忌之逆祀亂昭穆者、則順祀之也。天子諸矦之禮、兄弟或相爲後、諸父諸子或相爲後、祖行孫行或相爲後、必後之者與所後者爲昭穆。所後者昭則後之者穆、所後者穆則後之者昭、而不與族人同昭穆。以重噐授受爲昭穆、不以世系蟬聮爲昭穆也。故曰「宗廟之禮、所以序昭穆也」。宗廟之禮、謂禘祭也。禘之說大亂於唐之陸淳、趙匡、後儒襲之、不可以不正。

〔第一段落〕
 段玉裁に拠れば、「禘」は三種に分かれます。

  • 時禘:宗廟の時祭(時享、祖先の霊廟を季節ごとに祭る)。夏・商の禮で「春曰礿、夏曰禘、秋曰嘗、冬曰蒸」という時の「禘」。
  • 殷禘:宗廟の殷祭(大祭、祖先の位牌を大廟に集めて祭る)。周の禮では時祭は「祠、禴(礿)嘗、蒸」の四つであり、「禘」は「殷祭」を指す。禘祫の禘、というとこれを指す。
  • 大禘:天の祭り(郊)としての禘(大禘)。王者の始祖を主とし、その感生帝を配して祭る。禘郊の禘、というとこれを指す。

 なお、池田論文によれば、ここは全て鄭玄説に基づいて整理されています。

 

〔第二段落〕
 『毛詩』や『春秋』に出てくる「禘」の実例が、それぞれ上の三種の内のどれに当たるのか、段玉裁が分類しています。

〔第三段落〕
 段玉裁は冒頭で、「禘、諦祭也」の「諦祭」とは、祭祀の中で「審諦」(はっきりさせる)であることを指し、これが「昭穆をはっきりさせる」ことであると説明しました。「昭穆」というのは、宗廟における位牌の並べ方を示すもので、普通は一世ごとに左右に並べていくだけですから、固定されたものであるはずです。とすると、ここで「昭穆をはっきりさせる」というのはどういうことか、という疑問が浮かぶわけで、この疑問に答えているわけです。詳細は省略。

 

 次に、「祫」字を調べておきましょう。

・段玉裁『説文解字注』一篇上、示部、祫(十一葉表)

 祫、大合祭先祖親疏遠近也。从示合。周禮曰「三歲一祫」。

〔段注〕

 春秋文二年八月丁卯「大事于大廟」、『公羊傳』曰「大事者何。大祫也。大祫者何。合祭也。毀廟之主、陳於大祖。未毀廟之主皆升(句)、合食於大祖。(兼上二者、)五年而再殷祭」。鄭康成曰「魯禮、三年喪畢而祫於大祖、明年春、禘於羣廟。自此之後、五年而再殷祭。一祫一禘」。

 『春秋』經書「祫」謂之「大事」、書「禘」謂之「有事」。商頌玄鳥「祀高宗也」、鄭云「祀當爲祫。高宗崩而始合祭於契之廟、歌是詩焉」。曾子問「祫祭於祖、則祝迎四廟之主」。許言「合祭先祖親疏遠近」、正用『公羊』大事傳。禘之合食蓋同、而以審禘會合分別其名、亦分別其歲有三年五年之殊、分別其時有夏秋之殊。禘卽『周禮』之「肆獻祼追亯」。祫卽『周禮』之「饋食朝亯」。夏殷有時禘、有時祫。『周禮』禘祫皆爲殷祭、非四時祭。毛公傳曰「諸矦夏禘則不禴。秋祫則不嘗」、謂『周禮』「諸侯禘在夏、祫在秋」、則皆廢時祭。天子則不廢時祭。

 池田論文によれば、「祫」の定義を示す文献としては、段注の挙げる『説文』と『公羊傳』文公二年のほか、『穀梁傳』文公二年、『白虎通』宗廟、『漢書』韋玄成傳などの例がありますが、内容はほぼ一貫しており、いずれも「太祖を合祀する殷祭」を指しているようです。

 

 では、「禘」と「祫」はどのように区別されるのか、または区別されないのか、というのが問題になってきます。段注を見てみますと、まず『礼記』王制の鄭玄注「魯禮、三年喪畢而祫於大祖、明年春、禘於羣廟。自此之後、五年而再殷祭。一祫一禘」(魯の禮では、三年の喪が終わると大祖で「祫」を行い、明年の春、羣廟で「禘」を行う。これ以後、五年経つと再び殷祭を行う。一度「祫」を行うと、一度「禘」を行う)を引いています。ここでは、「禘」と「祫」が区別されているのが明らかです。

 以下、段注は続きますが、「禘」と「祫」がどのように区別されるのかという点については次回に詳しく整理するとして、先に「禘」と「祫」を同一の祭祀と見る説(禘祫同一説)を整理しておきましょう。

 

 まず、『通典』禮九に「賈逵、劉歆則云、一祭二名、禮無差降」とあり、更に禮十に「王肅又云、天子諸侯、皆禘於宗廟、非祭天之祭、郊祀后稷不稱禘、宗廟稱禘、禘祫一名也。合祭、故稱祫。禘而審諦之、故稱禘。非兩祭之名。三年一祫、五年一禘、總而互舉、故稱五年再殷祭、不言一禘一祫、斷可知矣」とあり、賈逵、劉歆、王肅は禘祫同一説を取っていたことが分かります。*2池田論文によれば、「禘」と「祫」の区別の前提には、『春秋』經文において「禘=有事」と「祫=大事」の書き分けがある、ということがあるのですが、実際のところ『春秋』經文には「祫」の字が見えないため、この前提に無理がある、とあります。この説は、清朝に入って金鶚らによって強く唱えられます。最近個人的に読んでいる朱大韶『實事求是齋經義』も同一説を唱えています。

 池田論文では、客観的に見れば禘祫同一説が最も妥当としながらも、伝統的な礼学においては両者を峻別するのが大勢である、と指摘しています。

 

 次回に続きます。

(棋客)

*1:『中国思想史研究』28、2006

*2:但し、『禮記』王制疏に「若王肅、張融、孔晁皆以禘為大、祫為小」とあり、『通典』禮九にも「馬融、王肅皆云、禘大祫小」と言われていて、王肅が両者を区別していたような節もあります。更に、上の『禮記』王制疏を詳しく読むと、「若王肅、張融、孔晁皆以禘為大、祫為小。故王肅論引賈逵說「吉禘於莊公」、禘者遞也、審遞昭穆、遷主遞位、孫居王父之處。又引「禘於太廟」、逸禮、其昭尸穆尸、其祝辭緫稱孝子孝孫、則是父子並列。逸禮又云、皆升合於其祖。所以劉歆、賈逵、鄭眾、馬融等皆以為然。鄭不從者・・・」と続きます。劉歆、賈逵、鄭眾、馬融、王肅、張融、孔晁がみな「禘為大、祫為小」を唱えていたとすると、劉歆、賈逵が唱えたとされる「禘祫同一説」とどのように整合性がとれるのか、もう少し考えてみる必要があるかもしれません。

『毛詩』小雅・斯干疏・翻案

 伝統的な経学において、宮室の構造について議論される際、鄭玄の唱えた「宗廟及路寢制如明堂」(「宗廟」と「路寢」の建物の制度は「明堂」と似ている)という説との関わりが常に問題になってくるようです。今回は、この問題について議論した『毛詩』小雅・斯干の疏文を読解します。

 そもそも「斯干」とはどういう詩なのか、伝統的な解釈を確認しておきましょう。

『毛詩』小雅・鴻鴈之什・斯干

(詩序)斯干、宣王考室也。

(鄭箋)考、成也。德行國富、人民殷眾、而皆佼好、骨肉和親、宣王於是築宮廟羣寢、既成而釁之、歌斯干之詩、以落之。此之謂成室。宗廟成則又祭祀先祖。

 「斯干」は、伝統的解釈によれば、周の宣王(西周末期の王)が宮室を完成させたときの詩で、ここから周代の宮室の制度との関わりが出てくるわけですね。

 今回読解するのは、以下の鄭箋に対して附された疏文です。

 似續妣祖、築室百堵、西南其戸。

(毛傳)西郷戸、南郷戸也。

(鄭箋)此築室者、謂築燕寢也。百堵、百堵一時起也。天子之寢有左右房、「西其戸」者、異於一房者之室戸也。又云「南其戸」者、宗廟及路寢制如明堂、每室四戸、是室一南戸爾。

 以下に疏文を載せます。長大に亘るので、内容の切れ目ごとに分けて示します。疏はそのまま訓読したり逐語訳してもなかなか分かりにくいですから、勝手に一問一答形式に書き換えてお示しします。あくまで参考程度にご覧ください。

 

 正義曰、以上為立廟、故此為居室。然「似續妣祖」之言、文中不容路寢、則「築室百堵」、路寢亦宜在焉。獨言此「築室謂築燕寢」者、路寢作與燕寢同時。而制與宗廟相類、此「西南其戸」、非路寢之制、故特言燕寢。其路寢、文雖不載、亦作之可知。

Q.この經文は何を言っているのですか?

A.経の上文では宗廟を立てる話をしているから、この文は天子の居室についての話だろう。しかし、「似續妣祖」という語は、宮廟を立てる話であって、路寢のことは含まないから、そうすると「築室百堵」という語の方が、路寢のことを示しているはずである。

Q.そうだとすると、鄭玄はただ「(経文の)「築室」とは、燕寢を建築することを指す」と言っていて、「路寢」と言わないのは何故でしょう?

A.路寢は燕寢と同時に作られるものだから、「燕寢」と言えば兼ねて言うことができるのだろう。

Q.それならば、鄭玄は「路寢」と言えば済む話ではないですか。

A.いや、路寢の制度は宗廟と似ているということから考えると、この経文の「西南其戸」という語は、路寢の制を指しているわけではない。そこで、鄭玄は「燕寢」とだけ言ったのだろう。結局、鄭玄は路寢については明言していないけれども、この經文が路寢を作ったことについても言っていることは分かる。

 

 言「天子之寢有左右房」者、以天子之燕寢、即諸侯之路寢。礼、諸侯之制、聘有夾室、又士喪礼小斂「婦人髽於室」、而喪大記諸侯之禮云「小斂、婦人髽帶麻於房中」、以士喪男子括髮在房、婦人髽於室、無西房故也。士喪礼「婦人髽於室」、在男子之西、則諸侯之禮、婦人髽於房、亦在男子之西、是有西房矣。有西房、自然有東房、是諸侯路寢有左右房也。天子路寢既制如明堂、自然燕寢之制當如諸侯路寢、故知天子之燕寢有左右房也。

Q.では、次の鄭玄注の「天子之寢有左右房」について、根拠を教えてください。

A.ここで問題となっている天子の「燕寢」とは、つまり、諸侯でいう「路寢」のことだ。

Q.では、諸侯の路寢とはどのようなものですか?

A.まず、『儀礼』聘禮の記載(「饌于東方、亦如之」、鄭注「東方、東夾室」)から、諸侯の制では、聘禮の際に夾室を用いることが分かる。次に、士の禮である『儀礼』士喪礼の小斂に「婦人髽於室」とあるが、同じ点について『礼記』喪大記には諸侯の礼として「小斂、婦人髽帶麻於房中」とある。

Q.士喪礼では婦人の髽が「室」で行われるとあるところ、喪大記では「房」になっていますね。

A.そうだ。まず、『儀礼』士喪禮の場合、男子の括髮は「房」で行われて、婦人の髽は「室」で行われている。この理由は、士には西房が無く、室(西室)・房(東房)の二部屋だけがあるからだ。ここで、士喪礼が「婦人髽於、在男子之西」とする文を、喪大記の諸侯の礼の方では「婦人髽於、亦在男子之西」とするから、諸侯の制には「西房」が存在することが分かる。西房がある以上は、自然に考えれば東房もあるはずで、ここから諸侯の路寢には左右の房があると分かる。

 そして、天子の路寢の制が明堂に似ている以上は、自然に考えれば天子の燕寢の制度は諸侯の路寢と似ているはずだ。すると、天子の燕寢にも、諸侯の路寝と同じように、左右の房があることが分かる、というわけだ。

 

 既有左右、則室當在中、故「西其戸者、異於一房之室戸也」。大夫以下無西房、唯有一東房、故室戸偏東、與房相近。此戸正中比之、為西其戸矣。知大夫以下止一房者、以郷飲酒義云「尊於房戸之間、賓主共之」、由無西房、故以房與室戸之間為中也。但大夫禮直言房、不言東西、明是房無所對故也。若然特牲云「豆籩鉶在東房」者、鄭注云「謂房中之東當夾北」、非對西戸也。郷飲酒記云「薦出自左房」、郷射記云「出自東房」者、以記人以房居東在左、因言之。記非經、無義例也。

Q.次の鄭玄注「西其戸者、異於一房者之室戸也」はどういう意味ですか?

A.房が左右にある以上は、室は真ん中にあるはずで、だから鄭玄は、経に「西其戸」とあるのは、一つしか房が無い場合の室の戸の位置とは異なると考えるわけだ。先述の通り、大夫以下には西房が無く、ただ東房だけがある。すると室の戸は東側にあるから、室の戸は東房の近くにあるということになるだろう。しかし、この經文の場合は、左右に房があるから、室の戸は、真ん中から比べて考えると西寄りということになり、「西其戸」というのだ。(※ここ、ちょっと論理がよく分からないです。)

Q.先ほどから「大夫以下には西房が無く、東房の一つだけがある」と言われていますが、この根拠を教えてください。

A.『儀礼』郷飲酒義に「尊於房戸之間、賓主共之」とある。つまり房と室戸の間を尊としているわけだが、西房がないからこそ、房と室戸の間が真ん中となるのである。このように、大夫の礼では「房」とだけ言い、その東西を言わないから、士の房にはその対がないということが分かる。

Q.そうだとすると、『儀礼』特牲饋食禮に「豆籩鉶在東房」とあるのはどうなりますか?

A.これは鄭注に「これは房の中の東を指し、夾の北側に当たる」とあって、「西房」に対して言った表現ではない。他に、『礼記』郷飲酒記「薦出自左房」、『礼記』郷射記「出自東房」といった例があるけれども、これらは記す人が房の東にいたり左にいたりするからこう言ったまでだ。『禮記』は經ではないから、義例は無いのである。

 

 又解「南其戸者、宗廟及路寢、制如明堂、每室四戸」、是燕寢之室、獨一南戸耳、故言南其戸也。*1

Q.では、次の鄭玄注「南其戸者、宗廟及路寢、制如明堂、每室四戸」について教えてください。

A.燕寢の室は、南の戸が一つあるだけだから、(南を代表させて)「南其戸」と言うのだ。

 

 知「宗廟及路寢制如明堂」者、明堂位曰「太廟天子明堂」、又月令說明堂而季夏云「天子居明堂太廟」、以明堂制與廟同、故以太廟同名其中室、是宗廟制如明堂也。又宗廟象生時之居室、是似路寢矣、故路寢亦制如明堂也。又匠人云「夏后氏世室、殷人重屋、周人明堂」注云「世室、宗廟也。」「重屋者、王宮正室、若大寢也。」「明堂者、明政教之堂也。」此三者不同而三代各舉其一、是欲互以相通、故鄭云「此三者或舉宗廟、或舉王寢、或舉明堂、互言之、以明其同制。」是宗廟及路寢制如明堂也。

Q.この鄭玄注に「宗廟と路寢の制は明堂と似ている」というのは何故ですか?

A.まず、明堂と宗廟の関係について説明しよう。『礼記』明堂位に「太廟、天子明堂」とあり、また『礼記』月令は明堂を説き、季夏には「天子は明堂の太廟に居る」という。明堂の制度が宗廟と同じであるからこそ、その真ん中の部屋を同じく「太廟」と名づけるのだ。よって、宗廟の制は明堂と似ている。

Q.明堂と路寢の関係はどうなりますか?

A.宗廟は生前の居室に似せて作るものであるから、天子の居室である路寢と似ているのも当然で、よって路寢の制は明堂に似ていると分かる。『周礼』考工記・匠人に「夏后氏世室、殷人重屋、周人明堂」とあり、鄭注に「世室とは宗廟のこと」、「重屋とは、王宮の正室で、大寢のようなもの」、「明堂とは、政教を明らかにする堂のこと」という。この三者は、名前は同じではないが、三代でそれぞれ要素のうちの一つを挙げただけであって、実態は同じものである。鄭玄はそれぞれを通じさせようとしているから、鄭玄は「この三者は、一つは宗廟の部分を取り上げ、一つは王寢の部分を取り上げ、一つは明堂の部分を取り上げているだけで、どれも通じ合うのであり、これらが同制であることは明らかである」という。よって、宗廟と路寢の制は明堂と似ている。

 

 彼三者並陳、此言如明堂者、以周制舉明堂為文、故以宗廟及路寢制如之也。彼文說「世室曰五室、四傍、兩夾窻」注云「窻、助戸為明也、每室四戸八窻。」以言「四傍」是四方傍開、又云「兩夾窻」是一戸兩窻夾之、以此知「每室四戸」也。

Q.世室・重屋・明堂は同列のものなのに、鄭玄がここで特に「如明堂(明堂に似ている)」と、「明堂」を取り出して言うのは何故ですか?

A.ここでは、周制に拠って「明堂」を取り出して文にしているから、「宗廟と路寢が明堂に似ている」と言うのだ。

Q.鄭玄注の「每室四戸」の根拠は何でしょう。

A.先の『周礼』考工記・匠人には、「世室曰五室、四傍、兩夾窻」とあって、鄭玄注に「窻とは、戸を補って明かりを取りこむためのもので、每室に四つの戸と八つの窻がある」とある。また、「四傍」から四方に開く戸があること、「兩夾窻」から一つの戸の両側を二つの窓で挟むことが分かり、每室に四つの戸があることが分かる。

 

 宣王都在鎬京、此考室、當是西都宮室。顧命說成王崩、陳器物於路寢、云「胤之舞衣、大貝、鼖鼓、在西房。兌之戈、和之弓、垂之竹矢、在東房。」若路寢制如明堂、則五室皆在四角與中央、而得左右房者、『鄭志』荅趙商云「成王崩之時在西都。文王遷豐、作靈臺、辟廱而巳、其餘猶諸侯制度。故喪禮設衣物之處、寢者夾室與東西房也。周公攝政、致太平、制禮作樂、乃立明堂於王城。」

Q.この詩は詩序に「斯干、宣王考室也」とありますが、宣王の宮室はどのように考えるべきでしょうか。

A.宣王の時、都は鎬京にあったから、ここでいう「考室」とは、西都の宮室を指すはずだ。

Q.『尚書』顧命は、成王が崩じた際に器物を路寢に陳列したことを描写して、「胤之舞衣、大貝、鼖鼓、在西房。兌之戈、和之弓、垂之竹矢、在東房。」と言っています。路寢の制が明堂と同じであれば、五室は四つの角と中央とに存在するはずで、左右の房などないはずですが、ここで「西房」「東房」とあるのは何故ですか?

A.まず、『鄭志』では、鄭玄が趙商に答えて以下のように言っている。

 「成王は崩じた時、西都にいた。文王が都を豐に遷して、靈臺・辟廱だけを作ったが、その他は諸侯の制と似たままにしておいた。よって、成王の喪禮において衣物を並べる場所は、寢者夾室と東西の房にした。周公が政治を代理し、太平の世を実現し、禮樂を制定し、そうしてやっと明堂を王城に立てた。」

 よって、成王以前の宮室は、周公のものとは異なっていて、東西の房があったということになる。

 

 如鄭此言、則西都宗廟路寢、依先王制、不似明堂。此言「如明堂」者、『鄭志』荅張逸云「周公制禮土中、洛誥「王入太室祼」、是也。顧命成王崩於鎬京、承先王宮室耳。宣王承亂、未必如周公之制。」

 以此二荅言之、則鄭意以文王未作明堂、其廟寢如諸侯制度。乃周公制礼、建國土中、以洛邑為正都。其明堂廟寢、天子制度、皆在王城為之。其鎬京則別都耳。先主之宮室尚新、周公不復改作、故成王之崩、有二房之位。由承先王之室故耳。及厲王之亂、宮室毀壞、先王作者、無復可因。宣王別更脩造、自然依天子之法、不復作諸侯之制、故知宣王雖在西都、其宗廟路寢皆制如明堂、不復如諸侯也。若然、明堂周公所制、武王時未有也。樂記說武王祀乎明堂者、彼注云「文王之廟為明堂制」、知者以武王既伐紂為天子、文王又已稱王、武王不得以諸侯之制為父廟、故知為明堂制也。

Q.鄭玄のこの説の通りだとすると、西都の宗廟と路寢の方が、周の先王の制度に沿っていて、明堂とは似ていないものということになりませんか。しかし鄭玄が「如明堂」と言っているのは何故でしょう?

A.他に、『鄭志』では、鄭玄が趙商に答えて以下のように言っている。

 「周公が土中で禮を制定したことは、『尚書』洛誥に「王入太室祼」とあることから分かる。『尚書』顧命に、成王は鎬京で崩じたというのは、先王の宮室を受け継いだだけである。宣王は亂世を受けているから、必ずしも周公の制と同じとは言えない。」

 これら『鄭志』の二つの回答から考えれば、鄭玄の意図は以下のようになる。文王は明堂を作っておらず、その宗廟・路寢は諸侯の制度と同じである。その後ようやく、周公が礼を制定し、土中で建國し、洛邑を正都とした。その明堂・宗廟・路寢は、天子の制度であって、全て王城に建設した。こうなると、鎬京は別都というだけである。この時、先主の宮室はまだ新しいもので、周公が再び改築するということはなかったから、成王が崩じた所は、(諸侯の制と似ていて、)二つの房がある。これは先王の室を受け継いだというだけである。厲王の亂の時になって、宮室は壊され、先王が作ったものは、往時の姿を取り戻すことはできなくなった。後に、宣王が別に改めて脩造する時には、自然と天子の制に従うことになるから、もう諸侯の制によって作ることはない。よって、宣王は西都にいたのだけれども、その宗廟・路寢の制度は明堂と似ていて、諸侯の制度に似ることはなかったと分かる。

Q.仮にそうだとすると、明堂は周公が制定したもので、武王の時にはなかったということになりますが、『礼記』樂記に「武王は明堂に祀られた」というのは何故でしょうか。

A.『礼記』樂記の鄭玄注には「文王の廟は、明堂の制を用いている」という。武王が紂を討伐して天子となった後は、文王ももう王と称されているはずで、そこから武王が諸侯の制によって父廟(文王の廟)を作ることはできないから、「為明堂制」であることが分かる。

 

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 議論が進むにつれて細かな矛盾が明らかになり、その矛盾を疎通させるためにまた新たな説が生まれる、という雰囲気が伝われば幸いです。

 途中、「每室四戸」と出てきたり「獨一南戸耳」と出てきたりするところはよく分かりませんが、(というより鄭注「南其戸者、宗廟及路寢、制如明堂、每室四戸」がもともとよく分からないですが、)疏の理解としては、「路寢は明堂に似ているので四戸、燕寢は諸侯の路寢と同じなので南戸のみ」で、経文は両者を含めて述べている、という感じなのでしょうか。

(棋客)

*1:阮元本には「故言西其戸也」とあり、校勘記に「故言南其戸也」にすべきとあります。ここについて単疏本『毛詩正義』を見ますと、確かに「南」に作っています。文脈を考えても、「南」が正しいでしょう。