達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

「禘祫」の祭祀について(2)

 今回は、前回に引き続いて、「禘」と「祫」がどのように区別されてきたのか、について整理します。前回同様、池田秀三「黄侃<禮學略説>詳注稿(一)」*1に依拠しています。

 

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 「禘」と「祫」が区別される場合、その相違点は、①祭祀を行う周期、②内容の差異・大小、③祭祀の意義、の三点に(大雑把にいえば)分けられるようです。しかし、それぞれについて細かく異説が存在することには留意が必要です。

 

1.「禘」と「祫」を行う周期

 大きく、「三年一祫、五年一禘」説と、「三年一禘、五年一祫」説に分かれる。

 

1-1.「三年一祫、五年一禘」

 三年の喪が明けた時、太祖廟で大祫を行い、翌年の春に太祖廟と四親廟で吉禘を行い、それ以後は三年目に(常祭としての)祫、五年目に(常祭としての)禘、を繰り返す。(祫を三年に一度・禘を五年に一度するわけではなく、五年の内に両者を一度ずつ、つまり三年目に祫、五年目に禘、八年目に祫、十年目に禘、を繰り返す。)

 これは鄭玄の他、『説苑』修文篇、『禮緯稽命徴』、『説文』、『公羊伝』何休注、『爾雅』孫炎注、『後漢書』張純傳などに見え、基本学説と言える。ただ、細かな説の相違はあり、例えば鄭玄は『禘祫志(魯禮禘祫議)』(『毛詩』閟宮疏引)にて「周改先王夏祭之名為礿、故禘以夏、先王祫於三時、周人一焉、則宜以秋」とし、祫は孟秋、禘は孟夏に行うとする(鄭玄の礼説では祭祀は孟月を用いる)。一方、張純は、祫は冬十月、禘は夏四月に行うとし、後世この張純説が定説となる。

 

1-2.「三年一禘、五年一祫」

 上の逆。こちらは『左傳』僖公八年の杜預注に「禘、三年大祭之名」とあることに基づくが、『禮記』王制疏に「若左氏説及杜元凱、皆以禘為三年一大祭、在大祖之廟。」とあり、これは後漢の左氏説を継承するらしい。但し、『周禮』春官・鬯人に「賈服以為三年終禘、遭烝甞則行祭禮、與前解違、非鄭義也」とあることから考えると、これらは「三年目に禘を行う」の意ではなく、単に「三年の喪が明けた時に禘(吉禘)を行う」ことを指しているだけかもしれない。

 しかし、六朝~隋唐期の経説に既に「三年一禘、五年一祫」は現れており、梁の武帝は実際にこの制度を施行しており、有力な説になっていたらしい。

 

 なお、前回省略した段注には『駁五經異義』の引用があり、許慎説と鄭玄説が紹介されている。

・段玉裁『説文解字注』一篇上、示部、禘(十葉裏)

〔段注〕『五經異義』「今『春秋公羊』説「五年而再殷祭」。古『春秋左氏』説「古者日祭於祖考、月祀於高曾、時享及二祧、歲祫及壇墠、終禘及郊宗石室」。許君謹案、叔孫通宗廟有日祭月薦之禮、知自古而然也。三歲一祫、此周禮也。五歲一禘、疑先王之禮也。鄭君駁之曰、三年一祫、五年一禘、百王通義。以爲禮讖云、殷之五年。殷祭亦名禘也」。

 玉裁按、此與『公羊』「五年而再殷祭」説正合。今閩縣陳氏恭甫名壽祺云「『初學記』、『藝文類聚』引許『異義』、文有譌脱。當作「三歲一祫、五歲一禘、此周禮也。三歲一禘、疑先王之禮也」。今脱四字、譌一字。陳説是也。

 『駁五經異義』は佚書で、この文は『初學記』、『藝文類聚』、『太平御覽』からつぎはぎしたもの。整理すると以下。

許慎説:三歲一祫、此周禮也。五歲一禘、疑先王之禮也。

鄭玄説:三年一祫、五年一禘、百王通義。

 ただ、確かにこれではよく分からない感じもあり、陳壽祺は以下のように訂正するわけ。

許慎説:三歲一祫、五歲一禘、此周禮也。三歲一禘、疑先王之禮也

鄭玄説:三年一祫、五年一禘、百王通義。

 ただ、ここまで直してしまってよいかは難しいところでしょうか。

 

1-3.その他の説

 鄭玄の『禘祫志』に「儒家之説、禘祫通俗不同。或云、歲祫終禘。或云、三年一祫、五年再禘」とあり、この「歲祫終禘」は毎年祫を行い、終禘(吉禘)を一度だけ行う、という説。似た説として、『禮記』王制疏「皇氏取先儒之義、以為虞夏祫祭每年皆為」などがある。

 

2.内容の差異、大小

 「禘大祫小」説:馬融・王肅(『通典』禮九)、張融・孔晁(『禮記』王制疏)、何休(『公羊伝』僖公三十一年注)

 「祫大禘小」説:鄭玄は、祫は毀廟と未毀廟の全ての主(位牌)を太祖廟に合わせて祀るのに対し、禘は毀廟の遷主のみを始祖廟に升し、未毀廟はその廟に就くから、「祫大禘小」とする(『毛詩』長發疏引『禘祫志』「禘、大祭也。大於四時而小於祫」)。鄭玄の「三年一祫、五年一禘」説なら「禘大祫小」になりそうにも思えるが、これをどう考えていたのかは不明。

 

3.祭祀の意義

 『白虎通』に「禘之為言諦也、序昭穆、諦父子也。祫者合也、毀廟之主、皆合食於太祖也」とある。「禘、諦也。祫、合也」はほぼ定訓。つまり、「禘」の目的は「昭穆の順序をはっきりさせること」で、「祫」の目的は「毀廟の位牌を太祖の廟に合わせて祀ること」といったところになる。

 ただ、「禘祫によって昭穆を序す」とされることもあるし、また昭穆でなく功徳の優劣を審諦するとする場合や、禘に功臣も祀るとする場合もある。(『公羊傳』文公二年何休注「禘所以異於祫者、禘則功臣皆祭也、祫則合食於大祖而巳」など)

 

 

 以上、一応のあらましは整理できたかと思います。だいぶ省略しましたので、詳しくは上掲の論文をご覧ください。参考資料や先行研究なども載せられております。

 前回・今回の記事は、ただ先行の論文をまとめなおしただけなのですが、一つ一つ元資料に当たりながら読むことによって、「禘祫」を議論する際の重要文献は一通りおさえることができたような気がします。

(棋客)

*1:『中国思想史研究』28、2006