達而録

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『毛詩』小雅・斯干疏・翻案

 伝統的な経学において、宮室の構造について議論される際、鄭玄の唱えた「宗廟及路寢制如明堂」(「宗廟」と「路寢」の建物の制度は「明堂」と似ている)という説との関わりが常に問題になってくるようです。今回は、この問題について議論した『毛詩』小雅・斯干の疏文を読解します。

 そもそも「斯干」とはどういう詩なのか、伝統的な解釈を確認しておきましょう。

『毛詩』小雅・鴻鴈之什・斯干

(詩序)斯干、宣王考室也。

(鄭箋)考、成也。德行國富、人民殷眾、而皆佼好、骨肉和親、宣王於是築宮廟羣寢、既成而釁之、歌斯干之詩、以落之。此之謂成室。宗廟成則又祭祀先祖。

 「斯干」は、伝統的解釈によれば、周の宣王(西周末期の王)が宮室を完成させたときの詩で、ここから周代の宮室の制度との関わりが出てくるわけですね。

 今回読解するのは、以下の鄭箋に対して附された疏文です。

 似續妣祖、築室百堵、西南其戸。

(毛傳)西郷戸、南郷戸也。

(鄭箋)此築室者、謂築燕寢也。百堵、百堵一時起也。天子之寢有左右房、「西其戸」者、異於一房者之室戸也。又云「南其戸」者、宗廟及路寢制如明堂、每室四戸、是室一南戸爾。

 以下に疏文を載せます。長大に亘るので、内容の切れ目ごとに分けて示します。疏はそのまま訓読したり逐語訳してもなかなか分かりにくいですから、勝手に一問一答形式に書き換えてお示しします。あくまで参考程度にご覧ください。

 

 正義曰、以上為立廟、故此為居室。然「似續妣祖」之言、文中不容路寢、則「築室百堵」、路寢亦宜在焉。獨言此「築室謂築燕寢」者、路寢作與燕寢同時。而制與宗廟相類、此「西南其戸」、非路寢之制、故特言燕寢。其路寢、文雖不載、亦作之可知。

Q.この經文は何を言っているのですか?

A.経の上文では宗廟を立てる話をしているから、この文は天子の居室についての話だろう。しかし、「似續妣祖」という語は、宮廟を立てる話であって、路寢のことは含まないから、そうすると「築室百堵」という語の方が、路寢のことを示しているはずである。

Q.そうだとすると、鄭玄はただ「(経文の)「築室」とは、燕寢を建築することを指す」と言っていて、「路寢」と言わないのは何故でしょう?

A.路寢は燕寢と同時に作られるものだから、「燕寢」と言えば兼ねて言うことができるのだろう。

Q.それならば、鄭玄は「路寢」と言えば済む話ではないですか。

A.いや、路寢の制度は宗廟と似ているということから考えると、この経文の「西南其戸」という語は、路寢の制を指しているわけではない。そこで、鄭玄は「燕寢」とだけ言ったのだろう。結局、鄭玄は路寢については明言していないけれども、この經文が路寢を作ったことについても言っていることは分かる。

 

 言「天子之寢有左右房」者、以天子之燕寢、即諸侯之路寢。礼、諸侯之制、聘有夾室、又士喪礼小斂「婦人髽於室」、而喪大記諸侯之禮云「小斂、婦人髽帶麻於房中」、以士喪男子括髮在房、婦人髽於室、無西房故也。士喪礼「婦人髽於室」、在男子之西、則諸侯之禮、婦人髽於房、亦在男子之西、是有西房矣。有西房、自然有東房、是諸侯路寢有左右房也。天子路寢既制如明堂、自然燕寢之制當如諸侯路寢、故知天子之燕寢有左右房也。

Q.では、次の鄭玄注の「天子之寢有左右房」について、根拠を教えてください。

A.ここで問題となっている天子の「燕寢」とは、つまり、諸侯でいう「路寢」のことだ。

Q.では、諸侯の路寢とはどのようなものですか?

A.まず、『儀礼』聘禮の記載(「饌于東方、亦如之」、鄭注「東方、東夾室」)から、諸侯の制では、聘禮の際に夾室を用いることが分かる。次に、士の禮である『儀礼』士喪礼の小斂に「婦人髽於室」とあるが、同じ点について『礼記』喪大記には諸侯の礼として「小斂、婦人髽帶麻於房中」とある。

Q.士喪礼では婦人の髽が「室」で行われるとあるところ、喪大記では「房」になっていますね。

A.そうだ。まず、『儀礼』士喪禮の場合、男子の括髮は「房」で行われて、婦人の髽は「室」で行われている。この理由は、士には西房が無く、室(西室)・房(東房)の二部屋だけがあるからだ。ここで、士喪礼が「婦人髽於、在男子之西」とする文を、喪大記の諸侯の礼の方では「婦人髽於、亦在男子之西」とするから、諸侯の制には「西房」が存在することが分かる。西房がある以上は、自然に考えれば東房もあるはずで、ここから諸侯の路寢には左右の房があると分かる。

 そして、天子の路寢の制が明堂に似ている以上は、自然に考えれば天子の燕寢の制度は諸侯の路寢と似ているはずだ。すると、天子の燕寢にも、諸侯の路寝と同じように、左右の房があることが分かる、というわけだ。

 

 既有左右、則室當在中、故「西其戸者、異於一房之室戸也」。大夫以下無西房、唯有一東房、故室戸偏東、與房相近。此戸正中比之、為西其戸矣。知大夫以下止一房者、以郷飲酒義云「尊於房戸之間、賓主共之」、由無西房、故以房與室戸之間為中也。但大夫禮直言房、不言東西、明是房無所對故也。若然特牲云「豆籩鉶在東房」者、鄭注云「謂房中之東當夾北」、非對西戸也。郷飲酒記云「薦出自左房」、郷射記云「出自東房」者、以記人以房居東在左、因言之。記非經、無義例也。

Q.次の鄭玄注「西其戸者、異於一房者之室戸也」はどういう意味ですか?

A.房が左右にある以上は、室は真ん中にあるはずで、だから鄭玄は、経に「西其戸」とあるのは、一つしか房が無い場合の室の戸の位置とは異なると考えるわけだ。先述の通り、大夫以下には西房が無く、ただ東房だけがある。すると室の戸は東側にあるから、室の戸は東房の近くにあるということになるだろう。しかし、この經文の場合は、左右に房があるから、室の戸は、真ん中から比べて考えると西寄りということになり、「西其戸」というのだ。(※ここ、ちょっと論理がよく分からないです。)

Q.先ほどから「大夫以下には西房が無く、東房の一つだけがある」と言われていますが、この根拠を教えてください。

A.『儀礼』郷飲酒義に「尊於房戸之間、賓主共之」とある。つまり房と室戸の間を尊としているわけだが、西房がないからこそ、房と室戸の間が真ん中となるのである。このように、大夫の礼では「房」とだけ言い、その東西を言わないから、士の房にはその対がないということが分かる。

Q.そうだとすると、『儀礼』特牲饋食禮に「豆籩鉶在東房」とあるのはどうなりますか?

A.これは鄭注に「これは房の中の東を指し、夾の北側に当たる」とあって、「西房」に対して言った表現ではない。他に、『礼記』郷飲酒記「薦出自左房」、『礼記』郷射記「出自東房」といった例があるけれども、これらは記す人が房の東にいたり左にいたりするからこう言ったまでだ。『禮記』は經ではないから、義例は無いのである。

 

 又解「南其戸者、宗廟及路寢、制如明堂、每室四戸」、是燕寢之室、獨一南戸耳、故言南其戸也。*1

Q.では、次の鄭玄注「南其戸者、宗廟及路寢、制如明堂、每室四戸」について教えてください。

A.燕寢の室は、南の戸が一つあるだけだから、(南を代表させて)「南其戸」と言うのだ。

 

 知「宗廟及路寢制如明堂」者、明堂位曰「太廟天子明堂」、又月令說明堂而季夏云「天子居明堂太廟」、以明堂制與廟同、故以太廟同名其中室、是宗廟制如明堂也。又宗廟象生時之居室、是似路寢矣、故路寢亦制如明堂也。又匠人云「夏后氏世室、殷人重屋、周人明堂」注云「世室、宗廟也。」「重屋者、王宮正室、若大寢也。」「明堂者、明政教之堂也。」此三者不同而三代各舉其一、是欲互以相通、故鄭云「此三者或舉宗廟、或舉王寢、或舉明堂、互言之、以明其同制。」是宗廟及路寢制如明堂也。

Q.この鄭玄注に「宗廟と路寢の制は明堂と似ている」というのは何故ですか?

A.まず、明堂と宗廟の関係について説明しよう。『礼記』明堂位に「太廟、天子明堂」とあり、また『礼記』月令は明堂を説き、季夏には「天子は明堂の太廟に居る」という。明堂の制度が宗廟と同じであるからこそ、その真ん中の部屋を同じく「太廟」と名づけるのだ。よって、宗廟の制は明堂と似ている。

Q.明堂と路寢の関係はどうなりますか?

A.宗廟は生前の居室に似せて作るものであるから、天子の居室である路寢と似ているのも当然で、よって路寢の制は明堂に似ていると分かる。『周礼』考工記・匠人に「夏后氏世室、殷人重屋、周人明堂」とあり、鄭注に「世室とは宗廟のこと」、「重屋とは、王宮の正室で、大寢のようなもの」、「明堂とは、政教を明らかにする堂のこと」という。この三者は、名前は同じではないが、三代でそれぞれ要素のうちの一つを挙げただけであって、実態は同じものである。鄭玄はそれぞれを通じさせようとしているから、鄭玄は「この三者は、一つは宗廟の部分を取り上げ、一つは王寢の部分を取り上げ、一つは明堂の部分を取り上げているだけで、どれも通じ合うのであり、これらが同制であることは明らかである」という。よって、宗廟と路寢の制は明堂と似ている。

 

 彼三者並陳、此言如明堂者、以周制舉明堂為文、故以宗廟及路寢制如之也。彼文說「世室曰五室、四傍、兩夾窻」注云「窻、助戸為明也、每室四戸八窻。」以言「四傍」是四方傍開、又云「兩夾窻」是一戸兩窻夾之、以此知「每室四戸」也。

Q.世室・重屋・明堂は同列のものなのに、鄭玄がここで特に「如明堂(明堂に似ている)」と、「明堂」を取り出して言うのは何故ですか?

A.ここでは、周制に拠って「明堂」を取り出して文にしているから、「宗廟と路寢が明堂に似ている」と言うのだ。

Q.鄭玄注の「每室四戸」の根拠は何でしょう。

A.先の『周礼』考工記・匠人には、「世室曰五室、四傍、兩夾窻」とあって、鄭玄注に「窻とは、戸を補って明かりを取りこむためのもので、每室に四つの戸と八つの窻がある」とある。また、「四傍」から四方に開く戸があること、「兩夾窻」から一つの戸の両側を二つの窓で挟むことが分かり、每室に四つの戸があることが分かる。

 

 宣王都在鎬京、此考室、當是西都宮室。顧命說成王崩、陳器物於路寢、云「胤之舞衣、大貝、鼖鼓、在西房。兌之戈、和之弓、垂之竹矢、在東房。」若路寢制如明堂、則五室皆在四角與中央、而得左右房者、『鄭志』荅趙商云「成王崩之時在西都。文王遷豐、作靈臺、辟廱而巳、其餘猶諸侯制度。故喪禮設衣物之處、寢者夾室與東西房也。周公攝政、致太平、制禮作樂、乃立明堂於王城。」

Q.この詩は詩序に「斯干、宣王考室也」とありますが、宣王の宮室はどのように考えるべきでしょうか。

A.宣王の時、都は鎬京にあったから、ここでいう「考室」とは、西都の宮室を指すはずだ。

Q.『尚書』顧命は、成王が崩じた際に器物を路寢に陳列したことを描写して、「胤之舞衣、大貝、鼖鼓、在西房。兌之戈、和之弓、垂之竹矢、在東房。」と言っています。路寢の制が明堂と同じであれば、五室は四つの角と中央とに存在するはずで、左右の房などないはずですが、ここで「西房」「東房」とあるのは何故ですか?

A.まず、『鄭志』では、鄭玄が趙商に答えて以下のように言っている。

 「成王は崩じた時、西都にいた。文王が都を豐に遷して、靈臺・辟廱だけを作ったが、その他は諸侯の制と似たままにしておいた。よって、成王の喪禮において衣物を並べる場所は、寢者夾室と東西の房にした。周公が政治を代理し、太平の世を実現し、禮樂を制定し、そうしてやっと明堂を王城に立てた。」

 よって、成王以前の宮室は、周公のものとは異なっていて、東西の房があったということになる。

 

 如鄭此言、則西都宗廟路寢、依先王制、不似明堂。此言「如明堂」者、『鄭志』荅張逸云「周公制禮土中、洛誥「王入太室祼」、是也。顧命成王崩於鎬京、承先王宮室耳。宣王承亂、未必如周公之制。」

 以此二荅言之、則鄭意以文王未作明堂、其廟寢如諸侯制度。乃周公制礼、建國土中、以洛邑為正都。其明堂廟寢、天子制度、皆在王城為之。其鎬京則別都耳。先主之宮室尚新、周公不復改作、故成王之崩、有二房之位。由承先王之室故耳。及厲王之亂、宮室毀壞、先王作者、無復可因。宣王別更脩造、自然依天子之法、不復作諸侯之制、故知宣王雖在西都、其宗廟路寢皆制如明堂、不復如諸侯也。若然、明堂周公所制、武王時未有也。樂記說武王祀乎明堂者、彼注云「文王之廟為明堂制」、知者以武王既伐紂為天子、文王又已稱王、武王不得以諸侯之制為父廟、故知為明堂制也。

Q.鄭玄のこの説の通りだとすると、西都の宗廟と路寢の方が、周の先王の制度に沿っていて、明堂とは似ていないものということになりませんか。しかし鄭玄が「如明堂」と言っているのは何故でしょう?

A.他に、『鄭志』では、鄭玄が趙商に答えて以下のように言っている。

 「周公が土中で禮を制定したことは、『尚書』洛誥に「王入太室祼」とあることから分かる。『尚書』顧命に、成王は鎬京で崩じたというのは、先王の宮室を受け継いだだけである。宣王は亂世を受けているから、必ずしも周公の制と同じとは言えない。」

 これら『鄭志』の二つの回答から考えれば、鄭玄の意図は以下のようになる。文王は明堂を作っておらず、その宗廟・路寢は諸侯の制度と同じである。その後ようやく、周公が礼を制定し、土中で建國し、洛邑を正都とした。その明堂・宗廟・路寢は、天子の制度であって、全て王城に建設した。こうなると、鎬京は別都というだけである。この時、先主の宮室はまだ新しいもので、周公が再び改築するということはなかったから、成王が崩じた所は、(諸侯の制と似ていて、)二つの房がある。これは先王の室を受け継いだというだけである。厲王の亂の時になって、宮室は壊され、先王が作ったものは、往時の姿を取り戻すことはできなくなった。後に、宣王が別に改めて脩造する時には、自然と天子の制に従うことになるから、もう諸侯の制によって作ることはない。よって、宣王は西都にいたのだけれども、その宗廟・路寢の制度は明堂と似ていて、諸侯の制度に似ることはなかったと分かる。

Q.仮にそうだとすると、明堂は周公が制定したもので、武王の時にはなかったということになりますが、『礼記』樂記に「武王は明堂に祀られた」というのは何故でしょうか。

A.『礼記』樂記の鄭玄注には「文王の廟は、明堂の制を用いている」という。武王が紂を討伐して天子となった後は、文王ももう王と称されているはずで、そこから武王が諸侯の制によって父廟(文王の廟)を作ることはできないから、「為明堂制」であることが分かる。

 

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 議論が進むにつれて細かな矛盾が明らかになり、その矛盾を疎通させるためにまた新たな説が生まれる、という雰囲気が伝われば幸いです。

 途中、「每室四戸」と出てきたり「獨一南戸耳」と出てきたりするところはよく分かりませんが、(というより鄭注「南其戸者、宗廟及路寢、制如明堂、每室四戸」がもともとよく分からないですが、)疏の理解としては、「路寢は明堂に似ているので四戸、燕寢は諸侯の路寢と同じなので南戸のみ」で、経文は両者を含めて述べている、という感じなのでしょうか。

(棋客)

*1:阮元本には「故言西其戸也」とあり、校勘記に「故言南其戸也」にすべきとあります。ここについて単疏本『毛詩正義』を見ますと、確かに「南」に作っています。文脈を考えても、「南」が正しいでしょう。