達而録

ある中国古典研究者の備忘録。毎週火曜日更新。

「戸」と「牖」:礼学の議論の一例

 前回の続きです。

 長々と記事を書いてきましたが、次の話題の前提となる部分だけを整理しておきます。

・「路寝」の奥の部屋の構造について(鄭玄説)

○天子・諸侯の場合:「室」(中央の部屋)と「西房」と「東房」(西側、東側の部屋)の三部屋。

○卿大夫以下の場合:西側に「室」(西室)、東側に「房」(東房)の二部屋。

 この「室」には、「牖」(まど)と「戸」(とびら)がついていますが(「房」には「戸」だけがついている、とされています)、もともと本稿を書くきっかけは、この点についてのツイートがきっかけでした。

 経学についてあれこれ考える時には、やはり段玉裁の『説文解字注』が道を示してくれます。(逆に言えば、経学以外の調べごとには向かないかもしれません。)

 まず「牖」字を見てみましょう。

・『説文解字』七篇上・片部・牖

 牖、穿壁以木爲交窗也。从片。戸甫聲。譚長以爲、甫上、日也、非戸也、牖所以見日。

〔段注〕交窗者、以木横直爲之。卽今之窗也。在牆曰牖、在屋曰窗、此則互明之。必言以木者、字从片也。古者室必有戸有牖、牖東戸西、皆南郷。(略)

 『説文』の本文には、「牖」とは「穿壁以木爲交窗也(壁に穴をあけて木を四角の形に嵌めたもの)」とあり、段注には「古者室必有戸有牖、牖東戸西、皆南郷(かつて、室には必ず戸と牖があり、牖が東側、戸が西側にあり、いずれも南に向かっている)」とあります。

 「南に向かう」とは、戸や牖が東の壁沿い、西の壁沿いに設置されているのではなく、あくまで南の壁沿いに設置されているということを言いたいのでしょう。その中で東寄りか西寄りか、によって設置場所が示されているというわけです。

 

 「戸」字の『説文』段注はあまり詳しくないのですが、その少し先に「扆(戸+衣)」字があり、この段注に関連する記述があります。

・『説文解字』十二篇上、戸部、扆(經韵樓本『説文解字注』十二篇上、七葉上)

扆、戸牖之閒謂之扆。从戸。衣聲。

〔段注〕釋宮曰:「牖戸之閒謂之扆。」凡室,戸東牖西。戸牖之中閒是曰「扆」。詩禮多叚依爲之。

 「戸」と「牖」の間の空間のことを「扆」と呼ぶようで、段注には「凡室,戸東牖西。戸牖之中閒是曰扆(一般に、室には戸が東、牖が西にある。戸と牖の中間を扆という)」とあります。

 ここで、少しおかしな点に気が付きます。経韵樓本の場合、先の段注には「牖東戸西」とあり、ここの段注には「戸東牖西」とあって、位置関係が逆になっているのです。

 もう一例、挙げておきます。

・『説文解字』七篇下、戸部、扆(經韵樓本、七篇下、六葉下)

 𡧮、戸樞聲也。室之東南隅。从宀。㫐聲。

〔段注〕二句一義。古者戸東牖西、故以戸樞聲名東南隅也。釋宮曰「東南隅謂之𡧮。」按釋名曰「㝔、幽也。」非許意。許𡧮䆞義殊。『爾雅』『釋文』引『說文』「䆞深皃」、誤以䆞爲𡧮也。

 この場合、「室の東南の隅」が「𡧮」(戸の軸の音)と呼ばれる理由を、「戸が東にあること」に求めていますから、段注は「戸東牖西」でなければおかしいということになります。

 この矛盾については、海水さんにご指摘いただいたように、『皇清経解』所収の『説文解字注』では、一つ目の例の方が「戸東牖西」に修正されています。いまはこれに従って、一つ目の段注の字に誤りがあると考えておきましょう。

 

 さて、段玉裁の注釈は経学についてあれこれ調べるための導入としては便利ですが、これを手掛かりに自力で経書やその注釈に遡って調べてみることが肝要です。

 では、関連する訓詁をかき集めてみましょう。

・『爾雅』釋宮(阮元本、巻五、一葉表)

 牖戸之間謂之「扆」。

〔郭注〕窻東,戸西也。禮云「斧扆」者、以其所在處名之。

 郭璞は、「牖の東側」かつ「戸の西側」の空間を「扆」というといいます。つまり、以下のような状態になりますね。

 西←| 牖 | 扆 | 戸 |→東

  この郭注では、牖が西、戸が東にあるということになります。なお、『爾雅』李巡注には「謂牖之東、戸之西為扆」とあり(『尚書』顧命疏引)、より分かりやすいです。

 

 『儀礼』聘禮に「主人立于戸東、祝立于牖西。」とあったりするのも気になるのですが、これは「戸の東に立つ」だとすると位置関係を考える材料にはならないかもしれません。似た例に、『儀禮』士冠禮「筵于戸西、南面。」鄭注「筵主人之贊者。戸西、室戸西。」もありますが、これも「戸の西」の意味でしょうか。

 以下の文の場合は、「戸が東」を明示する例になりそうです。

・『儀禮』士冠禮

 尊于房戸之閒。

(鄭注)房戸閒者、房・西室、戸東也。

 経文は「(東)房」と「(西室の)戸」の間の意味で読まれているようで、鄭注の最後の言葉は「西室の戸が東側にある」ということになりそうです。

 

 実は、経文・注文に遡る決定的な例は見つけ切れていないのですが、検索で引っ掛けて過去の議論を見てみると、どうやら「戸東牖西」が常識的な考え方となっていることは間違いないようです。

 孔頴達疏ならばそれっぽい話がいくつか見つかり、宋代なら『儀禮釋宮』『黄氏日鈔』など、清朝になれば『潜邱札記』『蛾術編』など、様々なところで「戸東牖西」が説かれています。これだけ語られているということはやはり分かりやすい根拠があるはずで、とすると先の『儀礼』聘禮「主人立于戸東、祝立于牖西。」かなあという気もしますが、私の中でははっきりしていません。

 気になるのは、『儀禮』鄭玄注にこうあることです。

・『儀禮』士昏禮

 席于戸牖閒。

(鄭注)室、戸西牖東、南面位。

 この鄭注は、「室においては・・・」と読んでいくのでしょうから、「戸が西、牖が東」となって、これまで見てきた説とは逆になります。しかし、頼りの賈公彦疏は何も言っていません。これを「室において、戸の西、牖の東、南面する位置」と読めば矛盾はなくなりますが、少し違和感があるようにも思います。

 

 参考までですが、銭玄『三礼通論』の整理では、

・「西房・室・東房」の場合、「室:戸東+牖西」「西房:戸東」「東房:戸西」

・「西室・東房」の場合、「西室:牖東+戸西」「東房:戸西」

 というようになっていて、この鄭注は下の例に当たる、と説明しています。ただ、これ以外に根拠が示されていないので、基づく説があるのかどうかよく分かりません。(なお、前回に載せた図はこの説から作っています。)

 例えば、『毛詩』小雅・斯干の疏には「大夫以下無西房、唯有一東房、故室戸偏東、與房相近。」とあって、「西室・東房」の場合の「西室」の戸も、東にあったとされているようです。

 

 何が何だか、よく分からなくなってきました。陳緒波氏の「儀禮宮室考」(南開大学博士論文)も眺めてみましたが、こちらでは全て「戸東牖西」で統一されているようです(というより、そもそも「西室・東房」の制度を認めていません。)まだきちんとした整理が無いところなのか、はたまたもともとそれほど深い問題とされていないところなのか。

 先に取り挙げた『毛詩』小雅・斯干の疏は宮室制のまとめという具合になっているようで、次回これを整理してお示しします。これを読めば本稿の疑問が氷解する、というわけではないのですが…。

(棋客)

東房・室・西房(2):礼学の議論の一例

 前回の続きです。ここまでの説を整理すると以下です。

鄭玄説:卿大夫以下の場合、西室・東房の二部屋。

陳祥道説:卿大夫以下も、天子諸侯と同様に、西房・室・東房の三部屋。

 この説の相違について質問した萬斯同に対する、黄宗羲の答えが以下。

・黄宗羲「答萬季野喪禮雜問」

 ②鄭康成謂天子諸侯有左右房,大夫士惟有東房西室。陳用之因〈郷飲酒〉薦脯出自左房,〈郷射〉籩豆出自東房,以爲言左以有右,言東以有西,則士大夫之房室與天子諸侯同可知。③此不足以破鄭説。所謂左房者,安知其非對右室而言也。所謂東房者,安知其非對西室而言也。④如〈士冠禮〉「冠者筵西拜受觶,賓東面答拜。」註「筵西拜,南面拜也。賓還答拜於西序之位。」此時筵在室戸西,當扆之處。無西房則西序與筵相近,故容答拜。有西房則西序在西房之盡,其去筵也遠矣,此猶相距耳。⑤若〈士昏禮〉舅席在阼西,而姑席在房戸外之西南面,姑席不設於房戸東者、以阼當房戸之東。若設於戸東,則在舅之北,相背不便。醴婦之席在戸牖間,當扆之處。婦東面拜,受贊西階上,北面拜送。無西房則西階與牖,相當不碍東面。有西房則贊與婦背面焉,有背面不相見而可以爲禮者乎。

 ⑥以此推之,士未必有西房也。且胤之舞衣,大貝,鼖鼓,在西房。兌之戈,和之弓,垂之竹矢,在東房。是天子諸侯之兩房,經有明文。士既有西房,何以空設,無一事及之耶。

 なかなか読み切れませんが、要約してみます。

 ②鄭玄は、天子・諸侯には左右に房があり,大夫・士は東房と西室だけがある、とする。陳祥道は、『儀禮』郷飲酒禮の「薦脯は左房から出る」*1と、郷射禮の「籩豆は東房から出る」*2の語から、「左」と言うからには「右」もあり、「東」と言うからには「西」もあるはずだと考えて、士・大夫の房室の制度は天子・諸侯と同じである、とする。

 ③しかし、陳説は鄭説を破れていない。ここで言う「左房」や「東房」というのが、右房や西房に対応するものではないことは、以下から分かる。

 ④『儀禮』士冠禮「冠者は筵西(戸の西の筵)にて拜し、觶(酒器)を受け、賓客は東面して答拜する」、鄭注「筵西拜とは、南面して拜する。賓客はこれに応じて西序の位にて答拜する。」この時、筵は室の戸西、扆(屏風の一種)がある場所にある*3。西房が無ければ、西序と筵が近いため、答拜することができる。西房があると、西序は西房の隅にあるから、筵と遠く離れてしまう。

 ⑤『儀禮』士昏禮から、舅の席は阼の西にあるが、姑の席は房の戸の外の西にあり南面する。姑席を房の戸の東に設けられない理由は、阼が房の戸の東に当たるからである。仮に姑席を戸の東に設ければ,舅席の北にあることになり、背中合わせになって不便である。醴婦の席は戸と牖の間、扆を置く場所にある。婦は東面して拜し,贊を西階の上で受けて、北面して拜送する。西房が無ければ、西階と牖とは東面する時に妨げない。西房があると、贊と婦とが背を向けあうことになる。背面して見ることができない状態を「礼」と呼べるだろうか?

 ⑥以上から考えれば、士には西房は必ずしもあったとはいえない。『尚書』に記載される様々な礼の行事は、西房・東房で行われる*4。つまり、天子・諸侯に二つの房があったことは、経書に明文がある。士に西房があったとしたら、全く無駄に設けて何も行わないということになってしまうのではないだろうか。

 黄氏の意図としては、『儀礼』士冠禮、士昏禮(その名の通り、「士」の礼制を示す)に記載される礼の細かな手順を手掛かりにして、「士」に「西房」が存在すると礼の手続き上に不都合が起こるから、士には西房がないはずだ、という議論の流れになっています。

 

 もう少し噛み砕いて説明しましょう。まず、④について。

(図A:西房がある場合)
|  西房  |   室   |  東房  |
|    戸 |   筵 戸 | 戸    |
|  西序      堂       東序 |

(図B:西房がない場合)
|  (西)室    |    東房    |
|  筵 戸     |   戸      |
|  西序      堂      東序  |

 

 図Aの場合、「筵」と「西序」が離れすぎていておかしい、図Bなら問題ない、と言っているのでしょう。(次回以降に述べますが、特に「戸」の位置については議論がありますので、参考程度に見ておいてください。)

 

 次に、⑤について。実は、舅席と姑席の話がどう関係しているのか今一つ分かっていないのですが…。(礼において背面し合うことが無いことの一例として引かれているのでしょうか?)

(図A:西房がある場合、醴婦の席=■)
|  西房   |   室   |   東房  |
|    戸  | 牖 ■ 戸 |  戸    |
|婦受贊        堂           |
 | 西階 |           | 阼  |

(図B:西房がない場合、醴婦の席=■)
|   (西)室    |    東房     |
| 戸 ■   牖   |   戸       |
| 婦受贊       堂           |
 | 西階 |           | 阼  |

 

 図Aの場合、■の位置で東を向いた時に、「婦受贊」の位置に対して背を向けてしまうが、図Bなら問題ない、といことでしょうか。

 

 「答萬季野喪禮雜問」のうち、東房・西房に関する議論は以上になります。結局、黄宗羲は鄭玄説を支持するのでしょう。

 細かいところまで理解が届きませんでしたが、礼学の議論の雰囲気を感じていただければ幸いです。次回に続きます。

(棋客)

*1:儀礼』郷飲酒礼「薦脯,五挺,橫祭於其上,出自左房。」

*2:儀礼』郷射礼「醢以豆,出自東房。」

*3:『儀禮』士冠禮「筵於戸西,南面。」

*4:尚書』顧命「越玉五重,陳寶,赤刀、大訓、弘璧、琬琰、在西序。大玉、夷玉、天球、河圖,在東序。胤之舞衣、大貝、鼖鼓,在西房;兌之戈、和之弓、垂之竹矢,在東房。大輅在賓階面,綴輅在阼階面,先輅在左塾之前,次輅在右塾之前。」

東房・室・西房(1):礼学の議論の一例

 最近、宮室の構造について色々調べる機会があったので、つらつらと書き連ねていきます。ここ数回の記事は「礼」をテーマとするものが多いですが、今回もその一環で、礼学の議論とは具体的にどのようなものなのか、その一端をご紹介します。

 

 宮室の構造についての研究というと、歴史学や考古学の範疇のように聞こえるかもしれませんが、「経書の記述」の中から、つまり経学の枠組みの中から議論を進めるのであれば、「礼学」や「経学」の範疇と言えます。これを遺跡や文物に基づきつつ、経書を初めとする文献群と重ねあわせながら研究するのであれば、歴史学・考古学の視点ということになるでしょうか。

 言い換えれば、「実際に宮室はどのような構造になっていたか」という観点から考察すればとすれば「歴史研究」になり、「経学の世界の中で歴代どのように考えられてきたか」という観点から考察すれば「経学研究」になる、となります。いつも両者の間に厳密に線を引けるわけではないですが、今回は「経学」の議論として読んでいくつもりです。

 

 さて、宮室の構造について考えるきっかけとなったのは、このツイートに返信を頂いたことです。

 「海水」さんより頂いたお返事が以下で、更に続けて色々とやり取りをさせていただきました。

 Twitter上で経学の議論ができるとは、素晴らしい時代になったものです。詳しいやり取りは上のツイートから追っていただくとして、これに触発され、宮室における「牖」(まど)と「戸」(とびら)の位置関係に関する議論を整理せねば、と考えたわけです。

 

 ただ、いきなり上の議論に入って整理するのはなかなか難しかったので、少し回り道をしながらやっていきます。

 

 最近、新田元規氏の「喪礼における「祔祭」「遷廟」の解釈論 : 鄭玄と朱熹の所説を中心として」*1という論文をつらつらと読んでいたところ、黄宗羲(1610-1695)が萬斯同(1638-1702)に送った書簡「萬季野答喪禮雜問」の中に、上の議論の前提となる問題について言及があることを知りました。(もとの論文の主題とは全く関係のないところです。)

 

 「萬季野答喪禮雜問」では礼学上のさまざまな問題が議論されていますが、そのうちの一つが「大夫以下の宮室における西房の有無」に焦点が当てられたもので、これが上の話と少し関わってくるのです。

 いきなり自分で整理するのは難しそうでしたので、まずはこの書簡を読んでみることにしました。

 

 前提として知っておくべきことは、普通、天子や諸侯の居所である「路寝」の内部は、階段を上った先が、「堂」(階段を上ってすぐの空間)、「室」(中央奥の部屋)、「房」(東西の奥の部屋、東房と西房)に分かれいる、と考えられているということです。(路寝は五室に分かれていたとする説もありますが、ここでは一回脇においておきます。)

 そして、「堂」は、東西に仕切りがあり、これを「序」といいます(東序、西序)。

 また、「堂」に登るための階段は東西に一つずつあって、東を「阼階(阼)」、西を「西階」と呼び、主人、主役が「阼」を用いることになっています。

・黄宗羲「答萬季野喪禮雜問」

 ①宮室之制,先儒謂諸侯以上房分東西,卿士以下但有東無西。唯陳用之謂東西俱有,朱子心以爲然,而未敢决言。今將從陳説,如何。

 ②鄭康成謂天子諸侯有左右房,大夫士惟有東房西室。陳用之因〈郷飲酒〉薦脯出自左房,〈郷射〉籩豆出自東房,以爲言左以有右,言東以有西,則士大夫之房室與天子諸侯同可知。③此不足以破鄭説。所謂左房者,安知其非對右室而言也。所謂東房者,安知其非對西室而言也。④如〈士冠禮〉「冠者筵西拜受觶,賓東面答拜。」註「筵西拜,南面拜也。賓還答拜於西序之位。」此時筵在室戸西,當扆之處。無西房則西序與筵相近,故容答拜。有西房則西序在西房之盡,其去筵也遠矣,此猶相距耳。⑤若〈士昏禮〉舅席在阼西,而姑席在房戸外之西南面,姑席不設於房,戸東者以阼當房戸之東。若設於戸東,則在舅之北,相背不便。醴婦之席在戸牖間,當扆之處。婦東面拜,受贊西階上,北面拜送。無西房則西階與牖,相當不碍東面。有西房則贊與婦背面焉,有背面不相見而可以爲禮者乎。

 ⑥以此推之,士未必有西房也。且胤之舞衣,大貝,鼖鼓,在西房。兌之戈,和之弓,垂之竹矢,在東房。是天子諸侯之兩房,經有明文。士既有西房,何以空設,無一事及之耶。

 最初の段落が萬斯同の質問です。まずここだけを要約すると、

 ①宮室の制度について。先儒たちは、諸侯以上は「房」を東西の二つに分け、卿士以下は東房だけがあって西房はない、としている。しかし、陳用之(陳祥道)は、卿士以下にも東西の房があるとし、これに朱子も心中では賛成していますが、判断は下していません。今、陳説に従おうとしていますが、いかがでしょうか。

 天子や諸侯の居所の場合、「房」が東西に分かれて二つ存在することに異説はないようですが、卿大夫以下の場合に「東房」だけであったのか、それとも東西ともに存在するのか、という点について議論があったようです。

 なお、陳祥道の説は『禮書』巻四十三「王及諸侯寢廟制」に見え、朱子の説は『晦菴集』卷六十八「儀禮釋宮」に見えます。

 

 萬斯同の質問を簡単に整理しておくと、

鄭玄説:卿大夫以下の場合、「東房」だけで「西房」はない。

陳祥道説:卿大夫以下の場合も、天子諸侯と同様に、「東房」と「西房」がある。

 となり、どちらに従えばよいのか質問しているわけです。鄭玄説は銭玄『三礼通論』で簡単に整理されていて、賈公彦や孔頴達もこれと同意見のようです。

 

 上の説を見て、「天子・諸侯とそれ以下とで、なぜ細々と区別するのだろう」とお考えになられる方もいらっしゃるかもしれません。

 よく言われる話ですが、「礼」の基本的な原理は、身分・男女・年齢・親戚関係などによって「差をつけること」にあります。例えるなら、年齢や立場によって「(言葉遣いに)差をつける」ことで敬意を示す日本語の「敬語」を思い浮かべていただければ良いわけです。

 ここでの鄭玄説は、天子・諸侯とそれ以下の身分によって宮室のグレードに差をつけていることになります。大げさに言えば、これぞ「礼学」という感触を受ける説です。

 

 ちなみに、銭玄『三礼通論』は、礼の細則について図を交えて分かりやすく整理されていて、使い勝手の良いおススメの本です。

 これに対する黄宗羲の答えは、また次回に。

(棋客)

*1:『人間社会文化研究』(27)、2019、徳島大学総合科学部、オンライン上で公開されており、誰でも読むことができます。礼学上のはなはだ難解な問題が綺麗に整理されており、とても勉強になりました。https://ci.nii.ac.jp/naid/120006777492

『礼記』を実際に読んでみる(1)

 前回、『礼記』の全体の構成を紹介しました。今回は、『礼記』の内容を少し紹介してみます。

 『礼記』の内容と言っても、前回書いたように、『礼記』はさまざまな内容を含む雑記という感じの本です。まず今回のところは、その「雑駁な雰囲気」を感じていただきたいと思います。

 

 では、最初の「曲礼」篇を見てみましょう。訳は参考程度に見てください(一応、鄭玄注・孔頴達疏の伝統的な読み方に従って作っているつもりです)。

 曲禮曰、毋不敬、儼若思、安定辭。安民哉。

(訳)曲礼に云う。(礼を行うに当たっては、)敬意をもたねばならず、思索を深めるように厳然としておらねばならず、言葉に対してはっきりしていなければならない。(以上によって、)民を安心させることができる。

 敖不可長、欲不可從、志不可滿、樂不可極。

(訳)驕る心は伸ばしてはならず、貪欲な心は勝手にさせてはならず、自分の志だけで心を満たしてはならず、楽しむことを尽くしてはならない。

 これが「曲礼」の冒頭です。「曲礼」篇は「細かな礼の規則を記した篇」などと説明されることが多いですが、冒頭を見るとむしろ礼の理論、総論が書かれているように見えますね。

 その後しばらくは上のような内容が続くのですが、徐々に具体的で細かな規則の羅列と言った趣きの内容に変わってきます。その部分のうち、分かりやすいものを以下にいくつか抜粋しました。

・為人子者、父母存、冠衣不純素。孤子當室、冠衣不純采。

(訳)人の子供は、父母が存命の時、白色の飾りの冠やふちどりの服を身につけてはならない。早くに親を亡くした子のうちの長男は、色のついた飾りの冠やふちどりの服を身につけてはならない。

 

・取妻不取同姓。故買妾不知其姓則卜之。寡婦之子、非有見焉、弗與為友。

(訳)妻を娶る時、同姓の者は取らない。妾を買ってその姓が分からなければ、占って判断する。寡婦の子供とは、才気がなければ、友にならない。

 なんじゃこりゃ?という細かな規則の話になってきているのが分かるかと思います。さきほど冒頭を紹介しましたが、こらが同じ篇の内容なのか?という疑問が浮かぶほどではないでしょうか。

 こういった具体的な規則を記した条が、脈絡のないままに並べられているのが「曲礼」の中心部分となっています。つまり、規則が体系的に並んでいるわけではなくて、細切れで散発的に出てくるわけです。読む側としては困ります。

 

 実際、一つ目の条は同じ話が『礼記』の「深衣」篇にも載せられていて、別に「曲礼」になければならない必然性はないように思えるところです。

 

  また、以下のように、事柄の呼び名を定義する条も多いですが、これらも一箇所にまとめて出てくるというわけではなく、あちこちにバラバラに散らばっています。

・天子當依而立、諸侯北面而見天子、曰覲。天子當寧而立、諸公東面、諸侯西面、曰朝。

(訳)天子が屏風を背にして立ち、諸侯が北面して天子に謁見することを、「覲」という。天子が門と屏の間に立って、諸公が東面し、諸侯が西面して謁見することを、「朝」という。

 

・天子之妃曰后、諸侯曰夫人、大夫曰孺人、士曰婦人、庶人曰妻。

 (訳)天子の妃を「后」といい、諸侯の妃を「夫人」といい、大夫の妃を「孺人」といい、士の妃を「婦人」といい、庶人の妃を「妻」という。

 

 さて、「曲礼」は、非常に分量が多いため上・下に分けられていますが、その中には100以上の条目が含まれていて、何度も言うように、それらはバラバラで散発的なものの集まりです。上のような脈絡のない様々な総説、細説が大量に入っているわけです。

 こうしてみると、「曲礼」は、ある意味で『礼記』全体を体現しているとも言えるかもしれません。文章のまとまりごとに、全く異なる内容が脈絡なく連なっていて、一つのまとまった著作というより、当時存在した文章の切れ端をかき集めたような篇です。

 

 ただ、個人的な印象では、「曲礼」に出てくる具体的な礼の規則を述べる条は、どれもそれなりに重要なことが多いです。『周礼』や『儀礼』はもちろん、『左伝』あたりを読む上でも、知っておくと便利なことが色々書かれています。もともとは、誰かのメモ書きのようなものだったのかもしれませんね。

 

 さて、今日紹介した「曲礼」は以上のような内容ですが、統一的な内容を持つ篇も色々ありますので、次回はそういったものを紹介しようと考えています。

漢文を初めて学ぶ人に向けて:『礼記』について

 前回、経書について簡単な整理をしておきました。今回は、そのうちで一番複雑と言ってもよい本である礼記を紹介します。

 『礼記』が一番複雑であるというのは、他の経書は一書の中で一つのまとまり、一つの体裁があって、一応一つの「著作」という感じを受けるものであるのに対して、『礼記』は成立時期も制作者もバラバラの様々な著述を集めたものであるからです。

 例えば『易』は六十四卦を順番に説明して一つの本になっていますし、『春秋』は「魯の国の歴史書」であって、最初から最後まで基本的に時間の経過の順番に書かれています。これらに比べて『礼記』はあまりにバラバラで、「経書」の一つに数えられていることが少し不思議な感じさえする本でもあります。

 しかし、『礼記』が古くから重要な地位にあった本であることは確かです。後漢の大学者・鄭玄は、経書の「礼」制度を整理した人物ですが、『周礼』『儀礼』と並んで『礼記』に注釈を附し、合わせて三礼注」と称されています。また、唐代に入ると、五経正義」として五つの重要な経書の注釈が作成された時には『易』『書』『詩』『春秋(左氏伝)』と並んで『礼記』が取り上げられています。更に、宋代に入ると、『礼記』の内の「大学」篇と「中庸」篇が取り上げられ、『論語』『孟子』と肩を並べて「四書」と称されることもあります。

 

 では、そんな『礼記』の中身はどうなっているのでしょうか。『礼記』は、以下の四十九篇から成り立っています。

 

 曲禮上、曲禮下、檀弓上、檀弓下、王制、月令、曾子問、文王世子、禮運、禮器、郊特牲、内則、玉藻、明堂位、喪服小記、大傳、少儀、學記、樂記、雜記上、雜記下、喪大記、祭法、祭義、祭統、經解、哀公問、仲尼燕居、孔子閒居、坊記、中庸、表記、緇衣、奔喪、問喪、服問、間傳、三年問、深衣、投壺、儒行、大學、冠義、昏義、郷飲酒義、射義、燕義、聘義、喪服四制

 

 これだけでは何が何やらですよね。しかし「何が何やら」ということを伝えたいので、それで大丈夫です。

 この『礼記』は、前漢戴聖という人が、当時伝わっていた様々な文献を集めて整理して作られたと言われていますが、この順番にどういう意味があるのかというのは、よく分かっていません。

 例えば、「曲礼」は細かな礼の制度について記した篇、「檀弓」は人の死に関わるエピソードが集められた篇、「王制」は国の体制について書かれた篇、「學記」は学校の制度、理念が記された篇、「冠義」から「聘義」は『儀礼』を解説した篇、というように、順番はあまり関係なく、色々な内容が混在しています。

 その成り立ちに伝承が存在する篇もあります。例えば「月令」は、秦代の呂不韋という人が作った呂氏春秋に拠って作られたという説があります。また、「坊記」「中庸」「表記」「緇衣」といった篇は孔子の孫である子思の手になる篇と言われています。朱子学においては、「大学」孔子の弟子である曾子の作であるとして重視されていきます。

 

 以上、細かいことは置いておいて、「様々な内容の篇が混在している」つまり「何が何やら分からないもの」ということは理解して頂けたでしょうか?

 ただ、このまま「色々な内容がありますね」で終わってしまっては解説にならないので、もう少し詳しく見ていきましょう。

 

 前漢の末、劉向という人が図書の整理を行って、その成果を七略という本にまとめ、子の劉歆が引き継いで『別録』という本を作りました。

 まずは、この『別録』において、これら『礼記』の各篇がどう分類されていたのか、というのを見てみましょう。以下の九つのカテゴリーに分けられています。

 

①制度:曲禮上、曲禮下、王制、禮器、少儀、深衣

②通論:檀弓上、檀弓下、禮運、玉藻、大傳、學記、經解、哀公問、仲尼燕居、孔子閒居、坊記、中庸、表記、緇衣、儒行、大學

③明堂陰陽:月令、明堂位

④喪服曾子問、喪服小記、雜記上、雜記下、喪大記、奔喪、問喪、服問、間傳、三年問、喪服四制

⑤世子法:文王世子

⑥祭祀:郊特牲、祭法、祭義、祭統

⑦子法:内則

⑧樂記:樂記

⑨吉事:投壺、冠義、昏義、郷飲酒義、射義、燕義、聘義

 

 多くの種類に分類されていることからも、内容が多岐に渡っていることが分かるかと思います。それぞれの内容を簡単に説明しておくと、

 

①制度:礼の制度について幅広く記したもの。

②通論:礼の理念・概念を記したものや、聖人に関係する説話や問答を集めたもの。

③明堂陰陽:国家の権威を示す施設である「明堂」について記したもの。

④喪服:喪の際に着る服やその期間について記したもの。

⑤世子法:王の後継ぎとなる人の礼を記したもの。

⑥祭祀:国家祭祀の手順(生贄の品など)や理念を記したもの。

⑦子法:家の中で家族に仕える時の方法を記したもの。

⑧樂記:経の一つとされたが失われた「樂経」の残滓とされるもの。

⑨吉事:礼の行事のうち「吉」の礼について説明したもの。

 

 といったところです。*1

 

 以上、とりあえず『礼記』という本の全体の構成は説明できたことにします。 次回、『礼記』の中身を少し翻訳して示しますので、お楽しみにお待ちください。

↓次回記事

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 また、過去のブログの記事で『礼記』の中身について扱ったものとして、やや専門的ですが以下のものがありますので、参考にしてください。

顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁(1) - 達而録

「曲礼」について(上)―『礼記目録後案』より - 達而録

(棋客)

*1:分類は任銘善『礼記目録後案』に従う。