達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

Wikipediaについて

 最近、それほどの頻度ではありませんが、Wikipediaを執筆しています。「Wikipediaなんて…」と思う方も多いかもしれませんが、私はそうは思いません。以下に考えを記しておきます。

  1. 検索サイトで専門用語を調べたとき、まず出てくるのはWikipediaです。無料で誰もが容易に読めるものですから、これが充実していれば、素晴らしいことこの上ないはずです。
  2. 「誰が書いたか分からない」ことが問題視されますが、きちんと出典が書いてあれば、Wikipediaの書き手が誰であったにしても、読者はその記述から容易に典拠を調べることができます。
  3. 「書いても誰かに消される」ことが問題視されますが、容易に前の版に戻すことができます。迷惑行為を繰り返す人はいつか運営にブロックされます。(そもそも、執筆者が少ない中国学の分野で、編集合戦が起こり得る項目は稀かと思います。)
  4. 国学研究の良書を、中国学に興味のある一般の方に紹介できる数少ない場所です。こんなブログにちまちま書くより、はるかに影響力があります(自分で言ってて悲しくなりますが)。
  5. 執筆の際には、基本的なことを辞書的に記述することが求められますから、その項目の内容を改めて体系的に把握することができます。

 とある別分野の講義で、先生が「この分野については、英語版のWikipediaが非常に充実しているので、そこから参考文献を探していただいて構いません」と仰られていたのを、よく覚えています。実際には、執筆人数があまりに違うので、英語版を目標にするのは難しいかもしれませんが、少なくとも、「Wikipediaなんて…」と色眼鏡を掛けて見るのはやめるべきだと考えています。

 こういうわけで、執筆すること自体には前向きに取り組んでいるのですが、なかなか苦労する点があるのも事実です。以下に挙げておきましょう。

  1. 研究している身では当たり前のことでも、全て出典を付けなければならず、とても面倒くさい。
  2. Wiki記法が面倒くさい。慣れても面倒くさい。
  3. 一つの項目を執筆すると、他に連動して執筆しておきたい項目が出てきて、これまた面倒くさい。
  4. 改善すべきページがあまりに多く、眺めていると心が折れる
  5. 執筆しても、別に褒めてもらえるわけではない。それどころか白い目で見られるかもしれない。

 ⑤については、自分でうるさいぐらいにアピールし続ければ、評価してくれる人も現れるかもしれません。今後、自分が書いた記事を紹介していこうと思います。

 さて、これでもWikipediaに懐疑的な方向けに、内容がしっかりしている記事を以下に幾つか掲げておきます。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

※中国史関係の良い記事を一覧で紹介する記事を書きました。↓

chutetsu.hateblo.jp

 

(棋客)

李業興と朱异の論争

 最近、『北史』を眺めています。一つ、印象に残っている話を紹介します。(『魏史』でもほとんど同じ内容が載せられています。)

 『北史』儒林伝上に、李業興という人の伝記が載せられています。彼は北朝儒者の徐遵明に学んだ人です。北朝の多くの儒者は徐遵明の門下に出ているのですが、彼が学び始めた当時、徐遵明はそれほど有名な学者ではなかったようです。李業興が、当時人気のあった靈馥という学者をやり込めたことで、徐遵明の門下生の数が増えたという話が残っています。

 その後、学識のあった李業興は頭角を現し、永熙三年(534)には孝武帝の釋奠を魏季景、溫子昇、竇瑗とともに務めています。

 そして東魏天平四年(537)、彼は李諧、盧元明とともに南朝の梁に使者として出向きます。この時、梁の朱异と交わした問答が記録されており、これがなかなか面白いのです。

『北史』儒林伝上、李業興

 梁散騎常侍朱异問業興曰:「魏洛中委粟山是南郊邪?圓丘邪?」業興曰:「委粟是圓丘,非南郊。」异曰:「比聞郊、丘異所,是用鄭義。我此中用王義。」業興曰:「然。洛京郊丘之處,用鄭解。」异曰:「若然,女子逆降傍親,亦從鄭以不?」業興曰:「此之一事,亦不專從。若卿此間用王義,除禫應用二十五月,何以王儉喪禮,禫用二十七月也?」异遂不答。

 業興曰:「我昨見明堂,四柱方屋,都無五九之室,當是裴頠所制。明堂上圓下方,裴唯除室耳,今此上不圓何也?」异曰:「圓方俗說,經典無文,何怪於方。」業興曰:「圓方之言,出處甚明,卿自不見。見卿錄梁主孝經義亦云『上圓下方』,卿言豈非自相矛楯?」异曰:「若然,圓方竟出何經?」業興曰:「出孝經援神契。」异曰:「緯候之書,何可信也!」業興曰:「卿若不信,靈威仰、叶光紀之類,經典亦無出者,卿復信不?」异不答。

 梁の散騎常侍の朱异が業興に「魏洛中委粟山は南郊ですか、それとも圓丘ですか?」と質問すると、業興は「委粟は圓丘で、南郊ではないです」と答えた。异が「このごろ、郊と丘を別所とするのは鄭説であると聞きました。私は王肅説を用います」と言うと、業興は「そうです。洛京は郊丘の場所で、鄭説を用いています」と言った。异は「そうだとすると、(『儀礼』喪服の)”女子逆降傍親”の説も、やはり鄭説に従うですのか?」と問うたが、業興が「これはこれ、それはそれで、全て従うというわけではないのです。あなたはこのごろ王肅説を用いているとのことですが、それならば禫を終える期間は(王肅説に従って)二十五カ月後にするべきなのに、どうして王儉の喪禮を用い、禫を二十七カ月後にしているのですか?」と言うと、异はそのまま答えられなかった。

 業興は「私は昨日明堂を見ましたが,四つの柱と方形の部屋があり、五つ、九つの部屋はなく、これは裴頠の定めた制度でしょう。明堂は上側が圓形、下側が方形であって、裴頠はただ部屋を減らしただけであったはずですが、この明堂にはなぜ上側が圓形になっていないのですか?」と質問した。异は「圓方の説は俗説であって、經典には明文がないから、方形で怪しむことはないはずです」と答えた。業興は「圓方の説は、出典は明らかで、あなたが見ていないだけです。そもそも、あなたの記録した梁武帝の「孝經義」にも「上圓下方」とあるのですから、あなたの発言は矛盾していませんか?」と言い、异が「だとすれば、圓方の説はどの経書から出たものですか?」と問うと、業興は「『孝經援神契』に見えるものです」と言った。异は「緯書は信頼に足るものではないでしょう!」と言ったが、業興が「あなたは信じていないようですが,靈威仰、叶光紀の類は、これも經典には典拠のないものです。あなたは信じていないのですか?」と言うと、异は答えられなかった。

 このエピソードは、記憶では、明堂制の議論に関わる部分で、南澤良彦先生の本に取り上げられていました。他にも既に色々取り上げられているかと思いますが、ここでは、まずそれぞれの礼学上の議論のポイントを押さえていくことにいたしましょう。

①南郊、圓丘

 鄭玄は両者を区分し、王肅は区分しません。司馬遷、王莽らも区別しない立場にあり、鄭説が積極的に採用された魏の明帝のとき、はじめて圓丘が別に建てられました*1

②女子逆降傍親

 『儀礼』喪服、大功に「大夫之妾為君之庶子、女子子嫁者、未嫁者、為世父母、叔父母、姑姊妹。」とあり、鄭注は「舊讀合大夫之妾為君之庶子、女子子嫁者、未嫁者、言大夫之妾、為此三人之服也」とし、旧来の解釈(賈疏は馬融らの説と言っています)を変更しています。

 具体的には、旧説は「大夫之妾が、君之庶子・女子の嫁いだ者・女子の嫁いでいない者(の死)のために(大功に)服す。また、(家長が)世父母・叔父母・姑姊妹のために服す」ですが、鄭説は「大夫之妾が、君之庶子のために服す。女子の嫁者・未嫁者は、世父母・叔父母・姑姊妹のために服す」となるわけです。これに伴い、鄭玄はこの後ろの喪服伝の順番も入れ替えています。両者の論争は、このあたりの鄭説のことを指しているのでしょう。

 朱异の話題の出し方を見ると、ここの鄭説がちょっと無理がある、疑念がある、というのが通念だったのでしょうね。李業興も「亦不專從」と答えていますから、この鄭注には従えないと考えていたようですね。

③若卿此間用王義,除禫應用二十五月,何以王儉喪禮,禫用二十七月也

 三年の喪を終える儀式である「禫」がいつ行われたのかという問題について、古来から議論があり、王肅は二十五月、鄭玄は二十七月説を唱えています。「王儉喪禮」とは、斉で礼の制定に携わった王儉のことで、『南齊書』禮志に彼の議論があり、喪服の期間に関する議論も収められています(ただ、いま見られるものは閏月の扱いに関するもののようですが)。なお、『玉函山房輯佚書』に王儉「喪服古今集記」「礼義答問」の輯佚があります。

 以上の①~③は、鄭玄説と王肅説の対立について、朱异が北朝の方法が両者を交えていると批判したのに対して、李業興は南朝の説にも両者が混在していると指摘した、といったところでしょうか。

④明堂上圓下方

 明堂については、鄭玄らの五室説、蔡らの九室説の対立が有名ですが、その後、裴頠によって簡易的な明堂の制度が設計され、特に南朝で用いられていたようです。三者いずれの説にしても、部屋の数が問題であって、全体が「上圓下方」の構造であることに変わりはない、という認識があったのでしょう。

 問題になっているのは「上圓下方」の説の出所ですが、『駁五経異議』に淳于登説として「上圓下方」が見え、これに対して付された鄭玄説に、『援神契』の説であると記されています。

⑤靈威仰、叶光紀之類

 これは王者の先祖であるところの五方の上帝の呼び名で、これも緯書の『河図』が出処です。

 ④、⑤は、「上圓下方」の典拠を求められた李業興が緯書を挙げたところ、朱异に批判されたのですが、逆に李業興は南朝で用いられている五帝の名前が緯書に基づくことを取り上げて、朱异をやりこめた、という話です。

 さて、お気づきになられたかと思いますが、②「女子逆降傍親」の問題が何を指すのか、上ではきっちりと説明できません。調べてみると『通典』に晋代の議論で言及されているほか、後世の礼学研究書(徐乾学『読礼通論』など)でも詳しく議論されています。また、『経学研究』15に、林素英「《喪服》“女子逆降旁親”問題析論――以程瑤田反對鄭注賈疏爲討論中心」という論文が収められていますね。いま、確認できる環境にいないので、また後に確認することにいたしましょう。

 

 以下、私が面白いと感じた点について、いろいろ考えてみます。

 まず、「王儉喪禮」や「卿錄梁主孝經義」など、李業興が自分で見た南朝系の礼学者の書をもとに反論している点。李業興はこれらの書物をどこで見たのでしょうか?南朝に使者として出向いたときに示されたとみるのが自然でしょうが、王儉「喪禮」やらを使者として出向いているうちに読み込めるものなのかどうか。もともと北朝にこういった書物が伝わっていた可能性もあると思います。

 なお、朱异が梁主の『孝經』講義を記録したことについては、

『南史』朱异傳

 武帝召見,使說『孝經』『周易』義,甚悅之,謂左右曰:「朱异實異。」後見明山賓曰:「卿所舉殊得人。」仍召直西省,俄兼太學博士。其年,帝自講『孝經』,使异執讀。

 という一段から確認ができます。朱异の方も名のある人で、礼学一家の賀琛をはじめとした多くの学者との交流が伺えますから、南朝の一流の学者の一人と見てよいのでしょう。少し脱線しますが、梁武帝の『孝経』講義については、あちこちにいろいろな話が載せられており、興味深いものが多いです。以下は一例。

『南史』文學傳、岑之敬

 之敬年五歲,讀『孝經』,每燒香正坐,親戚咸加歎異。十六,策春秋左氏、制旨孝經義,擢為高第。御史奏曰:「皇朝多士,例止明經,若顏、閔之流,乃應高第。」梁武帝省其策,曰:「何妨我復有顏、閔邪。」因召入面試。令之敬升講坐,敕中書舍人朱异執孝經,唱士孝章,武帝親自論難。之敬剖釋從橫,左右莫不嗟服。仍除童子奉車郎,賞賜優厚。

 

 次に、「卿錄梁主孝經義」に「上圓下方」の説が載っているという話について。皮錫瑞『孝経鄭注疏』を眺めてみますと、聖治章の「宗祀文王於明堂、以配上帝」への鄭注にこの議論が見えます。おそらく、梁武帝が『孝経』のこの部分を講義した際に、この議論が出てきたのでしょう。前回、晋の穆帝の『孝経』講義が鄭注に即していたという話を紹介しましたが、梁武帝の講義でも、鄭注に関する議論があったのだと思います(これだけでは、鄭注を主にしていたとまでは言えませんが)。

 

 最後に、南北の学問傾向の相違について。北朝では鄭玄注が尊ばれたこと、また北朝で緯書が盛んに用いられたことはよく指摘されています。これは、もともと緯書を積極的に取り込みながら学説を形成している鄭玄説を受容する以上は、緯書も合わせて学ばざるを得なかった、ということでしょう。

 ただ、南朝でも、礼学に関しては結局は鄭注が優勢になったわけで、その時に緯書に由来を持つ説も一緒に取り込まれているはずです。ここはその一例と言えるでしょう。ただ、朱异は『援神契』の説であることを知らず、また緯書に対して拒絶反応を示していることから、やはり南朝では緯書そのものはあまり受容されていなかったようです。

 もう一つ、北朝では鄭玄注が尊ばれたとはいえ、李業興は王肅説の概要をよく知っているようです。用いられなかったとはいえ、伝わっていなかったというわけではなく、礼学の議論の中では継承されていたことが分かります。「女子逆降傍親」の例を見ても、鄭説に全て従うというわけでもないようです。

 

 伝記では、この次に梁武帝との問答が記録されています。これも面白いので、また取り上げることにしましょう。

 (棋客)

*1:参照:喬秀岩・葉純芳『学術史読書記』「論鄭王礼説異同」

『公羊傳疏』引『孝経疏』について(3)

 前回の続きです。まず、ここまで考察したことを整理しつつ、新たに気が付いたことを加えてお示しします。

 

①『公羊疏』に「『孝経疏』を参照せよ」という文言がある(三例)ことから、『公羊疏』の著者は『孝経』にも義疏を書いていたことが分かる。

②内容を見ると、一例は『孝経』に関する何休の説と、『孝経』鄭玄注の相違を説明する部分、もう一例は『孝經緯』に対する鄭玄説を解説する部分であるが、いずれも『公羊』の経・伝・注の解釈のために必要とはいいがたいところである。それでも鄭説を引くことから、『公羊疏』の著者は鄭説を重視していることが分かる。

③上から、この『孝経疏』は恐らく鄭注を旨とするものであったと思われる。

④何休説と鄭玄説の相違は、『孝経』士章「資於事父以事母」の「資」の字を、何休は「取」とし、鄭玄は「人之行也」とすること。これを偽孔伝は「取」と訓じているのに『公羊疏』は引かないから、『公羊疏』の著者は恐らく『孝経』偽孔伝を見ていない

⑤「資、取也」は常訓であり、鄭玄も『周禮』考工記、『禮記』明堂位、表記などで同様の訓詁を附す。にも拘わらず、『孝経』士章でのみ鄭玄注は「資、人之行也」とする。『孝経』鄭玄注の真偽には議論があるが、少なくともこの例だけを見て考えると、後世の人の偽作(後世の人が似せようとして作ったもの)であるなら、他の箇所の鄭玄注と合うように作りそうなものなので、『孝経』鄭注は鄭玄ないしは鄭玄に近い人の作ではないか、少なくともその由来は古いのではないか、と思われる。

⑥「資、取也」と「資、人之行也」について、劉炫『孝経述議』の復元部分を見ると、この相違に全く言及しないどころか、『周禮』鄭玄注から「資、取也」の訓詁だけを取り、『孝経』孔伝「資、取也」の補強材料として用いている。劉炫は『述議』の序文で「鄭氏之蕪穢者、實非鄭注、發其虚誕、作『孝経去惑』」と述べており、『孝経』鄭注を偽作として排除していることが分かるので、これは劉炫としては当然の態度である。

 

 上に『孝経』の何休説と書きましたが、『孝経』に何休が注を書いたという話は聞きませんから、正確には『公羊』に引かれる『孝経』の文に対する何休説、というべきでしょうか。(※2020.11.22付記:『後漢書』何休伝には、彼が孝経に注訓を著した旨が記載されていますので、『孝経』の何休説と称して問題ないです。)

 

 さて、『公羊疏』の著者が誰なのか、という問題は古くから議論が多いですが、重澤俊郎「公羊傳疏作者時代考」などによって、北朝人の手になるものではないか、と言われています。根拠としては、『尚書』鄭注を用いて孔傳を用いない点、『左伝』杜預注より服虔注をよく用いる点、緯書をよく用いる点などの内容面、また『北史』儒林伝の以下の記述から、『公羊』が北朝で盛んであったと分かること、などが挙げられます。(南朝では『公羊』への言及はさほど多くないようです。)

・『北史』儒林伝序
 玄易、詩、書、禮、論語、孝經,虔左氏春秋,休公羊傳,大行於河北。

・『北史』儒林伝、梁祚
 梁祚,北地泥陽人也。父卲,皇始二年歸魏,位濟陽太守。至祚,居趙郡。祚篤志好學,歷習經典,尤善公羊春秋、鄭氏易,常以教授。

 これは有力な根拠ですが、一旦棚上げして、『孝経疏』の方から少し調べてみましょう。『隋書』経籍志には、『孝経』の義疏がたくさん記録されています。そのうちの多くは、釋奠禮として行われた皇帝の講疏に関わるものです*1。さすがに『公羊疏』の制作に皇帝が関わっているとは考えにくいので、ここでは、これを除いて整理してみました*2。ただ、皇帝のもとでの講疏の整理者と『公羊疏』の作者が一致するという状況はあり得るかもしれません。

・孝經義疏一卷、趙景韶撰。
・孝經義疏三卷、皇侃撰。
・孝經私記二卷、周弘正撰。(陳書、南史には「孝經疏」とある)
・古文孝經述義五卷、劉炫撰。
・孝經講疏六卷、徐孝克撰。
・孝經義一卷、梁揚州文學從事太史叔明撰。

 趙景韶は伝不明。皇侃、周弘正、太史叔明は南朝の人。劉炫は北朝。徐孝克(527-599)は梁、陳、隋へ渡った人。さっき書いたように劉炫の『孝経述議』とは内容が合わないので、劉炫が『公羊疏』の作者ということはないでしょう。この中から考えると、もともと『公羊疏』の著者は徐彦とする説がありますから、同じ姓の徐孝克はちょっと気になりますかね。

 ここで、南朝で『孝経』の注釈には何が用いられていたのかというのが問題になります。『釋文』序録には、ずっと鄭注が伝えられてきたことが述べられ、更に晉の穆帝が『孝經』を講じた際に鄭玄注をもとにしたという記述があります(『釋文』序録、ここでは同時に『孝經』鄭注の真偽に疑問が出されています)。というわけで、南朝に鄭注を旨とする『孝経疏』があっても、何の不思議もないということになります。そもそも、孔伝がないとなると、鄭注に対抗しうる注釈がないように思えます。

 ただ、『隋書』経籍志に記載がないからと言って、北朝で『孝経』の疏が作られなかったというわけではありません。北魏の正光三年には釋奠禮の記録がありますし(正光三年,乃釋奠於國學,命祭酒崔光講孝經,始置國子生三十六人)、より直接的には以下の記録があります。

・『北史』儒林伝序
 論語、孝經,諸學徒莫不通講。諸儒如權會、李鉉、刁柔、熊安生、劉軌思、馬敬德之徒,多自出義疏。雖曰專門,亦皆相祖習也。

・『北史』儒林伝、熊安生
 所撰周禮義疏二十卷,禮記義疏三十卷、孝經義一卷,並行於世。

 ほか、南朝から北朝に渡った人ですが、何妥、明克讓の伝にも「孝経義疏」の著作が見えます。結局、「孝経疏」の側から、北朝南朝かというのは絞れないでしょうね。

 

 …ちっ、これじゃ面白くねえなあと思っていたのですが、ここでふと敦煌文献『孝経鄭注義疏』(仮称)を思い出しました。

Pelliot chinois 3274 | Gallica

 この本は、筆写年は天宝元年と唐の玄宗の頃まで下りますが、王肅のほか、謝安、賀瑒、袁昂など南朝系の学者の疏が引かれていることから、もとは皇侃前後の人の著述と考えられています。で、この本は鄭注をもとにした義疏ですから、南朝系の『孝経疏』に鄭注が用いられていて実例として挙げられるわけです。(うるさく言えば、中身が南朝系の学者の説が出てくるからと言って南朝で書かれたとは決めつけられないと思いますが、少なくとも、南朝で『孝経』鄭注をめぐる議論が交わされていたことの実例にはなるわけです。)

 でもまさか、内容が上の部分と被っているなんてことはないよなあ……と思っていたのですが、なんと、関連する記述がありました。上のデータベースの4枚目の写真左側です。(文字起こしにも句読にも自信がありません)

 士章辯愛敬同異者・・・解鄭意、人不生則已、既生則以行業為資。劉先生以為資用之資。王肅以為資取之資。夫資取用倶歸其一也。

 「行業為資」は、鄭注「資、人之行也」とかみ合いますね。劉先生とは南斉の劉瓛で、「資用之資」とします。王肅は「資取之資」ですが、これは何休の解釈と同じで、また「古文孝経」孔伝の解釈とも一致します。この王肅説と孔伝説の一致が何を示すのかはちょっと分かりません(「古文孝経」孔伝の成立についてもいろいろとややこしい問題があります)。劉瓛説、王肅説は「倶歸其一也」とある通り、そんなに意味は変わらないですかね。「鄭注が変わったことを言っている」という共通認識は、ここにも働いていると見てよいようです。

 というわけで、『孝経』士章「資於事父以事母」の「資」の字の訓詁の問題は、少なくとも南朝系の学者の間では議論になっていたらしい、ということが確認できました。

 

 更にここで、全く別の箇所ですが、もう一つ気になっていた問題を思い出しました。(この問題は、野間文史先生の『五経正義の研究』付録の「九経疏引書目表」を見ていて気が付きました。)

 『公羊伝』哀公六年

〔注〕巨囊大囊、中央曰中霤。
〔疏〕解云、案月令中央土云「其祀中霤」、鄭注云「中霤、猶中室也。古者複宂、是以名室為霤云」、庚蔚云「複地上、累土宂則穿地也。複宂、皆開其上取明、故雨霤之。是以因名中室為中霤也」。故此傳云「中霤」注云「中央」、謂室之中央也。

 「庚蔚云」とあるのが問題で、阮元校勘記はこれを「庾蔚」に直しています。つまり、『礼記』の義疏の作成者の一人である庾蔚之に比定するわけです。彼は南朝の宋の人ですから、この修正が正しく、かつ後世の竄入でないとすれば、『公羊疏』の作者は南朝の人の『礼記』の義疏を引用している、ということになります。

 

 では、『公羊疏』は南朝の学者のものなのか? さすがに今のところは、先に重澤先生の研究が示している北朝であるとする根拠の方が、強力であるように思います。前回の記事に載せた『公羊疏』の原文には「則何氏解『孝經』與鄭稱同,與康成異矣」、また「注四制云「資,猶操也」、然則言人之行者,謂人操行也」といった議論も出てくるのですが、P.3274ではここには触れられていないようですからね。また、南北朝の間で盛んに学者や典籍の移動があったことについては、吉川忠夫先生の研究にある通りで北朝人が南朝の義疏を見ていてもそこまで不思議ではありません。

 さて、ちょっと大きな問題になってきたので、林秀一『孝経学論集』や、公羊注疏研究会『公羊注疏訳注稿』などを確認したいところですが、あいにく確認できる状況にありません。もし、既に同じ議論が出ていましたら、是非ご教授ください。

 

 ちなみに、野間先生の「九経疏引書目表」を見てみますと、各疏の中での各本の引用数が確認できます。例えばこんな感じ。

尚書正義:『孝経』経文14例、孔安国傳1例
・毛詩正義:『孝経』経文23例、鄭玄注5例
・左傳正義:『孝経』経文11例、孔安国傳2例
・禮記正義:『孝経』経文30例、鄭玄注7例
・周禮疏 :『孝経』経文14例、鄭玄注2例
・儀禮疏 :『孝経』経文15例、鄭玄注1例
・公羊傳疏:『孝経』経文4例、鄭玄注3例

 二つに綺麗に分かれるのは面白いものです。三礼はもとが鄭注なので『孝経』も鄭注が用いられるのは当然で、毛詩は鄭箋の関係で出てくるのでしょう。そのほかは、『孝経』孔傳が用いられているのが分かります。ここでふと思いましたが、北朝では『孝経』鄭注が用いられていたのか、というのは、上の調査だけではまだちょっとよく分かりませんね。これも調べてみる必要があります。

 ふと思いましたが、鄭箋があるとはいえ、二劉の義疏を下敷きにしたとされる『毛詩正義』に『孝経』鄭注の引用が見られるというのはちょっと不思議です。偽物だと考えているなら、鄭箋を説明するためであったとしても『孝経』鄭注は用いないでしょう。このことに気が付く前に書かれた部分なのか、劉焯の方はあまり気にせずに用いていたのか、はたまた孔頴達らの編纂の際に増補されたのか、これも考え甲斐のある問題ですね。

 もう一つ、また別の話ですが、唐代に「古文孝経」孔伝と「今文孝経」鄭注の真偽をめぐって、劉知幾と司馬貞が論争をしたという話があります。劉知幾は「今文孝経」鄭注の偽作を十二の証拠を挙げて熱弁するのですが、もしかするとこの証明の元ネタは劉炫の『孝経去惑』にあるのかもしれないですね。劉知幾が劉炫の学問を重視した人物であることはよく指摘されています。

 

 調べれば調べるほど、謎が生まれてきます。鍵が開きそうで開かないもどかしさがありますが、なかなか楽しい調べ事でした。他にも、色々調べているうちに、『公羊疏』の他書の引用について気になる例が出てきました。先になるかと思いますが、ネタが溜まったらまた更新します。

(棋客)

*1:このあたりの事情については、古勝隆一『中国中古の学術』を参照。

*2:『隋書経籍志詳考』を参考にしました。

『公羊傳疏』引『孝経疏』について(2)

 前回の続きです。『公羊傳疏』に『孝経疏』という言葉が引かれる例は、三ケ所あるようです。前回紹介したものも含めて、下に掲げておきます。

・『公羊傳』襄公二十九年疏
 云「孔子曰,三皇設言,民不違,五帝畫象,世順機,三王肉刑揆漸加,應世黠巧姦偽多」者、『孝經說』文。言三皇之時,天下醇粹,其若設言民無違者,是以不勞制刑,故曰「三皇設言民無違」也。其五帝之時,黎庶已薄,故設象刑以示其恥,當世之人,順而從之,疾之而機矣,故曰「五帝畫象、世順機」也。畫,猶設也。其象刑者,即唐傳云「唐虞之象刑上刑赭衣不純」,注云「純,緣也。時人尚德義,犯刑者但易之衣服,自為大恥」。「中刑雜屨」,「屨,履也」。「下刑墨幪」,「幪,巾也。使不得冠飾。『周禮』罷民亦然,上刑易三,中刑易二,下刑易一,輕重之差」。「以居州里,而民恥之」,是也。三王之時,劣薄已甚,故作肉刑,以威恐之。言三王必為重刑者,正揆度其世,以漸欲加而重之。故曰「揆漸加也」。當時之人,應其時世,而為黠巧作姦偽者彌多于本,用此之故、須為重刑也,云云說備在孝經疏。

・『公羊傳』昭公十五年疏
 解云:何氏之意,以資為取,言取事父之道以事君,所以得然者,而敬同故也。以此言之,則何氏解『孝經』與鄭稱同,與康成異矣,云云之說在孝經疏。

・『公羊傳』定公四年疏
 解云:何氏之意,以資為取,與鄭異。鄭注云「資者,人之行也」。注四制云「資,猶操也」。然則言人之行者,謂人操行也,云云之說具於孝經疏。

 三例ありますが、下の二つはどちらも何休注が引く『孝經』の「資于事父以事君而敬同」を説明するところです。

 この『孝経』の引用文の「資」の字を、何休は「取」と解釈するのに対し、鄭玄は「人之行也」と解釈していて、一致していません。ここから議論が生じたようです。全く異なる部分に登場する二つの『孝経』の引用に対して、同じように注釈がつけられていることから、『公羊疏』がそれなりに一貫した体裁を持っていることが分かります。

 さて、ここで話題になっている『孝経』の解釈の相違ですが、劉炫『孝経述議』の復元本や、邢昺疏を見ても、特に議論にはなっていません。むしろ、鄭玄の『周禮』考工記の注などから、「資、取也」と引く例を持ってきて、補強材料にしています。つまり、議論のポイントがあまり一致しないわけです。(当然ながら、皮錫瑞『孝経鄭注疏』は「資、人之行也」の鄭注を引いてその意図を解説しています。)この問題については、また次回の記事で考え直してみます。

 ちなみに、この部分、『孝経』孔安国注も「資、取也」に作り、玄宗注もこれを踏襲しています。しかし、『公羊疏』では何休説と鄭玄説は引用するのに、孔安国説は引いていません。偽作とされる『孝経』孔安国注を、『公羊疏』の作者は見ることができなかったのだと思います。

 さらに、よくよく考えると、上の注釈においてわざわざ鄭玄説を引く必要は全くありません。しかも、『孝経』注以外には、鄭玄が「資、取也」という訓詁をつける例は色々あるようです。『公羊疏』が鄭学を旨とすることはよく指摘されますが、ここでわざわざ『孝経』鄭注を取り上げて議論をしていることにも、その一端が現れているように思います。

 

 本題に戻って、「云云之說具於孝經疏」とは、どういうことでしょうか。

 ある議論について、「他の部分を参照せよ」という注釈は、疏を読んでいると時折出くわします。例えば、『礼記正義』を読んでいると、「此義已具於王制」(祭法)、「義已具於文王世子」(禮運)といった記述が出てきて、それぞれ『礼記』王制の疏、文王世子の疏を見ると、その説の詳しい解説が載っている、というわけです。同じ例は、『儀禮疏』や『周禮疏』でも見ることができます。

 ただ、これらの例は、同一の書の中の別の部分を指す言葉です。今回の例は、『公羊疏』の中で『孝経疏』という他の本を参照する関係にあり、これとはちょっと違います。

 書名に対して著者名がつけられていないことを考えると、この現象は、同一著者でないと説明がつかないと思います。つまり、『公羊疏』の著者は『孝経疏』も書いていた、と考えるのが自然でしょう。

 

 いま論文を簡単に探せる環境にいないので、綿密なチェックはできていないですが、手持ちのところでは重澤俊郎「公羊傳疏作者時代考」(『支那學』第六卷第四號)に上記の現象についての記述が少しありました。重澤氏はそれほど詳しく述べているわけではありませんが、同様に、『公羊疏』と同一著者の著作に『孝経疏』があったのだろうと推定しています。

 

 次回、もう少し整理して、最後のまとめにします。

(棋客)

『公羊傳疏』引『孝経疏』について(1)

 何気なく『公羊傳疏』を読んでいたところ、不思議な記述に出くわしました。

『公羊傳』襄公二十九年

〔傳〕閽弒吳子餘祭。閽者何。門入也。刑人也①。刑人則曷為謂之閽。刑人,非其人也。君子不近刑人。近刑人,則輕死之道也。

〔注①〕以刑為閽。古者肉刑墨、劓、臏、宮與大辟而五。孔子曰「三皇設言,民不違。五帝畫象,世順機。三王肉刑揆漸加,應世黠巧姦偽多」。

〔疏〕云「孔子曰,三皇設言,民不違,五帝畫象,世順機,三王肉刑揆漸加,應世黠巧姦偽多」者、『孝經說』文。言三皇之時,天下醇粹,其若設言民無違者,是以不勞制刑,故曰「三皇設言民無違」也。其五帝之時,黎庶已薄,故設象刑以示其恥,當世之人,順而從之,疾之而機矣,故曰「五帝畫象、世順機」也。畫,猶設也。其象刑者,即唐傳云「唐虞之象刑上刑赭衣不純」,注云「純,緣也。時人尚德義,犯刑者但易之衣服,自為大恥」。「中刑雜屨」,「屨,履也」。「下刑墨幪」,「幪,巾也。使不得冠飾。『周禮』罷民亦然,上刑易三,中刑易二,下刑易一,輕重之差」。「以居州里,而民恥之」,是也。三王之時,劣薄已甚,故作肉刑,以威恐之。言三王必為重刑者,正揆度其世,以漸欲加而重之。故曰「揆漸加也」。當時之人,應其時世,而為黠巧作姦偽者彌多于本,用此之故、須為重刑也,云云說備在孝經疏

 昔の刑罰について議論する一段。何休は、孔子の言として「三皇設言,民不違。五帝畫象,世順機。三王肉刑揆漸加,應世黠巧姦偽多」(三皇の頃は言葉を設けて戒めただけで、民は規律に反しなかった。五帝の頃は、服に墨でしるしをつければ、世の中は治まった。三王の頃は、肉刑が徐々に増え、世の中も狡猾な犯罪が増加した)を引き、刑罰が徐々に厳しくなり、それにともない世の中が荒廃した様子を述べています。理想の時代は刑罰がなくとも世が治まっていたが、時代が進むにつれて刑罰が重くなり、同時に世の中も治まらなくなったとするのは、典型的な儒教的価値観といえましょうか。

 この孔子の言の出所は、疏は『孝経説』、つまり『孝經』の緯書であるとしています。実際、『周禮疏』などにも似た文章が『孝經緯』として引かれているので、問題ないでしょう。

 上の疏は、この孔子の言の内容を説明する段です。一つ目の下線(故曰「三皇設言民無違」也)までが、三皇の時期の説明。二つ目の下線(故曰「五帝畫象、世順機」也)までが、五帝の時期の説明。ただ、ここに「畫象」とあるのが何のことか分かりにくいので、その下に『尚書大傳』(原文中「唐傳」以下)を引いて詳しく説明しています。

 ここの『尚書大傳』の引用のされ方が非常にややこしく、経文と鄭玄注が入り混じりながら引かれています。句読点を省いて引いてみましょう。

 唐傳云唐虞之象刑上刑赭衣不純注云純緣也時人尚德義犯刑者但易之衣服自為大恥中刑雜屨屨履也下刑墨幪幪巾也使不得冠飾周禮罷民亦然上刑易三中刑易二下刑易一輕重之差以居州里而民恥之是也

 一見すると「唐傳云”唐虞之象刑上刑赭衣不純”」が本文、「注云”純緣也”」が注かと思ってしまいますが(実際、北京大学整理本はこのように句点を切っているのですが)、ここは実は本文と鄭玄注が交互に引用されており、以下のように注を括弧に入れて読むとすっきりします。

 唐傳云「唐虞之象刑、上刑赭衣不純(純、緣也)。時人尚德義、犯刑者但易之衣服、自為大恥。中刑雜屨(屨、履也)、下刑墨幪(幪、巾也。使不得冠飾。周禮罷民亦然。上刑易三、中刑易二、下刑易一、輕重之差)、以居州里、而民恥之」、是也。

 基本通り、「是也」の手前までがすべて引用文である、ということです。

 『尚書大傳』は逸書ですが、部分的に『太平御覧』や李善『文選注』などに引かれているので、これらと対照することで分かります。『通徳堂遺書所見録』などもこのように分けています。

 そういえば、先日訪問した「日本人と読書」の図録に、日本の古い『論語義疏』の引用例に、経と疏が地の文のまま交互に登場するものがあることから、かなり早い時期から経注疏が合わさった本を使っていたのではないか、と指摘されていました。これは義疏の話ですが、注の場合は、馬融の頃から経注本が登場したと言われています。上のような引用例は、一応その傍証になると言えるでしょうか。

 

 さて、ここの鄭玄注に「周禮罷民亦然。上刑易三、中刑易二、下刑易一、輕重之差」とあるのが気になりますが、おそらく『周禮』秋官・司圜の以下の記述を踏まえるのでしょう。

 司圜掌收教罷民。凡害人者弗使冠飾,而加明刑焉。任之以事而收教之,能改者,上罪三年而舍,中罪二年而舍,下罪一年而舍。

 ここの鄭注に「弗使冠飾者,著墨幪,若古之象刑與」とあります。「若古之象刑與」とは、鄭玄も確信していなかったような感じを受けますが、一応ここを指すということでいいと思います。『周禮正義』も確認しておきましたが、ここの大傳注を関連資料として挙げています。

 

 さて、長々と疏文の内容を解説してきましたが、実はこれは本題ではありません。気になるのは、最後に「云云說備在孝經疏」とあることです。この「孝経疏」とは、何のことなのでしょうか。『公羊疏』の中には、他にも数回「孝経疏」が登場しています。

 次回に続きます。

(棋客)