達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『公羊傳疏』引『孝経疏』について(3)

 前回の続きです。まず、ここまで考察したことを整理しつつ、新たに気が付いたことを加えてお示しします。

 

①『公羊疏』に「『孝経疏』を参照せよ」という文言がある(三例)ことから、『公羊疏』の著者は『孝経』にも義疏を書いていたことが分かる。

②内容を見ると、一例は『孝経』に関する何休の説と、『孝経』鄭玄注の相違を説明する部分、もう一例は『孝經緯』に対する鄭玄説を解説する部分であるが、いずれも『公羊』の経・伝・注の解釈のために必要とはいいがたいところである。それでも鄭説を引くことから、『公羊疏』の著者は鄭説を重視していることが分かる。

③上から、この『孝経疏』は恐らく鄭注を旨とするものであったと思われる。

④何休説と鄭玄説の相違は、『孝経』士章「資於事父以事母」の「資」の字を、何休は「取」とし、鄭玄は「人之行也」とすること。これを偽孔伝は「取」と訓じているのに『公羊疏』は引かないから、『公羊疏』の著者は恐らく『孝経』偽孔伝を見ていない

⑤「資、取也」は常訓であり、鄭玄も『周禮』考工記、『禮記』明堂位、表記などで同様の訓詁を附す。にも拘わらず、『孝経』士章でのみ鄭玄注は「資、人之行也」とする。『孝経』鄭玄注の真偽には議論があるが、少なくともこの例だけを見て考えると、後世の人の偽作(後世の人が似せようとして作ったもの)であるなら、他の箇所の鄭玄注と合うように作りそうなものなので、『孝経』鄭注は鄭玄ないしは鄭玄に近い人の作ではないか、少なくともその由来は古いのではないか、と思われる。

⑥「資、取也」と「資、人之行也」について、劉炫『孝経述議』の復元部分を見ると、この相違に全く言及しないどころか、『周禮』鄭玄注から「資、取也」の訓詁だけを取り、『孝経』孔伝「資、取也」の補強材料として用いている。劉炫は『述議』の序文で「鄭氏之蕪穢者、實非鄭注、發其虚誕、作『孝経去惑』」と述べており、『孝経』鄭注を偽作として排除していることが分かるので、これは劉炫としては当然の態度である。

 

 上に『孝経』の何休説と書きましたが、『孝経』に何休が注を書いたという話は聞きませんから、正確には『公羊』に引かれる『孝経』の文に対する何休説、というべきでしょうか。(※2020.11.22付記:『後漢書』何休伝には、彼が孝経に注訓を著した旨が記載されていますので、『孝経』の何休説と称して問題ないです。)

 

 さて、『公羊疏』の著者が誰なのか、という問題は古くから議論が多いですが、重澤俊郎「公羊傳疏作者時代考」などによって、北朝人の手になるものではないか、と言われています。根拠としては、『尚書』鄭注を用いて孔傳を用いない点、『左伝』杜預注より服虔注をよく用いる点、緯書をよく用いる点などの内容面、また『北史』儒林伝の以下の記述から、『公羊』が北朝で盛んであったと分かること、などが挙げられます。(南朝では『公羊』への言及はさほど多くないようです。)

・『北史』儒林伝序
 玄易、詩、書、禮、論語、孝經,虔左氏春秋,休公羊傳,大行於河北。

・『北史』儒林伝、梁祚
 梁祚,北地泥陽人也。父卲,皇始二年歸魏,位濟陽太守。至祚,居趙郡。祚篤志好學,歷習經典,尤善公羊春秋、鄭氏易,常以教授。

 これは有力な根拠ですが、一旦棚上げして、『孝経疏』の方から少し調べてみましょう。『隋書』経籍志には、『孝経』の義疏がたくさん記録されています。そのうちの多くは、釋奠禮として行われた皇帝の講疏に関わるものです*1。さすがに『公羊疏』の制作に皇帝が関わっているとは考えにくいので、ここでは、これを除いて整理してみました*2。ただ、皇帝のもとでの講疏の整理者と『公羊疏』の作者が一致するという状況はあり得るかもしれません。

・孝經義疏一卷、趙景韶撰。
・孝經義疏三卷、皇侃撰。
・孝經私記二卷、周弘正撰。(陳書、南史には「孝經疏」とある)
・古文孝經述義五卷、劉炫撰。
・孝經講疏六卷、徐孝克撰。
・孝經義一卷、梁揚州文學從事太史叔明撰。

 趙景韶は伝不明。皇侃、周弘正、太史叔明は南朝の人。劉炫は北朝。徐孝克(527-599)は梁、陳、隋へ渡った人。さっき書いたように劉炫の『孝経述議』とは内容が合わないので、劉炫が『公羊疏』の作者ということはないでしょう。この中から考えると、もともと『公羊疏』の著者は徐彦とする説がありますから、同じ姓の徐孝克はちょっと気になりますかね。

 ここで、南朝で『孝経』の注釈には何が用いられていたのかというのが問題になります。『釋文』序録には、ずっと鄭注が伝えられてきたことが述べられ、更に晉の穆帝が『孝經』を講じた際に鄭玄注をもとにしたという記述があります(『釋文』序録、ここでは同時に『孝經』鄭注の真偽に疑問が出されています)。というわけで、南朝に鄭注を旨とする『孝経疏』があっても、何の不思議もないということになります。そもそも、孔伝がないとなると、鄭注に対抗しうる注釈がないように思えます。

 ただ、『隋書』経籍志に記載がないからと言って、北朝で『孝経』の疏が作られなかったというわけではありません。北魏の正光三年には釋奠禮の記録がありますし(正光三年,乃釋奠於國學,命祭酒崔光講孝經,始置國子生三十六人)、より直接的には以下の記録があります。

・『北史』儒林伝序
 論語、孝經,諸學徒莫不通講。諸儒如權會、李鉉、刁柔、熊安生、劉軌思、馬敬德之徒,多自出義疏。雖曰專門,亦皆相祖習也。

・『北史』儒林伝、熊安生
 所撰周禮義疏二十卷,禮記義疏三十卷、孝經義一卷,並行於世。

 ほか、南朝から北朝に渡った人ですが、何妥、明克讓の伝にも「孝経義疏」の著作が見えます。結局、「孝経疏」の側から、北朝南朝かというのは絞れないでしょうね。

 

 …ちっ、これじゃ面白くねえなあと思っていたのですが、ここでふと敦煌文献『孝経鄭注義疏』(仮称)を思い出しました。

Pelliot chinois 3274 | Gallica

 この本は、筆写年は天宝元年と唐の玄宗の頃まで下りますが、王肅のほか、謝安、賀瑒、袁昂など南朝系の学者の疏が引かれていることから、もとは皇侃前後の人の著述と考えられています。で、この本は鄭注をもとにした義疏ですから、南朝系の『孝経疏』に鄭注が用いられていて実例として挙げられるわけです。(うるさく言えば、中身が南朝系の学者の説が出てくるからと言って南朝で書かれたとは決めつけられないと思いますが、少なくとも、南朝で『孝経』鄭注をめぐる議論が交わされていたことの実例にはなるわけです。)

 でもまさか、内容が上の部分と被っているなんてことはないよなあ……と思っていたのですが、なんと、関連する記述がありました。上のデータベースの4枚目の写真左側です。(文字起こしにも句読にも自信がありません)

 士章辯愛敬同異者・・・解鄭意、人不生則已、既生則以行業為資。劉先生以為資用之資。王肅以為資取之資。夫資取用倶歸其一也。

 「行業為資」は、鄭注「資、人之行也」とかみ合いますね。劉先生とは南斉の劉瓛で、「資用之資」とします。王肅は「資取之資」ですが、これは何休の解釈と同じで、また「古文孝経」孔伝の解釈とも一致します。この王肅説と孔伝説の一致が何を示すのかはちょっと分かりません(「古文孝経」孔伝の成立についてもいろいろとややこしい問題があります)。劉瓛説、王肅説は「倶歸其一也」とある通り、そんなに意味は変わらないですかね。「鄭注が変わったことを言っている」という共通認識は、ここにも働いていると見てよいようです。

 というわけで、『孝経』士章「資於事父以事母」の「資」の字の訓詁の問題は、少なくとも南朝系の学者の間では議論になっていたらしい、ということが確認できました。

 

 更にここで、全く別の箇所ですが、もう一つ気になっていた問題を思い出しました。(この問題は、野間文史先生の『五経正義の研究』付録の「九経疏引書目表」を見ていて気が付きました。)

 『公羊伝』哀公六年

〔注〕巨囊大囊、中央曰中霤。
〔疏〕解云、案月令中央土云「其祀中霤」、鄭注云「中霤、猶中室也。古者複宂、是以名室為霤云」、庚蔚云「複地上、累土宂則穿地也。複宂、皆開其上取明、故雨霤之。是以因名中室為中霤也」。故此傳云「中霤」注云「中央」、謂室之中央也。

 「庚蔚云」とあるのが問題で、阮元校勘記はこれを「庾蔚」に直しています。つまり、『礼記』の義疏の作成者の一人である庾蔚之に比定するわけです。彼は南朝の宋の人ですから、この修正が正しく、かつ後世の竄入でないとすれば、『公羊疏』の作者は南朝の人の『礼記』の義疏を引用している、ということになります。

 

 では、『公羊疏』は南朝の学者のものなのか? さすがに今のところは、先に重澤先生の研究が示している北朝であるとする根拠の方が、強力であるように思います。前回の記事に載せた『公羊疏』の原文には「則何氏解『孝經』與鄭稱同,與康成異矣」、また「注四制云「資,猶操也」、然則言人之行者,謂人操行也」といった議論も出てくるのですが、P.3274ではここには触れられていないようですからね。また、南北朝の間で盛んに学者や典籍の移動があったことについては、吉川忠夫先生の研究にある通りで北朝人が南朝の義疏を見ていてもそこまで不思議ではありません。

 さて、ちょっと大きな問題になってきたので、林秀一『孝経学論集』や、公羊注疏研究会『公羊注疏訳注稿』などを確認したいところですが、あいにく確認できる状況にありません。もし、既に同じ議論が出ていましたら、是非ご教授ください。

 

 ちなみに、野間先生の「九経疏引書目表」を見てみますと、各疏の中での各本の引用数が確認できます。例えばこんな感じ。

尚書正義:『孝経』経文14例、孔安国傳1例
・毛詩正義:『孝経』経文23例、鄭玄注5例
・左傳正義:『孝経』経文11例、孔安国傳2例
・禮記正義:『孝経』経文30例、鄭玄注7例
・周禮疏 :『孝経』経文14例、鄭玄注2例
・儀禮疏 :『孝経』経文15例、鄭玄注1例
・公羊傳疏:『孝経』経文4例、鄭玄注3例

 二つに綺麗に分かれるのは面白いものです。三礼はもとが鄭注なので『孝経』も鄭注が用いられるのは当然で、毛詩は鄭箋の関係で出てくるのでしょう。そのほかは、『孝経』孔傳が用いられているのが分かります。ここでふと思いましたが、北朝では『孝経』鄭注が用いられていたのか、というのは、上の調査だけではまだちょっとよく分かりませんね。これも調べてみる必要があります。

 ふと思いましたが、鄭箋があるとはいえ、二劉の義疏を下敷きにしたとされる『毛詩正義』に『孝経』鄭注の引用が見られるというのはちょっと不思議です。偽物だと考えているなら、鄭箋を説明するためであったとしても『孝経』鄭注は用いないでしょう。このことに気が付く前に書かれた部分なのか、劉焯の方はあまり気にせずに用いていたのか、はたまた孔頴達らの編纂の際に増補されたのか、これも考え甲斐のある問題ですね。

 もう一つ、また別の話ですが、唐代に「古文孝経」孔伝と「今文孝経」鄭注の真偽をめぐって、劉知幾と司馬貞が論争をしたという話があります。劉知幾は「今文孝経」鄭注の偽作を十二の証拠を挙げて熱弁するのですが、もしかするとこの証明の元ネタは劉炫の『孝経去惑』にあるのかもしれないですね。劉知幾が劉炫の学問を重視した人物であることはよく指摘されています。

 

 調べれば調べるほど、謎が生まれてきます。鍵が開きそうで開かないもどかしさがありますが、なかなか楽しい調べ事でした。他にも、色々調べているうちに、『公羊疏』の他書の引用について気になる例が出てきました。先になるかと思いますが、ネタが溜まったらまた更新します。

(棋客)

*1:このあたりの事情については、古勝隆一『中国中古の学術』を参照。

*2:『隋書経籍志詳考』を参考にしました。