達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

李業興と朱异の論争

 最近、『北史』を眺めています。一つ、印象に残っている話を紹介します。(『魏史』でもほとんど同じ内容が載せられています。)

 『北史』儒林伝上に、李業興という人の伝記が載せられています。彼は北朝儒者の徐遵明に学んだ人です。北朝の多くの儒者は徐遵明の門下に出ているのですが、彼が学び始めた当時、徐遵明はそれほど有名な学者ではなかったようです。李業興が、当時人気のあった靈馥という学者をやり込めたことで、徐遵明の門下生の数が増えたという話が残っています。

 その後、学識のあった李業興は頭角を現し、永熙三年(534)には孝武帝の釋奠を魏季景、溫子昇、竇瑗とともに務めています。

 そして東魏天平四年(537)、彼は李諧、盧元明とともに南朝の梁に使者として出向きます。この時、梁の朱异と交わした問答が記録されており、これがなかなか面白いのです。

『北史』儒林伝上、李業興

 梁散騎常侍朱异問業興曰:「魏洛中委粟山是南郊邪?圓丘邪?」業興曰:「委粟是圓丘,非南郊。」异曰:「比聞郊、丘異所,是用鄭義。我此中用王義。」業興曰:「然。洛京郊丘之處,用鄭解。」异曰:「若然,女子逆降傍親,亦從鄭以不?」業興曰:「此之一事,亦不專從。若卿此間用王義,除禫應用二十五月,何以王儉喪禮,禫用二十七月也?」异遂不答。

 業興曰:「我昨見明堂,四柱方屋,都無五九之室,當是裴頠所制。明堂上圓下方,裴唯除室耳,今此上不圓何也?」异曰:「圓方俗說,經典無文,何怪於方。」業興曰:「圓方之言,出處甚明,卿自不見。見卿錄梁主孝經義亦云『上圓下方』,卿言豈非自相矛楯?」异曰:「若然,圓方竟出何經?」業興曰:「出孝經援神契。」异曰:「緯候之書,何可信也!」業興曰:「卿若不信,靈威仰、叶光紀之類,經典亦無出者,卿復信不?」异不答。

 梁の散騎常侍の朱异が業興に「魏洛中委粟山は南郊ですか、それとも圓丘ですか?」と質問すると、業興は「委粟は圓丘で、南郊ではないです」と答えた。异が「このごろ、郊と丘を別所とするのは鄭説であると聞きました。私は王肅説を用います」と言うと、業興は「そうです。洛京は郊丘の場所で、鄭説を用いています」と言った。异は「そうだとすると、(『儀礼』喪服の)”女子逆降傍親”の説も、やはり鄭説に従うですのか?」と問うたが、業興が「これはこれ、それはそれで、全て従うというわけではないのです。あなたはこのごろ王肅説を用いているとのことですが、それならば禫を終える期間は(王肅説に従って)二十五カ月後にするべきなのに、どうして王儉の喪禮を用い、禫を二十七カ月後にしているのですか?」と言うと、异はそのまま答えられなかった。

 業興は「私は昨日明堂を見ましたが,四つの柱と方形の部屋があり、五つ、九つの部屋はなく、これは裴頠の定めた制度でしょう。明堂は上側が圓形、下側が方形であって、裴頠はただ部屋を減らしただけであったはずですが、この明堂にはなぜ上側が圓形になっていないのですか?」と質問した。异は「圓方の説は俗説であって、經典には明文がないから、方形で怪しむことはないはずです」と答えた。業興は「圓方の説は、出典は明らかで、あなたが見ていないだけです。そもそも、あなたの記録した梁武帝の「孝經義」にも「上圓下方」とあるのですから、あなたの発言は矛盾していませんか?」と言い、异が「だとすれば、圓方の説はどの経書から出たものですか?」と問うと、業興は「『孝經援神契』に見えるものです」と言った。异は「緯書は信頼に足るものではないでしょう!」と言ったが、業興が「あなたは信じていないようですが,靈威仰、叶光紀の類は、これも經典には典拠のないものです。あなたは信じていないのですか?」と言うと、异は答えられなかった。

 このエピソードは、記憶では、明堂制の議論に関わる部分で、南澤良彦先生の本に取り上げられていました。他にも既に色々取り上げられているかと思いますが、ここでは、まずそれぞれの礼学上の議論のポイントを押さえていくことにいたしましょう。

①南郊、圓丘

 鄭玄は両者を区分し、王肅は区分しません。司馬遷、王莽らも区別しない立場にあり、鄭説が積極的に採用された魏の明帝のとき、はじめて圓丘が別に建てられました*1

②女子逆降傍親

 『儀礼』喪服、大功に「大夫之妾為君之庶子、女子子嫁者、未嫁者、為世父母、叔父母、姑姊妹。」とあり、鄭注は「舊讀合大夫之妾為君之庶子、女子子嫁者、未嫁者、言大夫之妾、為此三人之服也」とし、旧来の解釈(賈疏は馬融らの説と言っています)を変更しています。

 具体的には、旧説は「大夫之妾が、君之庶子・女子の嫁いだ者・女子の嫁いでいない者(の死)のために(大功に)服す。また、(家長が)世父母・叔父母・姑姊妹のために服す」ですが、鄭説は「大夫之妾が、君之庶子のために服す。女子の嫁者・未嫁者は、世父母・叔父母・姑姊妹のために服す」となるわけです。これに伴い、鄭玄はこの後ろの喪服伝の順番も入れ替えています。両者の論争は、このあたりの鄭説のことを指しているのでしょう。

 朱异の話題の出し方を見ると、ここの鄭説がちょっと無理がある、疑念がある、というのが通念だったのでしょうね。李業興も「亦不專從」と答えていますから、この鄭注には従えないと考えていたようですね。

③若卿此間用王義,除禫應用二十五月,何以王儉喪禮,禫用二十七月也

 三年の喪を終える儀式である「禫」がいつ行われたのかという問題について、古来から議論があり、王肅は二十五月、鄭玄は二十七月説を唱えています。「王儉喪禮」とは、斉で礼の制定に携わった王儉のことで、『南齊書』禮志に彼の議論があり、喪服の期間に関する議論も収められています(ただ、いま見られるものは閏月の扱いに関するもののようですが)。なお、『玉函山房輯佚書』に王儉「喪服古今集記」「礼義答問」の輯佚があります。

 以上の①~③は、鄭玄説と王肅説の対立について、朱异が北朝の方法が両者を交えていると批判したのに対して、李業興は南朝の説にも両者が混在していると指摘した、といったところでしょうか。

④明堂上圓下方

 明堂については、鄭玄らの五室説、蔡らの九室説の対立が有名ですが、その後、裴頠によって簡易的な明堂の制度が設計され、特に南朝で用いられていたようです。三者いずれの説にしても、部屋の数が問題であって、全体が「上圓下方」の構造であることに変わりはない、という認識があったのでしょう。

 問題になっているのは「上圓下方」の説の出所ですが、『駁五経異議』に淳于登説として「上圓下方」が見え、これに対して付された鄭玄説に、『援神契』の説であると記されています。

⑤靈威仰、叶光紀之類

 これは王者の先祖であるところの五方の上帝の呼び名で、これも緯書の『河図』が出処です。

 ④、⑤は、「上圓下方」の典拠を求められた李業興が緯書を挙げたところ、朱异に批判されたのですが、逆に李業興は南朝で用いられている五帝の名前が緯書に基づくことを取り上げて、朱异をやりこめた、という話です。

 さて、お気づきになられたかと思いますが、②「女子逆降傍親」の問題が何を指すのか、上ではきっちりと説明できません。調べてみると『通典』に晋代の議論で言及されているほか、後世の礼学研究書(徐乾学『読礼通論』など)でも詳しく議論されています。また、『経学研究』15に、林素英「《喪服》“女子逆降旁親”問題析論――以程瑤田反對鄭注賈疏爲討論中心」という論文が収められていますね。いま、確認できる環境にいないので、また後に確認することにいたしましょう。

 

 以下、私が面白いと感じた点について、いろいろ考えてみます。

 まず、「王儉喪禮」や「卿錄梁主孝經義」など、李業興が自分で見た南朝系の礼学者の書をもとに反論している点。李業興はこれらの書物をどこで見たのでしょうか?南朝に使者として出向いたときに示されたとみるのが自然でしょうが、王儉「喪禮」やらを使者として出向いているうちに読み込めるものなのかどうか。もともと北朝にこういった書物が伝わっていた可能性もあると思います。

 なお、朱异が梁主の『孝經』講義を記録したことについては、

『南史』朱异傳

 武帝召見,使說『孝經』『周易』義,甚悅之,謂左右曰:「朱异實異。」後見明山賓曰:「卿所舉殊得人。」仍召直西省,俄兼太學博士。其年,帝自講『孝經』,使异執讀。

 という一段から確認ができます。朱异の方も名のある人で、礼学一家の賀琛をはじめとした多くの学者との交流が伺えますから、南朝の一流の学者の一人と見てよいのでしょう。少し脱線しますが、梁武帝の『孝経』講義については、あちこちにいろいろな話が載せられており、興味深いものが多いです。以下は一例。

『南史』文學傳、岑之敬

 之敬年五歲,讀『孝經』,每燒香正坐,親戚咸加歎異。十六,策春秋左氏、制旨孝經義,擢為高第。御史奏曰:「皇朝多士,例止明經,若顏、閔之流,乃應高第。」梁武帝省其策,曰:「何妨我復有顏、閔邪。」因召入面試。令之敬升講坐,敕中書舍人朱异執孝經,唱士孝章,武帝親自論難。之敬剖釋從橫,左右莫不嗟服。仍除童子奉車郎,賞賜優厚。

 

 次に、「卿錄梁主孝經義」に「上圓下方」の説が載っているという話について。皮錫瑞『孝経鄭注疏』を眺めてみますと、聖治章の「宗祀文王於明堂、以配上帝」への鄭注にこの議論が見えます。おそらく、梁武帝が『孝経』のこの部分を講義した際に、この議論が出てきたのでしょう。前回、晋の穆帝の『孝経』講義が鄭注に即していたという話を紹介しましたが、梁武帝の講義でも、鄭注に関する議論があったのだと思います(これだけでは、鄭注を主にしていたとまでは言えませんが)。

 

 最後に、南北の学問傾向の相違について。北朝では鄭玄注が尊ばれたこと、また北朝で緯書が盛んに用いられたことはよく指摘されています。これは、もともと緯書を積極的に取り込みながら学説を形成している鄭玄説を受容する以上は、緯書も合わせて学ばざるを得なかった、ということでしょう。

 ただ、南朝でも、礼学に関しては結局は鄭注が優勢になったわけで、その時に緯書に由来を持つ説も一緒に取り込まれているはずです。ここはその一例と言えるでしょう。ただ、朱异は『援神契』の説であることを知らず、また緯書に対して拒絶反応を示していることから、やはり南朝では緯書そのものはあまり受容されていなかったようです。

 もう一つ、北朝では鄭玄注が尊ばれたとはいえ、李業興は王肅説の概要をよく知っているようです。用いられなかったとはいえ、伝わっていなかったというわけではなく、礼学の議論の中では継承されていたことが分かります。「女子逆降傍親」の例を見ても、鄭説に全て従うというわけでもないようです。

 

 伝記では、この次に梁武帝との問答が記録されています。これも面白いので、また取り上げることにしましょう。

 (棋客)

*1:参照:喬秀岩・葉純芳『学術史読書記』「論鄭王礼説異同」