達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

アンリ・マスペロ『道教』(2)

 次回に引き続き、アンリ・マスペロの名著『道教』川勝義雄訳、平凡社東洋文庫329、1978)を読んでみます。

 もし道教徒が仏教徒と同じくらい細心で、六世紀初頭以来、かれらのコレクションに関する一連の古い目録をすべて保存していたとすれば、われわれは三つの貴重なよりどころを得たことであろう。というのは、道蔵の古い目録は少くとも三つ作成されたからである。その第一は、劉宋王朝の命令によって、四十一年に陸修静が完成したもの、第二は、『三洞瓊綱』という書名で、七一三年から七一八年に勅令によって張仙庭が編纂したもの、第三は、北宋のはじめ、徐鉉監修のもとに勅令によって編纂され、やがて一〇〇八年から一〇一七年のあいだに、王欽若監修のもとにその補遺がつくられたものである。この第三の目録は補遺とあわせて、はじめ『新録』とよばれたが、宋の真宗皇帝に奉呈されたのち、皇帝から『宝文統録』という題をたまわったものである。しかし、これらの目録はいずれも現存しない。ただ二番目の唐代の目録の数行が残っていて、それが二十四の書名をとどめているにすぎない。にもかかわらず、唐代のはじめの道教書のコレクションがどういうものであったかという観念を得ることは可能である。それは、この時代に作られた抜萃文の選集があるからで、『無上秘要』百巻と『三洞珠嚢』十巻という二つの選集が残っている。『三洞珠嚢』の著者名とその時代は唐の王懸河であって、『道歳』のなかの書名の下に偶然保存されていた。『無上秘要』は著者の名もなく、年代も不明な作品であるが、七一八年に書かれたその写本の重要な断片が、ペリオ氏によって敦煌からもたらされた文書のなかに発見されている。したがって、これはおそくとも八世紀のはじめには作られていたものである。この二つの選集によって、われわれはおそくとも七世紀に遡る一九四種の書名と、その多くの抜き書きを知ることができる。

 ここまでで、敦煌本によって7世紀まで遡る書名のリストを得ることができると分かりました。では、さらにさかのぼることはできるのでしょうか?

 ところが、さらに古く遡ろうとすると、研究はさらに困難になる。六世紀についていえば、仏教側からする反道教論争の作品に、道教書の多くの書名と文章とが引用されている。五世紀については、唐代の目録を含む敦煌写本の断片の中に、今日では散伏した前述の陸修静の目録のことが正確に載せられていて、これが約二十ばかりの書名を知らせてくれる。さらに、六世紀前半の道士、宋文明の著作で、今日亡んでいるものの一つ、すなわち『道徳義淵』という書物の一文が珍しく保存されており、そこに『上清高上八素真経』という書物が引用されている。この書物は今日までうまく保存されていて、今度はこれが、不死を探究する人々の学ぶべき二十四の書物を、いろいろな修行の進行程度に応じて列挙している。以上のことから、約五十の書物が五世紀の中ごろのものであることがわかる。最後に四世紀については、二つの重要な書名リストがあり、その一つは四世紀後半、もう一つは四世紀前半に属する。すなわち、『紫陽真人内伝』のなかに約四十種の書名が書かれている。この『紫陽真人内伝』という書は、不死に到達した周義山という道士の伝記であって、そこに偶然書きのこされた写字生の識語に、「三九九年二月二二日に筆写し了る」とあるところから、この書が四世紀末より以前に作られたことがわかる。もう一つのリストは、これよりもはるかに重要である。すなわち、三二五年から三三六年のあいだに死んだ錬金術師の葛洪は、その著『抱朴子』の中で三百以上の書名を引用しており、その大部分は錬金術と符籙に関するものであるが、また教義の書や儀式の書も含まれている。

 以上のように、われわれは十分確かな若干の基点をもっている。そしてこのことは、西紀二世紀から唐代までの道教文献に関して、不完全ではあるにしても、なおかなり妥当な概観を得る上に手助けとなるものである。

 『抱朴子』外篇の「遐覧篇」は、最古の道教経典の目録としてよく知られています。ただ、そこに載せられている書籍のほとんどは現存しません、

 まずわれわれは、二世紀から四世紀の書物で、一群の同じ性質のものを決定することができる。それらは相互に親近な関係にあり、なかんずく、同一の道教的環境から出たことが明らかであって、すべてが同じ根本的な思想につながっている。そのなかにはまず、おそらく最も古いと思われる『黄庭玉経』があり、ついで『黄庭玉経』を体系的に整理したと思われる『大洞真経』三十九章がある。前者はきわめて雑然たるもので、隠密な表現と神々の名に満ちており、その多くの箇所は今日ほとんど理解できない。それは古代においても、そこに述べてある考え方に親しんでいた読者にとってさえも、決して読みやすいものではなかったであろう。後者はよりよく整理されており、文体もずっと簡単で、はるかにやさしく、したがって一そう流布していたと思われる。この二つの経典は、ともに『抱朴子』に引用されているが、それは非常に古いものだと思われる。なかでも前者は『列仙伝』に引用されているから、少くとも二世紀にまで溯るものである。

 この二つの経典から、それを引用する一連の、より新しい経典が出てくる。すなわち、先にのべた『八素真経』や、『大有妙経』・『七転七変洞経』・『金闕帝君三元真一経』、および『三天正法経』がそれである。これらの書はすべて先の二つの経典を引用しているが、逆にこの二つの経典にはこれら一連の書のことは全く出ていない。したがって、これらの書は確実に先の二つの経典より後の作品である。しかし一方では、これらのすべての書について述べている『紫陽真人内伝』よりも時代が早い。そしてこれらの書は相互に引用しあっているから、私は全く同時代のものだと考える。おそらくそれらは四世紀前半のものであろう。

 ところで、これらの書はすべて『大洞真経』を非常に重要視し、これに特別な敬意を払っている。そして、そこにのべられている考え方は、この経典と『黄庭玉経』の考え方にはなはだ密接につながっている。きわめて緊密な関係にあるこの一組の書は、私の考えでは、『大洞真経』の伝統をしっかりとひきうけている同一の道教グループから出てきたものと思われる。

 『大洞真経』を尊ぶグループとは、つまり上清派(茅山派)のことです。

 ところで、『大洞真経』を所依とする書物は大して困難なしにその著作年代を決定できるとしても、『霊宝』を所依とする書物について正確な結果に到達することは一層困難である。霊宝とはそれ自体、聖なる諸経典であって、世界のはじめ、「純なる気」の凝集によって自然に、黄金の彫りのある玉札の形で創造されたものである。これを読むことができたのは、ただ元始天尊のみであって、かれは同じく世界のはじめに、気の凝集によって霊宝と同時に自然に形成された神であった。そこでかれほど至純でないために、霊宝について直接沈思することができなかった神々は、元始天尊がそれを詠誦するのを聞いて、自分たちで玉札の上にそれを文字にして彫りこんだうえ、天宮に保存したのである。私は『霊宝』という言葉がいつから使用されはじめたのか知らない。しかし『霊宝』の最も古い諸経典は、やはり少くとも三世紀まで溯るものであって、それはある種の宗教的儀式に関する次第書きであったらしい。この霊宝グループにおける教義の書は、もっとおくれて現われたと思われる。その中で最も重要なものは『元始無量度人経』であって、これは四・五世紀のさかい目のものであろう。この時期は『霊宝』の伝承が普及して、道教の中でそれが第一位を獲得しはじめたように見える時である。

 上清経に比べ、霊宝経の系統は成立時期がばらばらだとされています。また、仏典の影響が強いとされるのも霊宝経です。

 この二つの作品グループには、救済の仕方と、したがって宗教全体とに関して、それぞれちがった考え方を表わすところの二つの傾向が具体的に現われている。しかしこの二つの傾向は、その根本的な相違にもかかわらず、対立者として表われたのではない。『霊宝』の道士たちは、『大洞真経』その伝承をうけつぐ他の書を知っており、これを攻撃するのではなく、逆にこれを引用し、利用する。これにとって代ろうとするのではなくて、これを完成し、継承する。『大洞真経』の道士も、前者の主張に抗議するのではなく、全く自然にそれを受けいれる。どちらの側にとっても、大事なことは教義よりも礼拝勤行の実践的な面であった。これらの書が浮彫にして見せる二つの傾向は、道教にはいつの時代にも存在したが、ただその比重は常に異なっていたようである。すなわち、『霊宝』の方はとくに三・四世紀以後、一方では自然発生的に、他方ではある種の仏教教理の影響をうけて発展したように思われる。そのころ道教徒はまだ、仏教のなかにかれら自身の宗教の特殊な形が見られると信じ、かれら流にそれを偏向して理解していたのである。

 こうして上清経・霊宝経についての文献学的な前提と、大きな方向性が提示されたわけです。以上のマスペロの議論は、現代でも概ね認められているものと思います。

 序文の最後のまとめが、以下の部分です。

 私は西暦初頭数世紀における道教の全発展を、全般的に叙述できるとは夢にも思っていない。それは叙述が非常に長くなりすぎるからではなく、『霊宝』の諸経に関する若干の要点を十分明快に理解するまでに至っていないからである。したがって私はそれをしばらく措き、四世紀に『大洞真経』を所依とした道教界の研究を主として行なうにとどめる。まず最初に、私は三ないし五世紀の道における信者の個人的宗教生活と「永生」の探究を検討し、ついで一八四年の黄巾の乱前後における教会組織と儀式とかれらの生活をしらべ、最後に、中国最初の仏教教団における仏教と道教の関係について調べたいと思う。しかしこういう問題について完全な研究を示そうというのではない。礼拝の儀式・教理・組織・歴史などのすべてが、全く、あるいはほとんど知られていないような宗教にとりくむ場合、多くの欠陥や誤謬は避けることができないであろう。私はただ若干の見通しを立てるだけにとどまらねばならないが、それが後日の研究に、ある程度、役立つようにと願っている。

 一つの分野を切り開き、体系的な著述を完成させた著作というものは、どの分野の研究者であれ、読んでおく必要があるものなのでしょう。私も中国学に限らず、さまざまな分野の本を読んでいかなければなりません。

(棋客)

アンリ・マスペロ『道教』(1)

 今回は、アンリ・マスペロの名著『道教』川勝義雄訳、平凡社東洋文庫329、1978)を読んでみます。アンリ・マスペロは、1883年生まれのフランス人の東洋学者です。道教・仏教・中国古代史のほか、ベトナム史やベトナム語など、幅広い分野において研究を進め、特に道教研究の第一人者として知られています。

 彼は悲劇的な最期を遂げた人でもあります。ドイツによってパリが占領されているとき、息子がレジスタンス運動に参加していたことから、彼は妻とともに(パリ解放の直前に)ブーヘンヴァルト強制収容所に収容され、そのまま死亡しました。

 

 今回と次回で、『道教』の第三章「西暦初頭数世紀の道教に関する研究」の「序文―文献学的に―」(p.92-99)を取り上げます。ここは、道教を研究する意義とその際の文献的な困難を説明する箇所です。現在は研究が進み、すでに古くなっている説もあるのでしょうが、道教の体系的な研究を最初に試みた論考として、今でも参考価値のある内容だと思います。

 早速、読み進めていきましょう。

 西暦初頭数世紀、中国でいえば、後漢時代および内部分裂と蛮族侵入のいわゆる三国六朝時代は、宗教的な大変革によって目立っている。経書本文の決定的な確立と、偉大な注釈の作成によって、儒教がはじめて明確な形をあらわしたのもこのときであり、中国に仏教という外国の宗教が伝来し、やがてそれが顕著な成功をおさめたのもこの時代であった。そして道教が宗教的、政治的に、同時にその全盛に達したと思われるのも、またこの時代なのである。要するに、この数世紀こそ、偉大なるもろもろの思想が形成され、それが中世および近世における中国精神の基盤となった時代である。

 ところが、この時代の宗教史はほとんど知られていない。儒教のばあいには、儒者たちの伝記が残っているが、しかしそれは、かれらの占めた官職をながながと列挙してはいても、かれらの思想についてはほとんど語るところがなく、また、かれらが書いた書物も大部分がなくなっている。仏教については、僧侶の伝記が残っているが、これも教団の組織やその発展について、われわれにはほとんど何ものをも教えてくれない。道教のばあい、事情はさらに悪い。

 道教の書物はただ一度、明代に一四四四年から四七年ころに出版されただけである。この版はわずかに二部、一部は北京に、もう一部は東京に残っているにすぎない。したがって、この『道蔵』はほとんど近よれないものであった。幸いに、近年その再版が出たが、それはわずか十年くらい前のことである。そしてここに蒐集されている書物は千冊以上の厖大なもので、千五百種に近い著作から成り、その多くはきわめて長いものである。したがって、その探究はやっと始まったばかりであって、それは今後、長い困難な道をたどるであろう。

 魏晋六朝時代の思想・宗教の研究は、現代でも中国学の屈指のトピックの一つといえるでしょう。この時代は、三教(儒教・仏教・道教)が交差するだけではなく、遊牧民と中国の関わり、貴族制の発達などさまざまな特徴があり、豊富な文化を生み出しました。

 明代に出版された道教の書物とは、『正統道蔵』を指します。

 さて、道教はそれだけをとってみても、また仏教との関係からみても、西暦初頭数世紀の中国宗教史において大きな役割を演じた。中国で仏教が成功したことは、極東の宗教史のなかでもっとも驚くべき事実の一つである。なぜなら、インドと中国の宗教的素質ほど正反対なものを、われわれはほかに想像できないからである。そこには共通の考えかたも、共通の感情もなんら存在せず、一見したところでは、外国の布教師がどういう手段でかれらの教義を浸透させ、受け入れさせることができたのかわからないであろう。道教がこの移入に一役買ったであろうと気づいたのは、わずかにここ数年前のことである。実際に、仏教の主な術語は、そのサンスクリットの用語をなんとか漢字に写して簡単に音訳されないときには、道教の術語を使って翻訳した。それはまず興味をひく事実である。しかしさらに一歩進んで、仏教と道教が相互にいかに影響しあったかを仔細に調べようとすると、われわれが道教の教義や、さらにまた教義の発展について知らないことが多いために、たちまち研究が行きづまってしまうのである。

 仏典との関わりが深い道教経典としては、『霊宝経』の系統が取り上げられることが多いです。仏典と道教経典は相互に読み解いていく必要があることが分かります。

 次に、話は道教経典の文献学的な問題点に移ります。

 道教史の研究における主な困難の一つは、古い道教の書物が著作年代不明であるということからおこる。それらの著者は不明であり、それがどの時代まで遡るかがわからない。そして著者の名や、年代上の手がかりを与えるような序文も、冒頭または巻末の識語もない。ある書物のごときは、漢代のものか明代のおのか、つまり十五世紀もの間のどこに置くべきかに迷うこともあるのである。

 文献に根拠を置いて歴史・文学・思想などの研究を進める「文献学」においては、研究の材料となる文献がどのような性質のものなのか(著者や成立年代)を確定することが非常に重要です。それは、文献学においては「文献」が最も基礎になるデータであり、この点に認識の誤りがあると、そこを起点に進められる研究は全て誤りということになってしまうからです。

 しかしながら、道教の歴史を書きうるためには、いくつかの著作年代をはっきりさせることが必要である。私はそのいくつかをきめるのに成功したと信ずる。ここではその研究の詳細をのべることはできないが、ただその結果を簡単にのべて、『道蔵』のなかに収められた何の手がかりもない若干の道教書に、私がかなり確かな著作年代をつけたのは、決してでたらめなものではないことを示すだけにとどめよう。

 こうした道教経典の文献学的な問題について、最初に見通しを示したのがマスペロというわけです。次回、詳細を見ていきましょう。

(棋客)

 

中国史関係のWikipedia「秀逸な記事」「良質な記事」の紹介

 本ブログでは、過去たびたびWikipediaに触れておりまして、筆者もときおりWikipediaの執筆に参加するようになりました。徐々に機能にも慣れてきましたし、執筆者の方々の顔ぶれも何となく頭に入ってきました。

 今回は、日本語で書かれた中国学関係のWikipedia記事の中から、「秀逸な記事」「良質な記事」に選ばれているものをご紹介していこうと思います。

 「秀逸な記事」や「良質な記事」は、ある程度内容が質の高いものになったときに、Wikipedia執筆者の間で査読・投票し、高品質であると認められて記事のことです。現時点で、「秀逸な記事」に選ばれているのは91 本の記事(全体の0.007%)で、「良質な記事」に選ばれているのは1679 本の記事(0.13%)です。

 以下が一覧のリストです。 

 全体でもこれだけしかないのですから、中国史関係の秀逸な記事・良質な記事はごくわずかしかありません。以下にその一覧と、主執筆者の方を掲げておきます。抜けているものがありましたらご教示ください。

 なお、私の判断で便宜上「主執筆者」を挙げていますが、実際には非常に多くの方の尽力で現在の記事が出来上がっていることはご理解ください。その記事がどのような編纂過程を経て現在の形になったのかということが知りたい方は、記事の「履歴」欄を見てみてください。

秀逸な記事

  • 貴族 (中国)
    主執筆者:らりたさん、出典追加:TENさん
    全体としては「中国の貴族」についての記事というより「日本の中国貴族研究史」という色彩の記事で、内容は難しくむしろ専門家向けかもしれません。通史的で整理するのが難しい内容がよくまとまっています。個人的には図か地図を追加したいと思っているのですが、なかなかいいものが思い浮かびません。
  • 魏晋南北朝表
    主執筆者:らりたさん
    ややこしい王朝の変遷が一つの表にうまく整理されています。こちらは参考文献をもう少し追加しようかと思っているところです。

良質な記事

個別記事

  • 老子
    主執筆者:Babi Hijauさん(英語版を参考にしながら加筆)
    ただ「老子」の伝記をまとめるだけでなく、信古派・疑古派の議論にも触れられており、よくできた記事です。出典が細かくつけられている上に、もとが英語版だった関係で欧米の研究も多く引かれています。原典引用が残っているので修正が必要なのと、後半をもう少しうまく整理できないかと思案しています。
  • 馬王堆漢墓
    主執筆者:Asanagiさん
    素晴らしい項目です。「馬王堆漢墓」という百科事典の項目に書いてあるべきことがほぼ網羅されているのではないでしょうか。図も豊富です。よくこれだけの内容を独力でまとめられたと敬意を表します。参考文献はまだブラッシュアップする余地がありそうです。
  • 始皇帝
    主執筆者:Babi Hijauさん(英語版の翻訳+加筆)
    老子」と同様、出典が非常に細かくつけられている上に、欧米の研究も多く引かれています。近年の漫画やゲームにも触れているのもいいと思います。あとは籾山本・鶴間本あたりから参考文献を補強していけば、自然と秀逸な記事に仕上がりそうです。
  • 司馬遷
    主執筆者:Babi Hijauさん
    人物史として十分な内容を備えています。長すぎる短すぎず、私はこのぐらいの量が好きです。『史記』などの原典からの引用がかなり残っているので、修正する必要があります。あとは思想面をもう少し書きたいところでしょうか。

  • 主執筆者:LT sfmさん(英語版の翻訳+加筆)
    巨大なテーマですが、有名な作品にきっちり触れつつ、全体の流れがよく整理されていると思います。賦の分類を述べる箇所などは、箇条書きの形式でもう少し読みやすくまとめられそうです。専門的な記述も多いので、専門家の方に見ていただきたいところですね。

史記

  • 三国志演義の成立史
    主執筆者:トホホ川さん
    非常に充実した内容です。やや細かすぎるので、軽量化してもいいかもしれません。同じ方の執筆で、西遊記の成立史水滸伝の成立史も良質な記事に選ばれています。
  • 中国の絵画
    主執筆者:Uraniaさん
    基本概念・語句の説明と歴史の説明が両方備わっていて、たいへん充実しています。同じ方の執筆で、中国の陶磁器中国の青銅器も良質な記事に選ばれています。特に「中国の青銅器」に載っている画像は私もよく使っています。
  • 中国の科学技術史
    主執筆者:Khaiyaamさん
    英語版からの翻訳記事で、重要な情報は概ね揃っています。若干西洋から見た中国観に引っ張られている感じがするので、いつか加筆したいと思っています。
  • 中国の貨幣制度史
    主執筆者:Mokeさん
    出典・参考文献が量・質ともに素晴らしく、必然的に、その内容も全体の流れと細かな事実が両方踏まえられていて質の高いものになっています。現代の貨幣制度まで踏み込んで書かれているのも素晴らしいです(ただの歴史好きが執筆すると、現代の項はおろそかになりがちです)。「秀逸な記事」の選考に出してもよいのではないでしょうか?

 ほか、専門外過ぎて紹介文を書ききれませんでしたが、中国史関係の良質な記事には以下のものがあります。

濱口富士雄「戴震と王引之の同条二義の訓詁」

 論文読書会にて、濱口富士雄『清朝考拠学の思想史的研究』(国書刊行会、1994)の「戴震と王引之の同条二義の訓詁」を読みました。

 テーマは『爾雅』の以下の一条。

『爾雅』釋詁

 台、朕、賚、畀、卜、陽、予也。

 「台」、「朕」、「賚」、「畀」、「卜」、「陽」は、「予」の意。

 この条、正確に言えば、「台、朕、陽」は「予(わたし)」の意、「賚、畀、卜」は「予(あたえる)」の意。つまり、同じ条に二義の訓詁が混じってしまっているわけです。

 これをきちんと分けるべきだとしたのが戴震です(もともと、南宋の鄭樵が同じ説を唱えています。)。

『戴東原集』卷三・荅江愼修先生論小學書

 『説文』所載九千餘文、當小學廢失之後、固未能一一合於古、卽『爾雅』亦多不足據。姑以釋故言之如「台朕賚畀卜陽予也」、「台朕陽」當訓予我之予、「賚畀卜」訓賜予之予、不得錯見一句中。「孔魄哉延虛無之言閒也。」郭氏注云「孔穴延魄虛無、皆有閒隙。餘未詳。」考之『説文』「哉、言之閒也」言之閒、卽詞助。然則「哉之言」三字、乃言之閒。「言」爲詞助、見於『詩』『易』多矣。「豫射厭也」郭氏注云「詩曰服之無射、豫未詳」豫葢當訓厭足厭飫之厭、射訓厭倦厭憎之厭。此皆掇拾之病。

 論文内では、この説への対抗として王引之『經義述聞』が出てくるわけですが、実は、この説に反応した学者は王引之より先に色々といますので、一部を紹介しておきます。

王鳴盛『蛾術編』卷三十三・説字十九・爾雅不可駮

 或疑『爾雅』雖古亦多不足深據者。如釋詁「台朕賚畀卜陽予也」、「台朕陽」謂予我之予、「賚畀卜」爲賜予之予、似誤合爲一。・・・(略)

 愚謂、或説非是、古人之字輒有相反爲訓者、如「亂爲治」「故爲今」「徂爲存」是也。反義且可訓、況異義而同字者乎。自當幷爲一訓、若分異之而兩言「予」也。一言「閒」一言「言之閒」、則重累矣。人飢則思食、飽則猒憎、猒从甘从肰、甘犬肉而飽也。故爲猒足、借爲厭憎、實一義也。『爾雅』與『説文』、皆斯文之幸存者、不可駮也。

 迮鶴壽注に、この「或疑・・・」が戴震であることの指摘があります。反訓でさえ訓詁として用いられるのだから、同字で異義が有る場合など全く問題ない、ということでしょうか。

 続いて、段玉裁。

段玉裁『古文尚書撰異』巻一上・堯典・都

 或問、「都」既訓於嘆之「於」哀都切、則與央居切之「於」義既殊而音亦絶異。何以『爾雅』類之為一。余曰、此易明也。此即「台朕賚畀卜陽予也」。一例「台朕陽」為予我之予、「賚畀卜」為賜予之予。今人予我讀平聲、賜予讀上聲、周漢人無此分別、予我讀上聲。顏氏籀、顧氏寧人皆詳之矣。古人以同音為用、故於嘆竝於是同為一條。予我偕賜予、不分區域、不特轉注明而假借亦明矣。張氏稚讓『廣雅』尚守斯法。自學者不求古音而『爾雅』難言矣。

 「予」は古くは音の読み分けがなかったのだから、同条に入れて問題ない、という理屈ですかね。

 論文では、ここの同条二義の訓詁の意見の相違を学問傾向の相違の話に持っていくのですが、ちょっと無理気味かと思います。

 

 以上、備忘録でした。

(棋客)

「長嘯」とは?―中島敦『山月記』の漢詩の意味

 今回は、齋藤希史『漢文スタイル』(羽鳥書店、2010)の第七章「花に嘯く」に導かれながら、「長嘯」という言葉と中島敦山月記』の漢詩について考えてみます。

 前回、「嘯」と「長嘯」の意味について、斎藤本と青木正兒「「嘯」の歴史と意義の変遷」(『中華名物考』収録)をもとに整理いたしました。詳しくは前回の記事を読んでいただくとして、重要なのは「長嘯」が「隠逸に向かう者の行為」として認識されていたということです。

 

 さて、誰もが知っている中島敦『山月記』のクライマックス、虎と化した李徴が旧友に向かって詩を書きとらせるのが以下の一節です(青空文庫より、強調はブログ筆者による)。

 さうだ。お笑ひ草ついでに、今の懷(おもひ)を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きてゐるしるしに。
 袁傪は又下吏に命じて之を書きとらせた。その詩に言ふ。

 偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
 今日爪牙誰敢敵 當時声跡共相高
 我為異物蓬茅下 君已乘軺氣勢豪
 此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷

 時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。

 ご覧の通り、ここに「長嘯」という言葉が出てくるのです。では、これまで李陵の詩の「長嘯」は、どのような意味で解されてきたのでしょうか。

 以下、齋藤希史氏の行論を順番に見ていきます(p.225~、強調はブログ筆者による)。

 この詩は『山月記』が拠った唐の伝奇「人虎伝」に挿入されているものをそのまま用いているが、もとの伝奇における以上に、小説において重要な役割を果たしている。タイトルの『山月記』が尾聯に象徴されていることも、しばしば指摘されるところだ。

 ところが、国語の教科書や文庫本がこの詩につけた訳や注を見ると、がっかりする。「あなたに再会した今宵、この山あいで明月を仰ぎながら、わたしは威勢よく吠えたけることもできず、ただうめき声をもらすだけである」、「最後のくだりは、りっぱな詩歌を吟じることもできず、うめき声のような詩句しか出てこない、という比喩であろう」(岩波文庫)、「(旧友と再会した)今夜、渓や山を照らす名月にむかって(この苦しみを訴えようと)声をあげて詩を吟じようとしても、人ならぬ獣の身としては、口から洩れるのはただぶざまな吠え声だけである」(新潮文庫)。さすがに「名月」はひどいが、そうでなくとも、近代文学的に理解するというのがこういうことなら、小説にこの詩が訓読も付されず置かれている意味が消えてしまうように思う。問題文中に設問の答えは必ず書かれていると叩きこまれた受験生よろしく、詩で名を成さんとして果たせなかった李徴という小説の設定だけに頼って、「りっぱな詩歌を吟じる」とか「苦しみを訴えようと」とか解釈するのは、どうかと思うのである。

 過去の日本の教科書や文庫本では、「長嘯」は「詩歌を吟じる」や「(苦しみを訴えて)吠える」の意味であるとされてきたようです。

 ここまで読むと、前回、齋藤氏が「嘯く」という言葉の日本・中国での意味の相違から話を始めたことに合点がいきます。「長嘯」を「詩歌を吟じる」の意味で読むのは、あくまで日本語の「嘯く」から連想された意味であって、中国で用いられてきた「長嘯」という語の本来の意味ではありません。

 齋藤氏は、一般書だけではなく専門書でも同じ誤解がされていると述べています。そもそも、この漢詩に対する読解自体がいま一つ進んでいないようです。

 率直に言えば、『山月記』を扱った専門の文章を見ても、このいらだちはぬぐえない。新版の『中島敦全集』別巻(筑摩書房、二〇〇二)には駒田信二「「山月記」の詩について」が採られているが、「つまらん詩だものね」として内容に及ぶことはない。『山月記』についての論文を集めて一冊とした『中島敦山月記』作品論集』(クレス出版、二〇〇一)を播いても、詩のおかれた人脈を解き明かそうとしたものはない。進藤純孝『山月記の叫び』(六興出版、一九九二)は、詩、とくに尾聯にこだわる論を展開して貴重だが、「「長嘯を成さず」と言ったのは、人間の喜怒哀楽を込めた歌を思わせる吠え方はせぬと意を決したからです」(二〇〇頁)と結論に至るのを見ると、「こっちには中国古典について詳しく調べる能力も気力もない」(五三頁)とあらかじめ宣言されてはいても、やはり、どうかと思ってしまう。

 試しに、ここで斎藤氏が言及している中島敦山月記』作品論集』を読んでみましたが、確かに漢詩について専門的に考察するものはありません。私の印象ですが、この本に載せられた研究では、全体的に「山月記」と「人虎伝」の相違に注目してそこに中島敦の創意工夫を見て取る研究が多いため、「人虎伝」からそのまま用いられている漢詩部分はあまり研究されていない、というところでしょうか。

 しかし、「人虎伝を改変したところ」が重要であるのと同じぐらい、「人虎伝をそのまま残したところ」も重要です。なぜなら、どちらも中島敦の選択であることには変わりがないからです。もっと言えば、中島敦がもとの漢詩を書き下し文にしたり日本語訳にしたりせず、漢文の白文のままにこの詩を示したことの意図を考えてやるべきでしょう。この詩はあくまで「漢詩」として読解すべきものとして、中島敦は示しているのです。

 さて、斎藤氏の行論に戻りましょう。

 阮籍陶淵明も王維も、なじみの詩人である。『文選』には成公綏の「嘯賦」がある。唐詩の中では、李白もまた、謫仙人の称にふさわしく、「長嘯」の用例が詩に少なくない。「秋浦の白笴陂に遊ぶ詩」其の二に「白笴夜長嘯、爽然渓谷寒」とあるのは一例、蘇軾が「後赤壁賦」で「劃然長嘯、草木震動、山鳴谷応、風起水涌」と詠うのも、そうした傲世の文脈を受けてのことである。中島敦については、何かにつけてその漢学的教養が強調されるのだが、素養なるものをブラックボックスのように扱って、折りたたまれた襞の豊かさに及ぶことがないのなら、かえって目が曇りはしないか。

 「中島敦は漢文の素養があった」という話自体は繰り返し強調されてきたことなのですが、その一言だけで済まし、その内実や作品への反映を追うことがないのなら、中島敦の作品を理解したとは言えないのではないか、ということです。

 前回紹介したように、阮籍陶淵明・王維はいずれも「長嘯」の語を詩に用いた詩人です。李白はざっと調べると「長嘯」を用いた詩が十例以上見つかります。他にも様々な用例があり、「漢文的素養」のある中島敦であれば、当然知っていたことでしょう。

 さらに、これは橋本正志「中島敦漢詩--〈家学〉の衰頽と〈不遇意識〉のかたち」(『論究日本文学』91、2009)を眺めていてふと気が付いたことですが、中島敦の「和歌でない歌」という作品に、阮籍陶淵明・王維・李白を題材に採る部分があります。

 ある時は淵明が如疑はずかの天命を信ぜんとせし(中略)
 ある時は李白の如く醉ひ醉ひて歌ひて世をば終らむと思ふ
 ある時は王維をまねび寂として幽篁の裏にひとりあらなむ(中略)
 ある時は阮籍がごと白眼に人を睨みて琴を彈ぜむ

 しかも、陶淵明の「疑はずかの天命を信ぜんとせし」は、前回紹介した陶淵明の詩がもとになっています。

陶淵明「歸去來兮辭」

 登東臯以舒、臨清流而賦詩。
 聊乗化以歸盡、樂夫天命復奚疑

 さらに、王維の「幽篁の裏にひとりあらなむ」も同様です。

王維 「竹里館」

 獨坐幽篁裏、彈琴復長嘯
 深林人不知、明月來相照。

 この二つの詩が「嘯」に絡んでいるのは偶然かもしれませんが、阮籍の「白眼」や「彈琴」、李白の「醉」など、いずれも「隠逸」を象徴する人物とキーワードがここに挙げられていることは間違いありません。ここから、中島敦の「隠逸」へのこだわりといったことを考えてみても面白そうですね。

 何はともあれ、『山月記』に引用される漢詩に出てくる「長嘯」という言葉を、こうした文脈の上から理解しなければならないことは確実です。

 齋藤氏は、以下のように文章を結んでいます。

 中島敦の遺した小説が古今東西を往還していることは言を俟たない。漢籍のみが特権的に振る舞える世界ではない。しかし同時に、あくまで近代小説として書かれているからこそ、相対化された漢文脈との交錯が新たに生み出すものもあろう。

 猿嘯や虎嘯の語があるように、山野に響く動物の声も嘯とされた。嘯嘷という語もある。それゆえ、虎になった李徴が「長嘯を成さず但だ嘷を成す」と嘆けば、かえって人としての「嘯」を希求することが浮き彫りになる。人境を離れた渓山を月が照らす今宵は塵外の嘯きに格好の舞台、されどあさましき獣の身では、それすらも吠え声にしかならぬのだ。

 長嘯は、世外に立つ者としての行為だが、世に忘れられるということではない。人でなくなるということでもない。隠逸というポジションは、隠れていることを示すという絶妙なバランスの上に成り立っていて、世外にあることを確認するための「嘯」も、遠く世に聞こえてこそ意味がある。しかし、世外に立たんとして、李徴はついに人外の異物となった。

 嘯と嘷はじつに紙一重、花に嘯いているうちに、冥界の鬼を呼び出してしまうくらいならまだしも、自ら異物となってしまっては、もう戻ることはできない。ご用心あれ。

 齋藤希史『漢文スタイル』は、鮮やかな語り口で漢文脈の豊饒な世界を描いており、読んでいてとても楽しい本です。このような面白いエッセイが並んでおりますので、みなさまぜひ手に取ってご覧ください。

(棋客)