達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

音楽に感情はあるのか?―嵆康「声無哀楽論」(2)

 「声無哀楽論」は、当時の音楽論としてのみならず、当時の玄学や儒教批判の文脈、また文学としての評価など、さまざまな観点から読むことのできる文献ですから、研究も数多くあります。今回記事を書くに当たって読んでみた論文は以下です。

 福永氏は、他にも「嵆康と佛教 : 六朝思想史と嵆康」(『東洋史研究』20-4、1962)など、嵆康に関する研究をさまざまな角度から試みています。

 今日は、福永光司「嵆康における自我の問題―嵇康の生活と思想」の整理に沿って、嵆康「声無哀楽論」の論理を簡単に整理しておきましょう。

 

 前回読んだ通り、嵆康の狙いは、「音楽には哀楽の情がある」という従来の考えを否定しようとするものです。その理由として、前回、「音楽」は五行から生まれたもの(福永氏は「自然的存在」と言っています)であって、味やにおいと同様、それそのものに感情があるわけではない、という冒頭の一節を紹介しました。嵆康は、ほかの根拠として以下の三点を挙げています。

  1. 同じ音楽が、人情風俗の異なる地域では、異なる感情を引き起こすことがあること。
  2. 人間の心情は「内」のもの、音楽は「外」のものであって、その区別をせねばならないこと。
  3. 前回紹介した孔子や季札の逸話は、後世の妄説であるとして否定する。

 もともと音楽に感情はないけれども、それが調和し、人間の心に楽しさを感じさせる段階になって初めて、音楽と心情世界が関わりを持つわけです。

 

 最後に、福永光司『芸術論集』(吉川幸次郎小川環樹監修、朝日新聞社、1971、p.14-16)から、「声無哀楽論」の要約を示しておきましょう。

 要するに嵆康によれば、音は色・味・臭などと同じく、世の治乱、人間の哀楽愛憎の感情とは無関係な自然的・客体的な存在であり、哀楽等の感情はあくまで「情」であって人間の心に属し、声音には属さないというにある。彼はその理由として、同じ声音がそれを聴く者に常に一定の感情を起こさせるとは限らず、むしろ「万殊の情」―さまざまに異なった感情を起こさせること、とくに人情風俗の異なった地域の間では、甲の地域で楽しいと聴く音楽が乙の地域では反対に悲しいと聴かれ、その逆の場合もしばしばあり得ることなどを指摘する。

 以上は「声無哀楽論」の内容を分かりやすくまとめた部分です。

 嵆康の「声に哀楽無きの論」は、もともと音楽に人間の魂の救済―人間的な哀歓憂悶の世界からの超脱―を期待して執筆されたものであった。音楽が哀歓憂悶の世界にのたうつ人間を慰め救い、魂の救済を果たしうるためには、音楽それ自体が人間的な哀歓を超えた存在、つまり「哀楽無き」ものでなければならない。哀楽無き声(音楽)であって始めて哀楽の世界に崩れ落ちない絶対的な魂の安らぎ―至楽を実現するのが嵆康の論理の根本でもあった。だから彼は「声」と「音」それ自体の中に哀楽の感情が本来的に内在しているかのように説く『楽記』の論述を批判する。

 この部分には「福永節」を感じますね。

 

 嵆康「声無哀楽論」には他にもさまざまなことが書かれているのですが、今回はここまでにしておきます。宍戶氏の論文に原文を引きながらの詳細な解説があるので、興味のある方はそちらを見てみてください。

(棋客)