達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

王国維「釈理」を読む(3)

 前回に引き続き、喬志航「王国維と「哲学」」(『中国哲学研究』20、2004)に導かれながら、王国維「釈理」を読み進めていきます。

 ここは、ショーペンハウアーの説に則って、カントの言う「理性」を批判しながら、「理」の狭義の概念を整理していくところです。

 (三)理之狹義的解釋 理之廣義的解釋外,又有狹義的解釋,即所謂理性是也。夫吾人之知識分為二種,一直觀的知識,一概念的知識也。直觀的知識,自吾人之感性及悟性得之,而概念之知識,則理性之作用也。直觀的知識,人與動物共之。概念之知識,則惟人類所獨有,古人所以稱人類為理性的動物或合理的動物者,為此故也。人之所以異於動物,而其勢力與憂患且百倍之者,全由於此。動物生活於現在,人則亦生活於過去及未來。動物但求償其一時之欲,人則為十年百年之計。動物之動作,由一時之感覺決定之,人之動作,則決之於抽象的概念。(略)故感與覺,人與物之所同,思與知,則人之所獨也。動物以振動表其感情及性質,人則以言語傳其思想,或以言語揜蓋之。故言語者,乃理性第一之產物,亦其必要之器官也。此希臘及意大利語中所以以一語表理性及言語者也。此人類特別之知力,通古今東西,皆謂之曰「理性」即指吾人自直觀之觀念中造抽象之概念,及分合概念之作用。

 (三)理の狹義の解釈について 理の広義の解釈の他に、狹義の解釈もあり、これがいわゆる「理性」である。そもそも我々の知識は二種に分けられ、一つは直観的な知識、もう一つは概念な知識である。直観な知識とは、我々の感性と悟性から得られるもので、概念の知識とは、理性の作用である。直観の知識は、人と動物が共有する。概念の知識は、ただ人類だけが持ち、古人が人類を称して「理性的動物」また「合理的動物」とするのはこのゆえである。人が動物と異なる点や、その勢力と憂患に百倍の違いがあるのは、全てこれに由来する。動物は現在に生きるが、人はまた過去と未來においても生きている。動物はただ一時の欲望を埋めることを求めるが、人は十年百年の計画を立てられる。動物の動作は一時の感覚によって決められるが、人の動作は抽象的な概念において決められる。(略)よって「感」と「覚」とは、人と物が同じく持ち、「思」と「知」とは、人だけが持つものである。動物は振動によってその感情と性質を表し、人は言語によってその思想を伝え、または言語によってそれを覆い隠す。よって言語とは、理性の第一の産物で、また必要な器官でもある。これが、ギリシャ語・イタリア語において一語によって「理性」と「言語」が表される理由である。これは人類に特別な知力で、古今東西を通して、みなこれを「理性」といい、これは我々が直観の観念から抽象概念を作り出すことと、概念を分合する作用のことを指す。

 最後の太字の部分のように、理性を概念形成の能力に限定する考え方は、やはりショーペンハウアーを受け継いだものです(喬氏論文p.85)。ショーペンハウアーは、カントが理性を特別視し、信託のごとき能力であるとする見方を否定し、理性が創造的なものとしては見ていません。

 人と動物の相違(または共通点)については、中国古典でもしばしば触れられている問題ですが、王国維の上の説明では、そうした文脈には言及しません。興味深いところです。

 自希臘之柏拉圖、雅里大德勒至近世之洛克、拉衣白尼誌,皆同此意。其始混用之者,則汗德也。汗德以理性之批評為其哲學上之最大事業,而其對理性之概念,則有甚曖昧者。彼首分理性為純粹及實踐二種純粹理性指知力之全體,殆與知性之意義無異。彼於《純粹理性批評》之《緒論》中曰:「理性者,吾人知先天的原理的能力是也。」實踐理性則謂合理的意志之自律。自是「理性」二字始有特別之意義。而其所謂純粹理性中,又有狹義之理性。其下狹義理性之定義也,亦互相矛盾。彼於理性與悟性之別實不能深知,故於《先天辨證論》中曰:「理性者,吾人推理之能力《純理批評》第五版三百八十六頁。」又曰:「單純判斷,則悟性之所為也同九十四頁。」叔本華於《汗德哲學之批評》中曰「由汗德之意,謂若有一判斷而有經驗的、先天的,或超名學的根據,則其判斷乃悟性之所為。如其根據而為名學的,如名學上之推理式等,則理性之所為也」。此外尚有種種之定義,其義各不同。其對悟性也亦然。

 要之,汗德以通常所謂理性者謂之悟性,而與理性以特別之意義,謂吾人於空間及時間中結合感覺以成直觀者,感性之事;而結合直觀而為自然界之經驗者,悟性之事;至結合經驗之判斷以為形而上學之知識者,理性之事也。

 ギリシャプラトンアリストテレス、近世のロック、ライプニッツに至るまで、みなこの意味と同じである。初めて混用したのはカントである。カントは「理性」の批判を哲学上の最大の事業としたが、その理性に対する概念は、甚だ曖昧である。彼はまず「理性」を純粋と実践の二種に分け、純粋理性は知力の全体を指す。これは知性の意義とほとんど異なるところがない。彼は『純粋理性批判』の「緒論」において「理性とは、我々は先天の原理の能力であると知っている」という。「実践理性」は合理的な意志の自律をいう。これ以後、「理性」の二字に初めて特別な意義が与えられた。しかしそのいわゆる「純粋理性」の中には、狹義の理性も含まれている。その狹義の理性の定義を下すと、矛盾が生じる。彼は「理性」と「悟性」の区別についてまことに深く理解しておらず、よって『先天弁証論』の中では「理性とは、我々の推理の能力だ(『純粋理性批判』第五版三百八十六頁)」といい、また「単純な判断は、悟性がなすものだ(同九十四頁)」という。ショーペンハウアーは『カント哲学批判』の中で「カントの意によると、もし一つの判断があり、そして経験的・先天的・または超論理学的な根拠があれば、その判断は悟性がなすものだ。その根拠が論理学のためのもので、論理学上の数式といったものは、理性がなすものだ」という。この他にも様々な定義があり、その意味はそれぞれ異なる。悟性についても同じである。

 要するに、カントは一般にいう「理性」を「悟性」と呼び、理性に特別な意義を与え、我々が空間と時間の中で感覚を結合して直観を形成するものを「感性」のこととし、そして直観を結合して自然界の経験を作るものを「悟性」のこととし、経験の判断を結合し形而上学の知識を形作るものを「理性」のことと述べる。

 このあたりは、王国維を読むより、直接カントとショーペンハウアーの本を読んだ方がいい気もします。

 自此特別之解釋,而汗德以後之哲學家遂以理性為吾人超感覺之能力,而能直知本體之世界及其關係者也。特如希哀林、海額爾之徒,乘雲馭風而組織理性之系統。然於吾人之知力中果有此能力否?本體之世界果能由此能力知之否?均非所問也。

 至叔本華出,始嚴立悟性與理性之區別。彼於充足理由之論文中證明直觀中已有悟性之作用存。吾人有悟性之作用,斯有直觀之世界。有理性之作用,而始有概念之世界。故所謂理性者,不過製造概念及分合之之作用而已。由此作用,吾人之事業已足以遠勝於動物。至超感覺之能力,則吾人所未嘗經驗也。彼於其《意志及觀念之世界》及充足理由之論文中辨之累千萬言,然後「理性之概念」燦然復明於世。

 この特別な解釈ののち、カント以後の哲学者はそのまま「理性」を我々の超感覚的な能力であるとし、本体(物自体)の世界とその関係を直接に知ることができるものだとした。シェリングヘーゲルのような輩は、雲や風に乗って理性の系統を組織した。しかし、我々の知力の中に果たしてこの能力があるのだろうか?物自体の世界は果たしてこの能力によってこれを知ることができるのだろうか?(こうした疑問は、)どちらも問われたことはなかった。

 ショーペンハウアーが出て、初めて「悟性」と「理性」の区別が厳格に立てられた。彼は充足理由律の論文の中で、直観の中にすでに「悟性」の作用がすることを証明した。我々に「悟性」の作用があることで、直観の世界がある。「理性」の作用があることで、初めて概念の世界がある。よっていわゆる「理性」とは、ただ概念を製造し、概念を分合する作用にすぎない。この作用から、我々の事業は動物に遠くまさることとなる。超感覚の能力については、我々はこれまで経験したことがない。ショーペンハウアーは、『意志と観念の世界』と「充足理由の論文」の中で数千万言を費やし、「理性の概念」は再びはっきりと世に明らかになった。

 最後に、中国における「理」の概念と、ここで論じられた狭義の「理」がどう重なるのか、王国維は議論しています。

 孟子曰:「心之所同然者,何也?謂理也,義也。」程子曰:「性即理也。」其對理之概念,雖於名學的價值外,更賦以倫理學的價值,然就其視理為心之作用時觀之,固指理性而言者也。

 孟子は「心が同じくそうであるとするものは何か。理であり、義である」という。程子は「性とは、理である」という。理の概念に対し、名学(論理学)的な価値のほかに、さらに倫理学的な価値を与えはしたのだが、理を心の作用とみなすことにおいて考えれば、(ここでいう「理」は)本来「理性」を指して言うのである。

 これまで王国維が整理してきた、ショーペンハウアーの分析した狭義の意味での「理」(理性)と、ここで挙げられる孟子や程子の「理」を重ねて理解するのは、率直に言って難しいです。喬氏論文でも、この王国維の議論は強引であるとされています(p.86-87)。

 

 本文はまだまだ続くのですが、今回で一旦一区切りとしたいと思います。本当はもっと自分の言葉で噛み砕いて説明するつもりでしたが、まだまだ自分にはその能力がないことを自覚しました。

(棋客)