達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

アンヌ・チャン『中国思想史』(1)―「思想か哲学か」

 アンヌ・チャン『中国思想史』(志野好伸・中島隆博・廣瀬玲子訳、知泉書館、2010)を読みました。中国哲学・中国思想を学んだことのない方でも非常に読みやすい本ですので、二回に分けて内容を少しご紹介しようと思います。

 今回は、序論p.10「思想か哲学か」節から、漢文の言語表現と論理構成について説明している箇所を引用します。

 この言語は、よく言われるような曖昧なものではなく、より一層の正確な表現を目指すものである。とはいえ、その言語が生み出すテクストが、一本の論理的で直線的そして自足的な筋道を取ることは稀である。つまり、テクストが、それを理解するための鍵をみずから与えてくれることはほとんどないということである。たいていの場合テクストは、言葉の本来の意味での織物をなし、繰りかえされるモチーフに読者が親しみを覚えるように書かれている。それは、同じ縦糸の上を倦むことなく行ったり来たりする抒のように、伝統的な言明を反芻しているという印象を与えるが、注意を払わなければならないのは、そこから少しずつ浮かび上がってくるモチーフの方である。というのも、モチーフこそが、意味を伝えているからである。

 漢代以前の文献を想像すると読みやすい議論ですね。漢文は、「より一層の正確な表現を目指すものである」と言い切りつつ、しかしその特徴として「一本の論理的で直線的そして自足的な筋道を取ることは稀」で、「繰りかえされるモチーフに読者が親しみを覚えるように書かれている」という点を挙げています。非常に明快で分かりやすい説明です。

 続きを見ていきましょう。

 議論の対象が明確に示されることが稀であるにしても、それは議論がないことを意味しない。すでに戦国時代の文献には、思想の論争と呼ぶにふさわしいものが生まれている。しかし、それは、特にギリシアの伝統である公開された論戦と比べると、かなり奇妙な仕方で行われていた。ギリシアでは広場や法廷において、雄弁術を駆使し、詭弁や論理を駆使した討論が行われた。一方、古代中国の思想対決の場における主要なルールは、解読することであった。すなわち、語られたことにおいてどの概念に照準が合わされているのか、どの議論が参照されているのか、そしてどの思想との関係で別の思想を理解できるのかを解読するのである。中国のテクストは、それが何に対して応答しているのかがわかると、意味が明らかになる。テクストは閉じたシステムを構成することができない。なぜなら、テクストの意味が紡ぎ出されるのは、テクストを構成する関係の網においてであるからである。思想は概念によって構成されるのではなく、相互参照の大いなるゲームにおいて展開する。このゲームが伝統にほかならず、伝統の生きたプロセスなのである。

 ここで述べられている、「中国のテクストは、それが何に対して応答しているのかがわかると、意味が明らかになる」という説明は、以前紹介したスキナーの議論と重なるところもありますね。(同じ話というわけではありませんが)

chutetsu.hateblo.jp

 以下、続きです。

 中国がシンクレティズム〔諸教混合〕に向かう傾向も、ギリシア的あるいはスコラ的な理論化が欠如していることによって説明できるだろう。絶対的で永遠なる真理が存在するのではなく、様々な配合が存在するのである。そこから帰結するのは、とりわけ、矛盾に関する次のような考え方である。つまり、矛盾は、還元できないものとしてではなく、むしろ交代するものとして受けとめられる。互いに排除し合う二つの項ではなく、両極を含んだ相補的な対立がここでは重要である。それは、陰から陽へ無から有への移行であり、感覚によって捉えることはできない。

 中国においては「真理」は絶対的な形で存在するのではなく、「様々な配合」が存在する。「矛盾」は解決されるべきものではなく、「交代するもの」または「相補的な対立」として捉えられる。これも明快な説明です。

 以下がその続きで、本節のまとめの部分にあたります。

 要するに中国思想は、直線的あるいは弁証法的にではなく、螺旋を描いて進んでゆく。議論の輪郭は、一群の定義によって決定的な形で描かれるのではなく、議論の回りを囲む円が次第に狭まってゆく形で描かれる。ここにあるのは、曖味で不明瞭な思想のしるしではなく、概念や思考対象を明確にするよりも、一つの意味を深く掘り下げようとする意志のしるしである。深く掘り下げることとは、絶えずより深く自己自身に、自己の存在に降りていくことであり、(経書を何度も読むことから引き出される)教えの意味、(師から与えられた)教訓の意味、(個人的に生きられた)経験の意味に降りていくことであり、中国の教育においてテクストが使用されたのは、まさにそのためである。それは、単なる読書というよりも、実践の対象であり、テクストはまず暗記される。次いで、解釈を読み、議論し、省察し、瞑想することを繰り返すことによって、たえず理解を深めてゆくのである。師たちの生きた言葉を伝えるテクストは、知性だけではなく全人格に対して訴えかける。テクストが役立つのは、理屈をこねるためというよりは、何度も反芻し、実践するため、そして最終的には生きるためである。なぜなら、追求されている最終目的は、観念の快楽や思想の冒険といった知的満足ではなく、聖の追求という不断の緊張であるからだ。論理的に考えることが常に最善なわけではない。常に最善なのは、世界と調和しながら人の性を生きることである。

 古代中国の思想家たちが求めた最終目的が、「観念の快楽や思想の冒険といった知的満足」ではなく、「聖の追求」にあり、よって論理的に考えることが最善ではなく、「世界と調和しながら人の性を生きること」に最善が置かれる、というのは納得させられる説明ですね。

 以下ここから、古代中国における「言語」は、記述力・分析力よりもその道具性に価値が認められることや、中国思想が理論的に何らかの真理を発見することには頓着していないこと、などが述べられていきます。ぜひ、本を手に取って読んでみてください。

 

 読みやすい文章になっているのは、原著の論旨が明快であることもあるでしょうが、当然、日本語訳がこなれていることも大きな要因として挙げられるでしょう。

(棋客)